内側から崩壊する

沼坂浪介

徐州に冬が来た

 その男たちはいつも口論が絶えることはなかった。顔を合わせればいがみ合い、軍議となれば真反対の意見が飛び出した。

 いつしか末端の兵士たちですらその不仲は知るところとなり、もはや喧嘩が起きていても誰も驚きもしなくなった。

 それが高順と陳宮の知れ渡った関係である。

 しかしながら、当人たちにしてみるとどうやら少し認識は違うようであった。確かに仲は悪かったし、お互いのことは馬が合わないと思っていたが、決して頭から認めていないわけではなかった。

 人には向き不向きがあり、物事の解決法もいつも一つではないように、彼らの根本的な考え方が違うというだけでお互いに一理あるのはよく知っていた。

 二人は同じ主に仕える同僚でもある。主の呂布だけは二人がいがみ合いながらも認めあっているのは知っていた。知っているからこそ、彼らが手を組むことを怖がったのだ。

 それは彼らの不遇な運命の決め手となった。そしてその引き金を引いたのは、カク萌の乱であった。

 高順は育て上げてきた兵を取り上げられ、魏続の兵と入れ替えられた。陳宮は罪こそ問われなかったものの、ほぼ無力な存在にされてしまった。

 それがかれこれもうずいぶん前の話になる。




「これを、高将軍の元へ」

 陳宮は武官ではない。役人の出であるし、呂布の下においても文官、軍師でしかなかった。だから軍事的に無力になってもいつも机に向かって、大量の政治的な仕事と向き合っていた。

 陳宮の使いは城内の反対側、高順のいる一室へと向かう。普段は城下にそれぞれ邸を構えているが、今は非常事態で城内で過ごしていた。

 現状、所謂籠城である。

 敵は何万とも兵を従えた曹操。加えて劉備もいる。彼らはこの徐州を取り返しにきたのだ。

 冬の寒い時期のことで、その年は雪も多く降っていた。もうすぐ新年を迎える深い冬だ。

 そんな寒い廊下を歩いていき、使いは高順の部屋を見つけると、足早に入った。この部屋の主人は時間の無駄を嫌う。以前にきつく注意されたことがあった。

「高将軍、お届けものにございます」

 声をかけると、高順の従者が姿を現した。主人と同じく厳しい男である、

「……陳宮様からか」

 従者は使いを一瞥し、奥に入れと促した。部屋に通されるのかと思ったが、案内されたのは庭先だった。

 隊列を組むように並べられた弩弓の間を吟味するような目付きの男が歩いている。あれが高順である。

 高順という武将は武器などの手入れを決して欠かさない。頑固とも言えるほどに真面目で、部下たちの武器もそれは同じだった。おそらくは、今も弩弓の点検を行っているのだろう。

「高順様」

「なんだ」

 振り向いた高順は使いを見て、不機嫌そうに眉をひそめた。誰からの使いか、よくわかっているのだろう。

「何故城内なのにわざわざこういうことをする」

 批難する声色は、明らかに陳宮に向けたものだがこの場にいる使いにしか届いていない。苛立ちを隠そうともしないまま、高順は弩弓の側から使いの方に歩み寄ってきた。

「今から陳宮のところへ向かう。何か急用があればそちらに来い」

「わかりました」

 従者にそう告げると高順は部屋に戻った。使いは慌ててその背中を追った。

「こちらを受け取っていただかないと」

「いらん。直接聞く」

 苛立つ高順に使いの男が何か言えるはずもなく、彼はため息ひとつ落としてその後ろに続いた。




 陳宮は長机の上に地図を広げ、木を削って作った駒を置き、考え事をしていた。籠城を打開するには何か妙計でも考えねばならぬ。そしてその計を考えるのは紛れもなく自らの役目だと思っていた。

