第一章 思いがけない提案 前編
潮の匂いを濃く含んだ強い風が、髪や服の裾をなぶっては過ぎていく。風で波が砕けては散った。
胸の内がひどく冷たく、晒した傷口の様に痛むのは、きっと潮風のせいだ。
ジェーンは胸の痛みをそんな空想に置き換えて、桟橋の縁に腰かけたまま、足をぶらぶらさせていた。つま先が波を掠め、じわりと海水が染みこんでくる。
十五歳を過ぎた少女にしては幼い行動で、普段のジェーンを知っているものからすれば、いっそう奇異な行動だった。ジェーンは、太めの眉に切れ長の目元、薄い唇に、黒い髪と黒い瞳を持っていた。すっきりと均整のとれた顔だちだったが、人目を引く華やかさや愛くるしい可憐さというものとは縁遠く、地味と言っていい容貌だ。性格も、気が強いわけでも、目立つことを好むわけでもない。しかし、この町でジェーンを知らないものは少なかった。それは決して肯定的な意味ではなかったが。
海辺を歩く人の声が彼女の耳に届く。
波の音も風の音も、口さがない人の声を消してはくれない。
――あの子、男爵様の所のメイドでしょう?
――母親が死んだばかりだって言うのに、泣きもしないで。
――あの子、父親もどこの誰だかわからないって話じゃない。
――死んだ母親だって、よそ者の、
続くはずだった言葉は、ひときわ大きく跳ねた波が
ジェーンはやり過ごすようにそっとため息をつく。母は
それに、ジェーンは、自分の父が誰かよくわかっている。母と共に十五年間暮らした男爵家の主が、ジェーンの父親だ。
ウィリアム・ブラウン卿、海運業で名を馳せ、この港に泊まる多くの船を所有している。若くして財を築き、爵位を買って貴族にまで成り上がった。成り上がり、と言うとよそでは聞こえが悪いのだろうが、異国へと出て財を成すことを夢見る船乗りが多いこの町では、一船乗りから身を立てた男爵は尊敬と
男爵は二十三年前に妻を長男の出産で亡くしてからずっと、独り身を貫いていることになっている。その数年後から、母はあの家でメイドとして働きはじめ、彼との間にジェーンを授かったのだった。ジェーンは、男爵とメイドの間に出来た、婚外子だった。
故あってジェーンはブラウン姓を名乗っていたが、周囲に男爵との関係を疑われたことはない。ありふれた名字でもあるし、使用人が、名字で呼ばれる機会などなかった。
先入観無く見れば、ジェーンの眉や耳の形が男爵とよく似ていることに気づけるだろう。しかし、ジェーンと男爵とに、関わりがあると考える人間などいなかった。
ジェーンと、ジェーンの母がメイドだからではない。彼女の母が、異国人だったからだ。
まっすぐで絹糸のような黒髪や、ジェーンのような顔だちは、この国ではあまり出ない。それゆえに、派手な所の無い容姿にもかかわらず、ジェーンも母も、よく人目を引いた。この町の理想を体現したような男爵が、わざわざメイド、それも異国人に手を付けるなど、町の人の頭に浮かびさえしない。それが先入観というものだ。言い換えれば、偏見でもある。
それでも、父と、母親の違う兄にとっては母が異国人であることも、ジェーンがその子であることも関係ないと思っていた。そんなことに関係なく、愛してくれていると。父は避暑や旅行の際には、最低限の世話係だけという名目でジェーンと母を同行させ、そこではまるで普通の家族の様に過ごしてきた。屋敷に戻れば、父は海運業を営む男爵として仕事に勤しみ、母とジェーンはメイドとして過ごす。兄だけは、時折人目を盗んで、ジェーンと母に会いに来てくれた。
そのことに何の不満もなかった。母とはいつも一緒にいられたからだ。愛情も、厳しさも、知識も、自分の持つものは惜しみなくジェーンに与えてくれた。
その母がもういない。
多くの国からの船や人でにぎわうこの港町は豊かだが、人の出入りが激しい分、遠くの国から病が運ばれると、あっという間に広まるという欠点もあった。亡くなったのは母だけではない。それでも、どうしようもないほど悲しいことには変わりなかった。まるで自分がたった一人になってしまったような気がした。この町に異国人は多いが、彼らは船と共に自国へ帰っていく人たちだ。母の様な異国人、それも女性が一人で住み着くなど、珍しいことだった。母と、母に似て異国めいた顔だちを持つジェーンは、この場所で唯一、お互いの抱える辛さを共有できる理解者でもあったのだ。
父や兄に縋って泣くことができれば、良かったのかもしれない。残された家族で悲しみを分かち合えたら。
父にとって、母が異国人であることも、ジェーンがその子であることも、関係ないと思っていた。そんなことに関係なく、愛してくれていると、思っていたのだ。
