第15話 ドント・フォーゲット・トゥ・キャッチミー
手紙を読み終えた。「不快な思い」は僕のこころの何処にも存在していない。全ての謎が解けて、むしろ清々しい。
些細な嘘じゃないか、と思う。けれども、それは他人だからそう思うのかも知れない。みどりの苦悩。痛いという感覚を共有できないように、苦悩もまた、彼女だけの特別なものなのだろう。
—— あなたとの関係は終わりを迎えることを前提にして始まってしまったの——
彼女はそう考えた。何だろう。何かに似ている。思い出せない。何だろう……。
そうか、カミュか。思い出した。みどりを介抱していた夜に読んだ『シーシュポスの神話』だ。
神々を欺いた罪によりシーシュポスは罰を与えられた。大きな石を山頂まで運ぶ労働。その石は山頂に辿り着くと麓まで転げ落ちる仕組みになっている。転がり落ちると分かっていても彼は石を山頂まで運ばなければならない。その無意味な労働がシーシュポスに与えられた罰なのだ。
「読んだか?」
トラオさんがいう。
「読みました」
そう、答える。
「みどりちゃんはな、本当にいい娘だったぜ。ずっとバンドのマネージャーみたいなことしてくれててな。チケットを捌いてくれたり、宣伝用のフリーペーパーを作ってくれたり。何を隠そう、俺がバンド辞めたのも堂本がみどりちゃんと別れたことがきっかけでな。あいつと揉めたんだわ。ま、揉めたっつーより殴ったんだけどな。そりゃねーだろつって。バンドの客を喰うのはな、まぁ大目に見てたよ。あいつは才能やセンスもある。そこはおれも認めてた。やりたい盛りのあいつによ、テメエの才能に惚れて近づいて来た女を我慢しろ、なんていうつもりも更々ねえ。でもあんだけ長いことよ、バンドの世話してくれてたのに『新しい女が出来たから』ってよ、みどりちゃんもテメエの浮気大目に見てただろ? 浮気じゃ駄目なのか? つってな。『今回のは浮気じゃなくて本気だ』なんてな、妙な韻を踏みやがるからカッとなってな」
グラスに半分ほど残った、少し緩くなったギネスビールを飲み干してしまう。
「みどりちゃんね、うちにも何度か飲みに来てくれてたのよ。トラちゃんと堂本君とリュウジ君と一緒にね。内輪だけの飲み会って感じの時かな。あの子ざっくばらんな子じゃない? サバサバしてて面白くて。わたしも大好きだったわ。綺麗だし」
みどりの事を褒められて嬉しくなってる自分が居る。
「ところでよお」
トラオさんが切り出す。
「その残りの手紙、俺にも読ませてくれんだるうな。続きが気になっちまってよお」
「駄目に決まってるでしょう!」
手紙をトラオさんから遠ざける。
「いいから寄越せよ。おめえのぐちぐちした長げえ話を聞いてやったんだ。もう第三者には戻れねぇだろ。当事者だ。当事者。ほれ、いいから寄越せ、寄越せってこの」
「ちょっ。マジ勘弁して下さいよ。かなりプライベートなことも書いてあるし、ってちょ。やめてくださいよ。マジで!」
すっと手紙を奪われた。レミさんだ。
「たかおくん。あなた、その今回の騒動のきっかけになった曲『キャッチ・ミー』は聴いたの?」
「いや、まだですけど……」
「聴きなさい」
珍しくレミさんが強い口調だ。
「分かりました。今度中古屋を探して……」
「今、すぐ、ここで聴きなさい」
「え? いや、でもCDが……」
「あなたね、CDがCDがじゃないの。昭和のジジイじゃないんだから。そんなもの検索すれば一発じゃない。あなたの昭和ジジイ脳のせいでみどりちゃん居なくなったんだからね。
あなたがCDを捜すからこんなことになったんじゃない。かわいそうに、みどりちゃん……」
そうか。検索すればいいのか。あまり音楽を聴く習慣がなかったから気が付かなかった。
「まあでも、そこがたかお君の良いところでもあるんだけどね」
——男の人は単純だから、最後に「でも、そこが◯◯さんの良いところ」という言葉さえ付けておけば、どんなに本音で罵倒してもコロっと騙されるの——
昔、レミさんから教えて貰った気がする。
