真実の配達人

六茶

第一章

 父の蔵書が積まれた、埃っぽい二階の部屋に僕は入った。小窓を押し上げるとひんやりとした風と朝の光が入ってくる。蔵書は棚から溢れていて、床にも積み上げられて部屋のあちこちで塔を作る。まだ薄暗い、藍色の静かさの中、それらは横たわっている。僕は取りやすいようにその一つのいちばん上に置いてあった、古い歴史書を取る。この村の外、この国について知り得たことの、ほとんど全部の源だ。僕は、僕がそこで重要だと思ったすべてのことを記憶してありながら、もう一度それらを、書かれた文字の上に確かなこととして求める。

 この国はだいたい正円の亜大陸の上にあり、唯一の国として全土を統治している。国土には高い山がなく、いくつかの広大な平野と、さらに広大な高地が、互いにまだらのように広がっている。高地は森林と荒野が大半だから、ほとんどの都市と村は平野に点在しており、互いに道を通じ合っている。正円のちょうど中心に位置するのが国都で、王城があり、国の機関がまとまっている。

 国は長く外患を経験したことがない。亜大陸の周りは、夏と冬荒い海流が廻っており、戦争になっても大陸の諸国が船を出せる時期は限られる。兵を積んだ船は春か秋をねらって亜大陸に辿り着くしかないが、やがて退路、補給路は絶たれ孤立する。諸国もすでにそのことをよく理解している。だから大陸の国々からは使節や文人だけが行き来する。商船はあまり多くない。文物や高級な嗜好品、装飾品だけがやり取りされる。

 内治も穏やかだ。平野は随所で肥沃で、豊穣に実った穀物が国都や地方の大きな都市に集められ、官府の台帳にしたがって国庫に収納される。それでも村々の穀倉にはなお十分な量が残る。残った分は都市の市で取引される。太い道が国都を中心に方々の都市、大きな村々に通じており、そのそれぞれには官府が置かれている。小さな村はともかくとして、都市に住むひとびとはだいたい字も読める。大きな内紛は国が統一されてからは起きていない。

 歴史のずっと以前から、王府の関心は軍を整えるよりも、不法を禁圧すること、国に道を廻らすこと、豊穣な平野をますます豊かに開墾すること、農工具の技術を洗練させること、商業を適切に統制すること、文物の研究を盛んにすることに置かれている。それはこれまで確実に遂げられてきたらしい。さらに関心は移る。今や国の第一の目的は、繁栄そのものではない。いわく、わが国はすでに、諸邦に類を見ない繁栄を遂げている。したがってこれを永続ならしめること、繁栄の永続こそが、まさしく永久に未完の事業として遂行され続けなければならない。もはやひとびとを刺激し、国庫より投じ、進んで官府が旗を振る段階は過ぎている。何よりも重要なことは、統治からほんの一かけらの瑕疵をも取り除き、壊乱の芽を摘み尽くし、国のかたちは昨日あったそのままに、明日も、あさっても、久遠の彼方までも堅固にありつづけること。国はひとびとの器であり、堅固なる永遠の器のうちでこそ、繁栄もまた永遠であるのだと。

 そしてそのすべてのために、王都には司法院がある。司法院こそは、国を永遠の器へと焼き上げる当の職人であると喩えられる。司法院は法を発見し、法を起草し、法を登録し、法を通知し、法を適用し、法を継承し、法を保護する。法だけが問題ではない。他の部局で作成された戸籍、土地台帳、地図、国庫の出入表、廷吏・官吏の名簿、神父と教区の登録簿、ありとあらゆる記録が司法院に集められ、守られる。商人の契約書、郵便が取り扱う信書、ひとびとの身分、職分、発言、行為、その他ひとびとにとって意味のあるような真実はすべて、司法院によって確証され、署名されて初めて「真実」となる。司法院の管轄は世界全体であり、司法院こそが国の、ひとびとの、つまるところ世界のすべてのかたちを作り、保っている。だから大胆にもこう書く書物もある。世界は、神と王とが統治する。ただし、神と王との名において、司法院こそが統治すると。もっとも、王の署名の真正さも、司法院によって確認される。王は法を成立させることだけができ、司法院はそれだけができない。

 そして僕は深く息を吐く。静けさの浅瀬からは依然、書物の塔が林立して頭を出している。こうしたことはほとんど暗記している。もっとも大部のこの歴史書、そのほかいくつかの文献のあちこちからまとめ、紙の質の低い帳面に書き留めてある。だから僕は村の誰よりも村の外のことを知っているだろう。僕はもっと知りたいが、絶望とともにこう思う。僕は、知ることしかできない。ここは小さな村、円い国土の辺境、平野へ突き出た高地の突端。黒い針葉樹に囲まれ、入り組んだけわしい道の奥、霧にけぶる村。僕も、母さんも、大人たちもほとんどが外の世界を見たことがない。税吏さえ来ない。この村は古くから、産物の木材や、採掘される宝飾のための鉱石を税として、都市まで荷役があることになっている。けれども指図のために派遣される税吏は、村の記録上、二十五年前から訪れていないことを僕は知っている。役人の怠慢か、何か指示や記録の手違いによるのか、あるいはこの村ははっきりと、なくもがなの税収と一緒に切り捨てられたのか分からない。以来、それをさいわいに村も、わざわざ自分から荷役に出ることもない。戸籍の調査に役人が来たのも、村の最長老がまだ若者だったころが最後だったという。これははっきりと記録がない。はたして国の戸籍簿に、地図に、この村は今でも記載されているか、僕には見当がつかない。信書もとどかないし送れない。王の代替わり、地方官府の長の任免、法の改廃、そういう通達もない。

 僕はだから思う。司法院の与り知るところにないということは、きっとここは、世界のどんな小さな一部でもないのだと。司法院の知る広がりの中に場所を持たず、司法院の知る時間の流れを生きない。

 書物をぱたりと閉じ、重い書物を埃が舞わないように山に摘み直すと、僕は小窓に近づいて深呼吸する。浅黒い部屋の澱みを背に、小さな木枠にしがみつくようにして。二階の窓からは、ぐるりと湾曲した斜面、針葉樹の林の合間あいまに、ぽつぽつと木造の家々がへばりついているのが眺められる。ぱっと取り落とした紐のように、細長く山間に横たわっている僕たちの村。斜面のずっと下の方から、急流が岩を砕いていく音が低くあたりに震えている。日はだんだんと高いが、霧が晴れ切っていないから、あまり開け放っておくと本が湿ってしまう。そう思って僕は窓を下ろしかけた。昼には薪割りと鉄器の錆び落としをしなければいけない。僕はそれを繰り返さなければいけない。

 その時、向うの広場を村の若い男が小走りに駆けていく。村長の館の方だ。僕は何か胸のざわめきを覚えて、男が遠ざかり木々の陰に見えなくなっても、ずっとその方へ視線を張り付けている。傍らの本はもういくらか湿気ってしまっていたかもしれない。

 やがて男はさっきよりもずっと急いで駆け下りてくる。それぞれの仕事に出ようとしていた大人たちや、朝から広場で枯れ枝を振り回して遊んでいる子どもたちが、男に気づく。霧の残滓に反射しながら、まぶしく澄んだ朝の広場に、そうして少しばかりひとだかりができる。あたりの朝の胎動と、ひとびとの密やかなざわめきが何かを僕に予感させ、僕を窓辺に釘付けにしてしまう。何か初めてのことが起こりうる。男はともかくもと人だかりを差し置いてまた走っていく。

 やがて話を聞いてか、小さな子たちが数人、狂喜したように声を張る。

「ゆうびん、ゆうびん」

 枯れ枝を振り回して、くるくると踊るように飛び跳ねている。

「ゆうびん、ゆーびーん、ははは、あはは」

 小さな子たちは呪文のような言葉で、あたかも祝福するように。大人たちの中から、ここからでも聞き取れる太い声が上がる。

「ルカを呼べ!」

 胸が大きく一つ飛び上がり、勢い余って早鐘を打ち付けている。僕が? 何のために? 僕は不安と区別できない高揚にただ立ち尽くしてしまう。

「まて、やってきたぞ!」

 同じようにはっきりと聞いた声の先には、高地のずっと低い裾から村の入り口へ上がって来る、一本の小道が伸びている。男に先導されて、誰か歩いている。少年。いや、少女? 僕は目を見張り、凝らす。薄いもやと、まだ低い日が照らさない濃紺の陰のうちを、人影はすいすいと歩いてくる。この村の大人が誰もそうは歩かない軽快な足取り。僕は弾けるように踵を返し、床板を蹴って階下に走る。母さんが釜戸に立って朝食を作る背をかけぬけて、広場へと急ぐ。人だかりに駆け寄る。

 誰かが、恐れがそうさせるような、囁き声に言うのを聞き取る。

「配達人だ」

 僕は息を切らしながら、傍らを走り過ぎる子どもの枝切れをあやういところでかわし、ひとびとの輪に加わって、何とか膝を落ち着けた。

 ちょうど朝日のうちに出たところで、その人は歩みを止めた。少女。少女は帽を取る。伶俐に澄んだ朝陽に浴して、白くまぶしい金色の髪が揺れる。耳までの短い髪、大人たちの怖れと好奇の視線にあって、全く屈託ない笑み。バンドで背負った大きな木箱、肩掛けの革の鞄、その上胸に抱きとめたもう一つ、潤って揺れる瞳。

「初めまして、みなさん」

 そして玲瓏な声。

「カヤ・アーレント、司法院信書部、北方管区西部方面、郵便官として、貴村に着任しました」

 彼女は帽を被り直す。鮮やかな臙脂色の生地に司法院の紋章、二重円の金刺繍が光る。彼女はふふっとまた笑った。

「さて、重要な慣例なので傾聴いただきますね――」

 彼女は軽く咳払いする。

「法により、司法院の名の下に、爾後カヤ・アーレントがすべての真実を配達します」


 彼女はそれから、男に案内されて村長の館に導かれた。僕も一緒だ。その時にもひとびとは、まだ何かもったいなさそうに僕らの行く背中を見ていたが、ややあってめいめいの仕事に散っていった。小さな子たちも今は、訳も分からず大はしゃぎすることもなかった。しかし、取り戻されたそんな静寂のうちで、きっと僕だけがまだ鼻息の荒い高ぶりのなかにある。館に向かう道中、僕は、男に先導されながらすぐ前を行く郵便官を頻りにうかがわずにはいられない。大きな木箱には何が入っているのか、革の鞄には何が。書物の上で不鮮明な挿絵としてしか見たことのない司法院の紋章を、僕はもっとよく見てみたかった。郵便官。この村から手紙が出せる。誰に? 誰でもいい。稼ぎや教養を求めて都市に出た者とも、家族はやりとりができるようになるんだろう。僕にはそういう便りを出すあてはないが、ともかくそれはすごいことだ。地方官府から通達も来るだろう。ことによると王府から来ることもあるのかもしれない。ともかくそれはすごいことだ。この村は今や司法院のまなざしのもとにある。なによりそれはすごいことだ。

