エピローグ
(エピローグ)
京都の夏はクソ暑い。
私が京都に来て最初に思ったのはそれだった。夏は暑い方が夏らしい、なんて言ったこともある気がするけど、暑いもんは暑い。やめて欲しい。切実に。
稲荷山の中に迷い込むと暑さは少しマシになった。もう、ずっとここにいるのでいいんじゃないかな、って思った。就職前の一人旅、なんて言ってきたけれど、山籠りも案外悪いものでもないんじゃない? そんな冗談を一人で考え付いて、突然現れる祠の前に立っているキツネの石像に向かって言っているんだから、なんだか少し寂しいかもしれない。
東京から京都駅にやってきて、真っ先に向かったのが伏見稲荷大社だった。
別に深い理由はない。鳥居がいっぱいあるってなんだか面白いじゃん、ぐらいの気分だった。商業の神様と聞いたことがあるけれど、どうせ私は公務員なんだし。親はもうすぐ定年だし。
稲荷駅から伏見稲荷大社へと向かう道は思ったより楽しかった。流石京都。観光都市。我々を楽しませることに余念がない。スズメの丸焼きなんて、食べ物というよりはエンターテイメントなんじゃない?
人は多いけどそれもなんだか気分を高揚させる要素になっていく。一人旅だからちょうどいいのかもしれない。これくらいの喧騒。別に、寂しくなるために一人になってるわけじゃないんだし。
最初に私を迎えたのは、それはもうこんなに大きくする必要ないんじゃない? ってぐらいの鳥居。お金がいくらあってもここまで大きくする必要ないと思う。神様って、大きいからってそんな簡単に喜ぶもんじゃないでしょ。まあ、私は嬉しいと思うかもしれないけれど。
山を登るまでに拝殿がいくつかあるので、少し省略しつつも拝んでみる。願い事とか特にないんだけど。無病息災。どうだろう。四字熟語を知ってるぞ、と私は神様にアピールした。気にいってくれたら嬉しいんだけど、私のこと。
拝殿を離れると奥の方には噂の千本鳥居という鳥居だけで出来たトンネルがある。中を覗き込むと、陽の光が朱色の鳥居に反射して、不思議な彩りのトンネルになっていた。また一つ気分が高揚した。異世界へとつながるような、鳥居のトンネル。この先に何があるなかなんて全く想像もつかない。こんなの、わくわくするに決まってる。
朱色の鳥居は一つ通り過ぎるたびに気持ちが新たになっていく。トンネルを通り過ぎれば一つ別の世界にたどり着いた気分になる。少し広いところに出て、またトンネルをくぐっていく。深く山に潜るたびに、もう戻れないのかなと不安になる。それくらい、不思議な力を感じる山だった。
そして、ある道の分岐点。一つは頂上へ向かうもの。もう一つはちょっとよくわかんない。この辺りにもなると、往来で誰かとすれ違うこともない。京都の友人が言うには、稲荷山で頂上まで上ろうとするやつはただの物好きか狐か天狗だ、とのことらしい。じゃあ、私はきっと悪魔だな。そう思って、よくわからないほうへ向かう。鳥居のトンネルに足を踏み入れる。
その瞬間だ。空気が変わった。夏の湿っぽい空気が、人の声がどことなくする空気が、誰かがその向こうに行ったあとがあるような空気が、全てかき消された。
あっ。これ、違うやつだ。
そこから先の記憶はあまりない。何かを感じる暇もなかった。
気が付いたとき、私と狸は並んで、ぼうっ、と座っていた。
「夢、覚めたな」
私たちが座っていたのは、祠へと続く石段。両手で抱えられるような小さな鳥居がそこかしこに乱雑に立っている。大きな祠の周りには、小鳥箱ぐらいの小さな祠がいくつも建っている。神様にもサイズがあるらしい。今ではもう、驚かないけれど。
「覚め、ちゃったね」
夏の香りがした。心地よい夏の香り。都会の汚れた空気とか、人の声とか歩いた音とか、どこにも飛ばすことが出来ない暑さとか、そういうのを吹き飛ばした、ただ純粋な、夏の香り。
