ガラクタ花束時計
兄さんの歌声は透明な水晶のようだった。
木製のホールケーキに、銀のナイフを刺した。誰もいないディナーショウ。ふたりぼっちで、目の前には兄さんが見たこともない表情で歌っている。僕はテーブル席の一角でひとり味のしないガラクタを口に含み、兄さんの歌声に拍手を贈る。
よく見れば兄さんは白くふんわりしたワンピースに赤いピンヒールを履いている。裾が短いせいで、兄さんの白く艶かしい太ももや足首がすらと伸びている。兄さんはもともと肌が白いから、赤いピンヒールがとても映えている。中性的な顔立ちや体つきのおかげで女性ものの洋服もよく似合う。
ぼうっと兄さんの顔を眺める。唇は真紅に染められ、艶めいていて。
例えば、その歌を紡ぐ唇を優しく塞いだらどうだろうか。
例えば、兄さんのその白い頬にそっと触れたなら。
例えば、耳にそっと言葉を囁いて僕の声だけで孕ませたり。
そんな好奇心が胸にふつふつと湧いてくる。
好奇心はいつのまにか脳を支配して、僕を行動に移させた。
味のしないガラクタを放棄して、ゆらりと立ち上がる。テーブルに飾ってある赤薔薇の花びらがはらりと落ちた。僕が立ち上がって、兄さんに近づいた。それでも見えていないかのように兄さんは歌う。曲は何か分からなかったけれど、素敵な歌だと思った。
兄さんの正面に立ち、手を取ると歌声は止む。その手の甲にそっと唇を寄せ、兄さんの表情を伺うと兄さんは挑発的な艶やかな笑みを浮かべた。僕はその手をしっかり握り、引き寄せる。肩に僕より小柄な兄さんの肩が合わさり、腰を抱いた。ダンスを踊るように手を引きながら、兄さんの細い腰をつつと指でなぞる。
手を引きながら、兄さんはバレリーナのように踊る。僕もどこで覚えたかも知らないダンスを兄さんと踊る。
兄さんが仰け反る、白い喉が艶やかだ。僕は兄さんに覆いかぶさるように、支えるように背中を抱き、ぐっと顔を近づけた。もう片手は兄さんの白い太ももをなぞるように添える。
兄さんの耳へそっと唇を寄せた。兄さんの白い頬が桃色に染まる。僕は言葉を吐き出そうとした。
カチカチ音を立てる古時計が、十二時の時を告げた。
兄さんが石のように固まる。僕の視界がぐらぐら揺れるのがわかった。足元も兄さんの白いワンピースもぐちゃぐちゃになった世界で、兄さんの手元に花束が落ちた。
その花は赤薔薇だ。
落としたのは、真紅の瞳をした僕だった。
午前六時、目覚まし時計の鐘が鳴り響いている。
叩くように時計を止めて、ベットからむくりと起き上がる。
「夢、だったのか」
あの兄さんの姿も、あのディナーショウも、あの僕の好奇心も。
夢の内容はすぐ忘れるというけれど、僕の心の中にはあの兄さんの笑顔が離れなかった。疑問ばかりが残る夢の中でも、僕は芽生えてしまった好奇心は止まらなかった。
夢の回想をぐるぐると考えながら部屋を出ると、兄さんも同じタイミングで廊下に出てきていた。
「おはよう」
兄さんは笑った。
僕は言葉を失った。兄さんの姿が、いつもの兄さんのはずなのに、僕の脳内では白いワンピースと赤いピンヒールを身につけた兄さんにしか見えなくて。あの笑顔も艶やかな笑みのように見えて。胸の鼓動は早まるばかりだ。
唐突な鼓動も、こみ上げる何かも、かき消すように僕は笑う。
「おはよう、兄さん」
今日の夢は暗闇だった。
何もない。昨晩のようなテーブルも、可笑しなガラクタも、ステージもない。
とりあえず一歩、足を差し出してみた。
すると目の前にスポットライトが光った。
目を疑った。
そこには真紅の瞳の僕と、昨晩の夢の兄さんがいた。真紅の瞳の僕は兄さんの手を取り、その手のひらに口付けている。兄さんは表情ひとつ変えず、されるがまま。
胸の中に黒い何かが湧き上がり、思わず駆け寄ろうとした。しかし、目の前は鏡のように固く叩いても割れない。叫びながら、僕は何度も叩く。
僕に気づいたもう一人の僕は満面の笑みで僕に近づく。
僕は近づく偽物の僕を睨みつけた。
その真紅の瞳はきらりと輝いた。
「最愛なもう一人の僕よ、やっと会えたね」
「何が最愛の僕だ、お前は所詮偽物だろう。それに兄さんに愛を誓っていたじゃないか」
睨みをきかせているのだが、偽物は一切動揺しない。薄っぺらい笑みをずっと浮かべている。
「僕は偽物じゃあないよ、お前が忘れただけの作られた僕。僕は君、君は僕。だから僕らは兄さんを愛し合い、兄さんに愛を誓い合うんだ。兄さんが溺れてしまうほど深い愛を、ね」
「何を言っているんだか。僕にはさっぱり」
「君は忘れてしまっただけだ。あの終わらない夏を君は閉じ込めたまま、そのまま」
そう言いながらもう一人の僕は、鏡のような透明なガラスに手を当てる。
「なんでも大切なものを君は壊す。兄さんが不幸になろうと、どんなに大切にしていても、壊してしまう。だから僕は君が嫌いだよ」