 それに、きっと彼女なら知っている。僕よりももっとずっと知っている。都市のこと、国のこと、世界のこと、何より国都のこと! それこそが何より重要なことだ。世界だって、結局は国都、司法院の羊皮紙の上で書き出されているんだから! そう国都、そして司法院。ついさっきこの子が確かに言ったのを僕は覚えている。この子は、このひとは司法院の人間なんだ。背の丈だって、僕とそうかわりはしないのに。彼女はすたすたと男についていく。ふと彼女が谷の方を見遣って、少しの間横顔が覗く。帽から出た髪が歩みととも揺れる。

 僕はそして、今初めて気がついたように、彼女を彼女じしんとしてうかがってみる。制帽の後ろから流れる大麦の色の髪、なだらかな肩。亜麻のシャツに、焦げ茶色の厚い上着を羽織り、小さな背中。職業柄だろう、干し草の色の、動きやすい膝丈のズボン、栗色の長靴下――そのとき、歩きながらしげしげとあたりを眺めていた少女が、ふいと振り返って僕を見る。僕も彼女を見てしまっている。彼女は一瞬目をぱちぱちさせると、噛み含むように口元で微笑んだ。そうするとき彼女は、いくぶんも大人びたふうに見えた。僕はなぜだか唖然とし、それきり目を反らし、拗ねたような気持ちになって歩いた。僕はまた、初めて気がついたように思い出す。このひとは司法院の人間なんだ。司法院がそうであるように、きっと何でも知っている。

 僕は俯いて少し先の方だけを見て歩きつづける。彼女の頑丈そうな制靴が、隙のない確かさで行ったり来たりしている。やがて館に着く。


 館の一室、接見の部屋に僕らはいる。彼女は大きな荷物を傍らに置き、肩掛けの鞄から一枚の紙を取り出す。案内を務めた男は何が始まるのかといったふうにどぎまぎしているが、村長はいつものとおり、椅子のうちで微かにも動かず、誰もいない部屋で考えごとをするようだった。よく知った村人の一人が何ごとか告げ知らせに来たといったくらいのものだ。

 彼女は聞き取りやすい、明るい声で辞令を読み上げる。役所風の文体にはそぐわない、あっけらかんとした声だった。小さな子が手習いの文章を母に聞いてもらうようだった。

「カヤ・アーレント、この者、ひとびとの偉大な王、『文書の王』三世が治める国の都下の生まれ、都下にあって郵便官の務め三年来、新暦の六十年の十の月より、司法院がクラインヴェルトの村に郵便官として任ずる。司法院、紋、司法院首席司法官ヴァールハイト、署名、信書部、紋、以下管区長および方面長署名」

 それから彼女はひらりと用紙を翻して村長に差し出す。村長は一つの決まりごとのように、受け取った紙を眺めるが、それはそうする振りだ。僕は村長が数字と、ごく簡単な文、納税のために記帳する上で必要だったことばしか読み書きできないのを知っている。だから村長はすぐに案内の男に手渡し、僕を一瞥する。男は僕に手渡す。

 僕はその質のよい滑やかな紙のてざわりと、見たことのない美麗な書字に息をのむ。直ちに僕ははっとわれに返る。

「書いてあるとおりに彼女は読みました、村長」

 聞き遂げて、村長は首を正面に挿げ直す。彼女はそれを静かな受理と受け止めてつづける。

「任務の委細をお話しします。郵便官は村のひとびとから信書を任され、これを宛先に届けます。また遠地から信書を受け取り、村のひとびとに配達します。これが郵便官の基本的な務めです。

 さらに郵便官は、官府の置かれていない都市と村にあっては――したがって貴村クラインヴェルトの村もです――あわせて、当地を管轄する官府の仕事を助けます。すなわち、戸籍と土地台帳の作製、徴税、違法の申告、その他必要なことがらを文書にし、官府に送付します。また反対に、王の報せ、法の通達、官府の命令を文書として村に送達します」

 彼女はお腹のあたりで端正に両手を重ねている。言い終えると、何か知らせるように少しだけ首を傾けた。村長は椅子にうずもれたまま、瞼を持ち上げずに問う。僕は理由もなく咳込んでみたりする。

「君はでは結局、司法院の役人なのか、地方官府の小間使いなのか、どうなのか」

「郵便官は、例外なく司法院に属します。司法院は、不正を発見するために、そして不正を確証する根拠とするために、適法に信書を閲覧、転写できる唯一の機関です。したがって郵便は当然に司法院の掌握するところでなければなりません。

 地方官府に対しては、司法院は、官府の業務に補助的に協力するにすぎません。必要な事項を申し伝えたあと、徴税にせよ何にせよ、直接に仕事をするのは官府の者です。地方官府は王府の下にあり、他方、司法院は王府に並び立ちます。二つはまったく別なものです。ですから」

 僕は彼女の語る語を追うので精一杯だったが、そこではたと追いつく。彼女はもう一度、ですからと言う。それは何か伶俐に聞こえる。

「司法院には『役人』はいません。いるのは司法官と、郵便官だけです」

 村長は初めて、目だけ上げて彼女を一瞥する。村長はふむと喉を鳴らす。二人分の沈黙が館の一室を満たす。僕と男はその沈黙にさえ与れずにいる。

 僕は段々と落ち着きを保つのが難しくなる。僕は父の蔵書をめくりつづけたことで、何とか世界の知に指を引っかけていたつもりだった。なのに、いま僕は彼女が話す語を一つ一つ捉まえてゆくのがせいぜいだ。村長の厳かな態度がいつもと何らかわらないから、なおいっそう僕は仲間外れになったように思う。僕は決心したように初めて口を利く。

「あなたはこの村で仕事をするんでしょ? 仕事場も、あなたの部屋も必要だよ。それはどうするの――どうするんですか、村長」

 二人にじっと見つめられたせいで、僕は尻切れにことばの最後を村長に明け渡す格好になる。それでも僕は何でもないふうに村長に問い掛ける手振りをしてみせる。きっと男は棒立ちになりながら僕と同じ強がりをしていると思った。目が合うとき、彼女の目は何かの原石のように揺らがなかった。村長は彼女を見遣る。彼女は言う。

「そうですね。恐縮ですが、郵便官としての正当な権限のもとに、任官中私に一室ご用意していただくようお願いしなければなりません。仕事部屋と分ける必要はありません、一室だけ」

「それじゃあ僕の家があるよ、二階には二部屋も空きがある」

「ご好意はありがたいのですが――ルカ?」

 僕はそれによって、まったく自ずからに、抗いがたく彼女の眼差しに吸い込まれてしまう。彼女は端正な佇まいを崩さないままに、困りましたというふうに微笑む。

「郵便官の仕事は守らなければいけない秘密にあふれています」

「なら、二階の奥の部屋に手ごろな空き部屋があるから使いたまえ。堅い錠前もついている」

 僕は何も言わない。村長は一つ咳払いをする。

「信書の集荷、配達、ご苦労、よろしくやってもらいたい。村民の台帳や古地図などは館の書庫に揃っているから仕事の必要に応じて勝手に使ってよろしい。そこのルカに聞くとよい、これのほか書庫になぞ誰の出入りもないからいちばん勝手が分かっている。通達も寄越すといったな、私も村の者もそういったものは読めぬからそれもルカに渡すこと。総じて、君が仕事するのに困らないよう、協力するように村の者にも言い渡しておく」

 聞きながら僕は、かっと顔が熱くなってくる。そして明朗な声、そしてはっきとした声。

「ご案内、ご協力、深謝します、村長」

 村長は細く、すきま風のような息を吐く。それで何かが一段落というゆとりが部屋に漂う。こわばって立っていた男は、そわそわとし出すだけの余裕は取り戻す。

「それで、君、最後に一つ聞いておきたいのだが」

「何でしょう」

「私たちは君に対してもっと物腰低く付き合ったほうがよいのかね。つまり、司法院の、郵便官に対しては一般にそうすべきなのかね」

「いえいえ。そんなお気遣いは要りません。私はただの、とるにたりない郵便官なのですからね」

 彼女はふたたび明るく笑うが、僕はその明るさが、今は気に入らなかった。そして根拠のない理由のどこかから、僕は彼女に対して今ならもう少しは物怖じしない態度を持てる自信を持った。村長が言った。

「なら君の方ももっと楽に構えたまえ。子どものうちからそう丁寧であることに慣れてしまわぬことだ」

 彼女はぱちぱちと目を瞬かせる。そして初めて「役人」ふうな冷たい顔を作り出して目を伏せる。村長はふいと手を遣って、話は終わりだという合図をする。僕たちは廊下に出て、案内の男が帰るのを見とどける。

 彼女が重い荷を背負い直すと、ぎっ、と廊下がきしんだ。僕は彼女を見やる。彼女はふいっと目を反らしてしまう。僕の頭に閃いたのは何かしらいたずら心に近いものだった。僕はずいと右手を差し出す。

「ルカだよ。よろしく、カヤ」

 彼女は向き直って、まんじりとその手に対面する。彼女は軽く咳払いし、顔を上げると、僕を見る。そこに彼女の明朗さはすでに取り戻されている。彼女は手を延べる。

「よろしくお願いしますね、ルカ」

 その振る舞いと声はやはり凛としていて、僕のいたずら心のようなものは遂げられなかったが、僕たちは気恥ずかしげに笑い、手を取り合った。それによって僕は、僕たちが、まだまったく空虚な、けれどいつか僕たちのために満ちる一つの取り決めを結んだような気がした。


 僕はまずカヤを書庫に案内する。書庫は接見の部屋から出て、廊下のちょうど反対の端にある。カヤは制帽だけ取るが、重い荷物をそのまま背負って廊下を歩くから、床が頻りにぎしぎしと軋んだ。僕はカヤに言う。

