遅刻するとき

秀田ごんぞう

遅刻するとき

 ――これは後に【伝説レジェンド】と呼ばれる高校生、相模川ジョンのまだまだ駆け出しの頃の物語である。


※飲み物を飲んでいる方は吹き出してしまうおそれがあるので、ぜひコップを置いて離れて読みましょう。


 ジョンは必死に走っていた。すれ違う人々は皆、彼の悪鬼の如き顔を見て不審な視線を浴びせる。それらに構わずジョンは走った。

 なぜ、そんなにも必死で走っているのか?

 答えは簡単。遅刻しそうだからだ。

 ジョンは走りながら腕につけた時計を見やる。始業時刻まであと二分とちょっとしかない。カップラーメンを食べる時間もないなんて!

 どうか針よ止まってくれ……と、走りながらジョンは時間の神に祈りを捧げる。だが、彼の祈りも虚しく、時計の針は無情に回り続ける。

「やばい……急げ! 急げ! 急げぇっ!」

 走りながらジョンは思う。

 自分は何故こんなにも焦っているのだろう。

 考えても見れば……僕は別に誰かに急かされているわけでもないし、こんなになってまで走る必要性もないわけで。走ってたって疲れるだけだし、もういっそ帰ろうか……。

 だが、思いとは裏腹にジョンの足は止まらない。彼の足は、常に前を向いている。一秒でも先へとその爪先を伸ばし風を切り空を裂いていく。

 ジョンの頭の中を空虚な思考が飛び交う。

 何故だ? 何故僕の足は止まろうとしないんだ!

 ……もういいよ。諦めよう。今から二分で学校にたどり着くなんて、そんなの無理に決まってるさ。遅れて教室に入ったところで、クラスの皆に馬鹿にされるだけだ。それなら……はじめっから行かなきゃいいじゃないか。

 大体、遅刻して何が悪いと言うんだ。迷惑を受けるのは僕自身だし、その僕が良しとしてるなら、別段、誰に迷惑をかけることもないじゃないか。

 考えてみればこの世の中はどこかおかしい。皆、間違った常識に踊らされているんだ。遅刻くらいでギャーギャー騒ぐ方がおかしいんだ。僕が遅刻したとして、それで誰か死ぬのか? そんなわけないだろう! それはつまり、僕は別に焦る必要はないってことだ。

 ……ふぅ。うちに帰ろうかな。

 思考の奔流が落ち着いて、ジョンの足がようやく減速し始めた。彼の靴が地面をける力は次第に弱まっていき、やがて止まろうとした時、ある考えがジョンの脳裏に閃いた。

 待てよ……。これまで僕は、自分が遅刻することで誰にも迷惑をかけないと、そう思っていた。でも、考えようによってはそうでないかもしれない。というのも、もしかすると隣の席の相田さんが僕のことを心配しているという可能性があるからだ。

 相田さんというのは、学校でジョンの隣の席に座る女の子だ。本名はなんだったか……まあさしたる問題でもないから放っておこう。ジョンの見立てでは、彼女はジョンに好意を持っているのだ。

 アレはいつの日だったか――ジョンが授業中に誤って消しゴムを落としてしまったことがあった。その時、隣の席の相田さんがにこやかに消しゴムを拾い、ジョンに手渡してくれたのである! ジョンはそのとき言い様もない激情に駆られた。胸がどっきりばくんと高鳴り、彼はいともたやすく恋に落ちた。恋のキューピッドも楽な仕事をしたもんである。

 と、そんなことはさておき、どうやらジョンが再び悩み始めたらしい。

 ……もしも……もしもだぞ! 相田さんが僕のことを待ってくれているのなら! 彼女がこの僕のことを心の底から待ちわびているのなら! 僕が今から必死になって学校へ馳せ参じる意味もあるのではあるまいか。そうだ。きっとそうに違いない。僕の、この動き続ける足はそのことをはじめから知っていたんだ。そうまでして僕の足は、僕と相田さんをカップリングしたかったのか。まったく、それならそうと早く言えばいいのに、イケズな奴め。

 ジョンは時計を確認する。始業の鐘がなるまですでに後一分を切っていた。

 そうと決めたら行くしか無い。

 ジョンはにたりと不敵に微笑むと、風の様に走り始めた。それはまるで雷撃の如き速さで、疾風迅雷の走りであった。

 道半ばでいくどもジョンは挫けそうになった。そんな彼を奮い立たせたのは、彼の脳裏に浮かぶ、笑顔の相田さん(妄想)であった。

 ジョンの疾風の疾走りの甲斐あってか、学校にはあと10秒ほど残して到着することが出来た。靴を履き替えもせずに、ジョンは怒涛のごとく階段を駆け上がり、嬉しさのあまり目を閉じながら教室の戸を開け放った。

「セーフ!」

 やった! ついにやった! ジョンは始業時刻に間に合ったのだ! 相田さんもきっと喜んでくれているだろう。さあ、今ちょうど鐘がなるぞ――

 しかし、いつまで経っても鐘は鳴らなかった。それに、いつものクラスのざわめきが嘘のように消えている。皆、時代のスーパースターの登場に度肝を抜いているのだろうか?

 ジョンはゆっくり目を開ける。すると、彼の目に信じられない光景が映る。

 教室内にはジョンを除いて誰もいなかった。

 いつも開け放たれている窓も、カーテンが掛けられ閉まっている。落書きだらけなはずの黒板はすっかりきれいである。おかしいのはジョンのクラスだけではない。耳を澄ましてみても、隣のクラスからも人の声が聞こえてこない。

 その時、ジョンの目に黒板の横にかかったカレンダーが目に映る。カレンダーの今日の日付のところには赤ペンで丸印がしてあった。そして、その瞬間ジョンは愕然として、つい鞄が手からするりと抜け落ちてしまった。

「やっべ……今日代休だった……」

 どこからかカラスの鳴き声が聞こえる――そんな気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遅刻するとき 秀田ごんぞう @syuta_gonzo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