昨夜、どうしても寂しさと悲しさに耐えられなかったジェーンは、生まれて初めて、父の私室を訪ねようとした。
しかし、ドアを開けることはかなわなかった。兄の声が廊下に響いたからだ。
「父さんはジェーンを追い出す気なのか?」
「もう決まったことだ」
「
ジェーンは自分でも不思議なほど冷静にそれを聞いていた。他人事の様に受け止めなければ、耐えられなかったのかもしれない。兄はジェーンに甘すぎるほど優しいが、父の意見を覆すことはできないだろう。
「母さんが亡くなったばかりだろ…? 僕らが、僕ら家族が、あの子を支えていかなきゃいけないんじゃないのか」
「
父の声は低く、ドア越しにはそれがどんな表情で語られたのかはわからない。だが、その言葉だけで、父がジェーンを追い出したがっていると知るには十分だった。父が愛したのは母だけで、その母が亡くなった今、ジェーンは父にとって必要ではないのかもしれない。急に沸き起こったその考えは、痛みを伴ってジェーンの胸に刺さった。
「父さん、ジェーンが自分の娘だって公表してくれ。そうすれば何の問題もないだろ? 僕の母親に先立たれた後に母さんと出会ったんだ。ジェーンは不義の子でも何でもない。後ろ暗いことなんて何一つないじゃないか」
「それだけは、出来ない」
父の返答は早く、声は硬かった。もうここから立ち去らなければと思うのに、ジェーンは動けなかった。
「どうして……、爵位のせい? まさか、ジェーンの母さんが異国人だからなのか?」
「お前は知らなくていいことだ」
「そんな下卑た理由でジェーンを捨てるのが父さんの本心なら、知りたくもない。……父さんだって、元は平民じゃないか。そんな世間体より、家族の方が大事だろ? 少なくとも僕はそうだ。世間体なんかより、ジェーンの方が大事だよ」
「これ以上話すことはない」
「父さん!」
「スチュアート……」
その後流れた、重く、長い沈黙に嫌な予感がした。
しかし、ジェーンが逃げ出すより先に、その言葉は耳に届いてしまった。
「あの子が家族だということは、忘れなさい」
胸が冷えた。父は忘れるつもりなのだ。ならば、自分もそうしなければならない。頭ではそう思いながらも、気持ちは追いつかない。ジェーンはふらふらと寝室に戻り、ドアにもたれた。
自分の胸にとん、と人差し指を当てる。母は大事なことを教える時は、いつもジェーンの胸に指を当ててから言って聞かせた。心に留めておけるように。母の言葉を必死で思い出す。そうしないと泣き崩れてしまいそうだった。
――覚えておいてね。知識は、生きる力になるの。あなたはそれをたくさん持ってるのよ。ねぇ、ジェーン、あなたはどう生きたい?
母はそう尋ねた後で、「どこに行っても生きていけるように、私に教えられることは全て教えてきたからね」と笑いかけた。母の笑顔は、芯の強さが表れていていつも美しかった。ジェーンは必死に父と兄の言葉を頭の外へ追いやる。
そして、母との大事な思い出を悼み、母のためだけに泣いてから、ひとり眠った。
昨夜のことを思い出して、鼻の奥がつんとした。ジェーンはそれをごまかすように、終わりかけた冬の冷たい空気を、胸いっぱいに吸い込む。
今日の仕事はもう済んでいるが、父のいる屋敷に戻って休むより、海を眺めていたかった。
――私、もう本当にひとりっきりなんだ。
家族とのつながりは、きっともう切れてしまったのだろう。周囲と容姿が異なる自分を受け入れてくれる土地など、あるのだろうか。
いっそ、船に乗って海の向こうに行けたらよかった。周囲の視線や噂話で息苦しいこの町から、この国から、出ていけたらよかったのに。むしろこの島国の奥へと赴こうとしている。
山間にあるという魔法卿の街は、悪い噂でいっぱいだ。魔法卿は領民に重い税を強い、領内に魔法使いを集めては実験に興じているという。魔法使いはめったにいないので会ったことはないが、魔法卿の街に行くと二度と戻ってこないという噂は誰もが知っていた。
少し高い波が、ジェーンの足首まで伸びあがり、彼女をさらおうとした。
全く動じずに、ジェーンは遠くを見つめている。この町では、ぼんやりした容貌と貶されることの多い少女だったが、強い視線はとても印象的だった。
しかし、それはまだ年若い少女が、自分の身に降りかかったことを受け入れられるほどの強さを持っているということではない。ジェーンは自分らしくない行動をとることによって、ひとりになってしまった辛さや不安から気を逸らしていた。
これから、どうしたらいいのだろう。
母を亡くし、父には捨てられた。これからはひとりきりで、恐ろしい街で生きていかなければならない。
――ねぇ、ジェーン、あなたはどう生きたい?