「その荷物、先に僕が上へ持っていこうか。重そうだ」

「ありがとう。でも大丈夫ですよ、慣れています」

「そう?」

「ええ」

 書庫の戸の前に僕は立ち止まる。カヤはそして、しげしげとその厚い木製の戸を見つめているから、僕は問う。

「それって何が入っているの?」

「世界の真実です」

 カヤはよどみなく答え、僕を見る。僕は、また少しだけ呆気に取られそうになったが、僕も彼女を見た。

「その一部分?」

「そのとおりです。ルカは敏いのですね」 

 カヤがあんまり嬉しそうだったから、僕はもうこれきりで、カヤから不意打ちによって何かを引っ張り出そうとするのは止めようと思う。それによって僕はかえって気楽になって、村長から任された鍵を取り出し、戸を開け、真っ暗で埃だらけの書庫にも軽快に足を踏み入れる。ルカは敏いのですね、と響いた声を、僕は心のどこかしらに上手く落ち着けようとする。

 書庫は狭い。三つの棚が互いに牽制しあうように佇み、ちょうど一人だけ通れるようになっている。余分なものは一切ない。僕はたった一つの小窓を上げ、カヤを呼び入れる。カヤは荷物のすべてを、書庫から見えるように、開け放った入り口のすぐ前に置き、おずおずと中へ入る。

「村長が言ってたとおり、ここには古い土地台帳とか、税の記録とか、地図とか、村のひとびとの名簿がそろってるよ。台帳や地図は本当にずっと昔のものだけど、名簿は書き足されてる」

「おどろきました……結構な量がありますね。小さな村と聞いていたので、これだけの文書が備わっているとは思いませんでした」

 カヤは埃を巻き上げないよう、しずしずと踏みしめて棚に近寄る。

「書物もあるようですね。それに、官府の通達も束になっています」

「まだ村が荷役を務めていたころは、都市と官府へ行き来があったから。そこにあるのはそのたび受け取っていた通達や、都市で仕入れられた本だよ。穀物や樹木についての本、工具の作り方の書物、建築術の文献、治水のための導き、とか。絵をつかって、ごくわかりやすくひとびとに教えるためのもの」

 カヤはそこから一冊を丁寧に取り出し、その最初の方を開く。カヤの表情はさっと水面のようになり、静かにページを繰る。書物は、それ以上あやうげない収まりがないと見えるほど端正に、両手に支えられている。小窓から匂う光の中で、カヤは冷たく完成された彫像のように佇んでいる。僕は気がつくまで、それをただ見届けていた。

「ルカ、この建築術の文献、とても古いものです。しかし先ほどざっと眺めた限り、村の家々はそれほど古い建築術に基づいている訳ではなさそうです。この館だって」

「それには訳がある」

 僕はカヤの傍らに立ち、背中の側の棚へとカヤを促す。僕は背伸びして一冊の書物を取り出し、カヤに示す。カヤがそれを覗き込む顔に気づいたときに、僕は、この黴び臭い小部屋に今初めて二つの生きた人間のあることを思った。『神と知についての、そして救いのための書』と、カヤは書名を読み上げた。僕は言う。

「この村にやってきた神父様のものだよ。神父様は建築術や、それから農工具やいろいろの道具、医術について新しい知識を伝えてくれた。村に文書の記録を取ることをつよくすすめて、まず自分でその仕事を務めた。子どもたちに本を読んだり、字を教えたりもした。書物もいくらか持ちこんだ」

「なるほど、そういうことでしたか。いろいろと合点がゆきます。家々のこと、ルカが読字によく通じていることも。この村には神父様までいらっしゃるのですね」

「神父様は死んだよ」

 カヤがふいっと僕の方を向くのがうかがえた。僕は『神、知、救い』書に目を落としている。

「神父様が訪れたのも、死んだのも僕が生まれるより前、ちょうど荷役がなくなったころのこと。村に来てから一年もしないうちに、胸の病いで亡くなったんだ。ここには医者も薬もないし、温かい平野の都市に慣れていたひとだったろうから、ここの冷たい空気じゃ、病んだ胸にこたえたろうね」

 そう言って僕はその冷たい空気を吸い込む。

「後継のひとは来なかった。きっと、教会の命があってここに来た訳じゃなかったんだろうな。こんな小さな村だから。でも、こんな村のために、一人ぼっちでやってきて、使命を遂げられずに亡くなった。それ以来神の使いはない」

 カヤは俯き、そうでしたかと呟く。僕はそこに深い翳りを見て取った。僕は書を棚に返し、続ける。

「僕が文字を読めるのは、神父様が残してくれた文法書と、少し文字が分かる村長に習うことができたから。それから、ほら見てカヤ、僕がこうしたことをカヤに教えてあげられるのは、これも神父様のおかげ」

 僕は棚の別の箇所から、今度は、紐で通した厚い文書の束を差し出す。僕から受け取ると、カヤはふたたび美しい佇まいで文書に目を通していく。

「これは、村史ですか」

「そうだよ。歴史書とは呼べないけど、村の記録書だ。これも神父様のすすめでまとめられたもの。古くから山の崩れや不吉な出来事を走り書きしたようなものはあったんだけど、神父様はそれをまとめて、その上、ちゃんと村の決めごとや村のひとびとの生活に起きた出来事を書きとめた。村のひとびとにとっては、そんな作業は無益なことだった。けれど、神父様はそれが、村の栄えにとってとても大事なことだと考えた」

 カヤは合間合間に僕の方に顔を上げながら、すばやくページをめくっていった。カヤは最後の方のページに至ると、顔を上げて僕に問うた。

「ルカ、神父殿は亡くなられたということでしたが、ごく最近のことまで書かれているのは、これはどういう」

 カヤが少しばかり迫るように聞くから、僕はじっとカヤの顔を覗いてしまう。けれども僕は、そのまなざしの真摯さにうろたえてしまわないだけの、逆にカヤをおどろかせると信じた答えを用意している。

「それは村長が書き継いだから。そして僕が書き継いでいるから」

「ルカが?」

「そう。僕に任されている重要な村の仕事だよ」

 僕はカヤが僕を見る目のさまと、ふたたび文書に目を落として僕の書字を見るさまとで、胸を温かくする。僕は説明をつづける。

「村長は文書を重んじないひとだけど、神父様の仕事を無為にしたくなかったのかもしれない。神父様が亡くなってから、神父様とくらべるとずっと簡単にだけど、村長は記録をつづけた。今では僕が任されてもっとくわしく書いている。けれど、村長も今でも時々書き込むことがある。やっぱり、村長は神父様を親しく思っていたんだろう」

 僕はそこでふと語りを止める。小窓から、朝の極みにあっていっそうまぶしい光が、見分けられない白さで僕たちへと溢れてくる。僕はこのことがらに行き当たるたび、たとえ司法院の知に与らない、迷子のような時間をこの村は生きているのだとしても、そこにはそれでも歴史が息を潜めているのかもしれないと思った。カヤが白い光に縁取られた陰のうちで不思議そうな顔をしていた。

「神父様の残した記録は、ことがらに即して簡潔だから、心のうちのことは知れない。村長も神父様について話がおよぶ時、ほかのどんな時ともかわらず厳しい顔つきだから、やっぱりよく分からない。けど僕は思う。二人は心を通じていたって。村長は知識はないけど、知恵者で。だから、豊かな教養をそなえた神父様が、この小さな村で語らうことができるただ一人だったにちがいないから」

 僕は佇み、カヤの両の手に収まった記録書を見る。カヤが同じように文書に顔を伏せたのが分かる。そしてすぐカヤがすっと僕へ向き直るとき、僕は、ほとんど何の作為もなく僕もカヤを見るのを見いだす。谷の底へと深く、こお、と遠いうねりを窓の向うに聞いている。

「ルカ、それはきっとそうにちがいないです」

 カヤは僕に文書を差し出し、僕もそれを手に取る。

「カヤもそう思う」

「はい。神父たちはきっと、心を通わせたんです」

 僕は文書を見下ろす。文書には『記録。クラインヴェルトの村、そのひとびとと、その起こったこととの』とある。そこには、ひとびとの、二人の思ったことは含まれていない。けれど僕は、カヤの楽しげに肯定する声を聞く。

「そう。そうだね」

「はい」

 僕は受け取った文書を棚にもどす。カヤを二階の空き部屋へと案内しなければいけない。行こうと声を掛け、カヤが返事をしたとき、しかし僕ははたともう一度、『神、知、救い』書に目をとめてしまう。

「カヤ」

「なんですか?」

 カヤは小脇にたずさえた緋色の帽を被り直す。

「でも神父様は死んだ」

 僕は意味もなく棚の薄い埃をなぞり、指先でにじる。神の使いは僕たちの村から奪われてしまった、と僕は続けた。

「この村はだから神からも見放されている」

「少なくとも、教会からは」

「そして、王からも」

 僕は埃を払い落とす。

「でも、いまは司法院がこの村を知っている」

 カヤは黙っている。

「司法院はこの村に手を差しのべた。それがたんに司法院の仕事だからでしかないのだとしても、手を差しのべた。森と霧と岩に囲まれたこの村に、手紙の道が開けた。郵便官が、」

 僕は言う。

「カヤが来てくれた」

 僕は、唇の乾いた隙間から息を吐く。カヤは僕を見て、僕が僕のことばを言い終えたのかを十分たしかめる間を取る。カヤは帽をもう少ししっかりと被る。そして指を添えたまま、着任のときと同じように、まったく屈託のないふうに笑い、口ずさむように言う。

「ええ。郵便官が、ここに」

 カヤは金糸の二重円のもとで小首を傾げる。僕はなぜだかカヤに寂しい弱い笑みを向けてしまう。


 僕はカヤを二階の空き部屋へと案内する。カヤは、ほとんどカヤ自身に等しいような、大きな荷物とともに慎重に階段を昇りおおせた。僕は少しだけ息を弾ませたカヤが呼吸を整えるのを待って、戸を開け、カヤを部屋へと導いた。光が戸の形に伸びて、薄明るく部屋を浮かび上がらせる。

「立派な、部屋ですね。仕事部屋としても十二分です」

 カヤはぐるりと部屋を眺めて、感心したふうに言う。部屋は正方形の小部屋で、南向きに腰窓がうがたれ、一面に空っぽの書棚二つと簡素な文机が、もう一面にやはり簡単なつくりのベッドがしつらえられている。部屋は長く使う者がないが、清潔に保たれている。

「この部屋は神父様も使っていたんだって。だからこういうものが備わってるんだ」

 僕は進み、窓を押し開く。部屋のよどみが背中に流れ去るとともに、くっきりとした明暗で刻まれた村の風景が閃いた。僕はカヤを窓辺へ招く。カヤは荷物を降ろすと、帽を取り去って額を払い、僕と並び立って眼下に村を望んだ。