 城の端、広間からすら遠いその場所はある意味で牢屋のようなものだった。逃げることは叶わない。誰かが近付けば音でわかる。

「もう、戻ったのですか」

 使いに出してからそう時間は経っていないはずだった。返事を受け取ってくることを予想していた陳宮は首を傾げた。

 近付いてくる足音はよく聞いていれば鎧の金属がガチャガチャとぶつかる音だった。

「入るぞ」

「入ってから言わないでください」

 無作法に高順が入ってきた。

 陳宮はそれを信じたくなくて、ギロリと彼を睨んだ。もちろん高順は相手にもしなかったが、その後ろで使いに出した男が縮こまっている。

「何の用だ」

「その用を、書いたものをお渡しするように言ってあったはずですよ」

 目線をそらして陳宮は手元の地図に目を落とした。相手にすることではない、と決め込む。

「竹は限られてるんだ。いちいちあんなもの寄越されても困る」

 腕組みをした高順は、つかつかと歩いてきて陳宮の手元が影に入るように立った。わざと暗くされた手元に陳宮は苛立ちを覚えたようで、また高順を睨み付けた。

「わかりました。では次からは口伝するように部下につたえておきましょう」

「そんなことが許されると思っているのか?」

 呆れたように高順は言う。地図の上の駒を一つ手に取った。

「おまえが動けばいいだけの話だ。全員の話をまとめるのはどうせおまえになるんだろ?」

 ふん、と鼻で笑って高順は駒を掌の上で弄ぶ。陳宮は深く長く、わざとらしくため息を吐いた。

「自分の立場をよくお考えください。高将軍。お互いに親密に話さぬように、このような位置で部屋を与えられているのだということは努々、お忘れなく」

 高順から乱暴に駒を奪い取った陳宮は、また元にあった場所に駒を戻した。

「我らはすでに牙を抜かれているのです」

「ならば何故呂布様は俺たちを殺さない。何故、おまえは今こうして策を練っている」

 陳宮の動きがピタリと止まった。そして恨めしそうに高順を見上げる。

「抜かれた牙をまた研ぐためですよ」

 高順はやれやれと首を振った。もう一度駒を取り、真逆の方向に向けた。

「また、反逆でもするのか」

「滅多なことは言わないでもらえますかね」

 陳宮はついには立ち上がり、高順に詰め寄った。二人の顔は今にもぶつかりそうな程近い。ふるふると震える陳宮の頭からハラリと前髪が落ちた。

「なんなら、俺が軍師殿を城外へお連れしてもいいんだぞ?」

「あなたと一緒に? 馬鹿らしい。もっと面白い冗談を言ってもらえませんかね」

「あー……お取り込み中のところ申し訳ないね? ちょっといいかな?」

 緊迫した空気を破る声がした。二人が同時に振り返れば、それは宋憲であった。

 宋憲は二人と同じ呂布軍の武将で、魏続と侯成とよく並んでおり、高順たちに続く呂布軍の武将だった。

 彼は困った顔をして、二人を見て、それから頭をかいた。

「高順、私は君のことを信用してるから言うけど、あまり軍師殿を困らせないことだよ」

 宋憲は高順を諭し、それから陳宮にも軽く注意の言葉をかけた。

「私だからいいけどね。今の会話、侯成が聞いてたらすぐに呂布様に報告されてたよ、頼むからややこしいことはもうやめてくれないか」

「侯成なら俺と陳宮が手を組むと思うのか?」

 宋憲の言葉に高順が言い返す。宋憲は首を振り、高順をなだめる。

「彼は真面目なんだよ。君もわかっているだろう? お互いの部屋の位置からそれぐらい察してくれ」

「無駄ですよ、宋将軍。この人はわざわざ私に文句を言うために直接ここまで足を運ぶ人ですよ?」

 陳宮は横目で高順を一瞥しながらそう答えた。また宋憲が困ったような顔になる。

「高順……君は……」

「なんだ? 悪いか? 無駄を省こうとしただけだ」

 高順は悪びれることもない。むしろ堂々と答えるので、隣の陳宮の声色が荒くなる。

「余計なことをして、牙を抜かれるどころか骨すら折られるおつもりですか。陥陣営が聞いて呆れる」

「吠えるな。おまえは牙を抜かれるより舌を抜かれた方がよかったか?」

「二人ともやめてくれ。私はこんな喧嘩を見に来たのではない」

 宋憲が大きな声を出せば、やっと二人は口論をやめ、静かになった。

 二人が向き直ったのを確認すると、宋憲は手に握っていた小さな竹簡を二人に見せた。

「近いうちに宴なんだそうだ。それぞれの地方の祝い方を聞いて回っている。何かここに書いてあるもの以外であれば教えてほしい」

「はあ? 何をこの非常時に考えてるんですか?」

 陳宮が思わず声を荒げた。宋憲は想定内だったようで、「ほら、みろ」と呟いた。高順は何も言わなかったが、腕組みをして黙りを決め込んでいる。

「冬の極寒のときなんかに戦は止めるべきで、新年はきちんと祝うべき……なんだそうで。呂布様の決めたことなので」

 宋憲はそう言って肩をすくめて見せた。

 到底陳宮には納得できるものではない。それに使う費用は、食糧は、今まで陳宮が主導となり貯めてきたものだ。

「……呂布様は何をお考えなのですか」

「私が知りたい。でも呂布様がそう決めたなら従うしかないでしょう」

 三人してため息をついたが、宋憲のため息が一番深い。

「とにかく、二人はとくに意見はないってことでいいね?」

「意見は大有りですよ! 直接呂布様に申立しないと気が済まないです!」

 陳宮は息巻いて、今にも部屋すら飛び出しそうだ。高順らその頭を掌一つでつかんでしまった。

「今意見して機嫌を損ねて、一番必要なときに話を聞いてもらえなくなることを考えろ」

「しかし」

「そうだよ、軍師殿。あなたはその時を待った方がいい」

 宋憲までもが止めるので陳宮は腹立たしそうにはしながらも、肩を落としてその場に立ち尽くす。

 高順はそんな陳宮を横目に見て、宋憲に向き直った。

「それで? 宴を待ち遠しく思いながらこの籠城。耐えろということか?」

「恐らくはね。私は軍師殿や君のように素養があるわけじゃないから、呂布様の考えはわからないよ」

 宋憲は首を振り、竹簡をまたしまった。彼の目線が陳宮の部屋の窓をチラリと見ると、どんよりとした雲が空を覆っている。

 まるで自分たちの命運だ、と宋憲は考えてため息をついた。導いてくれる星も太陽も見えなくなってしまっている。

「それで、守備はどうなってるんです?」

 陳宮が聞いた。

「今は魏続と成廉殿と曹性が中心になっているはずだよ」

 宋憲はそれから付け足すように、話を続けた。

「張遼が狩りをして、侯成が酒を手配している。なんとも皮肉な話だけど」

「侯将軍が」

 思わず、といったように陳宮が声をあげた。高順も眉尻がかすかに歪んだ。

「呂布様になにか皮肉な意図はないんだと思うよ。そういうことを考える人ではないからね」

 宋憲は苦笑いを浮かべている。

「まあ、侯成はまた酒が飲めるならいいさ、って」

「そうか」

 一つ息をつくと、宋憲はさっと踵を返した。高順はその背中を目で追っていた。

「では、私はこれで」

 カツカツ、と足音をたてながら宋憲が離れていく。それを耳にしながら陳宮はため息をつき、また座った。

「まったく、頭の痛い」

 地図の上の駒を動かし始めた陳宮は動かしては戻しを繰り返し、また盛大なため息をついた。

「……いつまでいるんです?」

「おまえが俺に用があったんだろ」

 威圧的な声で高順は言い、また陳宮を苛立たせた。

「わかりましたよ。わかりました。用件は簡単です。軍備配分の件、陳羣殿がもう一度再確認願いたいとのこと、というものと、今晩時間はありますか、というものです」

 陳宮は早口でそれを言うと、用件はもうないから出ていけということを態度に出した。扉に向かって背を押される高順だったが、なにか考えるような素振りで立ち止まり、陳宮の方に振り返った。

 高順の方が力が強いので、陳宮がいくら押しても動かなく。

「今晩だな。問題ない」

「わかりました。伺いますから。とりあえず出ていってもらえますかね」

 陳宮が答えれば高順は「言われなくとも」と捨て台詞を吐き、出ていった。陳宮は肩で息をしながらその背が見えなくなるまで睨み付けていた。

「次は、確実に渡してくださいよ」

 衝立の向こうに控えている使いに陳宮は声をかける。苛立ちを隠さない声に、使いは縮こまって返事をするしかなかった。

 今日は災難続きだと、使いはため息をついたのだった。




 高順は陳宮の部屋から出て、そのまま陳羣を探していた。陳羣はまだ若いが有能な役人であり、政治家である。その手腕を陳宮が認めていることを高順は知っていた。

 陳羣という男は、もともとこの土地の役人ではなかったが、劉備の下にいたときのことを陳宮はどこからか聞き及んでいたようで、彼を見つけ出すと城内に入れたのだ。徐州は深刻な人材不足なのだと、陳宮は嘆いていた。

