ワイルドで行こう《Born to Be Wild》①

 やっぱり雨が降ったり、やんだり。

 勤め先の三好堂印刷近くにある小さなカフェ。そこがつきあい始めた時から、彼との待ち合わせ場所。大きなバイパス車道の通りにある。

 小さいけれど二階建てなので、テーブル数はまあまあある。静かで混まないので、待ち合わせをするにはゆったり過ごせるカフェだった。

『ちょっと俺のほうが時間かかる。外回りに出ているんだ。三十分ぐらい遅れる』

 仕事を終えて徒歩でこのカフェに着くころ。そんなメールが携帯に入った。

 この雨の中、スカイラインに乗って外回り。龍星轟に帰ってゼットに乗り換えて、そうして来てくれるのかしら?

 スカイラインのままなら、直行でここにこられたのかもしれない。ちょっと我が侭だったかなと、琴子はいつもの二階席へとカフェの階段をあがった。

 お馴染みの席で紅茶を飲みながら、雨に濡れるバイパスを窓から眺めた。ちょうど目の前が交差点。雨に濡れているけど、車道も車も、信号もどれもきらきら光っている。

 それに雨もあがったよう。暗かった空に、薄明るい夜空と月が見えてきた。

 それだけで『綺麗』と琴子の心もなごむ。

「スカイラインでもいいわよ――て、伝えておこうかな」

 携帯電話を片手に、琴子は『行ったり来たり大変だから、スカイラインでもいいですよ』とメッセージを送信してみた。

 だけど。数分経っても音沙汰ナシ。運転中なのかなと首を傾げた。

 読みかけの文庫本を久しぶりに開いて、ちょっと長い待ち時間。冷めた紅茶がなくなるころ、琴子はちょっと心配になって、雨上がりの交差点を眺める。

 着信がないかと通知も再度確認したけれど、なにもなし。

 その間に、周りの席の客が二組ほど入れ替わる。長く一人で座っているのは琴子だけ。

 背中合わせの席から煙草の煙が漂ってくる。夫が喫煙家だから、琴子もいつのまにかそんな席に一人でも座るようになってしまった。

 ついたての向こうは、残業あがりのサラリーマン二人連れ。ささやかに聞こえてくる会話、何を話しているかわからない。なのに突然その彼等が声高に言った。

「お、あれ。交差点の、見ろよ」

「うわ。ここらでは珍しいな」

 彼等の興奮気味な声に、琴子もそっと二階から見える交差点へと目を馳せた。

「本州から来たんじゃね。でもこんな雨の季節に、あんな真っ白な車体を汚すなんてもったいないな」

 そして琴子もその白い車を見て『本当だ。この地方では珍しい』と目を見張った。

 交差点で信号待ちをしているのは真っ白なイタリア車。フェラーリ! 微かに空かしている窓の隙間から、そのエンジン音まで届いてくる。

 信号が青に変わろうとしている。どんな発進をするのかしら、どんな人が運転しているのかしら。やっぱり琴子も羨望の眼差しを送ってしまう。

 信号が青になる。でも、その車がぐんとこのカフェの駐車場に入ってきた。

「この店にきちゃったな。ここフェラーリのオーナーがドライブ中に入るような店じゃないだろ」

 そんな男性達の声。そして琴子も。こんな道端の、ここらへんのサラリーマン相手の小さなカフェにどんな人がなにを思って? でも運転席から降りてくるだろう人も、とっても気になる。

 すぐ真下に停まった白いフェラーリの運転席ドアが開き、そこから出てきた男性を見て琴子は仰天する。

 龍のワッペンが着いた紺色の作業ジャケットを来た男、普段着そのままの旦那さんがフェラーリから降りてきた!

 しかも。二階を見上げた彼が『いつもの席にいる妻』を見つけて笑顔で手を振ってきた。

「……手、振ってるな」

「え、この店の誰かを迎えに来たってことか?」

 すぐそばの彼等があちこち見渡している気配がして、琴子はバッグ片手にさっと立ち上がる。

 階段を下りて直ぐそこにあるレジカウンターで精算も急いで外に出た。

「琴子!」

 白いイタリア車に、普段着の夫。

 なのにその馴染んでしまっているの! レーサー服を思わせるワッペンつきのジャケットのせいか、そんなに見劣りしていないところがすごい。

 車の仕事をしている男が、その車に携わっているというしっくりとしたオーラにまとまっている。

「え、英児さん。ど、どうしたの。この車」

 戸惑う琴子を見ても、英児はいつもの如く、こともなげに告げた。

「琴子の誕生日だから、盛大にこれででかけようと思ってさ」

 私のために!?