「クラインヴェルトの村、僕たちの村だ」

「……とても入り組んでいますね。道が曲がりくねっている。起伏もあります。辿り着くまでに苦労しました」

「山の地形にあわせて道を通しているから。家もそう。ちょっとした広場になっているところのほかは、あちこちに散らばっている」 

 湾曲した斜面の形に沿いながら、荒れた木々を透かして、家々が立ち並ぶのが見える。家々は畑や鳥小屋を伴って、細い道にへばりついて連なる。そのほかは煤けたような針葉樹の群れと、禿げた岩肌とがすべてだった。方々の屋根の煙突から、煙が吐き出されて霧のうちに溶けてゆく。

「ここから見えるのが村のすべてではないけれど、隠れている向う側――カヤが上って来た側だけど――それから、館の反対側にあるのも、同じようなものだよ」

 カヤはじっと、思いのうちに道を辿り直すように村を見つめている。カヤはすでに郵便官としての仕事の準備をはじめているのだと僕は知る。カヤは視線を動かすごとに、束の間まぶたを閉じる。そしてまた村を一望する。その仕草を僕は何だか気恥ずかしく思う。僕たちが静かに身を寄せて生きてきた小さな村が、カヤの心の中で丁寧に書き出されていく。僕はただカヤとともに、僕にとってはよく馴染まれた村を眺める。僕はただカヤの静けさに臨む。しばらくののちにカヤはすっと窓から身を引く。

「ルカ、よければこのあと村の案内をしてもらえますか? しっかり見ておきたいんです、隅々まで知らないところのないように」

「もちろん、かまわないよ」

 僕は笑みを添えて言う。カヤの真摯さは、やわらかさと馴染み合うことができる。

「ありがとうございます。それでじゃまず、荷解きをしますね」

 手伝うよ、と口にしてしまったあとになって、僕は、大きな荷物には司法院が鍵をした「真実」が収められていることを思い出す。しかしカヤがふいと目を反らして言うのは、改めてそれを告げるためではないように見える。

「いえ、それには及びませんよ。簡単に済みますから」

「簡単に?」

「ええ。仕事のものは多いので、改めて夜整えることにします。先に簡単なものだけ、片付けておこうと思って」

「そう。じゃあ館の前で待ってるよ」

 はい、とカヤは笑う。僕はカヤに部屋の鍵を手渡し、部屋をあとにしようとする。僕はしかしふとそれを見、再び尋ねてしまう。大きな木箱でも丈夫な革の肩掛け鞄でもない。カヤが抱きかかえて持っていた簡素な布の鞄。いっぱいに詰め込まれて膨らんでいる。

「何が入っているの」

 カヤもふいとそれを見遣る。僕は何でもないふうに口にする。

「世界の真実?」

 カヤはお腹のあたりで指を組む。カヤは何かを考えているのかもしれない。カヤも何かについて立ち止まることがあるということを僕は初めて思う。

「世界の真実」

 それと、とカヤは言う。

「私の秘密です」

 ぽつりと言い、カヤは今は、少しだけより高い僕を見上げている。僕はそこに、とてもささやかに線を引かれた笑みを認める。カヤのことばと、その笑みとは、僕をとまどいのうちで身動きできなくさせてしまう。僕はそれじゃとだけ言い残して部屋を去り、戸を閉める。ふと僕は自分がカヤが幾つなのかも知らないことに気づく。僕はそれを尋ねようとは思わない。背ごしに鍵が閉まる音を聞く。


 僕は館の前でカヤを待ちながら、延々と踵で土を蹴り、カヤのことを考える。けれどカヤについて僕は何も思い浮かべられることを持たなかった。ただカヤの姿と声とだけがそのまま心のうちで繰り返されていた。山は空っぽな青空へと大口を空けている。僕は洟をすする。あの荷物。僕は土を削る。カヤの秘密、カヤの鞄。僕は一つの思いつきを持つ。それはそれらのこととは、直接に何の関係もないはずなのだが、僕は、それを何かしら意味のあることのように思った。僕は家へと駆ける。

 玄関をくぐり、かごに芋や菜を抱えた母さんが、僕を呼び止めようとする声に、僕はうやむやに返事をしてなんとかふり切る。僕は勾配の急な階段をはい上がり、書斎の隣、今は僕の部屋である一室に至る。僕は机の引き出しを開け、たしかめるようにそれを手に取る。ざらついた、無骨な金属の留め具に、深い緑色の鉱石をはめこみ、紐を通した首飾り。それは、割合にまじりけのない鉱石をひとかけ、原石のまま手作業で磨き上げただけのものだから、そこには透明な輝きのかわりに、濃淡のちがう緑や霜のような白が層になって模様をなしている。僕はそれを握り、部屋を後にする。ふたたび階下で母さんに声をかけられたとき、村長にまかされた仕事があるから、作業の手伝いができないことを口速に伝える。母さんが困った声をこぼすのを背中に聞き、少しいたたまれなくなりつつも、僕は館へと向う。カヤを待たせているかもしれないことを思いながら僕は急いだが、館の入り口にカヤはまだ降りていなかった。

「ルカ」

 僕は、まだ息の整わないうちに、よく聞き知った声につかまる。

「走ってきたの? お爺様に、何か用事なの」

 僕は一たび深く息を吸い、吐き切って、リタの方へ顔を上げる。リタは、袖も裾も短い、草色のワンピースをまとって、大きな衣類かごを抱えている。かごの下からは、冷えた地面に向ってむき出しの足が伸びている。リタはいつもこうして寒そうな格好をする。僕は身体を起こして言う。

「ちがう」

「あそう。じゃああの役人の女」

 リタはやおら館の方を眺める。僕はカヤが役人でないことをひとまず訂正しない。

「知ってるの?」

「お爺様に聞いたし、さっき見かけたし。ルカは? まだ何か読まなきゃいけない紙があるの?」

「ううん。僕がカヤのために村を案内するんだ」

「へえ。カヤって言うの。それで――それでそれも案内のために必要なわけ」

 リタは僕の手元を見る。僕の右手からは紐が流れ落ち、鉱石がのぞいている。リタは僕がじぶんでこの首飾りを作ったことを知っている。

「これは、何でもないよ」

「そう。ねえルカ、仕事が済んだら私も手伝ってあげるよ」

「そう。案内は村の入口からしていくから、追いついて来て」

「わかった。それじゃ」

 リタは膝でかごを押し上げ、抱え直すと、館の脇から泉へ下っていく小道へと歩いていく。リタはしかしすぐに立ち止まり、振り返る。

「ルカ」

「なに」

「あまりそれ、おおっぴらに持ち歩かない方がいいんじゃない。知ってると思うけど、一応まだ、切り出し場から勝手に石を持ち出しちゃいけない決まりになってるんだからね」

 僕は黙っている。今では何の意味もない、村の古い決めごとだ。いくら鉱石があっても、誰も税に取らないし、都市へ売りに出るわけでもない。

「ま、今さらだけど。言ってみただけ」

「うん」

「じゃ」

 それからリタは小道へと消えていく。入れ違いに館の玄関が開き、カヤが出て来る。僕は、リタの薄いワンピースとの引き比べで、カヤの厚い焦げ茶色の上着をとても温かく眺める。そして穏やかに燃えるような臙脂色の制帽。

「ルカ、お待たせしてしまってすみません。仕事の荷物でなくても手間取ってしまって」

「ううん。大丈夫だよ」

 僕は、そう言いながら手元の首飾りを気遣う。ほかでもなく、カヤに贈ろうと思って持って来たものだ。

「ルカ、それは何ですか? きれいな鉱石ですね」

「これは『緑の夜の石』の原石だよ。今は荷役はないけど、昔から官府に納める村の産物だった。切り出し場でいいかけらを拾ったから磨いて作ったんだ」

 僕が手のひらに石を示すと、カヤは覗き込み、興味深げにほうと声をもらす。

「ルカはとても器用ですね」

 僕は石へと目を伏せ、簡単なものだよと言う。僕は本来の考えを遂げようと思うが、同時にリタのことばへと思い還る。リタはそれを気にしないでいいと否定し、僕もそれを古い掟だと否定する。僕はじぶんの手でよく磨いた石を見つめ、『緑の夜の石』と呼ばれるゆえんの深い色をのぞく。僕が何か心を決めようとしかかったそのときに、僕はカヤが、僕の名を呼ぶのを聞く。僕は顔を上げる。

「どうしましたか?」

 決まりになっている、決まり、と僕は心のうちにつぶやく。村の掟なんて、どれもあってないようなものだ。カヤはその二重円の制帽の下から僕を見る。

「何でもない。行こう」

「はい。お願いしますね」

 僕は首飾りを懐にしまいこみ、カヤとともに館を後に坂を下っていく。


 僕たちはまず、しばらく下った村の入り口までもどる。入り口から広場まではぽつぽつと民家が並んでいるだけだから、案内するようなものは何もない。けれどカヤは一軒一軒、木々の合間に現れ、過ぎ去るごと、家の者の名を聞き、家人はどういったひとなのかと僕に尋ねる。僕は知っている限り、ごく簡単に住人のひととなりを語り、とくべつなことは何ひとつ起きてはいない彼らの日々の暮らしぶりについて言う。眠るような静けさのうちにあるこの村のなかでも、とりわけ沈黙を好み、そうでなければひとびとから疎まれた人間が暮らしているのが、広場までの道なりの家だ。

 村の入り口にいちばん近い家には、『もそもそとした声』の男が、ごく小さな喧噪も嫌って昔から今の場所に家を持ち、とても物静かな女と暮らしている。ほとんど広場や館の方へ出てくることはなく、村の共同の畑地の耕作に出ることもない。家の脇に構えた鳥小屋と手狭な畑で取れるもの、そして、まだ多少なりひととつきあいをする女が、衣類の直しをする礼にもらってくる野菜によって生活している。子どもがひとりあったけれど、まだ大きくならないとき、ある朝突然いなくなってしまったという。たぶん、家の庭で遊び回っているうち、隣接する底知れぬ崖に足を滑らせてしまったのだろう。男たちの寡黙さといったら、それさえ、村のものたちは幾日かののちに知ったのだ。