「陳羣殿、こちらか」

「ああ、高順殿」

 陳羣は執務をしていたのだろう。何やら大量の竹簡を仕分けしていた。

「陳宮が、探していたと」

「はい。探しておりました」

 いそいそと陳羣は一つの竹簡を出してきて、高順に見せた。軍備の配分について書いてある。

「高順殿の配下は七百人ですね?」

「ああ、確かに」

「では、何故軍備の方は千人分を?」

 丁寧に指指された先の文字は“千”という文字が踊っていた。

 高順はやれやれとため息をついた。

「陳宮から何も聞いてないのか?」

「私はこの仕事を任されたばかりですが、何か特別なことを聞いた記憶はありません」

 キッパリと陳羣は言った。生真面目な彼の性格のよくわかる話し方だ。

「確かに、気になっていたのです。過去のものを見ても、高順殿の分だけが兵の数と武具などに当てる軍備の数とが合わない」

 陳羣はそれが解せぬというようだ。

「陳宮殿と高順殿の間で何か取り決めでもあるのですか?」

 高順はなんとも面倒だというようにため息をついて、またすぐにいつもの無表情に戻った。

「取り決め、などという大それたものではない。効率の問題だ。金をかけるべきところに金をかけ、削るところを削る」

「わかるように話してください。判断は陳宮殿と話し合いますが、私も納得いく形でありたいものです」

 陳羣は怯むこともない。高順は言葉を選びながら、説明をすることにした。

「少ない人数でより多くの働きをするためにはそれ相応の訓練と、武具はじめとしたものが必要になる」

「つまり、千人分の働きには千人分の軍備が必要ということですか?」

 陳羣の問いに高順は頷いた。

「まあ、判断は任せる。陳羣殿は納得したか?」

「納得してはいませんが、理解はしました。陥陣営たる所以を少し知った気がします」

 陳羣は竹簡をしまい、ふむ、と少し唸った。なにか頭を整理しているようだ。

「陳宮殿は納得なされているのですね?」

「知らん。が、説明したのは一度きりだな」

 言われてみて、高順はそういえばというようだった。陳羣はそんな高順をまじまじと見ていた。

「そういえば私がお呼びしたようなものなのに、何も出さずに失礼しました。ちょうどお湯を沸かしていたのです。お飲みになられますか?」

 もうこの話は終わり、というように切り替えたらしい陳羣はそう尋ねた。

「いや、用が終わったのなら帰る。まだ整備の終わっていない弩弓がある」

 高順は首を振り、踵を返してさっさと出ていってしまった。残された陳羣は、はあと一息ついて隣の役人たちに声をかけた。

「高順殿と陳宮殿とは仲がいいのか、悪いのか」

「悪いんじゃないんですか?」

 男は当然というように答えた。

「そう、見えたんですか?」

 陳羣は聞き返した。男は困った顔をする。

「いえ、ならいいんです」

 陳羣はため息をついて、また仕事に向かう。そうなると、男も仕事に向かうしかないので、部屋は静かになってしまった。




 夜になると、城内は人の気配があるものの静かなものだ。それこそ少し前ならば毎晩ののようにどこかで宴会があったが、そんなことをしている暇はなくなってしまった。

 よって、城内を歩く陳宮に行き先を聞くものはいない。

「高将軍、まだ生きておられますか」

 ちょうど陳宮の部屋から最も離れた部屋の前で陳宮は立ち止まった。扉に声をかけると重々しく、扉は開いた。

「その挨拶はなんなんだ」

「暗殺でもされてないかと思いまして」

 出てきたのは高順で、陳宮は早く入れろという態度だ。

「暗殺されるなら今からだろうな」

「それもそうですね」

 陳宮を招き入れ、高順は扉を閉めた。

 武具やらの類いが順序よく並ぶ部屋の少し奥に椅子があり、陳宮はそれに座った。高順も後からやってきて、その隣に座る。

「落城も時間の問題ですね」

 陳宮が漏らした言葉は深く沈むかのようだ。

「おまえのご自慢の策はどうした」

「駄目ですね。呂布殿の判断基準は奥方と妾ですから」

 陳宮は吐き捨てた。高順は椀に水差しから水を注いで陳宮に渡す。陳宮はそれを一飲みにすると、また口を開いた。

「貂蝉、でしたっけ。彼女は非常に頭のきれる方です。でも、彼女の行動原理は奥方様にある」

「しかし、生き残るという点ではおまえの策を取ってもいいものじゃないのか?」

「貂蝉は頭が良すぎる。彼女はすでに奥方様をいかに心安らかにするかに賭けているんですよ。生き残ることも、呂布殿のことも二の次です」

 高順は再び陳宮の椀に水を注いだ。

「それに、もう内乱が起きますよ」

「それはまあ時間の問題だな」

 高順の腕が伸びて、陳宮の持っていた椀を取った。そのまま飲み干すと、また水を注ぐと陳宮に渡される。

「宋将軍は、もう時間がないことを教えてくれました。侯将軍を外に出す、というのはそういうこのです」

「まあ、侯成は真面目だからな。今のままの呂布様にはもうついてこれないだろう、とは前々から話題に上っていた」

 侯成は彼ら同僚たちの中でも随一に真面目であり、酒好きで部下を可愛がる男だった。

 その彼が部下のために酒を作り、振る舞ったことは記憶に新しい。その行為が呂布の怒りを買ったからだ。

 呂布から罰を受けた侯成の死人のような瞳を陳宮も高順もよく覚えていた。あの時、侯成が呂布を殺すと言っても誰も驚かなかっただろう。

「首謀者は侯成、宋憲、魏続の三名です」

「だろうな……宋憲は少し意外だが、他二名がそうなら続くだろうな」

 高順の返答に陳宮は些か機嫌を悪くしたようで、じとりと睨んでそれからもう一度ため息をついた。

「私とあなたの意見が合うとは、いよいよ終わりですね」

「そうだな」

 高順は何が楽しいのかニヤニヤと笑った。意地の悪い笑みである。

「三名、と言ったが他の者はどうなると思う?」

 高順が問うと、陳宮は少し歯切れの悪い顔をした。

「それは読めないですね」

「読めない、ときたか」

 ハン、と高順は鼻で笑った。陳宮は悔しそうな顔で続ける。

「正確に言うと、裏切るのは三名のみ、ですがその後生き残るのはどれ程かわからないのです。誰が処せられ、誰が曹操の部下となるか」

 高順のことを見ながら苦々しく、陳宮は続ける。

「高将軍は優秀ですから、曹操の配下に誘われるかもしれませんね」

「それは願い下げだな」

 キッパリと高順は言った。わずかに眉間のシワが深くなる。

「言うと思いましたよ」

 陳宮はその仕草に少し笑った。呆れたような笑い方で、高順の眉間のシワはますます深くなる。

「おまえは……どうなんだ」

 低く、唸るように高順が問うと陳宮は首を振った。

「裏切った人間をもう一度配下にする程馬鹿ではないでしょう」

 考えるまでもない、と陳宮は答えた。どこか曹操への信頼に近い感情があるようで、確信めいた物言いである。

「そうか」

 高順は短く答えた。一度沈黙が落ちる。油につけられた火が揺らめいて二人の影を動かした。

「……宋将軍が裏切る、というのは意外ですか」

「ん?」

 陳宮がぽつり、と聞いた。高順は一瞬言葉の意味を考えて苦笑を浮かべた。

「あいつの考えていることは俺にはわからない。長い付き合いになるが、どうにもわからんままだ……呂布様に惚れ込んでいる、とは思っていたが」

 高順の答えを陳宮は予想していたようで、ため息ひとつついた。そして頭を捻りながら、難しそうな顔をする。

「今回のことを暗に、ではありますが何故か私に伝えてきたのもよくわからないのです。あの……宋憲という男はなんなんですか?」

「だから、聞くな。ただ……」

「ただ?」

 高順にしては珍しい。言い淀むような口調で、陳宮も眉をひそめた。

「成廉殿は宋憲をかっている」

 ぽつり、と高順は言った。

 成廉は彼らの仲間内でも古くから、董卓に呂布がついていた頃より前から、長く呂布の部下をしている男だ。魏越と呂布の後ろに対のように控えていたのだというが、その魏越はすでにこの世の人ではない。よって、成廉は最古参の人間ということになる。

