episode0 後編 side陽介

「疲れてるのか?」


 体の調子の悪さを感じ取った俺は、少し公園内のベンチで休むことにした。

 ベンチの木陰部分に座り、大きく息を吐く。


 木陰のおかけで直射日光は避けられているが、いかんせん気温が高く、あまり休んでいるという感じがしない。


 そういえばこの猛暑の中、白鳥を尾行し、研究所前で何十分か居座り、研究員から逃げるために走ってしまった。

 もしかしたらこの症状も熱中症なのかもしれない。


「何か飲み物が欲しい……」


 喉は乾いているが、自分で買いに行く気にはなれなかった。

 このベンチから見える範囲に自販機がないこともあるが、立ち上がるのがひどく億劫に感じてしまうのだ。


 ああ、ここに誰かいれば頼むことができるんだけど。

 そんな思いが頭に浮かび、茶谷を呼び戻そうかと考える。もしくは他の誰かに頼むか。


 どちらを選ぶにしても、飲み物を持ってきてもらえるまでに時間がかかるだろう。

 他に何か方法はないかと考えている間にも時間は過ぎていく。



「あの……大丈夫ですか?」


 そんな風に声をかけられたのは、無駄に時間を費やしてしまったことを後悔していたときだった。

 顔を上げると、つばの広い帽子をかぶった一人の少女が俺の顔を覗き込んでいた。


「何かしましょうか?」


 俺は一瞬、夢かと思った。

 確かに誰かがそばにいてくれたらとは考えていたが、あまりにも自分に都合の良い展開で怪しさのほうが先に来てしまったのだ。

 少女はなんの反応も返さない俺を見て、少し慌てたように離れる。


「あ、あのですね……その、たまたま公園の前を通ったら……しんどそうにしているあなたの姿が見えたものですから、心配になって。決して……悪いことを考えたわけでは……!」

「別にそこは疑ってないよ。でも出歩いているってことはなにか用事があったんじゃ。それなのに俺のせいで時間を取らせるわけには……」


 俺はとっさにこう答えていた。

 正直、自分にとっては渡りに船であり、ここは助けてもらうべきなのはわかっているのだが、初対面の人に甘えるのはどうかと考えてしまったのだ。


 もはや見捨てられても文句はいえなかったが、少女は柔らかく微笑むと気にしないでくださいと言ってくれた。


「ちょっと買い物をしようと思っていただけ、ですから……」


 その言葉に思わず感動してしまう。

 俺の友人にも初対面の人に優しくできる奴はいるが、こうして初対面の人から優しさを向けられたのは初めての経験だった。

 友人から優しくされるのとはまた違った嬉しさを感じた。


「すまん。なら、少しだけ頼らせてくれ」

「はい」


 俺は少女に軽度の熱中症であることを伝え、水分補給と体を冷やすために飲み物を数本買ってきてもらう。

 少し歩いたところに自販機があったらしく、少女が戻ってくるのに時間はかからなかった。


 水分補給をしたあとはベンチの上で横になり、首筋や脇の下などをひんやりとしたペットボトルで冷やす。

 少女は俺がかぶっていた帽子であおぎ、風を送ってくれていた。


「気分はどうですか?」

「大分良くなってきた。本当にありがとう」

「い、いえ。お役に立てたなら良かった、です」


 少女は頬を軽く染め、顔をそらす。

 そのまま無言の状態が続いた。

 俺は回復に専念させてもらっていたし、少女の方から話しかけてくることもなかったのだ。


 気まずさというものは感じなかった。それどころかすごく穏やかな気持ちだった。

 少女が送ってくれる風が心地良く、思わずウトウトしてしまうほどだ。

 三十分が経って、なんとか起き上がれるくらいには回復した。


「もう大丈夫なのですか?」

「ああ、君のおかげだ」

「あうっ……」


 少女が顔を真っ赤にして俯いた。

 本気で恥ずかしがっているようで、喜びの感情は少ない。

 あまり褒めすぎないほうが良いようだ。


「そういえば名前を言ってなかったな。俺は赤木陽介。君は?」

「えっと、緑河林華……です」

「なら緑河だな」

「えっ……?」

「何かマズかったか?」


 緑河は控えめに首を横に振った。


「あの、今まで同年代の人に、呼び捨てで呼ばれたことがなかったものですから……」

「意外だな」


 俺の場合、名字か名前かという違いはあるものの、多くの人に呼び捨てで呼ばれている。

 緑河の話はなんだか新鮮だった。


「小さい頃からずっとさん付けで呼ばれていましたし、それは今も変わっていません。それに小学生の頃に一人、仲違う呼び方をしてくれた子がいたんですけど、その子からはリンちゃんとあだ名で呼ばれていましたので」