「あなたが『キャッチ・ミー』を聴いてる間、私たちがこの手紙の続きを読んでてあげるから」
「ちょっ、何言ってるんですか! レミさんまで。駄目ですよ! 返してく」
「うるさいわね。あなたのウジウジとした長い話を聞いてあげたのよ? もう第三者には戻れないの。当事者よ。当事者」
「ちょ、マスター! マスターからも何か言ってやってくださいよ!」
うちはね、アイスピックで丸氷を作りながらマスターはいう。
「うちはね、別に音楽流してもらっても構わないよ。ま、他のお客さんが来たら音を抑えて欲しいけどね」
駄目だ。多勢に無勢とはまさにこの事。
「『キャッチ・ミー』ね、いい曲よ? 私も知ってるけど。今のたかお君になら絶対刺さるはずだから」
そういいながらレミさんはトラオさんと一緒に手紙を読む。おう、マジか、怖えーな女って、とトラオさんの声。きゃっ、録音だって、みどりちゃんやるぅ、とレミさんの声。
僕はため息を吐いて携帯電話を取り出し「バンディッツ キャッチミー」を検索した。本当だ一発で出て来る。動画再生を押し携帯をカウンターに置き目を閉じた。
ドッドッタンタンドッタドッタ、ドッドッタンタンドッタカタカタ。
フロアタムを基調とした重たくて印象的なドラムリフ。思っていたのと全然違う。何かの儀式の様な、決意を促す様な、力強い音。
程なくして、女性ボーカルの声。ドラムとは対称的に優しく透明感がある声だ。ゆっくりと流れるメロディ。そんなに似てないけれど、何故かみどりとイメージが重なる。確かに良い曲だ。甘く美しいメロディと繰り返される重厚感のあるドラムリフの組み合わせが面白い。サビに入る。メロディの切なさが加速する。胸が苦しくなる。締め付けられる様だ。甘く美しく、そして切ないメロディ。サビで何度も何度も繰り返される「ドント・フォーゲット・トゥ・キャッチミー」の言葉。「今のたかお君になら絶対刺さるはずだから」。そういう事か。
ドント・フォーゲット・トゥ・キャッチミー。私を捕まえること、それを忘れないで。
みどりのことを思い出す。彼女の感触、彼女の体温、ファンデーションの匂い、呼吸のリズム、彼女の輪郭。
彼女との会話を思い出す。映画を見、食事をし、お酒を飲み、伝えたいことをお互いに伝え合った。伝えたくない事を笑顔の底に隠しながら。
「キャッチ・ミー」は二回目のAメロを終え、Bメロを終え、サビを迎える。再び繰り返される「ドント・フォーゲット・トゥ・キャッチミー」の言葉。何故かみどりの声で再生される。こころを締め付けるような切ないメロディで。苦しい。けれど不思議とこの苦しさに、今は寄り添っていたい。
曲を聴き終えるとトラオさんたちも手紙を読み終わっていた。
「で、おまえはこれからどうすんの?」
トラオさんがいう。どうすんのだって? 決まってる。
僕は携帯電話を手にし、堂本に電話をかけた。
「おお、たかおくん、どした?」
「バンド辞めます。リュウジさんには謝っておいて下さい」
「え? ちょ、おまえいきなり何に言ってんの? そんなこと急に言われも困んだろーがよ! 何で? 何があった?」
困る? 何で? みどりだってそういいたかっただろう。
「何でかだって?」
僕は声を荒げた。
「てめえのちんこに手を当てて、よーく考えてみやがれ! この、クソ野郎!」
そういい、通話を切った。そして携帯電話の電源も。これでいい。
おおっ! というトラオさんの声。男前ね、というレミさんの声。
手紙を読んでも僕に「不快な思い」は生まれなかった。生活の一部も僕の居場所とやらも無くなることはない。自ら壊してやったのだから。これで、みどりの気に病むことは全てその根拠を失ったはずだ。
「たかおちゃんよ、そんでまた聞くけど、オメエこれから」
「その前にたかおくん、グラスが空だけど次の飲み物はどうする?」
トラオさんの言葉を制し、レミさんが尋ねる。
何を飲もうか。スコッチがいいな。キャンベルタウン産のシングルモルト。甘く、切ない程香り高いモルトウイスキー。