「そうですね」

 成廉が宋憲をかっているということに陳宮は異論を持つこともなかった。確かなことである。

「はあ……あなたと話していても仕方ないことですね」

「それもそうだな。おまえと俺とでは手を結ぶことは難しいだろうからな」

 陳宮は水の入った椀を置いた。それを回収した高順はさっさと元の場所に戻してしまう。二人は無言で立ち上がり、部屋のもっと奥へ進む。

「しかし……誰かさんが布団をケチるせいでおまえなんぞと同胞しなければならないとはな」

「悪かったですね。嫌なら断ればいいものを」

 寝台の薄い布の中に二人して横になる。外はすっかり冬模様で雪でも降りそうな気配がする。

「凍死されても夢見が悪い」

「そうですか。やはり暗殺するなら今ですかね」

 時折二人はこうして床を共にする。何もかも後ろめたいこともなく、ただ共に寝るだけだ。それはあまりの寒さに耐えられなくなった陳宮が、高順に頼んだことだった。

 他の誰か頼まなかったのは弱味を握られるわけにはいかなかったからだ。すでに評価がお互い最悪の高順なら今更だろうと、陳宮は考えたのだ。

 高順は今でもそれをどうして受けてしまったのだろう、と思う。凍死するならしてしまえ、それか女でも買えと言えたはずだった。しかし、陳宮の妙なところでの清潔さがそれをさせなかったのを知っていると、断れなかったのだ。




