ワイルドで行こう《Born to Be Wild》②

 しかし高速に乗って直ぐ。英児はとあるサービスエリアに入ってしまう。

 すっかり日が落ちた駐車場。そこを降りた英児がそこから見える向こうを指さした。

「あそこ、走ってみようぜ」

 彼が指したそこには、瀬戸内海の上に雄大に光り輝く大橋。しまなみ海道一番目の吊り橋『来島海峡大橋』があった。

 橋の存在を示すための数々の光が吊り橋を縁取って煌めいている。その下には夜の蒼い瀬戸内海。漁り火を湛えた漁船が行き交い、大きなタンカーに、密かに輝くフェリーも航行している。

「琴子が運転するんだ」

 そして琴子も、徐々にその心構えを整え……。でも激しい緊張。

 そんな時。そっと隣に英児が寄り添ってくれた。

「怖いのか。琴子らしいな」

 夜空の下、煙草の匂いが染みついている龍星轟ジャケットの胸にそっと抱き寄せてくれた。

「車を運転するのだって……。いままでの私にはあり得ないって思っていた。ただ必要に迫られて免許を取っただけならば、フェアレディZのようなスポーツカーなんか乗りこなせないと、以前の私なら、きっとそう思っていた。でも……」

 そして琴子は優しく抱いてくれている夫の腕から、夜海に煌めく瀬戸内の海を見つめる。

「なのに。貴方と出会ったら、信じられないことがいっぱい起きている。そして私、それが出来るようになっている」

 まるで自分に言い聞かせているよう。そして英児は黙って、琴子の頭のそばで静かに頷き、そして黒髪を柔らかに撫でてくれている。

「出来るさ。俺が知らないうちに免許を取って、俺が知らないうちにフェアレディZを運転したいと公道に飛び出していったのは琴子自身だぞ」

 そうだった。あの時、夢中だった。車が好きでその車でどこまでも駆けていく彼のようになりたくて、すっかり車に魅せられて。それまでまったく見向きもしなかった車に、スポーツカーに、しかも車屋の彼がチューニングした走り屋仕様の車をいまは当たり前のように乗り回している。

 そして、この温かみ。心強さ。大きな胸にいつだって優しく抱きしめてくれて、そして大事に包んでくれる旦那さんがいる。

 一年前の雨模様の日々。ただ打ちひしがれていただけの自分は、一年経った今日、こんなに変わっている。

「私、行く」

 真上から見下ろしてくれている夫の眼を見て、琴子は決断する。

「よっしゃ。行こうぜ」

 琴子自ら左側の運転席に乗り込む。そして隣には夫の英児が乗る。

 共にシートベルトを締め、ドアを閉め、琴子はハンドルを握る。

 ヒールがあるミュールのままアクセルペダルを踏んだ。

 馬のエンブレムが埋め込まれているハンドルを握りしめ、琴子はついにエンジンをかける。

 アクセルをひと踏みすると、ブオンと夫がしたようにこの車が大きく吠えた。

「す、すごいっ」

 どの車からも感じたことがないエンジン音と振動。それを自分が吠えさせたのだと思うと、あれほど怖じ気づいていたのに瞬時に身体中の血が滾ったのがわかった。

 そうなるともう、嘘のように『いつも通り』の気持ちでアクセルを踏み、ハンドルを回していた。

 大橋が展望できるサービスエリアを出て、フェラーリが高速道路を走り出す。やがて、琴子の目の前に、光をまとった大きな吊り橋が現れる。

「琴子。俺が隣についているからよ、思いっきり行け」

 もうこの車の運転席に溶け込み、その魅力に囚われた琴子も迷わずに頷く。

 そして。助手席で見守ってくれている夫がいるから……。

 アクセルを踏み、見て覚えたF1マチックのパドルを指先で弾く。

 3速、4速――。

「まだだ、行け、琴子」

 正直、体感ではこのあたりのスピード感覚が今までの琴子の限界。

 だけど琴子は頷き、5速……。

 すごいエンジン音! まるで轟音、爆音! 

