『おかえり』の声が聞こえること

プル・メープル

第1話 おかえりは聞こえない

「ただいま」

政宗がそう呼びかけても「おかえり」という声は聞こえない。

両親は3年前に不慮の事故で亡くなった。

今、この家には高校二年生の政宗と、血の繋がらない、政宗より1つ上の姉の咲しか住んでいない。

明かりもつけないまま暗い廊下を進み、空っぽになった弁当箱と水筒をキッチンの机の上に置き、代わりに冷蔵庫からりんごジュースを取り出す。

暗くて静かなこの家、住んでいるだけで病んでしまいそうな、そんな雰囲気だが、咲のおかげで掃除は行き届いているし、電気もつかないわけじゃない。

政宗が単にこの暗さが好きなだけだ。


りんごジュース片手に学校の鞄を持ち上げ、また暗い廊下に出る。

この家は二階建てで、1階にキッチンやらお風呂やら和室やらがあり、2階は三部屋だけだ。

階段を上って左に2部屋、右に1部屋。

左側の手前が政宗の部屋、奥が咲の部屋だ。

右側の1部屋は元々父親の書斎だったが今は使われていない。

いつか父が帰ってきて、何気ない顔でまた仕事を始めるんじゃないか、そう思えるほど、あの部屋は3年前のままで残っている。


政宗は階段を上り、彼の部屋に入った。

少し乱暴に鞄を置き、制服も着替えないままベッドに寝転ぶ。

目を閉じてみれば、音がよく聞こえる。

それは鳥のさえずりでも、近所のおばさんの話し声でもない。

自分の心臓の鼓動、呼吸の音、そして、自分を取り巻く空気の流れる微かな音。

他には何も聞こえない。

こんなとき、1人なんだと感じてしまう。

自分の隣には誰もいないのだと、思ってしまう。

「……」

自然と涙が溢れてきた。

政宗はそれを拭うでもなく、流れるままに流した。

「なんでいなくなったんだよ…」

涙で歪んだ視界はだんだんと小さくなっていき、そのまま政宗は眠ってしまった。


「ん…」

目が覚めたのは空がオレンジ色に染まり始めた頃だった。

それとほぼ同時にガチャリという音が聞こえた。

咲が帰ってきたのだろう。

「ただいま」

政宗と同じように、誰もいない空間へ向けたような声だ。

政宗は「おかえり」と言おうとしたが、声が出なかった。

正確には緊張のような、変な感覚のせいで声が届かなかったのだ。

何かが部屋の前を通り過ぎていく気配がして、それは隣の部屋へと入っていった。


しばらくの間、何も無い時間が流れた。

しかし、その時間はドアをノックする音によって破られた。

「政宗、いる?」

咲の声だ。

「いるよ」

今度はちゃんと声が出た。

咲はおそるおそるという感じで部屋に入ってくる。

「なに?」

少しぶっきらぼうな言い方になってしまったが、咲は気にしていないようで、

「あのさ、政宗…」

咲は少し言いよどむような、躊躇ためらうような、そんな素振りを見せたがすぐにまた視線を政宗に戻す。

昌美まさみさんのこと、もう忘れたら……?」

昌美というのは政宗の母親の名前だ。

「は?」

政宗は一瞬、何を言われたのか分からなかった。

小さい頃、父親を事故で失い、女手一つで育ててくれた母親を、咲の父親と再婚し、咲の母親にもなった彼女を、父親と同じ、交通事故で亡くなった母親を、忘れろと…?