 朝は太陽が昇るより前に、陳宮は高順の部屋から出ていく。そのまま広間に入り、一人祈りを捧げる。何に対してなのか、それは誰にもわからなかった。

 そんな陳宮の姿をたまたま見かけた人がいた。陳羣である。彼は陳宮に話したいこともあったので、その祈りが終わるのを待った。

「陳宮殿」

 立ち上がった陳宮に声をかけると、陳宮は陳羣に気付いていたようで一言「なんですか」と聞き返した。

「お時間よろしいですか」

「ええ。だいたい聞きたいことはわかっていますよ。それに私もあなたに話すことがあります」

 陳宮は陳羣を連れて朝靄の中の庭に出た。

「高将軍の件、ですね」

「はい。陳宮殿は納得されているのですね?」

 陳宮はほんの少しだけ笑ったように見えた。白い息が風に乗って消えていく。

「それ相応の働きはしますからね。それだけのことです」

「そうですか」

 庭の草木は冬の寒さに眠ってしまったかのようだ。どこを見ても大地がそのまま伸びたような色をしている。

「陳羣殿、話を一つ、聞いてくれますか」

 陳宮が聞いた。頷いて答えると、陳宮は語りだす。

「反乱が起きたとき、下手に抵抗せず、役人をまとめなさい。曹操を迎え入れ、あなたが役人の長であるように振る舞いなさい」

「それは、反乱が起きるということですか」

 陳羣は驚いた様子もなかった。彼もまた気付いているのだろう。

「あなたは聡い。大丈夫です。きっとこれからも活躍できますよ」

「陳宮殿は……どうされるのですか」

 その問いには陳宮は答えなかった。また城に戻り、自室へ戻っていってしまう。その背中を追って、陳羣はもう一度問いかけた。

「陳宮殿は逃げるのですか」

「逃げはしませんよ」

 背中を見ていた陳羣にはその顔は見えなかったが、声はしっかりしていると思った。

「そうですか」

 陳羣はそれ以上かける言葉もなく、二人はそこで別れた。それが最後の会話となった。




 陳宮は自室に戻ると、まずいつも使いに出す従者を呼んだ。彼は寝ぼけ眼でやってきて陳宮はため息をつく。

「呂布様に謁見したく思います。時間がとれるか、確認してもらえますか」

「はい……って、え? 呂布様はこの時間起きていらっしゃいますでしょうか?」

「ですから、起きて部屋を出てこられたらすぐ捕まえるのですよ。ほら、さっさと待機」

 ぴしゃりと言い放つと、使いは慌てて部屋を出ていった。陳宮は再びため息をついた。最後の時が近い。そう陳宮は確信していた。

 使いは廊下を走る。呂布の部屋は一番奥。

 もちろん、彼が入れるわけでなく、入り口の前で立ち止まってそこが開くのを待つことしかできない。

 やっと太陽が顔をすべて出したという時間、明るくなってきた城内は次第に賑やかさを取り戻していく。

「あら、貴方は……」

 扉が開いて、使いは緊張した面持ちでその瞬間を迎えた。中から出てきたのは呂布、ではなく、その妾の貂蝉だった。彼女の美貌は、同じ民族とは思えないほどだった。

「確か、陳宮様のところの方ね。お使いかしら?」

「呂布様に……」

「あら……そう。最後の賭けってところかしらね」

 貂蝉は目を細めた。彼女は何かを思案しているようだったが、すぐに人当たりのいい笑みを浮かべると振り返って部屋の奥に声をかけた。

「奉先様。奉先様」

「なんだ」

 返ってきたのは低い声。地鳴りのするような響き。間違いなく呂布だ。

 誇り高き鬼神。名高き飛将。呂奉先。

 使いは命が削られていくような圧倒される気持ちで、その姿を目に焼き付けた。体が震えて、上手く言葉がでない。貂蝉は呂布を導いて使いの前まで案内した。

「陳宮様の使いの方です」

「公台の?」

 呂布は使いを一瞥した。高順に一瞥されるよりずっと冷たい瞳だと使いは思った。

「用件は」

「陳宮様が謁見されたいとのことです。お時間いただけるか、ご確認したく思いまして」

 震えた声のまま、それでもちゃんと言えたことを使いは誇りに思いたい。貂蝉は呂布を見上げた。呂布は不機嫌そうな顔をしている。

「ない。公台に会うのは今ではない」

「呂布様、わたくしからもお願いします。お時間取れませんでしょうか」

 貂蝉が言ったが、呂布は首を横に振るばかりだ。

「厳氏との約束がある。今日はダメだ。明日、時間をとる」

 そう言うと、貂蝉も引き下がった。もちろん使いの男に何かを言う立場はない。ただ黙って答えを聞いているだけだ。

「明日、時間をとると伝えろ」