まだ、何一つわからなかった。しかし、どんな日々が待っているのだとしても、母のその問いからは、逃げずにいたい。その答えを探したかった。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるように、もういない母に告げるように、ジェーンは呟いた。
大丈夫。
母は、生きていくために必要なことは、全てジェーンに教えてくれた。
◆◆◆
その街は、思っていたのとはだいぶ違った。
だから、きっと薄暗く湿った街だと思っていたのだ。
だが実際の
――想像とは違ったけど、すごく、魔法使いの街らしく思えてきた……。
交易で栄えた町で育ったジェーンにとって、異国人も外国の工芸品も、乾燥させた珍しい薬草の束も、目新しいものではなかった。しかし、そっけなく鉱石を並べただけで、工具が一つも見当たらない店が「よろず修理」の看板を掲げ、麦の焼けるいい匂いを振りまいている店の看板には「パン屋 希望により氷作ります 一日一個限定」などと書いてある。鮮やかで、少し変わった街を歩いてみると、確かに普通の街ではなかった。なんだか、嘘みたいな街だ。あまりにひらけた空気を持ったこの街に、ジェーンは現実感が湧かなかった。
賑わってはいるが、全体にのんびりした雰囲気がある。その土地で実るものと、住む人の技術で営まれてきた街なのだろう。物や人の出入りで栄えた故郷とは、違って当然かもしれない。
柔らかく吹いてきた風に、ジェーンは指で少しだけ鼻の頭をこする。山間の空気は澄んでいてきれいで、これから訪れる春を予感させる、緑の匂いがした。冷たい海から吹く潮風と、交易品と一緒に箱詰めされた異国の空気が混じった町で育ったジェーンにとって、街並みの違いよりも匂いの違いの方が慣れなかった。
陰ってきた空を見て急がなければと思ったジェーンは、上ばかり見ていて足元に注意していなかった。子どもが走って来たのに気づかず、ぶつかって転んでしまう。
「いったぁ……」
子どもが立ち止まって、不安そうな顔でジェーンを見た。子どもは転ばなくて済んだようだ。ジェーンはほっとした。
「ごめんなさい」
自分が転んだような顔で、ぶつかった子が謝る。追いかけっこでもしていたのか、遅れてもう一人栗毛の男の子がやって来た。最初の子より少し年嵩で、六つか七つくらいに見えた。
「大丈夫。ごめんね、私もよく前を見てなかったから」
そう笑顔で返したジェーンの顔が強張った。転んだ時に取り落とした鞄から、荷物が散らばっている。かき集めて戻す。だが、見当たらないものがあった。
「……これ?」
そう言って、ぶつかった子が差し出してくれた筒状のものを、ジェーンは奪うように胸に抱えた。子どもの肩がびくりと震える。
「……あ、ごめんなさい。とても、とても大事な物だったの。驚かせてごめんね。拾ってくれて、ありがとう」
ぶつかった子どもはかすかに頷く。あとから来た栗毛の子が、ジェーンに話しかけてきた。
「おねえちゃん、ころんだでしょ。いたくない?」
ちょっと鋭い目つきの子だったが、性格が表れているのではなく、単に親譲りという感じだ。
「大丈夫、血も出てないから」
平気だとわかってもらうために、立ち上がってそう言ったのだが、栗毛の子どもは「ひざ?」と尋ねてジェーンのスカートの上から、転んだ時に打ちつけた膝に触れた。
「えっ」
その瞬間、触れられた膝がお湯にでも浸けられたように温かくなった。温められた分、触れられている間は痛みが強くなったが、その子が手を離すと、膝が軽くなり、痛みもごく軽くなっていた。
今のは、魔法だったのだろうか。
「ありがとう、楽になった」
驚きのまま、そう口にすると、栗毛の子はニコッと笑う。鋭い目つきが和らいで、とても愛らしい笑顔になった。
「おねえちゃん、じゃあね」
「ごめんなさい」
ぶつかった子は、肩を落としている。ジェーンはかがんで、ぶつかった子と目を合わせた。小さな手を握る。
