明日への黒板

宇部 松清

夏の青、春の桜

「俺、お前のことが好きだ」


 言ってやった、と思った。


 3月半ばである。

 卒業式が終わった昼下がりの教室である。

 

 目の前の彼女――春子はくりくりとしたその瞳をまんまるに見開いている。この1年世話になった黒板を背にして。

 相当驚いたのだろう。うん、わかる。何なら俺も驚いている。


 もう何日も前から考えていた台詞である。

 脳内シミュレーションを何度も繰り返し、3日前から身体も作ってきた。いや、身体を作るっていうのは、少々言い過ぎかもしれない。ただ単に、喉を万全な状態にするために自室には加湿器を2台設置し、辛いものを控え、おやつをすべて喉飴にしたというだけだ。高校生が出来る現実的な『身体作り』なんてせいぜいこの程度だろう。


 しかし、その甲斐あって、今日の俺の声は完璧だ。

 緊張による震えもなく、掠れていたりもしない。

 このためだけに今日も一日中喉飴を舐め、さっきの卒業式を耐えきったといっても過言ではない。


 自分でも「えっ、これマジで俺の声……?」と驚くほどの美声でもって、この3年間……いや厳密には2年と9カ月、温めに温めた思いのたけをぶつけたと、そういうわけなのである。


 あとは春子、君からの返事だ。君の番だ。


「その声どうしたの……? 何かキモいんだけど……」

「えっ……?」

「いつものちょっと掠れたハスキーボイスの方が好きだな、私」

「え? えぇ……?」


 何ということだ。

 確かに彼女は徳永英明が好きらしく「この掠れた感じの声が良いんだよね!」といつも言っていたじゃないか! なぜ歌の場合だけだと判断した、俺!


「ちょ、ちょっと待ってて。俺ちょっと屋上で叫んでくるからさ」

「えっ、何で? 怖っ」

「いや、ちょっと喉潰してこようかなって」

「止めなよ。喉ってそんな気軽に潰すもんじゃないでしょうよ」

「だって、俺は……」


 お前にとっておきの声で、とっておきの告白をしようと思って……!

 って、あぁもうしちゃったんだった。TAKE2! TAKE2ってことで!


「それにね、さっきのだけど……無理なんだ。ごめん」

「――へ? 無理? 何が?」

「さっきの、私が好きとかってやつ」

「え? ええ? な、何で?」

「何でって……」


 春子はそこで目を伏せた。


 長い睫毛だなぁ、と思う。

 下の瞼にうっすらと影が出来ているのが見えた。


「私ね、海外行くんだ」

「は、はぁああ?! かっ、海外ぃぃいい??!!」

「そ。アメリカ。親の仕事でね」

「ど、通りで受験勉強も就職活動もしてなかったわけだ……」


 俺はまた、てっきり俺に永久就職するものだとばかり……。


「もう明日の朝発つんだ。だから、夏男の気持ちに応えられない」

「……そっか」

「ごめん。準備とかあるし、私もう行くね」

「おっ、おう……」


 何ともあっさりと、春子は行ってしまった。

 ほんの少しでも俺の方を振り返るだとか、そんなこともなく。


 ただ、何となくでもいつもより声のトーンが沈んでいたように感じたのが救いだ。


 いま追い掛けたら、もしかして泣いてたりするのかな?

 そんな考えがよぎって、教室を飛び出しそうになる。


 馬鹿か俺は。


 それでもし本当に春子が泣いていたらどうするんだ。

 女の涙なんか暴いてどうするつもりだ。

 隠したいからさっさと去ったんじゃないのか。


「クソッ!」


 そう呟いて――、自分自身の小ささに腹を立て、思わず黒板に当たりそうになるのをぐっと堪える。その代わりに、と、自分の脇腹を殴った。


ってぇ! 畜生! 加減しろよ、馬鹿かよ俺は!」



 その夜、俺はこっそり学校に忍び込んだ。

 