 カヤはそれを聞きながら、ひどくまれな痛ましい出来事のように思ったのか、神妙な顔をする。僕はしかし、急峻な崖と森とに囲まれた村だから、子どもが命を落とすことはそうまれではないと教える。崖に落ちてしまうと、いつでも深く立ち込める霧のずっと底で、生きた姿のまま谷になる。村では、だれのなきがらも霧の底に葬られる。男の家から、ごとんと音がする。煙突から煙が上がる。カヤは目をつむり、耳をそばだてる。僕たちは先に進む。

 まだまばらな家のなかの、また一つには、『煤けた顔』の若い男がひとり住んでいる。男は何か患いがあるらしく、いつでも鈍色の血の気のない顔色をしている。実際男は、父も母も早くに病いでなくしたから、そういう血なのだと村のひとびとは言っている。弓なりに背中を曲げずに歩くのは見られたことがなく、それなのに、目だけは爛々と光り、高低の定まらない震え声で、ひとびとに慣れ慣れしく話しかけては理由もなく笑ったりする。男は、暇を持つといつでも家の前に座っている。

 僕は男の家が近づくと、歩みを速め、家の方へは目を向けないまま、カヤに男の素性を教える。男が、土くれの人形のように家の前に座りこんでいる。僕は目の端に男の姿をとらえ、そのまま男の家を素通りしようとする。しかし、きっとカヤは、無頓着に男の姿を見ていたのだろう。僕が気づいて振り向くと、カヤは立ち止まり、男は家からちょっとした坂を降りてくるところだった。僕はカヤの手を引こうとする。カヤは自分の方から男へ歩みよっていってしまう。僕はやむを得ず後につづく。

「やあ、やあ、ルカ」 

「やあ」

「やあ、こちらは誰だい。いやあ、君、温かそうだね、僕は寒くて」

「郵便官だよ。司法院の郵便官」

「へえ」

 僕は顔をそむけて、遠く『もそもそとした声』の男の家の煙を眺める。『煤けた顔』の男が、司法院どころか、郵便官というものを知っているとも思わない。

「カヤと申します。国都からやってきました。当分村にお世話になります」

「へえ、遠いところだよ国都は。すごいね、ここは寒いよ。へえ、それじゃあよろしくだね」

「ええ、よろしくお願いします。お手紙をとどけるご用があれば伺います」

 カヤはひかえめにお辞儀する。カヤがそして、やはり明るく微笑むことによって、不用意にも男にカヤの丁寧さと明朗さとを差し出すのを僕は知っている。カヤは真面目がすぎる。僕は男のまなざしをうかがい、ぎらぎらとにごる目の光を見る。僕はカヤの手を引く。

「じゃあね、『煤けた顔』、またそのうち」

「ああ、ルカ、それじゃあね、カヤ」

 僕は腹だたしくなってくる。カヤが男に返事をしないうちに、僕はいよいよカヤの手を引っ張り、男の家を後にする。カヤは僕に引っ張られているときにも、振り向き、あの丁寧に心のうちに書きとめようとするまなざしで、男と、男の家を見ている。男は背を曲げた佇まいのまま、まだこちらを伺っている。僕はさらに足速に歩く。

「ルカ、どうしたんですかルカ」

「だめだ」

 僕はそして立ち止まる。道の屈曲と林とが、すでに男の家を遠く僕たちから隠している。僕はカヤにしっかりと向き直る。もろい黄色い土が僕の踵でえぐられる。

「どうしたんです」

「あの男に優しくしちゃだめだ」

「ルカはあのひとが嫌いなのですか」

「嫌いじゃない。好きでもない。でもそういうことじゃないんだ」

「どうして」

「あの男に丁寧にしてやったらだめだ。あの風貌を見たらわかったろう。カヤにどんな下衆な真似をするかわからない。ゆるさない」

 僕は袖のところでカヤの左の手首を握り、カヤの両の目そのものに訴えるように言う。僕はカヤの腕が、だいたい僕のものと等しいことをあいまいに知る。大丈夫ですよとカヤは言い、諭すように僕に告げる。

「めずらしい風貌のひとはどこにだっています。国都で仕事をしているときにも、たくさん。それでも、必ずその心がよこしまだとは限りませんよ」

「よこしまだよ。やつは邪悪だ、見ればわかる」

「見えることだけからはわからないと言っているんです」

 カヤはそれを、通達するような冷厳さとともに言う。僕はなかばひるみ、なかば挑むようにカヤの目をのぞきこむ。カヤの瞳が一瞬複雑に揺れたあと、カヤはふっと息をつき、ふたたびカヤとして僕に語りかける。大丈夫です、とまたカヤは言う。そこにはあるいたずらっぽさがある。

「私は郵便官ですから。司法院の郵便官です」

 カヤがそう明るく請け負うから、僕はかえっていっそう心もとなくなる。僕はカヤを見つめる目を伏せ、もうすこし強く腕を握る。するとカヤはすこし困ったふうに笑みをこぼす。

「ルカ」

「なに」

「痛いです」

 僕ははっと手を離し、カヤに謝る。いいんですよとカヤは言う。

「ルカ、意外と力があるんですね」

 僕は一瞬うろたえる。僕は、村のほかの少年より腕が太いとは一度も思ったことがない。僕はけれど、僕がふだんたとえば、一杯に詰まった芋のかごを母さんのために運ぶとき、固く引き締まる僕の腕のことを考える。

「僕は男だよ。薪も割るし、石も運ぶ」

「そうですね、ごめんなさい」

 カヤは笑い、袖口を整える。

「それではまた案内してもらえますか」

「うん。行こう」

 僕たちはふたたび道を進む。僕は、カヤが袖口を整えるしぐさのうちに、撫でるように左の手首に手をあてるのをみとめた。僕は、もう一度謝ることはしない済まなさとともに、僕がカヤを傷つけうるということに、恐ろしさとないまぜな妙な高揚感を覚える。

 何軒かの家を過ぎ去って、僕たちは『一人ぼっち』のおばさんの家にたどり着く。僕は立ち止まる。僕はここで、たくさんの説明をしなければならない。

「こちらは」

「ここには『ひとりぼっち』のおばさんが住んでる。夫と息子は最後の荷役のとき都市に出て、それきり帰ってない」

「道中で何か?」

「いや。二人は都市で商売をするつもりだったんだ。夫はそれまでに何度か荷役をすすんで買って出て、都市で知識をたくわえていた。息子は敏い男だったそうだから、夫は商売の助けに一緒につれていきたがったし、息子は父にも都市にも憧れていたから乗り気だった」

「なるほど。それで、財をなしてから彼女を呼びつける算段だったのですね」

「そのとおり。二人は村長から、かなりまとまった量の、純度の高い『緑の夜の石』をはなむけに持っていくことを許されていた。元手にするためにね。十分に商売することができたはずだ」

 僕はそうしてカヤに説明をしながら、なかば自分に言い聞かせているような気持ちになってくる。僕はふだん、しばしばおばさんの家に赴き、畑や炊事の手伝いをしたり、道具や家の手直しをしたりする。そのたびいつでも、おばさんは息子か孫かのように僕の訪れと手助けを喜ぶ。おばさんは、今でもなおことあるごとに、二人から何の報せもないことを嘆く。けれど、少なくとも僕の前では、二人の成功と無事とを疑うようなことばを、ただの一度として口にしたことがない。

「今でも、都市で盛んに商いされているのでしょうね」

 カヤは朗らかに言い、僕はやはり、僕自身に言うように応える。

「そうだと思う」

「ルカ、何を暗い顔をしているんですか」

「していないよ」

「しているようですよ」

 カヤは涼しげな顔をしている。何か考えているようでもある。僕はしばし沈黙し、そして口をひらく。

「商売に成功しているはずなのに、どうしてもっとはやく迎えに来たり、迎えをよこしたりしないのかな。何の音沙汰もないなんて、おばさんのことをどう思っているんだろう。それとも」

 僕はそこで言いとどまる。ふたたびカヤをうかがうと、カヤはじっと道の先、霧と谷の向う側、霞む黒い森を見つめるような目をする。健やかな針葉樹のように佇み、両肩から伸びた腕の先に、きゅっと拳を握る。カヤは、その姿のままにどこか深い場所へ降りていこうとしているように見える。カヤは何かを考えている。僕は、しばしの間から、カヤの考えがさしあたり今は答えを用意しなさそうなことを確かめて、つづける。

「それとも、何かよくないことが、」

「ルカ、そうとは限りませんよ」

 カヤは顔を上げ、今は僕に穏やかな表情で語る。

「商いの道で功を遂げるには長い時間がかかります。その間は二人は帰ってこれません。ところが商いを広げ、官府や遠い都市とも取引を持つようになれば、今度は多くの仕事をこなすために、少しの時間も取れなくなるものです。遠路この村へともどってくることは難しいのではないですか?

 それにルカ、先ほど記録書をめくった時目にしたところによれば、この村が徴税の対象からこぼれた理由は、定かでないのでしたね。もし荷役の停止が正式な決定ではなく、税吏の手違いにすぎないのだとすればどうでしょう。もし二人がそれを知ったのだとすれば、村への行き来を控えるのは十分ありえます」

「税吏に目をつけられないように?」

「ええ。そうなればふたたび荷役が課されるでしょうから。およそどんな村にとっても荷役は重い負担ですが、この村は最も近い都市からもはるかな遠地にあります。それも気象穏やかでなく、寒冷な、国土北西の地です。書類上の手違いであろうとも、荷役がないならないほうがいいと、彼らは考えたのでしょう。実際、同じように思って村も自ら都市へ出ることはなくなった。ちがいますか」

 カヤの推論は、それじたいはまったく筋が通っている。

「そうだけど、でも。いくら忙しいのでも、遠い道のりでも、なにかやりようがあるはずだ。十分な準備をさせて、ひとを雇って行かせることもできる。それこそ商売に成功しているのなら、簡単なことだ。なのに。一体二人はおばさんについて、何を思っているんだろう」

 僕は一息つき、ひとかたまりの沈黙が僕たちの間に横たわる。カヤがぽつりと言う。

「たしかめればいいじゃないですか」

 僕はカヤを見る。

「ルカ、少なくともあなたと村長は、私の仕事をよく分かっていてくれているものと思っていましたよ?」

 カヤはおかしそうに笑う。僕はそして、今さらのようにそれに気づく。

「そうだった」

「そうでしょう」

 僕もおかしくなって笑う。

「カヤは郵便官だ」

「ええ、私は郵便官です」

「君は手紙をとどける、君は手紙を持ってくる」

「そのとおりです」

 カヤは満足そうにうなずき、僕も嬉しくなる。

「カヤ、少しおばさんと話していかない? カヤのことを教えてあげたい」

「もちろんです。私の何より大事な最初の任務は、手紙を出すひとのことをよく知ることですから」

 僕たちはおばさんの家の前へと歩こうとする。ちょうどおばさんが戸を開け、作業用の前掛けをつけて出てくる。おばさんはとくに目をわるくしてはいないが、いつも何かに目を凝らすように、不安げに目元をしょぼつかせている。おばさんは僕をみとめると、薄らと顔を笑みに染める。

