25.迎えにいくんだよ(゚Д゚)クワッ
潮風を感じると、彼女のベールと海を思い出す。
それから数年が経った。
――気分が悪い。
車酔いなどしない彼女が、あと少しで到着という港町でそう言いだした。
路肩に車を停め、英児は彼女を助手席から外に連れ出す。この南部地方の田舎町のフェリー港がすぐそこで、潮の香もきつい。
路肩の防波堤で、琴子が手をついてはあはあと苦しそうだった。
その背をさすりながら、英児は彼女に言う。
「なあ。この前、ダム湖の集会でダム峠を野郎達と走った時も、お前、酔っていたじゃないかよ。疲れているんじゃないか」
顔色が悪い彼女が首を振る。
週末に、走り屋がなんとなく集まるダム湖。そこにたまに琴子を連れて、野郎共とドライブをすることもある。彼女がいるので安全運転ではあるが、峠道だったせいか琴子が酔ってしまい、野郎共を心配させてしまった。
『タキさん。無理しないで、奥さん連れて帰ったほうがいいよ』
『いままでも酔ったことないのに。疲れさせてんじゃないの~』
疲れさせているが、夫妻の夜の営みを暗に指しているからかいだと判っていたので、英児も『うるせえ』と言い返したりしていた。その時は琴子も笑っていたのに。
からかい通り、『夜の営みに、強引な男』は当たっている部分があるにはある。だが、ほかに疲れさせている心当たりは……ない、はず。
「琴子、ここまで来たけどさ。もう引き返して帰ろう」
「いや、今日……どうしても、行きたい」
なにを決めているのか。『結婚三年目』。これぐらい共に生きてきた夫妻になると、普段は控えめな女房がたまに我を張るとどうにも譲ってくれないことを旦那の英児はもうよく知っていた。
「わかった。大丈夫なら、行こう。平気だな」
「……平気」
胸をさすった琴子は自分から助手席に乗った。英児も運転席へ。
再び車を発進させつつも、英児はあまり気が乗らず、ハンドルを回しながらもう一度問う。
「いまからさ、カーブが多い山道なんだけどさ……」
「そこ通らないと、岬に行けないでしょう。走って。あと少しだもん、大丈夫」
やっぱり譲らないか。英児はため息をつきながら、その道を行く。
――岬に行きたい。
店が定休日のこの日、平日なのに、琴子が急に言いだした。しかも彼女が英児にそれを言いだした時には、きちんと三好ジュニア社長の許可を得て休暇まで取っていた。それほどの気持ち。
突然の計画なしの外出は、英児が言い出すことがあっても彼女から言い出すことは滅多にない。
天気も良く、英児も休暇とあって特に反対する気もなく、『いいな。途中、漁村で昼飯くって行こうぜ』となんとなく出かけた。
そうしたら。岬に到着する手前、岬灯台がある海沿いの山を上る手前で琴子が酔った。これで二度目。
もうすぐ灯台がある先端。そこまで上りつめても、琴子ははあはあと気分が悪そうだった。
やっと、時々彼女と訪れる灯台岬にたどり着く。
英児が心配する間もなく、琴子はすぐに外に飛び出し、またスカイラインのそばに座り込んで苦しそうにしている。
なんか、おかしいな。この女房がこうして我を張る時は、なにか大きな意味があるんだ。しゃがみこむ妻を見下ろし、英児はそう確信する。
また彼女の背をさすって、英児は尋ねる。
「琴子。どうして今日、岬に来たかったんだ」
仕事にも真面目な彼女が休暇を取ったのだから理由があるはず。もし体調が悪くて休暇を取ったなら、こうしてドライブに行こうなんて言い出すような性格じゃないのに……。
そこで彼女が『大丈夫』と笑顔で立ち上がった。それでもハンカチで口元を押さえながら、海が見渡せる崖手前まで歩いていく。
五月の風は爽やかで、平日の岬は静かだった。そして風とさざ波の優しい音色。かすかにひばりの唄声。灯台がある岬までの道は新緑に彩られている。見渡せるそこに立つと、黒髪をなびかせる琴子もやっと笑顔になる。
隣に寄り添って立つ英児の手を、彼女がそっと握りしめてくる。そして変わらぬ愛らしい眼差しで、あんなに青ざめていたのに、いつもの柔らかい笑みを見せてくれた。
「どうしても来たかったの。暫く、ここまでは来られないだろうから」
暫く、来られない? 英児は首をかしげる。
「なんでだよ。いつだっておまえが行きたいと言えば、夜中だってなんだって俺が連れてきてやるよ」
俺はおまえのロケット。おまえが迷っている間に抱きかかえて、どこだって俺が連れて行ってやる。本気だった。
だが琴子が笑顔で首を振り言った。
「私のお腹が大きくなっても?」
お腹が、大きくなる――?