 もうとにかく何だかもやもやして、仕方がなかったのだ。


 万全の準備で一世一代の決心で告白をしたにも拘らず、それが仇となり、

 『NO』は『NO』であるものの、それが果たして『海外に行く』からなのか、それともそもそも俺に好意がないからなのかもはっきりせず。


 いや、もし、俺のことが本当に好きだったのなら、多少いつもと声が違っていようが、海外という超遠距離交際になろうとも、OKしたはずなのだ。

 ということは、だ。


 俺は振られるべくして振られたのだ。


 なぁんだ、そうか。


 ……と納得出来る俺だったら、夜の学校になんて忍び込まないのである。


 真っ暗な教室で、黒板の前に立つ。

 白のチョークを持って、懐中電灯の灯りを頼りに、俺はとにかく書きなぐってやった。


 学生という身分の間は、とにかくこの黒板って野郎は忌々しいものである。

 授業中に名を呼ばれ、ここに立つというのは、つまり問題を解く、というシチュエーションなわけで。

 たいして成績が良いわけでもない俺みたいなのは、教師に名を呼ばれるなんて死刑宣告とあまり変わらなかったりするわけだ。


 だから、その黒板に自ら向かうなんて。

 ましてや、自らチョークを手に取るなんて。

 ましてや、ちょっと高揚しているだなんて。

 

 黒板を前にして、楽しいだとか、ドキドキするなんていうのはぴかぴかの小学一年生が担任の目を盗んで落書きをする時のもので、義務教育+3年間嫌になるほど対峙してきた自分にはまず有り得ないのである。


 無我夢中でチョークを走らせた。

 お世辞にもきれいとはいえない俺の癖字。

 もちろん名前なんて書くわけもないのだが、見る人が見ればわかるだろう。


「こんなもんかな」


 書いたのは好きな歌手の歌詞や、好きな漫画の台詞を適当に。

 ラブソングやラブコメからの引用が多い――というか、ほぼ全部そうなのは、やはり失恋したてだからだろう。そうか、やはり俺はブロークンハートなのだ。


 そんなことを考えて、じわりと涙が出る。

 これは失恋の涙なんだろうか。

 それとも、もう春子に会えない寂しさの涙か。


「クソッ」


 やっぱりそう呟いて、俺は教室を出た。

 女々しいやつだ。わかってる。

 


――――――

――――

――


「馬・鹿・か! 俺はぁっ!!」


 そう思わず叫んでしまい、慌てて口を押さえた。

 誰もいない。

 いま、ここは。

 何せ早朝の教室なのである。

 けれども長居は無用だ。


 忘れ物をしたのだ。

 昨夜、ここに忍び込んだ時、教卓の上にマフラーを置いたままだったのである。

 

「夏男の私服、ダサくない?」


 と言われ続けた俺が唯一「まぁ、それならそこそこ似合うんじゃないかな?」と言ってもらえた――というか、春子が今年のバレンタインにプレゼントしてくれたマフラーなのである。

 これだけは、何があっても回収しなくてはならない。


 夏の空みたいな、きれいな青色の、チェックのマフラー。

 俺の宝物。


 義理チョコに添えられてはいたけれども、むしろこっちの方がメインなんじゃないのかって。でも、チョコの方は皆に配ってたのと同じヤツだったからさ。それじゃやっぱりそれって義理ってことじゃんか。


 でも、マフラーは俺にだけだった。

 そりゃ勘違いもする。


 俺のために選んでくれたんだなって。

 これを探す瞬間だけは、きっと俺のことだけ考えてくれたんだろうなって。


 マフラーはやはり教卓の上にあった。

 こんなにきちんと畳んだ記憶はないけど。


「しかし……」


 深夜のテンションというのはこんなにも恐ろしいものなのか。

 一晩明け、このを冷静に見つめてみると、だ。


 こんなに恥ずかしいことはない。


 うっわ、何これ。

 俺、何やっちゃってんの。

 消そ、消そ、とっとと。


 黒板消しを手に取って、端の方から消していく。

 こっ恥ずかしい文字の羅列がただの白い線に変わっていく。


 そこでふと手を止めた。


「……あれ?」


 こんなの、書いたっけ。


『いつもの声でもう一回言ってよ』


 こんな歌詞あったかな。

 漫画の台詞にはあったかもだけど……いや、あったか?