 今夜のためにどこかから持ってきたと判っても、それが自分のためだとはっきりと聞いて、また琴子はびっくり仰天する。

「こ、こ、こんな高級車……どこから」

 レンタル? まさか、まさか……あなたのことだから『思い切って買った!』とか言わないわよね!? 思い切りの良い彼なら、本当にやってしまいそうで。だから琴子はドキドキ、ヒヤヒヤ。

 だけど。彼はそこもおおらかに笑い飛ばした。

「あはは。買うわけねーだろ。さすがに何台も持っている俺でも、どんなに欲しくても買えねえって。それにフェラーリ買うなら、その前に日産のGT-Rを買うって」

 夫は国産車愛が強いことでも有名。特に日産車愛好者。常々、フェラーリよりもGTRと言っている。

 では、これ。どうやって? その真相をやっと教えてくれる。

「南雲君から借りてきたんだよ」

「あの、南雲さんが……」

 『南雲 誠』。その人の名が出たら、琴子もすとんと納得、落ち着いてしまう。

 その人は龍星轟の常連様でもあり、夫の英児とは車を通して仲の良いマニア仲間で走り仲間で『御曹司』。

 本社はこの地方にあるが、その業界では全国区規模での勢力を持つ大企業の御曹司だった。

 そこの次男坊である彼が、車好きで何台も持っている。当然、フェラーリも、そしてクラシックな国産車も、その他の海外車も、所有は様々。龍星轟でも所有台数はピカ一の顧客。地方でままならないところ、困ったことがあれば龍星轟を頼ってくれるとのこと。

 英児と婚約してから二度ほど龍星轟を訪ねてきて、琴子も既に顔見知り。琴子もその企業を知っていたので、それを聞いた時はとても緊張したもの。だけれど、夫の英児と南雲氏が、まるで同級生のように茶化しあい、どつきあい、気さくな関係を眺めてるうちに、琴子も御曹司ではなく『夫の親しい友人』として接することが出来るようになった。

 だからこその、『さっとフェラーリを貸してくれた』は納得。

 きっと……。琴子の誕生日だから、初めてフェラーリに乗せてやろうと思って借りてきてくれたのだろう? なんて思ったら大間違い。この夫、琴子が思うよりちょっと大きなことを考える人。その夫が唐突に言いだしたこと。

「琴子の誕生日だからさ。『嫁さんに運転させてあげたい』と言ったら、南雲君も喜んで貸してくれた。きっと奥さん、喜ぶよってさ!」

 私が、う ん て ん!?

 嫁さんを乗せてあげたい。じゃない! 嫁さんに運転させてあげたい。と来た!

 琴子は慌てて首を振った。

「む、無理っ。だって、私、まだ若葉マークだし! 左ハンドルのミッションなんて無理!」

 速攻拒否する妻に、何故か夫が『待ってました』とばかりにニヤリとした笑みを見せたので、琴子はその余裕はなんなのかと固まった。

「大丈夫。だから、F430を借りてきたんだから」

 そんな車種を言われても、琴子にとってはフェラーリは高嶺の花というイメージしか湧かない車。

「まあ、いいや。まず俺が運転をして見せてやるからよ。助手席に乗りな」

 即決の男は琴子のその後の反応など構わず、いつもの龍星轟ジャケット、デニムパンツスタイルでさっと運転席に乗り込んでしまう。

 赤い革張りのシート、そこにすっぽりと身体を沈め、既にシートベルトを締めているところ。

 琴子は助手席を見たって、ドキドキ。嘘、本物のフェラーリに、乗れちゃう!?

 真っ白でピカピカのフェラーリ、大きな車体が優雅に輝いている。だけれど、カフェの男性客が言ったとおり、足回りは雨のせいで泥を跳ね白い車体を汚していた。それでも! 素敵に見えてしまう車だと琴子はその神々しさに震える。いつもメディアで見かける飾り物みたいな手に届かない車なんかじゃない、泥がついているからこそ『公道を走ってきた本物のフェラーリ』という重厚さを見せてつけている。汚して走ってこそ、フェラーリのオーナー。そういう悠然としたムードに、琴子はもう気圧されっぱなしだった。

「どうしたんだよ。大丈夫だって」

 あんまり物怖じしているのがもどかしいのか、ついに夫があのキッとしたガンとばしの眼つきを見せる。それを見たら、琴子も四の五の言わず、とにかく彼を信じて乗り込むだけ。

 おずおずと赤いシートに身を沈める。それだけでなんだか違う! シートベルトをして整えると、やっと英児が運転席で微笑んでいる。

「誕生日、おめでとう。さあ、行こうぜ」

 琴子の頭を大きな手でくしゃっと撫でると、すぐにハンドルを握って前を見据えた。

 エンジンがブオンと吠える。本当に馬みたい? そして運転席にはいつも通りの旦那さん。琴子の誕生日だからと気取った格好もせず、本当にいつも通り。ただ車が車があまりにもすごすぎるっ。

「よっしゃ。行くぜ」

 彼がハンドルを回し、アクセルを踏んだ。ぐんっと軽やかに白い馬が走り出す。

 そして英児もいつもの車と変わらず、フェラーリだろうがなんだろうが、まるで『俺の車』とばかりに慣れたスムーズな運転。

 あっという間にバイパスに出る。真っ白なサラブレッドがエンジンを高らかに唸らせながらもスマートに滑らかに、でも低い姿勢でアスファルトを駆けていく感覚!