「行け、6速!」

 けたたましいエンジン音の中、声がかき消されないよう英児が叫んでいる。

 怖い、けど、すごい! 目の前は橋を走っているというより、海の上、空を飛んでいるような感覚! 海のきらめき、船の輝き、橋の光、そして星と月、夜空と夜海がひとつになって。

 車じゃない。やっぱりこれは琴子には『ロケット』。知らない世界を見せてくれる『空へ飛んでいくロケット』だった。

 そして琴子は初めて身体で知った。

 これが。龍星轟なのね。

 滑走路のような橋から夜空に飛んでいく、龍の気分。けたたましい轟音を響かせて、星に向かって飛んでいくよう……。

 彼が、その名を自分の生き甲斐の場所として名付けたことがよくわかった気がした。そしてこれは彼がどう生きたいか望んで名付けたのもの。

 またひとつ、琴子は知る。そして自分に出来たことがまたひとつ増える。この日、この時、夫が与えてくれたこの日の出来事はきっとずっと忘れない。瞳に映るなにもかも、耳に届いたなにもかも、そして身体中で感じた何もかも。

「すげえっ。俺は日産のGT-Rもブランド力さえあればフェラーリにだって負けてねえと思っているけどよ。悔しいけど、やっぱフェラーリもすげえや!」

 そして隣で少年のように無邪気になってしまう、私の龍さんも。いつだって一緒、いつまでも一緒。

 いくつもの島を橋で繋ぐしまなみ海道を走り続ける。来島海峡大橋で繋がっていた島々と大島を抜け、また伯方大島大橋を渡り伯方島に渡る。そして琴子はここでフェラーリから降りた。だけどそれは『一度、ここで休もう』という英児からの指示だった。

 もう真っ暗な瀬戸内の小さな島。橋が出来て人々がたくさん訪れるようになったと言っても、夜は閑散としている漁村だった。

 白いフェラーリを海辺に停め、海上に光る伯方島の大橋を二人で眺めて、醒めやらぬ興奮を宥めるように潮風の中ひと息。

「飯食ってねえよ、俺達」

 琴子もはたと思い出す。

「ほんとうよ。もう夜遅くなったし……、どうする」

 そうしたら、彼がけろっと言いだした。

「んじゃ。せっかくだから尾道まで行ってしまおうぜ。泊まるところ、どこかあるだろ」

 そういう無計画を、夫は時々平気で言い出すから琴子はびっくりとびあがってしまう。

「ほ、本気なの? でも英児さん、明日もお店があるじゃない」

「ああ。俺、明日一日分の有給を取ったから、一日、琴子とゆっくり出来るんだよ」

「えー、そうなの!」

 うんと夫が平然と頷く。

「俺達、仕事もあったから新婚旅行も行っていねえし。琴子の誕生日だからなんとかならねえかなあと思っていたんだよ。矢野じいも武智も兄貴達も一日ぐらいなんとかなるから行ってこいって言ってくれたんだけど。俺の仕事もどうなるかわからないから、確実に休めるまで琴子には期待させないよう黙っていたんだよ」

 そして、今日の夕方。なんとか無事に片づいたから、休めることになったとのこと。

「だから。どこも予約してねえんだよなあ……。うん。やっぱ、俺、馬鹿だな。車だけ捕まえてきて、おまえとゆっくり過ごせる美味い店とかホテルとか旅館ぐらい、ダメモトで予約して準備すべきだったよな。琴子だって一泊するなら、女の子として必要な準備だってあるよな」

 わりい、俺また自分勝手だった。と、あの英児がしゅんとしてうつむいてしまった。

 でも琴子は、そんな彼の大きな手をそっと握った。

「ううん。もう、なんにもいらない」

 だって。あなたと海の上、空まで飛んでしまったから。

「え、琴子。ど、どうしたんだよ」

 彼を見上げる琴子の顔を見て、英児が困惑している。その時、琴子の目は熱く潤んでしまっていたから。

「美味しい夕ご飯も、素敵なホテルも、今日はいらない。明日着る服もなんだっていい。お化粧だってしなくていい。つれていって。英児さんが私を連れて行こうと思ったところに、つれていって!」