暫く考え、琴子のぺたんこの腹を見下ろし、英児はそんな彼女を想像し、やっと気がつく。
「え! 琴子。おまえ、それって……」
「いま、三ヶ月だって。車に酔いやすいのも、つわりが始まったところだから。暫くは頻繁なドライブは禁止かな」
「だってよ、おまえ……。俺達、この前まで……さ……」
まだ飲み込めない英児を見て、琴子は致し方ない笑みを浮かべ海を遠く見つめる。
「そうね。できるかどうか調べようと決めたばかりだったものね」
結婚して二年。どんなに愛しあってもどうしても出来ない。なのに今度はあんなに子供を早く欲しい五人産むと急いでいた琴子のほうが、どっしり落ち着いてなにも言わなくなった。
それでも二人の間で『子供欲しいね』などは、徐々に話題にするのも気を遣うような空気になってきて、その話題になると会話が続かなくなったりした。そして丸二年、三年目のこの年。琴子の年齢もあり、英児からついに切り出す。
――『俺が原因なのかもしれない。琴子、はっきりさせに行こうと思うんだけど、どうだろうか』と投げかけた。
すると琴子も神妙な面持ちで、英児の目をしっかり見て『そうね』と快諾してくれる。
ダメならダメとはっきりさせて、ダメだったなら、これから二人だけで生きていく気持ちを固めよう――。
二人でそう決意したのは、先月のこと。そうしたら、なんだって? え、どうしてこういう流れに? 俺と琴子が結婚してから、もやもやしてきたあれはなんだったんだよ?
英児は改めて、琴子のお腹を見つめる。その視線に気がついた琴子が、小さな白い手でそこをそっと撫でた。
「次に来る時は、三人でね。ロケットに乗員一人増えます。よろしくね、パパ」
白い灯台から吹き込んでくる青い潮風に、琴子の黒髪が舞う。あの結婚式の時のような微笑みが、また。
そのまま英児は黙って、母親になる女房を抱きしめる。きつく、何度も強く抱き返した。彼女も優しく英児の背を抱いてくれる。
「マジかよ。なんだよ。今頃。もっと早く……」
「困っているパパを見て、慌てて来たみたいね」
当分来られないからと、琴子は英児の胸の中で、濃い潮風を胸いっぱいに吸い込んでいる。
「海はパパの匂いって、教えるつもり」
「は、なんだよ。それ。わけわかんねえ……」
つまり『原始的』。彼女がそう笑う。やっぱりわからない。でもそうなっているらしい。
ついに元ヤンの俺もオヤジになるみてえだよ。
「おまえ、馬鹿じゃねえのか。オヤジになるならドンと構えてろや!」
「うっせえな。行くっていったら行くんだよ。あんなに朝吐きながら仕事に行ったんだぜ!!」
そろそろ夕方。本日の仕事もいち段落、だが近頃の龍星轟はこの時間になると男共がそわそわしはじめる。
矢野じいがなにかを察して事務所に来た時には、英児はもう営業用の綺麗な龍星轟ジャケットを羽織って、スカイラインのキーを手にしていた。
「おまえ、琴子を待っているワンコ以上にうっとうしいぞ!! 迎えに行くと言っても琴子だってゼットの運転して帰ってくるんだろ。オマエの迎えなんて関係ねーじゃんか」
「運転したくなくなってるかもしれないだろ。気分が悪くて! 運転できればいいんだよ。俺がスカイラインであとをひっついて帰ってくるからよ」
「英児、おまえ正気か。めちゃくちゃウザイぞ、それ」
「どうでも言ってくれ。俺は迎えに行くったら迎えに行く!」
「だから、嫁が身重であっても、そういう落ち着きのない男はやめろっつてんだよ。オマエがそうして再々、嫁を迎えに行っていたら、向こうの事務所に気ぃ使わすだろうがっ。こっちの店のモンもテメエのようなガキオヤジを野放しかって笑われるわ!!!」
あんだとこのクソ親父。
ああん、てめえもクソ親父になるだろが、オラァ!
英児と矢野じいが額と額を付き合わせると、眼鏡の後輩が慌てて間に入ってくる。
「えっと。いま! 三好堂さんのジュニア社長に問い合わせたいことがあって連絡したんだよねー。だから、ちょーっとおでことおでこ離してみようかな!」
矢野じいは自分のデスクへ座る! タキさんも社長デスクに座って!!