「おお、ルカ。おはよう」

「おばさん、おはよう」

「今日はどうして来てくれたんだい。芋掘りの方はだいぶ助かったからね、当分は手を焼いてもらうことは、うん、なさそうだよ」

 おばさんはゆったりとした語り口でそう言うと、今やっと目にとまったように、やおらカヤへと首を回らす。おばさんは同じようにしてふたたび僕を見る。

「うん、この子はね、おばさん。カヤって言うんだ。新しく村に来たんだ」

 僕がごく簡単に噛み砕いて教えても、おばさんは、僕のことばが遅れて聞こえてくるようになお僕の顔をのぞきこんでいる。そして、不思議そうに口を丸めてカヤを眺める。

「カヤと言います。この村で仕事をするために、国都から参りました。ルカに村の案内をしてもらっています」

 おばさんは聞きながら、何かを納得するしるしなのか、まったく空っぽな相づちなのか、小刻みにゆっくりとうなずく。ルカは名乗りを終えると――おばさんにまんじりと見つめられてたじろいだのだろう――僕の思っていたのに反して、朗らかな笑みを見せるより前に、気まずそうな照れ笑いをこぼす。おばさんは、まるでそれこそが初めてカヤから伝えられたことばであるみたいに、難しく丸まった口元を、しわくちゃな半月にして笑みにする。

「そうかい、ルカのお友達だね、可愛い子だよ、カヤ」

「はい――え、はい」

 今度はカヤがよく分からない顔をする。おばさんはともかくもお入りと言って、割合にまだしたたかな腕で僕たちを家の中に導く。

「村長から干し肉の分け前をいただいたんだけど。でも、二人が食べた方が身になろうというものだから」

「ありがとうおばさん、でも僕はお腹がすいていないから」

「そうなのかい? でもカヤは」

「ええっと、そういえば明け方から今まで、何も口にしていません」

「それはいけないよ。食べないと凍えてしまうよ、小さい身体なのにね。ならルカも食べるね、二人でね」

 おばさんは釜戸に掛けてあるスープに、干し肉の欠片を放り込む。僕はカヤに椅子をすすめ、棚から器と匙を三つずつ用意する。摘んであった菜を小さくちぎって、いくらか器に放り込んでおく。釜戸の窓を開き、火元のようすを見、薪を足しておく。それを済ませると、僕もテーブルにつく。僕とカヤは真正面から目を合わせる。カヤは部屋のようすを眺めていたのでもなく、僕に何か言おうとするようでもない。

「カヤ、何をぼんやりしているの」

「いえ。べつに」

「郵便の使い手のことをよく知っておくのがカヤの任務だ」

「そうは言いましたけれど……」

 カヤは決まりがわるそうに眉をひそめる。ここまでカヤは、動じる村のひとびとに対するたび、その緊張を和やかな笑みで解きほぐさなければならなかった。それが今では、おばさんがまったく自分らしいしかたで振る舞うのを前に、カヤの方がどぎまぎしている。

「まあ、おばさんはいつでもこんな調子だよ。ともあれ話は食事のあとだ」

 おばさんが僕に声を掛け、僕は三人分の器にスープをよそう。僕たちはテーブルを囲う。カヤがおばさんに懇ろに礼を伝える。部屋は釜戸の火のおかげでじんわりと温まっている。

「どうだいルカ、お前は最近肉を食べたかい」

「いいや。だからおいしいよ」

「カヤ、どうだい。明け方から食べてないだなんて一体どういうことなんだい?」

「今日は明け方から村へ歩きはじめたんですが、ちょうどそのときの食事で手持ちの食べものが最後でしたから。村へついてからは村長にお会いしたり、荷解きをしたりしていましたし」

「まあそれは。旅はたいへんだよ、旅はね、それはもう。おいしいかい?」

「ええ、その。とても」

「ああ、なによりだよ。わたしは娘は持たなかった、うん」

 僕は、困惑と気恥ずかしさとのうちに笑うカヤと、きっとまた夫と息子とに思いを及ぼしているにちがいないおばさんとを前に、その話を聞きながら、スープを口にする。

「カヤ、わたしの夫はどこにいると思うかい。なくしたのではないよ」

「そうですね、作業に出ていらっしゃるのでしょうか」

 その話になって、カヤは早々とまったくの落ち着きをとりもどす。

「あのひとはね、お前が辿ってきた道を逆しまに都市へ行ってしまったんだよ、息子と一緒にね、もう二十年かどうかという昔に」

 おばさんの声はわずかに震えを帯びてくる。カヤは匙を控えたまま、瞳にあたかも明け方の空の泉をたたえて、目をつむって語るおばさんを見つめている。

「お二人は、きっと離れていてもお元気にされているでしょうね」

 カヤは、そうしてまっすぐおばさんを見つめながら、まなざしは本当はまったく別のものに差し向けられているように語る。

「当たり前だよ。あのひとらは都市で商いをしてるんだ。『緑の夜の石』をたくさん持ち込んで、職人に磨かせて、官府や貴族から注文を取ってね。それでまず上手くいったらあとはどんな商いにだって手を広げているさ、そうだよ」

 僕はほぐれてもなお固い肉片に噛みつく。おばさんは繰り返しているのだと僕は知っている。僕にも語ったことのあることばと、同時に、そもそもはじめに夫が、出立を前に何度も頼もしく語ったにちがいないことばとを。おばさんは今でもまだ、二人から報せのないことを嘆く。けれど嘆きのことばは、世界から切り離されてきたこの村のように、いつかの繰り返しのさらに同じ繰り返しになっている。それはしかたなのないことだ。考えられうることは、二十年の間にただ考え尽くされ、増えはしないのだから。

「さぞお忙しいことでしょう」

「そうさ、よく分かっているね。まったくそれだからいつまでたっても約束を果たしゃしない! あのひとたちはね、商いに成功したらわたしを迎えに来ることになっているのさ。それが、まったくもう!」

 おばさんは顔を振り上げ、いつもの弱々しい声音とうってかわって、声を荒げる。しかしおばさんの顔は怒っているのではない。おばさんの顔は笑っている。カヤは、あの泉のようなどこまでも静かな瞳のまま、おばさんと見交わし合う。僕は、この時折のおばさんの高ぶりに対して、カヤがどうするのかに思いを回らせる。僕はいつも、おばさんの言い分をことばを変えて繰り返すことしかできない。それによって僕は、おばさんの望みを肯定し、おばさんとともに、その成就を繰り返しくりかえし先延ばしにする。

「商いの道はひどく忙しいものですからね。朝夕となく都市から都市へ物を流し、人とつながりあう業です。二人が今や大商人となれば、三日と空けることもままならないでしょう」

 カヤはそうして、繰り返すのではなく、新たにおばさんの言い分を根拠づける。カヤは正しいことを告げる。

「お二人はきっと、忙しい日々のなかで、あなたを迎えに上がる日をこがれています、きっと」

 カヤは微笑みとともにそう言うと、おばさんははっと目を見開く。そして、ふたたび机に目を伏せたかと思うと、かなしげな笑みをカヤに向ける。その笑みは、おばさんのいつもの弱々しげなそれにもどっている。

「そうだね、カヤは本当によく分かっているよ。優しいよ、カヤは」 

 僕は何故だかはっとし、カヤもまた鏡の球のようだった瞳を揺らがせたように見える。僕は、根拠なく、おばさんがむしろ二人の迎えを諦め切っているのではないかと思わせられる。おばさんは言う。

「そうだよ、いつか二人が迎えに来てくれることをわたしは知っているよ。たとえその日が今はまだ来なくたっても、構いはしないのさ。迎えのないことは、二人がまったく上手くやりつづけていることの何よりの証なんだからね。けれども――」

 おばさんは今になって匙を器に浸し、一掬いしようとしたかと思うと、そのまま器に匙を預け置いてしまう。僕たちはそうするおばさんにまったくまなざしを奪われているのに、おばさんは僕たちを忘れてそこに座っているように見える。おばさんはなかばひとり言のようにつぶやく。

「けれども、ただ一つ知りたいよ。あのひとたちが迎えに来る先の日のことはさあ知らない、ただあのひとたちが今このとき、わたしのことで何を思うのか」

 しばらく、小窓から差し込む光のなかに塵が舞うほか、部屋のうちで何ものも動かない。僕はそして我にかえり、今がその時だと覚って口を開く。

「おばさん」

「なんだい」

 おばさんはたぶん、まだ半分は僕たちのことを思い出していない。 

「おばさんが知りたいこと、今なら二人から聞くことができる」

 僕はカヤを見遣る。カヤは思い詰めたふうな浅いうなずきを僕に返す。僕は、カヤがおばさんの事情やおばさんへの態度を、カヤの心のうちでまだすっきりとは処理できていないように思う。僕はだから僕がここでおばさんの導きとならなければいけないと知る。

「カヤは、手紙の配達人なんだ。おばさんが二人に手紙を出せば、カヤが二人にとどける。そして、おばさんに二人の返事をとどけてくれる」

 おばさんは今やっと僕たちのもとへ帰ってくる。交互に僕とカヤを見渡し、だれかの次のことばを求めてさまよっている。

「おばさんただ、二人へのことばを僕に話してくれるだけでいい。文字は僕がかわりに書きつけるし、紙と鉛筆も僕が用意する。ほかのすべてのことはカヤがしてくれる。そして二人から返事が返ってくる。それも僕が読み聞かせてあげられる」

 おばさんは、まるで僕が、むしろとんでもない大罪を犯したかのように呆然と、僕の顔を覗きこむ。

「ルカ」

「うん」

「ほんとうかい、ルカ」

「うん。おばさん、僕の言ったこと、わかった」

「わかった。わかったともさ――カヤ」

「はい」

「そうなのかい、カヤ」

「ええ。間違いのない、真実です」

 カヤは、今ではあのいくらかの動揺をこえ、きっぱりとしたその口ぶりによって、司法院と郵便官との使命の重みを、ありありと表そうとするのだと僕は思う。僕は、ひとつの満足とともにカヤへと微笑みかけ、カヤはまた慎ましく同じ笑みで僕に応える。僕は、僕がカヤとの協同によってささやかな善を遂げたような喜びを感じる。