さあ、思い出すといい。そう吐き捨てるように言ったもう一人の僕は、透明なガラスを思い切り叩き割った。あんなに叩いても割れなかったガラスを、いとも簡単に叩き割りやがった。
遠目から僕らを見ていた、昨晩の兄さんは唇を開く。その頰には涙が伝う。
嗚呼、泣かないで。そう手を伸ばしたとき、もう一人の僕が兄さんの涙を拭っている。腹が立つ、なんでアイツが兄さんのそばにいられるんだ。腹が立つ。
兄さんから紡がれた言葉を聴き終えた時、古時計の針がぐるぐる回って視界が黒くなった。
夏影が差して、木漏れ日がまだ暖かい初夏。まとわりつく夏草を払いながら、僕は兄さんと歩いていた。片手は繋がれたまま、兄さんの生ぬるい手のひらの温度を感じる。幼い僕らはどこに行こうとかも考えず、ただひたすら山の上を目指した。話すことも、何もせず、ただ歩く。
「ねえ、兄さんは知らない人になっちゃうの」
「いいや」
「でも、かあさんもとうさんも知らない人になるって言うんだよ」
「だいじょうぶ」
「家族じゃなくなったら、また家族になればいいんだよ!」
「ぼくがね、兄さんと結婚すればいいんだ!」
「そうだね、僕と結婚してくれる?」
「うん、兄さんと家族でいたいもん」
幼い自分はとんでもなく阿呆だった、兄さんと幸せになれるとばかり考えて現実を見てなんていない。
実際そうだ、目の前には頬を赤く染めた可愛らしい女の子と少し照れたような兄さんの笑顔。
目の前がぐるぐる歪んで、それでも僕は兄さんのことを愛していた。
「兄さんがいてくれればいいの!」
「僕がいればいいの?」
「うん、兄さんのこと大好きだもん」
「そっか、だったらずっと一緒にいてあげるから泣き止んで?」
「わかったよ」
兄さんは僕のことを好きって言ってくれた。
泣きながら喚く僕を兄さんはそう言って泣き止ませた。
ずっと僕のそばにいてくれるって言ったのに。
そうだ
ずっと、ずっとずっとずっとそばに。
「兄さんはいつか僕を置いていく、兄さんは僕のそばから消える。救いなどない、限りある時間の中でも、それでも僕は兄さんのことが大好きなのに、愛しているのに」
「兄さんは僕のことなんて忘れるんでしょう?」
「兄さんは、ねえ」
部屋の古時計の前で崩れ落ちた。
兄さんのことばかり考える日々が続いた。
なんで僕のことを置いていくの
ねえ、兄さん、ねえ
なんで、なんで、なんで
兄さんが僕のことを忘れてしまうなら、僕だって。
カチリ、と時計の針が重なる音がした。胸を叩くような音が響き渡る。思い出した記憶たちが目の前で弾けて、視界が鮮明になった。また、紅色の瞳がある。
「思い出したかい?」
「ああ」
彼は笑いながら手を叩く。僕は俯いたまま答える。
「僕らが出来上がった秘密も、兄さんへの愛も、全て思い出したさ。僕はまだ」
「兄さんのことを愛している?」
目を見開いた。彼はニヤリと唇を歪ませた。
「アタリ、じゃあ愛しているのならどうするんだい?」
その瞳が細められる。どうするか、なんてとっくに答えは出ていた。
「こうするんだよ」
立ち上がる、彼の喉元へ手を伸ばした。白いのどを掴み、思い切り力を入れる。彼の見開かれた瞳も、苦しそうに歪む表情も、全てが気持ちよかった。なんで、と彼が呟く。
「兄さんを愛する人など僕だけでいい。お前はもう用済み、兄さんに愛を誓う人なんて僕だけでいいんだよ。なんで殺すのか?簡単なことだ。僕が作った僕なら、僕が壊してしまえばいいんだ。嗚呼、これで兄さんに愛を注げるのは僕だけになる。お前のおかげで答えが見つかったよ、ありがとう。そして」
サヨナラだ
彼の体がすうっと粉々になる。その赤い瞳も、憎たらしい唇も全部消えた。嗚呼、なんて気持ちがいいんだろう!これで僕だけが、本当の僕だけが兄さんに愛を注げるんだ!嗚呼!
「最高だ」
兄さんはそう呟いた僕を見て美しく微笑んだ。
全てが愛おしい、僕だけの兄さん。
僕も微笑み返した時、夢が終わった。
朝六時の警鐘が鳴り響いた。
それを叩き切って、兄さんの部屋へ向かう。
夢の内容はしっかりと覚えている。
部屋へ入ると兄さんは笑顔で出迎えてくれた。部屋に入ると兄さんの腕を思い切り掴みこちらへ向かせる。兄さんは驚いた表情だったけれどすぐあの微笑みに変わった。
美しい
兄さんも同じ夢を見ていたのかな
いいや、これからたくさん話せるのだから。
僕も微笑み返して兄さんを腕に抱き、耳に囁いた。
「僕バカな子だから、ずっとそばにいて」
兄さんはそっと抱き返してくれた。
「愛してるよ、兄さん」
赤薔薇がはらりと散った。最後の花びらだった。
僕の瞳は真紅に染まっている。
空蝉が咲く街 果瓶 @kabinace
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