26.彼女はワイルド*Berry
妊娠した妻の職場に頻繁に迎えに出向いていたら、その日は妻がいなかった。
彼女のボスが『気分転換だと言って一人で出て行った』と言う。
マジかよ、俺、鬱陶しい夫になっていたのか?
三好ジュニア社長と見積もりの見直しと確認と了承をする話し合いを終え、デザイナーの雅彦と今後のコンセプトを話し終え、英児はひとり溜め息をついて、妻の仕事場を出て行く。
「滝田さん」
事務所のドアを開けて外に出たところで、雅彦に呼び止められた。
英児が買ってきた差し入れのあずきバー片手に、彼も一緒に外に出てきた。
「おう、本多君。そうだ、矢野じいがたまには店に顔を見せろと言っていたよ」
「ほんとですか。この前、うまい蕎麦屋に連れて行ってくれたんですよ」
なんだかんだで、矢野じいもドンピシャのデザインをしてくれた雅彦を気に入って、かわいがっているようだった。
「今日も琴子を迎えにきちゃったんですか」
あずきバーを食べながら話しかけてくるから、ものすごく自然に言われた気がしてしまい、ズバリとつっこまれているはずなのに英児は嫌に感じなかった。
「そうなんだよ。なんか、心配でさ。年齢もあるし、やっとだったから」
なんで元カレにこんな話が出来るようになっちまったんだと、英児だって不思議でしようがない。英児じゃない。雅彦がするんと入ってくることもよくあると感じるこの頃。
またあずきバーを囓りながら、しかも明後日の方を気のないふりで雅彦は眺めている。ただ聞いただけかよ――と眉をひそめたくなるのだが、そこが雅彦らしさ。彼らしい切り出し方をしてくる。
「俺も、うちの猫が出産するときは、すげえパニックになったんでわかりますよ。猫と奥さんを一緒にしちゃいけないとわかってるけど」
「え! 雅彦君の猫、子供、産んだのかよ! いつの間に!!」
妻の元カレが妻と別れてから猫を飼い始めたのは知っていた。でも子猫を産ませたなんて、そんなつもりの飼い方をしていたことに英児は仰天する。
「最初は一匹だったんだけれど、俺が留守の間、相棒がいたほうがいいと思ってもう一匹飼い始めたんですよ。子供も産まれたら可愛いし賑やかだろうなんて、周りの『大変だよ。手術した方がいいよ』というアドバイスも聞かずに安易に考えていたら、それがもう大変」
「そりゃそうだ! 猫だったらいっぱい産んだだろ。どうしたんだよ、その子猫」
「それがジュニア社長を通じて何匹かはもらい手が見つかったんだけれど、あと二匹みつからない。その世話もあるし、母猫が腹がでかい時も気が気じゃないし、たまに昼休みに帰宅したり、それはもうこっちも神経すり減らすけれど、……嫌じゃないつーか。だからいまの滝田さんの落ち着かない気持ちわかるっていうか」
なんだよ、初めてしみじみわかってくれるヤツがいたよと英児は雅彦に抱きつきたくなった。が、男で妻の元カレだからやめておく。
「はあ、そうなんだよな。わかってくれて嬉しいよ」
「いえいえ。あずきバー、ご馳走様です」
ずれた受け答えも雅彦らしいが、これが彼の気遣いだとわかっている。
「また小龍包、食べにいこうぜ」
「そうっすね。あそこの美味いですよ。連れていってくれてありがとうございます」
「そうだ。猫、俺の知り合いにも飼っているヤツいっぱいいるからもらい手になってくれるか、あるいはもらい手を探してくれるか頼んでみるな」
「ほんとっすか。助かります。いや……、だんだん離れがたくなっているんですけどね。やっぱちっちゃいのめちゃくちゃ可愛いんですよ。でも、俺も責任が取れる限界があるんで、もっと大事に見てくれる飼い主、お願いします」
おう、任せろ――と、英児はさっそく知り合いに『子猫の引取先を探してる』と知り合い全員に情報を送信した。
「じゃあ、また連絡するな。雅彦君」
「お疲れっす、滝田社長」
あずきバーも食べ終わって、ちょっとした休憩を彼も終えたようだった。
二人で別れようとしたら、もう英児の携帯電話から通知音がいくつも。着信情報を確認すると早速『俺のとこ、もう一匹いいぞ』とか『どんな子か見せて。飼い主みつかるかもしれないから』などの返信があった。
「うわ、さすが滝田社長。すげえ人脈っすね。もっと早く相談すれば良かった」
「そうだよ。なんでも言ってくれよ、聞くだけでも聞くからさ。その子猫の画像があればこっち送信してくれるか」
「了解」
ついでだから帰る途中に、返信が来た元ヤン仲間に会いに行ってくると雅彦に告げて別れた。
さて、スカイラインに乗って一人で帰るか。
英児は車に乗り少し日暮れてきたバイパスを走り、港方面へ向かう。
その間も、雅彦がデザインした『ドラゴンベリー』のステッカーを貼ってくれている女性向け軽自動車を何台か見かける。中には店長の車だと気がついてくれたのか、挨拶のクラクションを鳴らしてくれる女性ドライバーもいた。