「スプリング・バンクをお願いします。ストレートで」
レミさんは顎に手をやり何かを考えている様だった。
「分かったわ。あなたの気持ちがね」
「おお! 例のプロファイリングか! なんだよ、教えてくれよ」
「バーではね、野暮なことは聞かないものよ? トラちゃん」
レミさんはそういい、バックヤードの棚からスプリング・バンクを取り出して、ストレートグラスに注いでくれる。淀みない優雅な動き。グラスからかすかな潮の香りと華やかなブーケの香りが漂ってくる。
「私からあなたにひとつアドバイスをあげるわ。いい? たかおくん。あなたみどりちゃんに手紙を書きなさい。飾らない、素直な気持ちを、心を込めて」
「あん? 手紙だぁ? レミ、手紙はいいけどその送る先が分かんねぇから困って」
「そして、力強い言葉で伝えなきゃだめよ? 連絡して欲しいとか、会って話をしたいとかそんなんじゃだめ。命令するくらいでいいの。連絡しろ、会って話をするぞ。心が揺れている女の子にはね、そのくらいの言葉じゃないと届かないの」
「いや、だからよ、レミ。手紙を書いてそれをどこに届けるか、って話だろ。おまえはアホなのか?」
「アホはあなたよ、トラちゃん。いい? たかおくん。郵便転送サービスってものがあるの。引っ越し先にね、前の住所に来た郵便物を届けてくれるサービスなの。一年間の間ね。だって困るでしょ? 公的な郵便だったり年賀状だったり。余程の引きこもりでもない限り、引っ越したら殆どの人はこのサービスを利用するわ」
郵便転送サービス。なるほど、トラオさんじゃないけれど全く気がつかなかった。一方通行かも知れないけれど、みどりとの繋がりはまだ断たれていない。
「あと、それからね、あなた、あかねちゃんの墓参りに行って来なさい。どうせ行ってないでしょ? 生きている人はね、死んでしまった人に何も出来ないの。死んでしまった人も生きている人に何も出来ないわ。それはあなたも分かっている。分かっているからこそ、その後悔をね、自分を一番責める形で具現化してしまうの。あなたはあかねちゃんの真実を知ることは一生ないわ。それは当たり前のことなの。墓参りに行ってあなたの中のあかねちゃんとしっかり話をつけケジメを付けなさい。墓参りとか祈りとかそういう儀式はね、死者に何もしてやれない人間が考えた知恵なの。生きるために自分の気持ちを整理する。それでいいじゃない。そんなあなたも私だって、いつかはどうせ死んでしまうのだから。人が死ぬ。実は私たちが思っているほど特別なイベントじゃないの。だったらせめて生きている間はね、幸福を求めなさい。あなたが今後誰とも関わらないでいるつもりならそれでもいいわ。あなたが話してくれたあなたの態度でいなさい。でも違うでしょ? 少なくとも今のあなたは違うと感じてるのでしょ?」
レミさんの言葉が深く胸に刺さった。全くその通りだと思う。
「なんだ、レミ、おまえいい女だな。見直したぜ」
何よ今更、レミさんは照れくさそうにしている。
手紙か。僕は僕の知らない街でひとり暮らすみどりを想った。それから彼女の部屋。大量のCD、大量のファッション雑誌、それから数冊の文庫本の中にある、カミュの『シーシュポスの神話』。
結果の知れている無意味な労働の中に人生の不条理を暴いた、カミュはそういうのかも知れない。でも。僕はカミュに言い返す。
毎回同じ結果だったとしても、次は違う結果になるかも知れないと人は想像することが出来る。その希望さえあれば、過程が同じでも、人生は苦痛でも罰でも無くなるのではないか。
僕は必ずみどりを捕まえる。
その事を彼女がどう思うかは分からない。ただ、僕は求めていく。希望を。幸福を。
そしていつか彼女と再び出会った日、僕はきっとこう言うだろう。
「あ、生きてた」
生きてさえいれば、ひとはやり直せるのだ。
ドント・フォーゲット・トゥー・キャッチミー ロム猫 @poorpoo
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