「ルカ、カヤ」

 おばさんは震え声に言う。

「手紙のこと、わかったよ。わかったんだけれどもね、うん、ちょっと。上手い具合にことが、わたしのなかで落ち着かないんだ」

「うん。ごめん、おばさん、いきなりの話だったね」

 カヤも、諭すようにおばさんに声を掛ける。

「ゆっくりと、考えてみてください。手紙は出すことはいつでもできます。私は、ずっとこの村にいますから」

「そうかい、そうだね。ありがとう、二人とも」

 おばさんはそして、しばらくの沈黙ののち、ふだんどおりの、弱々しいながらも気のよい笑みを僕たちに向ける。おばさんは椅子を引き直すと、身を乗り出して僕たちの器を覗き込む。

「なんだお前たち、ほらちゃんとスープをお上がりよ。お腹が空いていたんだろう、カヤ。ありがとうね、カヤ」

 おばさんのことばはカヤをふたたび困惑したような笑みにさせ、スープを食べ終えたのち、僕らはお礼を言っておばさんの家を後にする。


「カヤ、ずいぶん気疲れしたように見えるよ」

 そうでしょうかと言って、カヤは帽を深く被りなおす。僕は、きっとカヤがおばさんとその話とを深く考え返しているのだと思って、それ以上は尋ね入らないことにする。

「何にせよ、まだ道は長いから」

「ええ、問題ありません。行きましょう」

 僕をふり仰ぐカヤの顔に、頼もしい郵便官の余裕をみとめ、僕はうなずき、僕たちは薄黄色の土くれを踏み崩しながら、先へと進む。

 僕たちはやがて、村の広場に至る。広場は、たまさかな村のひとびとの話し合いや、村長からのことばを伝えるために用いられ、そうでないほとんどのときには幼い子たちの遊び場となる。広場からはいく筋かの小径がつづき、ここからは家々の数は多くなる。僕はそれらを同じようにひとつずつ辿り、カヤに家の者について教える。それらのなかの一つには僕と母さんの家があるが、村全体の案内のために僕は、さしあたり僕自身と母さんのことをカヤに説明することができなかった。小径からつづく道なりの家々を紹介し終えると、広場にもどり、いちばん太くさらに上へとつづく道から進み直す。館を通り過ぎ、開けた村の共同の穀物畑、塩の倉庫、肉鶏の小屋、道具置き場をカヤのために指差す。

 さらに進んでゆくと、にわかに道沿いの木々は薄くなり、朽ちた低い木が目立ち、あたりは木と岩石の灰色、土の薄黄色とに広がっていく。そしてすぐに『緑の夜の石』の切り出し場に出、僕たちのまえには落ち窪んだ、広く白っぽい岩場が開ける。そこら中で大きな岩が横たわり、突き刺さり、互いに重なり合っている。踏み固められた道のすぐ脇にも岩が出てきている。僕たちは道から慎重に岩場に降り立ち、うねるように奥まっていく岩場の先へと足を運ぶ。その行き止まりであたりはすこし開ける。最後の切り出し場、徴税がなくなるまで『緑の夜の石』が掘り出されていた場所だ。山腹に向ってとりわけ大きな岩が、山なりに密に組み上がってそびえたち、そのずっと上には森の木々の一端がのぞいている。巨大な岩のそれぞれは、ざらついた粉っぽい白い岩肌のうちに、暗い緑のかたまりを宿している。岩石に埋め込まれたそのおびただしい原石は、夜光の冴えた夜には、無数の猛禽の眼光のように見える。

 あたりの一つの隅に目をやると、太い黒木が二本、斜めに交わるように組んで据えられている。切り出し場は今では、掟を破った者をこれに縛りつける罰のために使われることになっている。もっとも、僕が物心ついて以来、縛りつけほど重い罰を受けたのは『煤けた顔』の男だけだ。ましてそれよりも重い罪は下された例がない。僕がカヤにそれらのことを伝えると、カヤは興味深げにうなずくとともに、官府の統治が及ばない小村では、法は、村長が村の掟にしたがって刑罰を下すことを許しているのだと僕に教える。僕たちは道を逆に辿り、切り出し場を後にする。

 いったん道を下り、僕たちはふたたび森に囲まれる道から上り直す。道は狭まり、あちこちで折れ曲がるから先を見通すことができなくなる。僕たちは時々肩がぶつけあいながら歩き、それほど遠くはない道のりの先に、広い泉にたどり着く。泉は、薄く大きな鏡面のように横たわり、泉を囲う木々の向うに、あちらこちらの峰が透かされている。泉はその峰ではもっとも高い場所に開けている。朝には朝とともに紺から白に明け、薄紫を経て焼ける黄金にとけてゆく。夜には星々を吞み、微動だにしない鏡面の底へと、天の深さによって山を穿つ。僕はカヤには、とりわけ森と泉とにまつわる伝統について言う。

「このあたりの森は『妖精の森』と呼ばれていた」

「妖精信仰ですか――今では?」

「呼ばれるなら今もそう呼ばれる。けれど森について語られることじたい、もうほとんどまれになっている。妖精の信仰は『緑の夜の石』と結びついているからね。森には妖精が住まい、石は妖精が結晶したものだと信じられていた。大切に森の妖精を信仰しなければ、彼らは森と村から離れ、石は掘り尽くされたまま新たに岩に宿ることはなくなる。だからほら」

 そこで僕は、泉の対岸からやや林へと奥まった場所に、小さな小屋を指差す。

「あの小屋は監視小屋なんだ。まだ信仰が厚かったころには、年に一度冬のまっただ中に、若い娘を選び出し、上等の白い綿の衣を着せて、泉の傍らで夜通しの祈りをさせる――森の妖精が生まれるのは泉であり、妖精が石へと結晶するのはもっとも寒い季節だとされていたから。儀式を遂げるため、娘が万が一にも逃げ出すことのないように、村の男を交代で小屋に置いて監視させたんだ」

「……なるほど、なかなか厳格な風習です」

 カヤは淡白に、早口に囁くように言う。

「こわい目をしている、カヤ」

「そうですか?」

「憤っているの」

「まさか、そんな立場にはありませんよ。土地には土地の伝統があります――もっとも、国都はじめ諸都市はそうした不合理な仕打ちを含む習慣を持ちませんし、法が許しませんし、司法院が見過ごしません」

 僕は、その険しいまなざしとは裏腹に、饒舌に述べるカヤがどこか意地になった幼い子であるように思われて、うっかり笑い出しそうになる。僕はなぜだか、そのときに初めて、それを口にするときはいつでも司法院そのものであったようなカヤが、僕とともに司法院の下に等しい子としてあるような安堵を覚える。けれど次のときにカヤはもう、国都にそびえているであろう石積みの司法院の、その堅い礎石の冷たさになって語る。しかし、とカヤは言う。

「法は信仰じたいを否定しません。だれもその信じるものを侵されません」

 僕はただカヤを前に、カヤの声を聞き遂げることだけをする。カヤは永遠に対して約束するようだった。僕は、僕の次のことばを継ぐべきであるのか迷いながら、カヤのことばの余韻が、カヤの白い息とともに吹けていくのを眺めている。そのとき、カヤはやおら帽を取り、泉へ歩み寄って言う。

「それにルカ、儀式のこうしたところは美しいと思いますよ」

 カヤは水面を覗きこんでいる。僕は同じように泉へと近づく。泉は青天を映すのをやめて、澄んだ水の底に抱えこんだ、おびただしい『緑の夜の石』をちりばめる。僕たちは、二人で泉を見渡す。青い蝋のような空を僕たちは頂く。

「祈りのあるたび、夜とともに一つずつ投げ入れたんだ」

「白い隙間を見つける方が手間なほどです。どれくらいあるのでしょうね」

「この村にひとの根付いてから、信仰とともに生きた日の数ほどは」

「それももう、絶えてしまった。石を切り出す必要がなくなって」

「そうだね。でも儀式がなくなったおかげで、もうだれも泉で凍えたりしなくていい」 

「そうですね。それは間違いありません」

 カヤは微笑み、僕はたしかに頷く。

「私が凍えたのを最後にね」

 唐突な声に僕たちが振り返ると、リタは作業に着る薄いワンピースのまま、僕たちに歩みよってくる。

「やっと追いついた。もうここで最後だろうけど」

「遅かった、リタ」

「その女のために、整えてやらなきゃいけないものが多かったから。お爺様の言いつけで」

 カヤはその礼に帽を抱いて目礼する。リタはつまらなさそうにじっとカヤの顔を見つめたのちに、泉の縁にかがみ、一つ石を摘まみ上げる。きっと氷のように冷たい石をリタはじっと見つめる。

「懐かしい。ね、ルカ」

 僕は何も言わない。リタは可愛がるように石を見つめたあと、素っ気なく石を泉へ放る。孤立した音とともに泉に波紋が広がっていき、青空が揺れる。

「儀式は、二人の生まれる以前に無くなったのでは」

「荷役は。でも、儀式じたいは三四年前までつづけられていたんだ」

「そう。私たちがその最後を務めるまでね。私が歳の娘、ルカが監視の番。あの日のことを思うと雪の日だって裸で水汲みに出られるわ」

 リタはおかしげに喉の奥で笑う。

「ルカも、ですか」

「そう、ルカも。忘れられないなぁ、あれがあったから私はルカを一端の男の子だと思ったよ。身体は小さくても、声は細くても」 

「そんなことを話すな、リタ」

「そう? じゃあ私のことを話すね? カヤって言ったね、私が経験したこと教えてあげる。祈りの娘の話はルカから聞いたようだけど、どれくらい知ってるのかしら。儀式の日は、娘は日が落ちてから朝までずっと、綿布一枚でここにいなきゃいけない。何も食べず、ただひざまずいて、祈りのことばと一緒に石を泉に投げるの。朝までずっとよ? 足と地面の境目も分からなくなって、寒さで唇がこわばって、繰り返し唱えていることばが自分でもわけがわからなくなってくる。面白いでしょ。

 それでも逃げたり、眠ったり、まとめて泉に石を放り込んだり、そういうことするわけにはいかない。あの小屋の小窓から村の男が見張っている。その最初の番がルカ。でもルカは次の番が来ても一緒に見張りをつづけたんだってさ。その次もまたその次も、私と同じように眠りもせずに。私のありさまを見て、恐ろしくて逃げ出せなくなったんだろうな」