「そうなのか。なら俺が初めてってことだな」

「はぃ……」


 緑河が顔を俯かせ、会話が途切れてしまう。

 なんだか気恥ずかしくなり、すかさず話題を変えた。


「そういえばさ、俺が言うなって話なんだけど、よく助けてくれたな。いくら困っているとはいえ、初対面の人に話しかけるのは勇気がいるだろ?」

「いえ、その……はい……」


 やっぱり勇気がいったようで、申し訳なさそうに呟いた。

 初対面の人に話しかけるのは俺でも勇気がいるし、別段おかしなことでもないと思うのだが、緑河は気にしてしまうようだ。


「あ、でも……初対面ではありますけど、赤木さんのことを知らなかったわけでは……ないのです」

「へ?」

「私は金庭高校の生徒なので、生徒会長である赤木さんの人となりはある程度知っていました。だからその、話しかける勇気が湧いたと言いますか……すいません」


 金庭の生徒だったのか。

 ほとんどの生徒を把握していたと思ったが、まだまだ甘かったらしい。


「別に謝る必要はないさ。それで何年何組なんだ?」

「三年八組です」

「同学年なのに把握できていなかったのか。なんだか悔しいな」

「あっ、でも……私、二年生の時に転校してきたので、知らなくても仕方ないと思います」


 金庭は人数が多いため同学年でも一言も喋ったことがないという生徒が多く、転校生一人が増えたところで話題になりにくい。

 そのため転校生の存在はクラスメイトしか知らない場合が多いのだ。


「でもなぁ……」

「赤木さんは……私のことを知らなかったことが、そんなに悔しいんですか?」

「ああ、悔しい。名前だけなら全校生徒知っていると思ってたからな」

「す、凄いですね……」


「特技、というか趣味みたいなものだ」

「それでも、そこまでやろうとするなんて、やっぱり凄いです」

「そ、そうなのか……?」


 ストレートに褒められ、調子が狂う。

 飾らない言葉だったからこそ、本心から言っているのだと理解できたからだ。



「赤木さんのこと……尊敬しちゃいます」



 畳み掛けるように柔らかな笑みを浮かべて言われた真っ直ぐな言葉に、俺は思わずドキッとしてしまう。


 正直、緑河からそんな真っ直ぐな言葉が出てくるなんて思ってもいなかった。

 出会って間もないが、人と話すことが得意というわけではなさそうだったのに。


「顔が赤いですけど……大丈夫ですか?」


 心配そうに顔を覗き込んでくる緑河に、さらに体温が上昇するのを感じる。

 はじめての感覚だ。


「ああ、もう大丈夫だと思う」


 俺はそう言いながら立ち上がる。

 目眩や立ちくらみはなく、しっかり地面に足をつけている感覚があった。


「ん……もう自力で歩いて帰れそうだ」

「そうですか。良かった、です」


 緑河と一緒に公園の出入り口まで歩く。

 その間、ずっとドキドキしていて、なんとも不思議な感覚だった。


「それじゃあ、今度何かお礼をするよ」

「そ、そんな、お気になさらず」


 あれだけ真っ直ぐな言葉を言った奴とは思えないな。

 そのギャップに思わず笑みが溢れつつ、もう一度お礼を言って帰路についた。



 ようやく自宅にたどり着いた俺は、軽くシャワーを浴びてベットの上に寝転んだ。

 まだ日は暮れていないが、軽く熱中症になったため、無理はしないようにしようと考えたのだ。


 天井を見上げながら、今日のことを思い返す。

 とても、長い一日だった。

 けれど、良い一日だった。


 緑河のことを考えると、自然と頬が熱くなる。

 ああ、やっぱりこれって……。

 そんなことを思っていると、ハイホからメールの着信音が聞こえてきた。


 俺は手探りでハイホの位置を探し当て、メールの受信画面を開く。

 差出人はイクシード研究所になっていた。


「げ」


 件名にはスカウトと書かれていることから、本文は茶谷とそう変わらないだろう。

 問題はこのメールに変なウイルスかアプリが仕込まれていないかだ。


 けれど、なぜ今なのだろう。逃げおおせた今なら捕まることはほぼないと考えられるし、そもそも正体までは知られていないはずなんだが。


 スカウトメールに得体のしれない何かを感じ、俺はメールを開くのをやめる。

 そしてそのまま目を瞑り、深い眠りに落ちていく。



 後日、茶谷に細心の注意を払いながらメールを調べさせると、何の仕掛けも施されていない、本物のスカウトメールであることがわかった。


 ちなみに、白鳥が遠回りしていたのは改装工事のため正面から入れず裏に回っていたからで、パトカーが来たのはたまたま逃走犯があのあたりにいたという情報があったからなんだそうだ。

 しかも茶谷にインストールされていたアプリは研究所とは全く関係のないところで仕込まれていたことが発覚する。


 つまりは全てが取り越し苦労。俺が無駄に考えすぎていただけってことだった。

 …………。


 結局何が言いたいかというと、今回の話は俺が一人で勝手に深読みしていただけで、至って普通の日常を描いた、ただの前日譚である。

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