知り合いが海沿いの古い寺町にいるため海岸線へ出ようと、その道に入る前の丁路地、信号待ち。
こちらが赤信号で停止したから、向かいの道は青信号になりいままで信号待ちをしていた車が発進をする。何台か通り過ぎるとなにも通らなくなる。そんな町はずれ、田舎の海岸沿い。
あと少しでこちらも青になる。英児がギアを握りクラッチに足を置いたその時。
目の前を『ブウン!』となかなかいいエンジン音を響かせてギュンと通過したスポーツカー。
なんだよ、めっちゃいい音じゃねえかよ。くっそ、どこの車だよ――と一瞬だけ思ったが、その車が『銀色のフェアレディZ』! しかもリア(後部)にあの『ドラゴンベリー』のステッカー、そしてナンバーを見て英児はぎょっとする。
「マジかよ。いまの琴子だろ!」
すぐに追いかけたくなったが、まだ赤信号。向こうの信号が黄色から赤になるところ。まだ発進が出来ない。なのにとんでもなく伸びの良いエンジン音が遠く響いている。
「ああ、くっそ。いや、ちょっと待て、琴子! おまえ、腹の中に赤ん坊いるんだぞ!!」
もどかしい信号待ちから青信号になり、急く心はともかく慎重に左折させ、英児はフェアレディZの後を追う。だけれど、海岸線のカーブが多い道沿いにその影はなかった。
驚いた深い溜め息をついて、英児も海岸線をスカイラインで走っていく。
時々、彼女がもの凄く俺を驚かせる。おとなしめのお嬢さん育ちだと思ったら大間違い。彼女は『英児さんに出会ったからよ』と言うけれど、彼女はその奥底にめちゃくちゃ熱いもんを隠し持っている。それを知ったから、惚れたんじゃないのか俺。
スカイラインを磨こうと英児に叱られる覚悟で車に触り始めた琴子。車の免許もなかった彼女がいま海岸線をぶっ飛ばしてるだなんて。しかも英児が丁寧に手入れをしているエンジンで!
「俺のエンジンにやきもち妬かせるだなんて、なんて女房だよ」
度肝を抜かれたまま、もう追いつかないだろうと思って同じ道を走っていると、オレンジ色に凪いでいる海辺の路肩に、銀色のフェアレディZが駐車しているのを見つける。しかも運転席を降りてそこに琴子が立っていて、まるで待っているようにこちらを見ていた。
英児はまた驚いて、同じ路肩にスカイラインを駐車させる。急いで運転席のウィンドウを降ろすと、すぐに琴子が駆けつけてきた。
「やっぱり、英児さんだった!」
「え、おまえ。気がついていたのかよ」
「目の端にちょっと見えたのが黒い車でスカイラインだって気がついたの。きっと英児さんだと思って、停められる路肩があるところまで先に走って待っていたの」
あの一瞬で目の端に見えた車が、夫の愛車だとわかったらしい。それにも英児はびっくりして、もう力が抜けそうな思いで運転席を降りて外に出た。
降りると夕の潮風が英児の黒髪に吹いてくる。夏の始まりの爽やかな匂い。そこで琴子がにっこり微笑んでいる。
「もうさ、なんだよこんなすげえエンジン音の車どこの車だよ、チクショウ! と思ったら、俺がいじってる車だったり、運転しているのが身重の妻だったりして……よ……。てか、琴子、今朝、めちゃくちゃ気分悪そうに吐いていたじゃねえかよ。つわり大丈夫なのかよ」
「うん、時々つらいかな。だから、ジュニア社長にお願いしてドライブがてらのお遣いをさせてもらったの。いまここ走ってすっごくいい気分だったし……」
瀬戸内の青い海が鴇色に染まっていく輝きの中、彼女が笑う。
「英児さんにも会えて最高、英児さんがいじってるドラゴンベリーのゼットも最高よ」
ああ、もう。俺、駄目だな。この彼女に心臓を持ってかれてるな。
そう思った。彼女もドラゴンになったんだ。そうだよな、俺の妻だもんな。そうこなくっちゃ。
「わかるか、いまの俺の気持ち。俺の車に嫉妬して、嫁さんに度肝ぬかれて、目の前をイチゴをくわえた龍が走り去っていったんだぜ。しかも小さな命を乗っけて」
正真正銘、俺の女房になったんだと心底思えた。そんな彼女をそっと、ゼットとスカイラインの間で抱きしめた。
「でもさ、ほどほどにしてくれよ。大事な身体なんだからさ」
「でも。お腹の子にも、パパの車のエンジン音を聞かせてあげたくて」
おいおい。どんな胎教だよそれ――と、また英児は目を丸くする。
でもそれでこそ、車屋の女房。そして琴子は優しく笑っている。
「男の子は龍と星、女の子だったら龍と苺。うちの子はそうなるのよ」
夕暮れの海辺に、龍と星の印をつけた黒いスカイラインと、龍と苺の印を付けた銀色のフェアレディZ、そのそばで二人は寄り添い微笑みあった。
俺の女房はワイルド*Berry。銀色の車を乗り回すママさんになる日が見えてきた。
【 ワイルド*Berry 完 】
ワイルド*Berry《ワイルドで行こう 続編》 市來 茉莉 @marikadrug
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