三好堂デザイン事務所、妻の勤め先とは取引があるため、経理の武智がなんの連絡をしたか気になり、英児は大人しく自分のデスクに戻って座った。矢野じいも同じく。
でも本当は武智が間に入ってくれてお互いほっとしている。そうでもなければ引っ込みがつかない性格同士だから絶対に取っ組み合いになっただろうから。
止められた武智もほっとしていた。
「えっと。タキさん、これから定期的に限定のステッカーを配ることにしたんでしょ。その依頼をこの前ジュニア社長さんとまとめて契約成立したばかりだったよね」
「おおう。街中でドラゴンベリーのステッカーもだいぶ目につくようになったからよ。あれが貼りたくてうちに車検を頼む女性が増えただろ。でもよ、琴子も本多君も女の子は着せ替えが好きだから種類を増やしたほうがいいって言われてさ。あと男共も女の子のデザインがいいから、男版もバリエーション欲しいって常連がさ」
「その見積もりで訂正したい件があるから出来れば来てほしいって。あとデザインの打ち合わせ、本多さんがしたいってさ。すぐ行ってあげて」
「マジかよ! おう、行ってくるわ!」
これでオヤジも文句は言えねえだろ。ざまみろ。武智、よくやってくれた――と、英児は喜び勇んで立ち上がった。
「ああ、あほくさ。毎日、毎日、琴子が妊娠してから馬鹿みてえに心配してよ……」
やっと矢野じいも諦めたのか英児につっかかってこなくなった。
だけれど武智が眼鏡の奥の眼をにんまりとさせている。
「矢野じいもちょっと経験あるんでしょ。麗子さんにうっとうしいって言われた?」
「言われた。ちょーっと心配で構い過ぎたら『気分が悪いから放っておいて! 一人にしてーー!!』て三日ぐらい実家に帰られた」
それを背中で聞いた英児はぴたりと、すっ飛んでいこうとした足を止めた。
「そんなことあったのかよ。だからそんなにうるさいのかよ」
英児は矢野じいへと振り返る。矢野じいもバツが悪そうにして英児から顔を反らして目を合わせてくれない。
「テメエの、男の舞い上がる気持ちばっかり押しつけんなって言ってんだよ。琴子はなんでもオマエのすること許してくれるけれどよ、喜んでくれるけれどよ……」
ちょっと目が覚めた。
「えーっと、わかった……」
英児はしゅんとうつむいてしまう。
「おまえらめちゃくちゃ仲が良いからすぐに子供も出来ると思っていたらそうでもなかっただろ。俺たちも嬉しいわ。この店にちびっ子が駆け回る日が来ると思うと俺も待ち遠しいわ。英児、おまえもよ、ヤキモキした分、やっと出来て嬉しい気持ちわかるけどな、琴子の気分も大事にしてやれ。せっかく出来たのにストレスでダメになることも案外あるんだからな。いつも通りの生活、今まで通りの生活をさせてやれ。もちろん、こっそりちょっと気にかけて、ちょっとだけ上手に手助けしてやるんだよ」
俺たちもそうするから。超ベテランの親父にこう言われたら、英児も頷くしかなかった。
「でも仕事だろ。行ってこいや。ああ、そうだ。本多にもたまには来いて言っておけよ」
「わかった」
もう一度、龍星轟のジャケットの衿を直し、英児は落ち着いてスカイラインへを向かった。
爽やかな夏の始まり。夕になっても瀬戸内の空は青いまま。
「ちょっと冷たいもんでも買っていくか」
名水のあずきアイスバーと甘酒アイスバーがいいか、それともコーヒーか?
少し遠回りをして古い町の駅前にある名水アイスバーをお土産に買っていった。琴子も好きだから仕事中ちょっとの気分転換になってくれれば、本多君も甘いもの好きだからな、ジュニア社長は甘酒バー好きだったななんて思いながら。
三好堂印刷に到着し、ジュニア経営のデザイン事務所駐車場にスカイラインを駐車する。その時に気がついた。
「ゼットがない」
いつもはあるはずの妻の車がなかった。
訝しみながら妻の勤め先、デザイン事務所のドアを開ける。
「お邪魔します。滝田です。見積もりの件について来ました」
顔を覗かせると玄関と併設している社長事務室に三好社長だけがいた。
「おお、いらっしゃい」
いつものおおらかな笑顔でジュニアが迎えてくれる。
「これ、暑くなってきたのでお土産です」
「なんだよー、いつも悪いなあ」
「いやあ、彼女にもって意味で」
「あはは! わかってる、わかってる。じゃあ、奥さんに差し入れってことで遠慮なくいただくな。でも、いつも美味いもんありがとうな。デザイナーはデスクに向かいっぱなしで納期も迫ると外に出なくなるヤツも多いから、滝田君の差し入れ、皆、喜んでいるよ」
あ、俺の好きなやつ――。三好ジュニア社長も喜んで受け取ってくれた。
「あの、琴子は……」
いつもジュニア社長デスクのそばにいる彼女がいなかった。
毎日毎日迎えにきてしまう旦那に、さすがに今日は三好社長が苦笑いを見せた。
「クライアントとの打ち合わせに出て行ったわ」
「ひ、一人でですか!」
「俺も付き添うって言ったんだけれどな。一人で行きたい、気分転換だって言ってさ」
マジか。矢野じいが言ったとおりに、俺って鬱陶しい旦那になってる?
思わず英児は青ざめてしまった。
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