「さっきは、取り上げるみたいにしてごめんね。私の、とっても大事なものを拾ってくれて、本当にありがとう」
感謝を込めて、頭を下げる。ジェーンの手から、その子の手はするりと抜け出した。さっきは、きっと怖がらせてしまった。謝罪を受けては貰えなかったのかもしれない。
顔を上げると、子どもたちは手を取ってまた走り出した。手を振って見送ると、二人とも、笑って手を振り返してくれる。そのことに、ジェーンは安堵した。
歩き出そうとして、自分の膝の軽さに驚く。転んだ痛みだけでなく、長旅の疲れまで抜けたようだ。やはり、あれは魔法で、あの子は魔法使いだったのだろうか。
魔法使いが「いる」ことを知らない人間はいないが、実際にどんな人たちで、何ができるかを知っている人は少ない。ジェーンも物語や噂話でしか魔法使いを知らなかった。長い修行の末に力を得た老人や老女で、杖を持っているのだとばかり思っていた。
冷たい風が吹き、開いた襟元を隠すように巻いていたスカーフを掻きよせる。どこからか日暮れを告げる鐘の音がした。城へと急がなければならないことを思い出し、ジェーンは足早に
開け放たれたままの城門をくぐる。まだ城は影すら見えなかった。
「遠い……」
ジェーンの声に不満な響きはない。生家の男爵邸は町の中に建ち、大きな門も無ければ、屋敷の周囲に広い土地も無い。初めてのことに、ただ素直に驚いていた。
城内は緑が多く、花や刈り込まれた木を眺めながら坂を上る。育てられた植物たちは、細やかにかけられた愛情や手間が見えてきれいだった。
上りきったところで、ジェーンの足が止まる。
美しく広がる庭園の向こうに、
「かわいい」
思わずこぼれたジェーンの評価にたがわない城だ。大きさは邸宅と言った方がしっくりくる。ピンクがかった茶色の壁に、日当たりのいい南を向いて沢山のガラス窓がとられている。木製の窓の格子の間隔がとても広い。大きなガラスを量産できる技術があるのだろう。四角い城に台形の屋根を乗せ、二か所からちょこんと煙突が突き出していた。玄関のドアの前に階段があり、少し高くなっている。その下の半地下が使用人の居住スペースらしい。嵌め殺しの格子窓とは言え、半地下にも窓がある。住環境は悪くなさそうだ。玄関ホールから見て三階、半地下を含めて四階建ての建物だった。
外は暗くなってきていた。早く挨拶しなければと、ジェーンは身なりを確かめ、前髪を整えた。蔦を模して作られたドアノッカーに触れる。その手が、中々動かせない。
異国人の出入りが多い故郷と、内陸部のこの街は違う。街中で奇異の目で見られることはなかったが、実際に顔を合わせた時、自分の容貌がどう思われるのか、不安になった。指先が冷たくなり、胸が苦しくなる。見た目はきれいな街とはいえ、悪名高い魔法卿の街、しかもその人が住む城で働くのだ。故郷より辛いことが待っているかもしれない。
不安を追い払うように、頭を振る。
母は、この国で職を得るまで、ジェーンよりよほど苦労をしたはずだ。紹介状を持って、新しい職場に入る自分は、ずっと恵まれている。ジェーンは、ドアをノックした。
しばらくして、ドアが開かれる。ジェーンを出迎えたのは、はちみつ色の髪に青い瞳をした、とてもきれいな女性だった。はっきりした目鼻立ちをしていて、大きな目はジェーンを見て優しく細められる。豊かな胸と腰が女性らしいのに、お腹や背中はすっきりと細い。髪を覆う頭巾に、エプロンからさげた鍵の束、おそらくこの人が、女性使用人を監督する、ハウスキーパーだ。紹介状を取り出し、宛名の相手であろう女性に手渡す。
ジェーンは緊張を隠して、膝を折り、お辞儀をした。
「初めまして、ミセス・ノーマン。明日からこちらで働かせていただきます。ジェーンと申します」
きれいな女性はニコッと笑う。既視感のある笑みだった。
「遠くから大変だったでしょう。私がハウスキーパーのパトリシアよ。ミセス・ノーマンなんて柄じゃないから、パティでいいわ。これからよろしくね、ジェーン」
