序章 魔法卿城の執事

 ガッシャ――ン!

 爆ぜるような、ガラスの割れる音。

 それを聞いた瞬間に、少女は走り出していた。

 今日初めて来た城だ。構造など知らない。ガラスが割れた場所で何が起こっているのかも。

 それでも、音は上からだったという体感だけを頼りに、暗い石造りの階段を駆け上がる。まだ夜の空気は痛いほど冷たい。その温度が、逸る気持ちを引き締めた。スカートの裾が冷たい空気をはらんで靡く。一歩上がるたびに、年の割に控えめな胸の上で、母の形見のペンダントが揺れた。

 息を切らして最上階へと駆け上がると、そこはいくつものドアが左右に並んだ、長い廊下だった。広くはないが奥行きの深い視界、そこでは二人の男が剣を持ち対峙していた。

「戦況は?」

 どちらが敵かもわからないのに、そう口に出していた。

 奥にいる男は幅広で反りのある長刀を構え、目元を布で覆い隠している。ガラスを割って侵入した賊はこの男だろう。黒ずくめだが華やかな型の衣装で、癖のある金茶の髪は両サイドを編み込んでから束ねている。目元をおおっていても、笑んだ口元や男性的なかっきりとした鼻筋から、顔立ちの特徴は取れてしまう。単に派手好きなのだろうか、特徴を隠すための装束しょうぞくというより、芝居がかった衣装のようだった。

 手前にいるのは、レイピアを構え、奥にいる侵入者を油断なく見据えた、プラチナブロンドのまだ年若い青年だった。奥に顔を向けた彼の年齢などわからないはずなのに、そう直感していた。相手に対して体を横に向ける構えは練達を感じさせる美しいものだった。それでも、この人は中背で細身の大人では決してない。これからまだ四肢を伸ばし、さらに成長するもの特有の若さを体から発している。

 首の後ろがチリチリするような緊張感の中では、それはいっそうはっきりと見て取れた。

 駆けつける必要はなかったのかもしれない。

 このひとは強い。

 武術に明るいわけではない少女でさえそう思う程、背を向けた青年の体からは、いっそ傲慢に見えるほどの余裕が感じられた。

「侵入者一名、窓ガラス以外に被害は無し」

 一瞬だけこちらを振り返り、青年が告げる。若い張りのある声だった。ちらりと見えた顔があまりに美しく、束の間息を呑む。十六、七歳だろうか、頬のラインは男性らしさがあるが、長いまつげに縁どられた目に、細く通った鼻筋という繊細な作りの顔だちで、形のいい目の中で光る緑色の瞳が印象的だった。王子様めいた外見だが、ツンとした眉やまっすぐな口元が、ちょっと生意気そうに見える。

「ずいぶんかわいい加勢だな?」

 侵入者もこちらを見て、からかうように言う。その言葉には、微かに異国の癖があった。

「そんな華奢な体でどうする気だ? 色仕掛けなら大歓迎だけどな。黒髪の美人なら特に」

 軽い口調で、そう続けてきた。服装、会話から感じる気質、話し方の癖からして、南方の国育ちの様に感じるが、侵入者の見た目からはどこの国の人間とも言い切れない。そのことに少女はどこか不安を感じた。

 そして、青年が手ごわい相手であることはわかっているはずなのに、侵入者には逼迫した空気が無い。よほど腕に自信があるのだろうか――いや、足をわずかに退いている。

 逃げる気だ。

 侵入者はもう目的を果たすつもりはないらしい。

 二人が戦うつもりで対峙しているなら、むしろ決着は早いだろう。しかし侵入者は隙さえあれば奥に長く続く廊下か、侵入に使った窓から逃げ出すはずだ。だからこそ挑みかかることなく、時間を稼ぐように言葉を重ねている。青年の集中が切れるか、動揺を誘える瞬間を待っているのだ。