「はい」

 ひとまず、答えが得られただけでもマシかと使いは思った。部屋を出て行く呂布を平伏して見送りながら、ちらりと隣を見ると貂線と目があった。彼女は少し悲しそうに笑った。

「陳宮様によろしくお伝えください。……時間切れです、とも」

「は、はあ」

 意味がわからないでいると、貂蝉は部屋に戻り、扉を閉めてしまった。残された使いはとりあえず主人の元に帰ることにした。




 使いが部屋に戻ると、陳宮の部屋には訪問者がいた。張遼だ。

 彼は確か宴の準備のために城外へ出ていたはずだ。もう帰ってきた、ということだろうか。

「ただいま戻りました」

「ああ、戻りましたか。どうでしたか」

 張遼との話も止めて、陳宮は使いに問いただした。

「明日、時間を取るそうです」

「明日……」

 明らかに陳宮が苦い顔をした。使いはその後の言葉を言うか迷い、それでも伝えるべきだと判断した。

「それから、貂蝉様から」

「貂蝉?」

「は、はい。ちょうど呂布様のところにいらっしゃったので……えっと、時間切れです? とおっしゃってました」

 使いの言葉を聞くと、陳宮は目を見開いた。そして、苦々しそうな顔をする。その様子に驚いたのは使いだけではない。張遼もまた驚いた顔をしていた。

「え、どうされたんですか?」

「いえ、なんでもありません……ただ」

 陳宮は張遼を見て、盛大なため息をついた。そして、言葉を続ける。

「張将軍。あなたは若い。これからもっとよい武将となることでしょう」

「え? あ、ありがとうございます」

 突然の陳宮の言葉についていけないといった様子の張遼はきょとんとしてその言葉を受け止めていた。

「ですから、変な意地ははらないことです。まったく、帰ってくる時を見誤りましたね」

 それだけ言うと、陳宮は話は終わりだと言うように背を向けてしまった。張遼は困った様子で、使いを見た。使いにも意味はわからず、顔を見合わせるしかなかった。

「えっと、お送りします」

 張遼を部屋の外まで送ると、彼は使いに言葉をもらした。

「わからないな。何もかも。城内がまるで変なんだ。帰ってきたら、この調子で。嫌な予感すらするよ」

 彼は若いが同じ陣営の中ではかなり頭角を表してきたところだ。それでも経験則分、話をまとめてしまう陳宮や高順たちの会話にはときどき置いていかれているのを、使いもよく見たことがあった。

「俺は仁をつくし、義をつくし、礼をもって生きていきたい。それがどんなに綺麗事でも。それが難しい世の中、なんだろうな」

 ため息と共にもれた笑顔は悲しげだった。

 使いはそんな張遼を見送って、また部屋に戻った。陳宮は何故だか部屋の中のものを整理していて、手伝おうかと尋ねればそれを良しとはしなかった。




 それから、どれほどの時間が経っただろうか。城内が異様なざわめきに包まれ始めたのは。戦前かというような緊張感が城全体を包んでいる。

 陳宮は静かに部屋の真ん中の椅子に座り、そのざわめきを遠く耳にしていた。使いとしていつも側においていた男はもう暇を出して外に出してやった。

 どこかで銅鑼の音が鳴った。

 始まった、と陳宮は思った。謀反が始まったのだ。そもそも張遼が戻ってきた、ということはつまり侯成が戻ってきたということに近い。

 そして、本当に侯成は帰ってきたのだ。それが謀反の始まりの合図だった。

 内部から崩れていく様を、外で曹操たちはどのような気持ちで見ているのだろう。陳宮は外を眺めたが、見えるのはしんしんと降る雪ばかりだ。息が白い。

 ガチャガチャと鎧の金属が当たる音が聞こえてきた。複数いる。陳宮は目を閉じると、その瞬間が近いのだろうと長く息を吐いた。

「陳宮!」

 しかし、予想とは違う声が部屋に飛び込んできた。陳宮は信じられず、声のする方を凝視した。

 ドカドカと入ってきたのは高順と、その腹心たちだった。

「立て。謀反が始まった。行くぞ」

「行くってどこへ」

「……城の外、としか言えん。何も考えていない」

 陳宮の腕を強く引いた高順の表情はいつになく厳しかった。どこか焦りが見える。時間がないと彼もわかっているのだろう。

「逃げるのですか」

 陳宮は立ち上がったものの、腕を振り払った。高順は陳宮を睨みつける。

「言っただろう。俺は曹操に下る気はない。おまえも下れば殺されるだろう。何故、ここで死ぬ必要性がある。何のために抜かれた牙を研いできた。もう一度のど元に噛み付くためではないのか」