 そのまま琴子は、もうすっかり慣れた夫の胸に飛び込み、きつく彼に抱きついていた。

「好き、大好き。愛してる。英児さん、愛してる」

「琴子……」

 素敵な瞬間をありがとう。忘れられないあなたとの時間をありがとう。知らない世界につれていってくれて、ありがとう。

 そしてあなたを、本当のあなたを知れて、嬉しかった。これから奥さんとして、私、あなたの生き方、一緒に見つめていく、走っていく、飛んでいくから。

 気持ちばかりが溢れてきて、声にならない。あんまりにも幸せで涙がでちゃって、伝えられない。

「なんだよ。今夜は俺がそういいたかったのに。いつも琴子に先を越されるな」

 ちょっと不満そうに口元を曲げた彼が微笑みながら、琴子の顔を覗き込む。

 両手で頬をつつんでくれた英児を、琴子も見上げる。

「俺、マジで琴子と一緒になって良かった。車だけでいいなんて言ってくれるの、オマエだけだよ」

「だって。とってもすごいロケットなんだもの、英児さんは」

 なんでロケットなんだよと、英児はまだ馴染めないらしい。

「本当に。いつもびっくりするの。今夜だってまさか白い馬を運転できるなんて思わなかった。でも私、海の上、空を飛んでいるみたいだった。つれていってくれたのは英児さんよ」

 きっとこれからも。こんなふうに。動物みたいに思い付いたことをすぐさま次々と実行していく彼に抱かれて、琴子は連れ去られていくのだろう。

 なにごとも野性的で、そして瞬発ロケットの旦那さん。いつまでも、いつまでも、そんな彼とそのままありのまま、思いついたままにすっとんでいってしまいたい。

「だったら。これからも覚悟しておけよ。俺、堪え性ねえから、欲しいと思ったら、やりたいと思ったら、すぐにかっ飛ばしてしまうから」

 そういって彼が真上からきつく、琴子の唇をふさいだ。そして強く、隙間無く、奥まで熱く愛してくれる。

 今日も、彼のキスは潮の香と一緒。海の匂い。野性的に琴子を奪っていく、愛してくれる。

 このロケットに乗って……。いつか、小さな乗員も一緒に乗せてあげたい。小さな乗員をたくさん乗せたい。琴子は愛されながらそう思い描いていた。

 

 静かな島の夜、橋のたもとの潮風。

 瀬戸内の夜の灯りに輝く白いフェラーリの運転席に、今度は英児が乗り込む。

「尾道か~。なんかあるかな。以前行った時のあそことか、今はどうかな」

 ひとまず、スマートフォンで彼があれこれ探し始める。しかしすぐには見つけられないようだった。

 でも。無計画でも平気な彼だけれど、いつもの頼もしい手際で、まるで計画していたかのように美味しい店を見つけ、今夜の宿を探し当てるだろう。

 きっと今夜も大丈夫。彼と安らかに抱き合って眠れるはず。いつも龍星轟でそうしているように。普段着のままでフェラーリに乗ってきた彼のように。

 いつもと同じ夜を彼は見つけてくれるだろう。

「とりあえず、行くか。なんとかなるだろ」

 そして。知らない街に、彼は本能だけで駆けていこうとする。

「うん。行きましょう」

 琴子も赤い助手席でシートベルトを締めて、発進準備完了。あとは風に乗るだけ。

 

 龍と星のワッペンを腕に掲げる彼が、馬のハンドルを握る。

 今夜のロケットにエンジンがかかる。

 アクセルを踏むと、勇ましいエンジンが吠える。

 マフラーに火花が飛び散ったら、黒いタイヤがアスファルトを強く蹴飛ばし、私たちのロケットが真っ直ぐに走り出す。

 

 潮風に乗って、夜空の向こう、どこへ行くか見えなくても貴方は駆けだす。

 海から生まれたような潮の匂いがする貴方の隣で。

 《Born to Be Wild》 ワイルドで行こう!




※次回から英児視点に戻ります。あと数話で完結予定※

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