「この城に腕の立つ執事がいるとは聞いてたが、そんなの普通机仕事が達者ってことだと思うだろ? 物理的に強いって意味だとはね」

 からかうような言葉にも、青年は動じない。視線も剣先も、侵入者から逸れることはなかった。

「俺が剣しかできないような言い方だな」

 そう言って青年が剣を繰り出した。剣を剣で受ける、鋭い金属音が廊下に反響する。

 接した刃に押されて侵入者の足元がじりじりと下がった。

 だが、侵入者の方が上背があり、体格には恵まれている。先制はしたが、細身の青年は力の面では不利だろう。長く続けば押し戻されかねない。

 そしておそらく、青年は侵入者が逃げ出そうとしていることに気づいていない。

 自分に向かってくる相手の制圧より、逃げようとする相手を追いかけて捕縛する方が難しいはずだ。逃走の意図に気づいていれば、ここまで余裕でいられるはずがない。かといって、それを教えることで、青年の気を逸らすのは避けたかった。

 こんな時はどうしたらいい。母の形見のペンダントを固く握りしめる。

 退路を断ちたい。物理的にそうするのが無理なら、心理的な圧迫だけでも。

 防寒にと襟元に巻いていたスカーフを引き抜いた。廊下の飾り棚にあった卵形の置物を布の真ん中に置き、その両端を片手で握る。即席の投石器とうせききだ。味方にも当たりかねない状況で投石を使うのは下策だが、戦えるのだと思わせたい。そして、侵入者の意図を青年にも伝え、侵入者の注意をこちらに向ける言葉を発した。

「逃げようと思っても無駄」

 初めて、侵入者の口元から笑みが消える。

「帯剣した男に、女の子は投石? とんでもない城だな」

 逃げたとしても射程の長い投石が追ってくるという圧迫が、侵入者の形勢を悪い方へと傾けた。正直に言えば、侵入者に命中させる自信はない。このまま青年が競り勝ってくれれば――。

 その時、少女の真横のドアが、のん気な声と共に開けられた。

「また窓が割られちゃったけど、これを使えばすぐ直せるからね」

 鼻先にかけた小ぶりな眼鏡を自慢げに直し、手籠を掲げた身なりのいい長身の男性が出てきた。彼がにこにこしながらそう言うと、青年が悲痛な声を上げた。

「お願いですから部屋にいてください?」

 青年が気を取られた一瞬を逃さず、侵入者は剣に力を込め青年を押しとばす。青年は体勢を崩したが、それは一瞬のことで、すぐに踏み込んで剣を突き出す。侵入者は剣を振るいそれを薙ぎ払おうとしたが、青年が食らいつき、またつばぜり合いになった。体勢を崩した時点で、逃げられていてもおかしくなかった。彼がそれを阻むことができたのは大きい。

「ここは危険です! 部屋に戻ってください……!」

 しかし、今は背後の男性に明らかに気を取られている。そのためか先ほどより動きが悪い。この膠着した状態が続き、青年が消耗してしまえば、侵入者に勝機が出る。

 そんな状況を全く分かっていないような気楽さで、身なりのいい眼鏡の男性が手籠の中から陶製の球体を持ち上げた。

「四角い枠に反応して膜を張る仕組みにしたんだ。ガラスの修理は面倒だけど、これなら窓枠の所で卵みたいに割れば、一瞬で直せるんだよ」

 男性が言い終わらないうちに少女はその球体を一つひったくった。置物と入れ替えて投石器の弾にする。丸い方が命中させやすい。

 それに、ずっと狙いやすくなった。

 投石器を振って回転させ、狙いを定めてスカーフの片端から手を放す。

 遠心力で加速した陶製の球体は、侵入者を掠めもせず通り過ぎると、廊下の壁にあたって砕けた。

「外れたぜ、お嬢ちゃん」

 侵入者が薄く笑う。

 いいや、狙い通りだ。

 一瞬の静寂ののち、パン! という音と共に廊下にガラスの壁が出来上がる。退路が完全に塞がれたことを悟った侵入者の心の揺らぎは隙となり、青年が剣を跳ね上げた。細い刀身が、侵入者の首筋に突き付けられる。

 あの球体が、眼鏡をかけた男性の言った通りのものでよかった。そんな魔法のようなものがあるわけがないと一瞬疑ったが、この城ならば、魔法のようなものは、あって当然だった。