「抜かれた牙は生えてこないんですよ」

 陳宮の言葉に高順は苛立ちを隠す様子もない。また強引に腕を引こうとする。

「袁術のところへ下る。紀霊はいけ好かないが、ここで死ぬよりはマシだ。それにおまえならそれなりの地位が手に入るだろう。今、死んでもなにも面白いことはない」

「だったら、高将軍お一人でいけばいいでしょう。精鋭を連れて、いけばいいでしょう」

 高順が連れていた腹心たちは本来なら魏続の部下になったはずの者たちだ。前のカク萌の乱にて、高順の下から配属を変えられた者たちだった。

 それがこの謀反のどさくさで高順の下に帰ってきたのだろう。そして、この危機を高順に伝えたのだろう。

 彼が陳宮と大きく違うのはそこだ。彼は優秀な軍人であり、上司なのだと陳宮は思った。

「おまえをここで見殺しにしろと? ふざけるなよ。俺は、おまえが勝手に死ぬことは許さない。おまえが死ぬなら、俺の手で殺してやる」

 熱い息が陳宮にかかった。

 高順がこんなにも切羽詰まったような顔を見せるのは始めてだった。陳宮は不思議に思う。何がそこまで高順を突き動かしているのだろう。

「だったら、ここで殺してください」

 そう答えると、高順はまた苛立ちを感じたようだった。

「おまえは、それでいいのか」

 腰の剣が抜かれた。刃が光って陳宮の着物が少し切れた。

「私には私のけじめの付け方があります。それが今です。私が悪かったんです。読み違った。その責任は私が取らなければならない。その幕引きをあなたがしてくれるなら、してくれていい、というだけです」

 陳宮の言葉に、高順は深く息を吐いた。その息が陳宮の顔に当たる。嫌だ、と陳宮は思った。

「ほら、時間はないですよ。とっとといってください」

「だから、言っただろう」

 高順は剣を鞘にしまった。もう四十になろうかというその横顔が初めて年相応のものに見えた、と陳宮は思った。そう歳が変わらないはずなのに高順はいつも若々しく見えていた。

「おまえを見殺しにできないんだ」

「どうして」

「知るか」

 高順は笑った。陳宮はそれを気味の悪い男だと思った。

「おまえが敵だったらよかったのにな。殺してもこんな気持ちを味わうことはなかった」

「それは同感ですね。敵だったら、あなたをきちんと評価して、褒めることもできたでしょうに」

 鼻で笑いながら、陳宮は答えた。高順は踵を返すと、部下たちを呼んだ。

「ここで俺と陳宮を捕まえればおまえたちはきっと高く評価される。俺の最後の餞だと思って、頼まれてくれるか」




 牢に繋がれた高順の隣には成廉がいた。物静かな男だ。

「高順、君はもっと上手く逃げると思ってたんですけどね」

「そりゃあ、まあできたらそうしてましたよ」

 横目で見ると、成廉は覚悟を決めた顔で前だけを見ていた。静かな地下牢には他に陳宮、そして張遼の姿もある。

「他の方は侯成たちについたのでしょうか?」

「曹性は殺されたみたいですよ」

 張遼はどこか不安気で、おろおろとしている。凛としているのは成廉と陳宮だ。

「首謀者三人に同調するほど、人手がありませんからね」

「それを言うな。文句があるなら集めてくればよかっただろう」

「高順殿も陳宮殿もこんな時まで喧嘩はよしてください」

 おろおろとする張遼は高順と陳宮が口論を始めればもっとおろおろするので、高順は内心少し面白がっていた。

 陳宮はおそらくそんな高順の心の内を見抜いているのだろう。呆れた顔でいる。

 そんなやりとりをしていると、どこからか怒鳴り声が聞こえてきた。地響きのような声、一つは呂布だ。

「あ、呂布様」

「もう一人は……宋憲か?」

 顔をあげて、皆耳をすました。聞こえてくるのは、呂布と宋憲の声だった。

 宋憲もまた怒鳴っているようだった。

「だから! 同じことを言わせないでください! 命乞いをしてくだされば、きっと曹操様は呂布様を配下にしたがると言っているんです!」

「おまえは俺にあの曹操に跪けというのか!」

「殺されるのとどちらがマシだと思ってるんですか!」

 その内容に張遼は首を傾げた。成廉が閉じていた目を開いた。

「あの宋憲は……やはり裏切りきれなかったようですね」

「あんなに大声であんなこと言って、侯将軍と魏将軍は許すんでしょうか」

 陳宮はぽかんとした顔をしている。それに比べて成廉はどこか楽しそうだった。

「はっきり申し上げて、貴方には天下を取ることはできない! あなたにあるのは武力だけです! それでも、その力に、私は一生を捧げたんです! あなたが生き残るためだっただら、私は!」