「何言ってるんだよ、忘れるなんて…」

「お父さんと昌美さんが亡くなってからずっと政宗は暗いまま…、いい加減立ち直りなよ!」

咲の強めの口調につい頭に血が登ってしまった政宗は気がつくと自分よりいくらか身長の低い咲の胸ぐらを掴んでいた。

「母さんを忘れるなんて、出来るわけないだろ!」

政宗は咲の体を壁に押し付ける。

背中を強く打った咲は咳き込んでしまっているが、それでも政宗はやめない。

「母さんは父さんが死んでからのたった一人の家族なんだぞ!」

「家族なら私が…」

「お前なんか家族じゃない!」

咲はその場に崩れ落ちた。

咲の涙が床を濡らす。

「私だって……私だってお父さんが居なくなってすっごく寂しいよ!悲しいよ!」

咲は涙でぐしゃぐしゃになった顔を必死に上げて、政宗を睨む。

「それでもね、私は政宗と違ってちゃんと踏ん張ってんの!今まで育ててもらった分がダメにならないように、この足で必死に立ってんの!」

咲は涙を流しながら、それでも確かに政宗の過ちを突いてくる。

「今の政宗を天国の昌美さんが見たらどう思う?『私のせいで政宗がダメになった』って、そう思うよ?」

核心を突かれたと思った。

押されてもいないのに体が後ろによろけた。

「それでも…それでも俺は……母さんを忘れるなんて出来ない!」

「この、マザコン男!男のくせにへなへないつまでも引きずって、こっちの苦労も考えなさいよ!」

引き始めていた怒りのボルテージがまた上がっていくのを感じた。

「うるせぇ…もうお前の顔なんて見たくない」

そう言って政宗は咲から目線をはずし、部屋のドアを乱暴に開けて出ていった。

咲はショックのせいでしばらく思考停止になったあと、急いで部屋を飛び出したが、政宗はちょうど玄関のドアを開こうとする所だった。

「ま、政宗!」

「……」

政宗の背中はやはり寂しそうで、一瞬ためらったようにも見えたが、何も言わずに出ていってしまった。

ドアの閉まる重たい音が家中に響き渡った。


咲は2、3分してからやっと震える足を家の外に運んだ。

「追いかけなきゃ…」

そう呟いて玄関から外へ出る。

政宗がどこに行ったのかは分からない。

この3年間、ほとんど話したこともないし、どういうところに行きそうなのかも分からない。

でも、なぜが直感が駅前だと言っていた。

出どころのわからない自信だったが、今の咲を動かすには十分な理由だった。


咲は走った。

髪が乱れることも気にせず、ひたすらに走った。

それでも駅までは遠く、15分ほどかかってしまった。

肩で息をしながら、なんとか顔を上げて周りを見渡す。

「いない…」

やはりいないか、と諦めた時だった。

プゥゥゥゥゥ!と甲高い音が駅前の交差点に響く。

クラクションだ。

音の聞こえた方に視線をやると、真っ白な車が赤信号を無視して突っ込んできていた。

その進行方向には……、

「政宗!?」

政宗は俯きながら交差点を渡っていた。

このクラクションに気づいていないのだろうか……。

プゥゥゥゥゥ!

2度目のクラクションには気づいたようで政宗は慌てて体を……。

だが、気づいた時にはもう遅かったのだ。

バンッとも、ドスッとも言えない鈍い音が交差点に響いた。

それと同時に政宗の体は人だとは思えない方向に曲がり、赤い液体を吹きだしながら5mほど飛んだ。

真っ白だった車のフロントが真っ赤に染っていた……。


「まさむねぇぇぇぇ!!!!」

咲は発狂に近いような声で政宗の名前を呼びながら駆け寄る。

「政宗…?ねぇ、政宗?」

血まみれの体を抱き上げて呼びかけてみても返事はない。

返事がないのはいつもと変わらないはずなのに、それでも涙が出るほど悲しかった。

どうして今日に限って政宗を叱ったのだろう。

叱った……?

いや、八つ当たりの間違いなんじゃないか。

自分は泣きたいのを我慢して、必死に何も無かったかのように学校でも振舞って、努力しているのに、それをしようとしない政宗に自分のやり方を押し付けていただけなんじゃないだろうか……。


『どうして素直になれなかったんだろうか』


政宗は悟った、死というものを。

痛みは一瞬だった。

すぐに意識が途切れて痛みも感じなくなった。

でも、最後に聞き覚えのある声が聞こえた気がした。

(姉さん…ごめん……)

体は動かないのに、心は泣いていた。

気がつくと政宗は自分の死体と、それを抱き上げる咲の姿を上から見下ろしていた。

(姉さん…)

自分を抱きながら涙を流す義姉に申し訳ない気持ちが溢れてきた。

徐々に体が昇っていくのを感じる。

死に際だからだろうか、色んな未練が溢れてくる。

どうして優しくなれなかったのだろう。

どうして強くなれなかったのだろう。

どうして、どうして……、


『どうして素直になれなかったんだろう』


体が消える瞬間、見下ろしてみると、咲が必死に政宗に心肺蘇生と人工呼吸を繰り返しているのが見えた。

(そんな状態で心肺蘇生しても、意味ないのに……)

それでも政宗は自分が姉に生きてほしいと思われているというのが、少し嬉しいと思いながら、彼は消えた。

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