「一言も恐ろしいだなんて教えたことはない」

「そうだった、ルカはそう言うもんね――そして、朝に近い最後の番は『煤けた顔』の男だった。やつはあの浅ましい笑い方で私に近づいてきた。何を考えていたか知らないけど、私が儀式を放り出して逃げても見逃すんだとか言った。冗談じゃないでしょう? あんないやしいやつの情けで務めを手放してしまったら、一体それまでの苦しみは何だったの。そんなものを親切だと誤解してるなら愚かにもほどがあるよね。そんなあいつをルカは叱りつけて、身体を張って引っ込めてくれた。結局ルカは『煤けた顔』の男を小屋からも追い出して村に帰らせた。

 カヤ、ここからだよ、ルカがほんとうに偉いのは。ルカはそのあとも一人で番をした。大人が誰ひとりいないなかでも、うずくまって震えて、わけのわからない声でつぶやいてる私をちゃんと監視しつづけた。ルカは私に駆け寄って毛布や食べ物を与えたりしなかった。実際のところ私は咽び泣きさえしてた。つらくて泣いたんじゃなくて身体の方で勝手に泣くの。それでもルカはただ私を見つめるだけだった。たしかに儀式は止めちゃいけないし、監視役が情けを掛けるのも掟を破ることになる。でも、幼いときからのなじみを前に、本当にそういうふうにできるなんて、すごいと思わない?」

 カヤは難しい顔をして、ふいと泉へと目を背ける。

「それが掟なのだとしたら、村のなかでは、ルカの行いは何ら咎められるようなことではないです」

「当たり前じゃない。この女何を勘違いしてるの。私はまさにそのことが嬉しかったの、分かる? ルカは恐ろしかった、のにずっと私を見ていてくれていた。ルカはきっと情けをかけたかった――別に私がそれだけ大事だったなんて言わない――その方が心が痛まないし、良い顔もできるはずでしょ。なのにちゃんと儀式を守った。そのおかげで私も儀式を守れた。私の壊れそうな一夜はむだにならなかった。

 そしてね、ぼうっとした私の目に、いつの間にか泉の朝焼けが見えてきて、やっと何もかも終わったとき、掟も儀式も関係なくなって、ルカが駆け寄って毛布で抱きかかえてくれたことの温かさといったら」

 リタは心地好げに笑み、胸を張って長い息をする。リタは結局、カヤに最後の儀式についてほとんどすべてを教えてしまった。それらがおおよそ事実であることによって、僕は憤るでも、悔やむでもなく、ただ唇をゆがめて沈黙する。僕は、恐ろしかったんじゃないと呟く。僕は後ずさり、カヤの手を取り、引き返そうとする。案内は終わりだ。

「待ってよルカ、私も一緒に帰るんだから」

「好きにすればいい」

 僕たちは狭まった道をいっぱいに並んで、道を村へと降りてゆく。僕は、カヤの手の穏やかなぬくみを握りながら、最後の儀式を終える朝、毛布をかぶせて抱いたリタの身体が灼熱するようだったことを思い返す。

「カヤ、都市の子ってみんなそうやって帽子を被るの」

「いえ、これは郵便官の制帽なんです」

「せいぼう? ふーん、それだけの格好をしてるのに、カヤはよほど寒がりなのね」

「違います。郵便官である限りだれも被らなければいけないんです」

「そういうこと。始めからそう言えばいいのに」

「だから制帽ということで言ったつもりです」

 僕はただ二人が話すのを聞き、リタが僕にかまう限りで受け答えする。カヤは、僕や村のひとびとと話すのとはちがって、丁寧にすぎず、どこか少年じみた話し振りで快活にリタと話した。リタはカヤの風貌について尋ね、都市の暮らし向きについて尋ね、郵便官の仕事について尋ねる。そのどれも、リタにとっては、どうしても問い尋ねたいようでもなかった。ただリタは、カヤ自身について、僕の頭がかっと熱くなるようなことを平気で聞き、それだけはリタはむやみにカヤをせっついた。

 やがてふたたび村に入ると、リタが村のひとびとに声を掛け、僕たちはあちらこちらで立ち止まった。カヤは村のひとびとに挨拶し、郵便官の務めを伝えた。リタが間に入って上手く話をしたから、村のひとびとは、今はそうあやしむでもなく、カヤといくらかことばを交わした。カヤは丁寧で、よく笑ったから、村のひとびとと難なく打ち解けていった。僕たちはやがて館に帰り着いた。


 リタがはやばやと館の中に入っていったあと、カヤは僕に向き合って言う。

「ルカ、案内、ありがとうございました。村の隅々まで、説明までしてもらって」

「ううん、楽しかったからいいよ。僕の見慣れたものを、カヤはめあたらしそうに見るんだなって」

 僕がそう言うと、カヤはくすりと笑う。僕はそれをいぶかしむ。

「ルカも楽しいと思うことがあるんですね」

 僕は難しい顔をし、当たり前だと言う。日はもう傾き、館の石段にカヤの厚い革靴が輪郭をはっきりとさせている。僕たちの間のすこしの静かさののちに、僕は思い立って石を取り出す。僕は、リタのことば、今は何の役にも立たない古い掟のことを思いつつ、それを握りしめる。

「カヤ、これ」

「ルカの首飾りですね」

「あげる」

 カヤは、僕の差し出した手から顔を上げ、僕を見る。カヤの臙脂色の制帽が夕日にあぶり出され、二重円がきらきらと輝いている。僕はふたたび掟のことを思い返すが、しかし、僕はより強くカヤの布鞄と、鍵されたカヤの「私の秘密」とを思い出す。

「こんなにいい欠片はなかなかない。綺麗に磨いたし、紐も丈夫だ。あげる」

 僕はさらに言う。

「あげるから、大事にして。要らなければ身につけなくたっていいから。いや、身につけない方がいいかも」

 僕は、差し出した僕の手のうちから、そっと首飾りを拾い上げようとするカヤの手を見る。カヤは取った帽とともに石を抱きしめ、黄金色に髪を夕映えさせる。

「ルカ、ありがとう。私の鞄のなかに、大事にしまっておきますね」

 僕はたしかにそれを聞き遂げる。僕はカヤを館に帰し、あの二階の固い錠前の締まる音を聞き遂げて、母さんのいる家へともどる。僕は、昼間家のもろもろの作業をこなせなかった分、夕飯を作ろうとする母さんの手伝いをする。繰り返されてきた日々にくらべて、法外に長い一日が、日の沈みによって終わる。


 

 その夜僕は、書庫の隣の僕の部屋で考えごとをする。それは日なか起きたことがらについての回顧から始まる。僕は、短く切った麻の紐を油に浸し、小皿に横たえ、灯をともす。質のわるい紙を引っ張り出し、鉛筆を取る。僕はことを翌日館ですべき記録の仕事のために、覚え書きとして書き留めるのだが、仕事以上に僕じしんのためにもする。

 カヤがクラインヴェルトの村に来る。僕たちの、僕の村へとたどり着く。それは唐突な郵便官の着任という形を取る。その仕事は、手紙と文書によって村を都市へと、王府へと通じる。村と、ひとびとと、その出来事の一切、断絶していたみなしごの歴史を、司法院の知の明るみのもとへと回復する。王府が見過ごし、教会が見捨てた僕たちを、司法院が今すくい上げる。さしあたりその仕事は、忘れられていた村について作成する基本的な文書や、その応答となる地方官府からの文書、『ひとりぼっち』のおばさんが綴るかもしれない手紙を、『もっとも北西の地の寒い』都市との間でやりとりすることと、その準備とになるだろう。

 そしてそれが、そのすべてがカヤによって達成される。カヤ。制帽に二重円のきらめく、司法院の郵便官。僕は郵便官がカヤでなかったとしても、その仕事によって郵便官を好きになったろう。でも僕は、カヤが好きだ。

 カヤは僕より少し背が低いくらいで、その髪は麦の色をし、朝焼けや夕日のもとではこがね色になる。やわらかく明るく笑う。空へ抜けるような澄んだ声を持っていて、それは、辞令を読み上げるときや『ひとりぼっち』のおばさんを励ましたときは、その話されることがらが真実そのものであるためにもっとも相応しいように聞こえる。腕が細く、僕が握ることで痛みを与えることができてしまう。丈夫で重たげな製靴で歩き、さらに頑丈でずっしりとした荷物を背負う。その荷物には、司法院の知が、世界の真実が鍵されている。そして、カヤの秘密が別に封をされている。僕の贈った『緑の夜の石』を、カヤはカヤの秘密のひとかけとして受け入れてくれる。

 僕はそして、カヤが館の接見の間で村長に挨拶し、僕が館の書庫に、そしてカヤに割り当てられる部屋にカヤを導き、村の隅々に至るまで案内し、村のひとびとにつき説明した次第のあらましを書き留める。僕は、村長、神父様、『煤けた顔』の男や『ひとりぼっち』のおばさん、リタとその話したこととを思い返しながら鉛筆を走らせる。僕ははたと手を止め、椅子の背に肩をあずける。僕はそれを確認する。

「僕はまだカヤのことを知らない」

 僕は、カヤが話してくれなければ分からないことを、まだ何一つ知らない。司法院が、郵便官が話してくれなければ分からないこと、村の外のひと、国都のひとが話してくれなければならないことではなく、カヤが話してくれなければ分からないことをまだ何一つ。そして僕もまた、僕が語らなければカヤが知ることのないことを、いくらでも持っている。僕はたしかに都市のこと、国都のこと、世界のこと、そして司法院のことを知りたい。僕は世界の真実を知りたい。しかし同時に、僕はカヤの秘密をも正当に知りたい。僕はそしてカヤの秘密になりたい。カヤの心のうちで村のありようが丁寧に描き出され、書き込まれたように、僕は僕じしんカヤの中に記されたい。カヤを僕においてまた。

 僕はすでに燃え尽きそうな麻の紐をみとめて、手早く文机の上を片し、靴を脱いでベッドに横たわる。僕はがっくりと肩の力を抜いて深く息を吐く。それきり僕は目をつむり、今は僕の耳にさえとどかない静かな呼吸のうちで、少しシーツを引っ張る。僕はカヤの笑顔を思い浮かべる。僕はそのやわらかな髪のきらめいて舞うのを思い返す。僕はリタがカヤについて問い尋ねたあけすけなことがらとともにカヤの身体を思い起こす。僕は今までに受け止めたことのない心音の激しさと窮屈とをじっと見守りながら、自分が眠ってゆくのを待った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真実の配達人 六茶 @sixtea

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る