あたたかい言葉にほっとすると同時に、驚いてもいた。ハウスキーパーは、女性使用人のトップで、未婚・既婚にかかわらずミセスと呼ばれるものだ。しかし、パティはそういったことを気にしないようだった。
パティに招かれ、城の中に入る。
「わぁ……」
ジェーンは思わず声を出した。燭台の明かりで黄色く照らし出されたホールは広く、天井が高い。奥には装飾的な手すりが美しい主階段があり、壁には代々の肖像画や領地の風景画、いくつもの鏡が掛けられていた。
「気に入ってくれた? 今日からここがあなたの仕事場で、あなたの暮らすお城よ」
「はい」
屋敷の広さだけで言えば、前に住んでいた男爵邸の方が広いのかもしれない。海運業という仕事柄、屋敷は多くの人が出入りする仕事場でもあり、家内を保つための使用人の数も多く、屋敷の中はいつも誰かがせわしなく立ち歩いていた。
ロウソクの明かりが揺れていなければ、まるで時間が止まっているように見える。それほど、ホールの中は静かだった。飾られた絵はこの家の長い歴史を感じさせる。土地に比して城がこぢんまりとしているのは、実務や社交に関わる部屋をできるだけ排し、家として心地よく過ごすために造られたからなのだろう。ドアノブや飾り棚には控えめな装飾がなされ、全体に暖かい色でまとめられている。玄関ホールを中心に、ほぼ左右対称の造りをしていた。
パティがホールの中に目を配る。
「左手前のドアは応接間、奥は図書室、右手前は食堂。奥は画廊よ。上の階の造りは仕事をしながら覚えればいいわ」
ほぼ、左右対称というのは、右手側の壁の中央に、細い廊下があるからだ。
「ついてきて」
その廊下を通ると、奥にもう一つのドアと、突き当たりに使用人階段があった。パティは階段を下りずに、すぐ隣のドアを開ける。
「階段を下りても使用人の寝室には行けるんだけど、中の説明もしたいから」
そう言ってパティが開けたドアは、厨房につながっていた。広い石造りで、地階から一階部分をつないで吹き抜けにしてある。広さの割に調理台は少なく、余計広く見えた。地下と繋がっているため、ドアを開けてすぐ階段があった。パティの後ろについて下ると、広い厨房で、赤毛の男性が椅子に腰かけてカブの皮を剥いているのが目に入った。
パティがジェーンを振り返る。
「コック長のニコルよ。ニコル! 新入りのジェーン」
「よろしくお願いします」
厨房の仕事は独立しているので、あまり関わることはないだろうが、ジェーンは丁寧に挨拶する。
男性が気だるげに顔を上げる。年は二十歳すぎくらいだろう。眼尻が垂れた、どこか皮肉めいた表情の青年だった。ニコルは感情の見えない目でしばらくジェーンを見た後、目を逸らし、
「後で、スープとパン作ってやるから、取りに来な」
と言うと、またカブの皮を剥き始めた。
「ありがとうございます」
そっけない口調だが優しい人のようだ。パティもニコルも、少し接しただけだが、ジェーンは好感を持った。二人とも、他の使用人をまとめる立場の上級使用人にしては年が若い。きっと優秀なのだろう。
厨房を抜け、半地下側へつながるドアから廊下に出る。
「今日は疲れてるでしょうし、中の説明は仕事の時にするわね」
パティはそう言って、半地下の各部屋の位置だけを説明してくれた。
洗濯場、食料保管庫、小さな酒蔵に食器保管室。あとは使用人食堂と、浴室、寝室がある。執事やハウスキーパーは上階に私室を与えられ、そこで寝起きをするが、普通の使用人たちの居室はだいたいが大部屋だ。生家では二人ずつの相部屋で、ずっと母と同じ部屋で暮らしていた。今思えば、父が使用人に二人部屋を用意していたのは、ジェーンが自分の娘であることを知られないためだったのかもしれない。
父のことを思い出し、暗い気持ちになったジェーンだが、案内された部屋に驚いて、パティを見る。
「いいんですか?」