「いや……待て……」


 俺の字じゃない。

 これは……この字は……。


「春子のだ……」


 もう一回、いつもの声で……。

 いつもの……。


 春子は、ちょっと掠れた声が好きなのだ。


『いつものちょっと掠れたハスキーボイスの方が好きだな、私』


 もしかして、あれも返事だったんじゃないのか。

 ごめん、なんて言ってたけど。

 

 なんて都合の良い方に考えてしまう。


 でも。


「聞かせてやるさ、何度でも」


 窓の外を見る。

 どこかに向かう飛行機が、どこかに飛んで行く。アメリカってあっちの方なのか? わかんねぇや、方角とか。


 その飛行機が見えなくなる前に窓へと駆け寄り、勢いよく開け放って、そいつに向かって叫ぶ。


「春子ぉ――――――――っ!!! 好きだぁ――――――――っ!!!」


 聞こえたか、春子。

 これだけ叫んだんだ、声なんかとっくに掠れていつもの声に戻ってる。


 どうだ、春子。

 この声なら、どうだ。


 諦めねぇぞ、俺は。


 いつか絶対リクエスト通りに、もう一回言ってやる。この声で。


「待ってろよ、春子」





 ***


「……ただいま。お、どうした?」


 帰宅すると、8歳になる娘がニヤニヤと笑いながら出迎えてくれた。


「珍しいな、お出迎えしてくれるなんて」

「たまには良いでしょ。いまね、ちょうどお父さんの話してたの」

「は? 俺の?」


 誰と? と問い掛けながらネクタイを緩める。すると、やはりニヤニヤしている娘は奥の方をちらりと見やった。すると、打ち合わせでもしていたかのようなタイミングで、ドアからひょこりと顔だけが飛び出る。


「母さんと」

「まぁ、そうだろうな」


 だって家には娘と妻しかいないのだ。電話で友人と、という可能性もないわけではないが。


「お父さんって、なかなかやるじゃん」

「何だよ。何がだよ」

「お母さんのこと、追い掛けたんだって?」

「え? あ、あぁ――……」


 成る程。

 あの時の話をしていたのか。


「まぁな」

「それだけ好きだったんだ、お母さんのこと」

「じゃなかったら結婚なんてしないさ。好きだからしたんだ」

「何て言ったの? それだけはお母さん教えてくれないんだ」


 声のトーンを落としてそう言う。娘の肩越しに、ぶんぶんと首を横に振っている妻の顔が見えた。


「教えない」

「ちぇー、つまんないー」


 母親が教えてくれなかったとっておきの秘密を聞き出すことに失敗した娘は不満そうである。どうやらそれを聞き出したいがためのお出迎えだったらしく、それならばもう用はないとばかりに踵を返してリビングへと行ってしまった。


 その入れ替わりに、妻が向かってくる。少々決まりの悪そうな顔をして。


「別に恥ずかしいとかじゃないのよ。あなたが恥ずかしいかなって思って」

「いや、わかってる。絶対茶化してくるだろうし」

「まぁ、真夏なのに桜色のマフラー片手にやって来て大声で『好きだー』ですもんね。それも、道のど真ん中でよ?」

「いや、インパクトあるかなって」

「インパクトしかなかったわよ」


 ばっさりとそう切り捨てつつも、その頬は緩んでいる。


 知ってるんだ、俺は。


「やっぱり夏男のセンスはダサい」


 なんて言いながらも、そのマフラーをこっそり使ってくれてることを。


 俺がいまだにあの時のマフラーを大事に使ってるのを、


「ボロボロじゃない。みっともないから捨てなさいよ」


 なんて言いながらも嬉しく思ってることを。


「でもまぁ、約束は果たした」

「何が」

「いつもの声でもう一回言って、って黒板に書いたろ」

「ふふふ、バレてたのね。だからOKしたのよ。私は夏男のその声が好きなんだから」

「あの時もこの声だったらOKしてたのか?」

「さぁ? どうかしら。女心って複雑なのよね」


 そう言って、けらけらと笑う。



 昔から、この掠れ気味の声が嫌いだった。

 聞き取りづらい、なんて馬鹿にされたこともある。


 けれどそんな俺に、


「夏男の声は良いね。夏男がそこにいるってすぐわかる」


 と微笑みかけてくれたのは春子だった。

 俺は、その笑顔にやられたんだ。


 馬鹿だなぁ。

 卒業式のあの日も、この声で勝負すれば良かったのに。


 いや、ちょっと回り道をしたからこそのいまなのかもしれない。


 と、やはり俺に向けて微笑んでくれる春子を見て、

 年齢は重ねたけれど、あの時と変わらないその笑顔を見て、そう思った。


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