「違う、やっぱりゼットとは違う」

 ゼットも視線が低くスピードを出すほど地面を這っているような感覚になり、それを感じる時は重力がかかっているのか運転してる自分の身体も重く感じたりする。

 それがこのフェラーリでも同じ感覚におちいったが、これはこれでまた違う感触。エンジンの音も全然違う。

 こんな滅多に乗れないはずのイタリア車でも軽快に左シートで運転をする英児を見て、琴子はやっと気がついた。

「え、それなに?」

 そこで英児がニコリと笑った。丁度、信号が赤になり白いフェラーリが停車する。

「気がついたか」

 握っているハンドルのすぐ裏。そこを英児はハンドルと一緒に握って、カチカチと軽く鳴らした。

 ハンドルと二重になっているレバーが左右にひとつずつ。

「F1マチックっていうんだ。この手元のパドル操作でクラッチの操縦をマシンが自動でしてくれるんだよ」

 まだ車のことがわからない琴子は目を見張った。

「え、手で出来るの? それってオートマチックなの?」

「んー、厳密にはMTにはいるけど、セミオートマかな」

 それで琴子もやっと理解する。だから、『嫁さんも運転できる』とこれを借りてきてくれたのか、と

 その前に信号が青に変わる。その途端、また英児の目線がフロントへ、あのキッとした怖い眼に変わる。

「見てろ。そうしたら、琴子もこれを運転できるからよ」

 俺が今から見本を見せる。だからよく見ておけ。そんな彼の怖い眼、でも琴子も神妙にこっくり頷く。

「右がシフトアップ、左がシフトダウン。ニュートラルは両方共に握る。ただしブレーキを踏んでいないとギアがはいらない」

 彼の説明に、琴子も英児のハンドルを握る手を見て頷く。

 彼がアクセルを踏んで発進。夜空に沈んでいくバイパスが、オレンジ色の街灯に淡く浮かび上がっていく中、白いフェラーリが軽やかにまっすぐ走り出す。

「1速、」

 英児がハンドルを握ったまま、その下にある右のパドルをカチッと操作していく。

 本当に握るだけ――。琴子はまたドキドキしてくる。

「2速、3速……」

 ハンドルの下、指先だけで軽く切り替えられていく。

 微かにピリピリとした振動が伝わってくる。それは走行からくる振動ではない。まさに高らかに響くエンジン音からの振動。まるでサーキットでレースに参戦しているかのような錯覚に、初めてゾクッとした興奮を覚える。ぐんぐんエンジン音が軽く伸びていく感覚を琴子もしっかり体感する。だけれどそれはまた『初めての体験』。

「切り替えている繋ぎ目で振動とかショックがない。でも走りはすっごく軽やかに伸びて、エンジンの回転数の音で切り替わっているのがわかる……すごい」

「だろ。これなら左ハンドルでも運転できそうだろ。南雲君、今持っているフェラーリはこのF430と80年代のテスタロッサと二台なんだけど、テスタロッサはまだF1マチックは導入していなかったし、一年前に手放したF360モデナの時は完全ミッションだったし、このF430に買い換える時、今度はF1マチックにしたんだよ。彼も女性も運転できるフェラーリだからって、これを貸してくれたんだ」

 でも、それでもこんな大きな車体の高級車。本当に運転できるのだろうかとまだそんな気になれない。

「まあ、暫くは身体で感じてな。俺がいじりまわした『じゃじゃ馬ゼット』を乗りこなしているんだからよ。絶対に出来るって」

 それまで体感して、旦那の運転を見て目で覚えて、心の準備でもしておきな。そんな夫の言葉。ひとまず琴子もせっかくのフェラーリだからと言われたとおりにしてみた。

 やがてその白いサラブレッドは海辺の道へ、夫の運転で196号線の狭い夜の国道を走り抜け、今治へと走り抜けていた。

 そしてあるところで、高速のインターチェンジへと入ってしまいそのまま高速に乗ってしまう。

「どこへ行くつもりなの」

 この夫がなにかをやり出すと、なるべく予定通りに生きていこうとしている琴子が思い付かないことをするから、いつだって胸騒ぎ。信じているけど、何が起きるか予測できない。この人は今夜はどこにロケットで連れていってくれるの?

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