ジェーンが通された部屋は、狭いが個室だった。パティは頷きを返す。
「部屋が余ってるの。あ、ちょっといい?」
パティはポケットからひもを出すと、手早くジェーンの体にあてて、寸法を測り始める。
「あら、すごい細いわね。うらやましい」
「え?」
どうして採寸されているのかわからないジェーンに、パティはまたニコッと笑いかけた。
「若いから、髪は見せた方が可愛いわね、きっと」
メイドは地味な格好にエプロンであればよいので、ジェーンは前の家で使っていた仕事着を持ってきていた。お仕着せのある家ももちろんある。この城はそうらしい。
「使用人にいい布支給してくれるから、作った方がお得よ。しばらくは辞めた子の寸法詰めたので我慢してちょうだい」
今日はゆっくり休んでね、と言って去りかけたパティが、大事なことを思い出したようにはっとして、ジェーンに念を押した。
「眠るときは、必ず鍵をかけてね。いい? 必ずよ」
「はい」
「このお城の男たちは紳士だけど、非常事態の時のために、部屋にいる時は必ず施錠して」
前の屋敷でもそういった規則はあったので、ジェーンは頷く。使用人の寝室を女性は屋根裏、男性は半地下と分けている屋敷も多いと聞く。
「じゃあ、明日からよろしくね。おやすみなさい、ジェーン」
「おやすみなさい」
パティが去った部屋を見渡す。格子窓にはカーテンが掛けられ、後は小さな机と椅子、ベッド、棚だけの質素な部屋だが、清潔で居心地も良かった。お仕着せがあるようだが、高い税が使用人の服にかわっているのなら、お古で十分だと言って新しい仕事着は遠慮しよう。
ジェーンは軽い鞄を下ろす。ほとんど、身一つでここへ来た。
ベッドに腰かけ、息をつく。街並みは明るく、お城はかわいく、同僚は優しそうだ。噂に聞いていたような街ではなさそうだった。
そして、他の使用人たちがどう思うかはわからないが、パティとニコルは何も触れて来なかった。気づかなかったのだろうか。ジェーンは父親にも似ている。ジェーンを知らない人が、その見た目だけを見たら、母が異国の人であることは案外気づかないものなのかもしれない。
「……そんなわけないか」
考えてもよくわからなかったが、少なくともこの街には、ジェーンを知る人はいない。故郷で何と呼ばれてきたかも、町を歩けば人の目に晒されてきたことも、遠くで言葉を交わしながら彼女を笑う人がいたことも、これからはどうあれ、今は誰も知らないのだ。
別な街に来たのだな、と実感した。
襟元から、長い鎖を引き出した。母の形見のペンダントを眺める。不透明な深緑の石でできた葉っぱのモチーフがついている。葉っぱの上には透明な朝露が乗っていて、とてもきれいだ。昔、母の首元にあったこれを見た商人が、安物だと言っていたが、祖母から母へと受け継がれてきたものなので、価値にかかわらず、ジェーンにとっては大切なものだった。
これからはひとりで生きていかなければいけない。母の形見は、思い出とともにこれからもジェーンを支えてくれるだろう。
体にぐっと力を入れる。ここで生きていく以外に道はないのだ。
鍵をかけていないことを思い出し、部屋のドアの前に立つ。木製のドアは鉄で補強され、随分頑丈な内鍵がついていた。使用人の寝室にしては、がっちりした造りだ。昔は貯蔵庫か何かだったのだろうか。ジェーンは、パティの言いつけ通り施錠しようと内鍵に触れる。そして荷解きを終えたら、食事を貰いに行こうと考えていた。
パティの言う「非常事態」が、普通の屋敷で懸念されるようないざこざではないと、ジェーンは知ることになる。この城で、普通のことが起きるわけはない。ここは魔法使いを多く集め、その研究に日夜勤しんでいる領主その人が住む、魔法卿城なのだ。
何かの予感に、内鍵に触れていた手がドアノブに移る。
ガッシャ――ン!
上階で、ガラスが砕ける音がした――。
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