 本当に膜の様にガラスの壁を張ってくれた。これなら物理的に退路を塞げる上、奥側の壁のどこかに当たりさえすればいい。

 侵入者という小さな的よりずっと、狙いやすかった。

「降伏しろ」

 追い詰められた侵入者は、青年の言葉には答えず、俯いて肩を震わせていた。

「街の牢で、誰の依頼か、何が狙いか、洗いざらい吐いてもらうことになる」

 青年は油断無く剣を突きつけたままそう告げた。侵入者の肩の震えが大きくなる。喉がくつくつと鳴った。侵入者は、追い詰められた恐怖で震えていたのではなかった。

「あっはっはっはっは! いい! 良い品物だ。盗み甲斐がある!」

 侵入者は、喉を晒して笑い出した。

「今日は下見に来ただけだったんだけどな」

 そして、少女と目を合わせてほほ笑んだ。その視線に、何かがざわつく。

「大収穫だ。盗むべきものがこの目で見られた」

 こちらを見据えたままそう告げるその声には、最初の様な異国の癖など無く、全く抑揚の無い口調だった。

 この状況に全く動じていない様子の侵入者の態度に、青年は怪訝そうに眉を寄せる。

「何がおかしいのか知らないが、お前が魔法の道具を見るのはこれで最後だ。これからは牢屋の壁を見て暮らせ」

 侵入者はその言葉など全く気にせず、少女から視線を外さない。また話し始めたときには、異国めいた明るい口調に戻っていた。

「いい策だった。まさか追い詰められるとはな。美しい女は好きだ。賢い女はもっと。……あんたにはまた会いに来るよ」

 美しいなどと言われるような外見でないことは知っている。きっと話し続けることで、青年の気を逸らすのが狙いなのだろうが、青年の視線も剣先も、侵入者から外れることはなかった。

「また会う? 今さら逃げられるわけがないだろ。早く剣を捨てろ」

 青年は剣先を更に侵入者の首筋に近づける、それなのに、侵入者は余裕のある笑顔を見せた。

「追い詰めた気になってる所悪いが、俺は魔法持まほうもちでね。一瞬で遠くに移動できるんだよ」

 青年の顔に焦りが走る。侵入者はそっと一歩だけ退くと優雅な礼をした。

「俺の名はサルヴァトーレ。忘れるなよ。またすぐ会うことになるからな」

 青い炎が侵入者の足元から舐めるように這い上がり、彼の姿が掻き消えた。ふわっと、空気が動いた感触が頬を掠める。

「……瞬間移動の魔法使いじゃないか? 初めて見たよ! すごい、次はいつ来てくれるんだろうね!」

 眼鏡の男性は一人ではしゃいでいる。

 見たところみんな怪我もなく、物も盗られていない。

 しかし、逃げられてしまった。

「くそっ」

 青年は口惜しそうに顔を歪め、悪態をつく。少女も同じような気分だった。

 侵入者が派手な服装であることを、もう少し深く考えるべきだった。特徴を覚えられ、追っ手をかけられたとしても捕まらない自信があるからこそ、サルヴァトーレはあの服装で、迎え撃つ相手と会話までしていたのだ。

 サルヴァトーレがガラスを張る道具を狙っていたのなら、それを目の前で使って見せるべきでもなかった。

 青年が、気持ちを切り替えるように一つ息をつき、少女を見る。

「……助かった」

 どういたしまして、と言うつもりが、膝から崩れ落ちた。手が震えている。思っていたよりもずっと、気を張っていたらしい。

 眉をひそめた青年が、手を差し伸べてきた。その手をとって立ち上がる。

「助かりはしたが、今後余計な手出しは慎むように」

 助け起こしてくれた手とは対照的な、厳しい口調だった。

「名前は?」

 そういえば、この青年にも、眼鏡の男性にもまだ挨拶をしていなかったことに気づく。

 すると眼鏡の男性がにっこりと笑って、口をはさんできた。この人が、もしかしなくてもこの城の主、魔法卿なのだろう。

「人に名前を聞くときは、自分から名乗ろう、女性相手なら特に」

 青年は慇懃に頷いてから、不機嫌そうな声で名乗った。

「ジョン・アップルガース。この城の執事バトラー

 震えを抑えるように深呼吸をしてから、少女も名乗る。

「ジェーン・ブラウン。この城の新しいメイドです」

 ジョンと名乗った青年は、廊下の奥へと歩いて行くと、先ほど出来たガラスの壁の前で立ち止まる。

 剣の柄でガラスを打ち砕くと、こちらを振り返った。

「初仕事は、ガラスの掃除だ」

 粉々に散らばったガラスを眺め、ジェーンはため息をつく。

 母の形見のペンダントが、笑うようにさらりと揺れた。

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