 宋憲の声がひどく悲痛に聞こえてくる。

 張遼は理解が追いつかない、といった様子だ。高順は古い知り合いである宋憲がそんなことを考えていたのかと驚き、陳宮は薄ら笑いを浮かべ、成廉は深く頷いている。

「意味がわからない人ですね。呂布様を殺さないために、呂布様を裏切るとは」

「え? どういうことですか」

 陳宮のもらした言葉に張遼が聞き返した。

「おそらくですが……宋将軍は、この戦を負け戦と見て、落城も時間の問題とわかったのでしょう。そこで、呂布様を裏切ることで、結果として呂布様を曹操の下につかせ、呂布様を生き残させるという……まあ、壮大な計画を思いついた、そんなところでしょうか」

「無茶苦茶にも程があるぞ。宋憲がそんなことをする理由が見当たらない。そのまま呂布様の首を落としてしまえば、自分は曹操のもとで優遇されるだろうが」

「だから、意味がわからない、と言っているんです」

 高順が噛み付いた言葉に、陳宮も言い返した。成廉が静かに二人をなだめる。

「まあまあ。宋憲はそれだけ呂布様を慕っているということです。あれが彼の義なんですよ」

 結論にしてはあまりに素っ頓狂なものに張遼が悲鳴をあげた。

「全然意味がわかりません! 仁とは、義とは、礼とは、そんな曲がりくねったもので表すものではないでしょう!」

 その言葉には誰も答えなかった。ただ、呂布と宋憲の言い争いばかりが聞こえてくる。

 しばらくすると、静かになって、牢に誰かがやってきた。侯成だった。

「……」

 何かを言いにきたわけではなく、ただ見回りにきただけという様子だった。

「侯成」

 声をかけたのは成廉だ。

「聞こえていたのでしょう? 呂布様と宋憲のやりとり」

「だとしてなんなんです」

 静かな声が返ってきた。

「どう、思ったんですか? 宋憲を始末しなくていいんですか?」

「始末なんかしませんよ。宋憲がそうしたいことは最初から知ってました。結果が同じなら動機はどうでもいいでしょう」

 高順はそう答える侯成のことを哀れに思った。真面目な彼だ。手を結んだ宋憲を信じることにしたのだろう。

「先程、曹操様を城に迎え入れました。もうすぐ、あなたたちの処分も決まります」

 侯成は、それを伝えると牢を出ていった。




 強い風が吹くなか、彼らは整列し、座らされていた。館から出てきた曹操は彼らを一瞥し、ため息をついた。

 これから処分が言い渡される。高順はそんな曹操の横にいる劉備に驚いていた。まるで曹操と同等のような顔をしている。

 最初に断頭台に立ったのは成廉だった。彼は何一つ弁解することもなく、ただ「呂布様と共に」と死んでいった。

 赤い血がポタリポタリと白い雪を染めていた。

 次は高順だ。高順はきっと曹操がほしがるだろうと陳宮は思っていた。

「陳宮、先にいっておまえを地獄に引きずり落としてやる」

 小声でそう告げた高順はとっとと殺されてしまった。陳宮の真横で。曹操本人に斬られて。

 陳宮はなんだか信じられないような気持ちでその返り血を曹操と共に浴びた。高順は曹操を怒らせたのだった。

「馬鹿な人ですね」

 その死体を眺めながら、陳宮は笑った。これが彼なりのけじめの付け方だったのかは、わからない。

 ただ、最後に高順は陳宮のことを鼻で笑った気がして腹立たしい。

「公台」

 人を切るのは一苦労で、肩で息をする曹操はそのまま陳宮と向かい合った。

「孟徳殿、早く殺してください。この後には呂布様の処分を決める仕事が待っているのでしょう?」

「公台、もう一度わしの下につかないか」

「孟徳殿、法を情では動かしていけませんよ」

 陳宮は鼻で笑った。曹操はただ陳宮を見下ろしている。

「でも、もし、情をかけたいのであれば、私の妻と娘を頼みましたよ」

「公台……」

 陳宮は断頭台を見た。ここで切られると思ったがその様子がないならあそこまで行くのがいいだろう、と判断する。顔についた血がだんだんと固まっていくのを肌で感じていた。

「陳宮殿……」

 後ろに立っていた宋憲が、陳宮を呼んだ。その目には、それでいいのか、という問いが含まれている。

「そうだ、孟徳殿。私が負けたのはそこの男が私の策を採用してくれなかったからです」

 宋憲を見て、陳宮は曹操に語りかけた。横目で呂布を見れば、彼は驚いた顔をしていた。

「でもね、彼は指示にさえ従えばきっとあなたを殺していましたよ。それだけの力がこの人にはある。恐ろしいことにね」

 それを言うと満足だ、というように陳宮は立ち上がり自ら断頭台に向かった。その背中を見送る曹操も、呂布も、宋憲ですらもその背中を恐ろしいと思った。高順の返り血が着物についたその様は狂気染みたものがあった。

 それが陳宮、そして高順という男の最期であった。

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内側から崩壊する 沼坂浪介 @Nmsk_MK

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