「感謝するわ」
狸はそう言って、ぺこりと頭を下げる。
「ほんとに、ね」
私は、ずきりと痛む脇腹を抑えた。傷なんて一つもないけれど、なぜだか、痛んだ。
「結局、ワシも、安曇野はんも、選べへんかったんか」
「何それ。見てたの?」
「せやなあ」
「趣味、わっる」
「関西弁、移ってきたんちゃうか」
「あほ」
「それやそれ」
「だいたい、選べなかったのはアマ君も一緒でしょ」
「そうか?」
「そう。結局、私のこと傷つけたし。ナイフで。それも、中途半端に」
「ワシはそうは思わんかったけどな」
「オスだからじゃない?」
「は?」
「優柔不断はね、女の子を傷つけるの」
「自分かて、その気もないのに坊主からかってたくせに」
「あら?」
「都合の悪いこと忘れるのは女も一緒や」
「どうだかねえ」
「結局、ワシも自分も、あの世界の運命を、たかだか十四歳の少年に任せてしまったわけや」
「私、二十二歳」
「ワシは、千とちょっとやな」
「ダメじゃん」
「あかんなあ」
「……ほんと、情けない」
「ん?」
「私は、ほんとに、アマ君が私のこと殺してくれたら、って思ってたんだけどな」
「……そうか」
「アマ君なら、出来るって思ってたのにな」
「……」
「アマ君は、結局、自分の世界を滅ぼすこと私の命を奪うこと、選べなかった。だから私を傷つけた。でも、殺すことは出来なかった――」
「そうやろうか」
「そうでしょ。だから――」
「いや、あいつはもう、選べてたと思うねん」
間。
「えっ?」
「ワシは思うねんけどな、坊主は、選べてたんやと思うわ」
「……そうかな、ふーん」
「あいつは、絶対にお前を殺そうとしてへんかった、それだけはわかる」
「で、でも、ナイフは私に」
「わざとちゃうか? あれ」
「えっ?」
「お前が元の世界に帰れるように。元の世界に帰っても、後悔とかせんように」
「……」
「ワシらより、ずっと勇気ある選択をしたんちゃうかなあ」
「……たぬ吉は、アマ君のこと好きだね」
「誰がたぬ吉や」
「いい男じゃん。アマ君」
「そう思うわ」
「……でも、どうしてそう思ったの。何か根拠でも?」
「それがあんねん」
「あらら」
「坊主、ずっと小説書いてたやろ」
「うん」
「自分が『着替えとってこい』ってワシをパシったときや。部屋に忍び込んだらな、あいつの小説が置いてあったんや」
「のぞき見ね」
「自分もようやってたやろ」
「進んでたの?」
「結構」
「全然進んでなかったのね。テーマが『恋愛』だからって」
「おもろいな、それ」
「でしょ」
「それでな、ちょっと読んだら、なんとなく坊主のことがわかった」
「ほう。で、どんな話?」
「うーん、それは秘密やな」
「なにそれ」
「書き終わったとしても、安曇野はんには見せへんかったと思うわ」
「なにそれ、ズルい」
「男同士の秘密や」
「いいなー。男の子って」
「ええやろ」
「でも女子会とかも楽しいよ」
「女子会か」
「ナツキちゃんと女子会したかったなー」
「何話すんや」
「優柔不断な男について」
「おー、怖いわ」
「いいでしょ、女の子も。あっ、タイトルは決まってた?」
「ああ、それぐらいやったらええやろ」
「アマ君のネーミングセンスが気になるね」
「『キツネ・サマー・サヨナラ』」
「……」
「ちなみに書き出しは、夏目漱石を倣ってたわ」
「……いいんじゃない? それ」
「ワシも、そう思う」
「……夏、ねえ」
「帰ってきても暑いな。まだこっちは八月四日や、あんたが来てから、時間、経ってへんかったみたいやな」
「京都の夏、クソ暑いからね」
「思い知ったか?」
「次は夏以外に来るかな。しばらく涼しいところにいたい」
「言うて、夏はどこもたいがい暑いわ」
「確かに、ね」
「まだ夏は終わらんで」
「そうか。夏なのか――」
私はゆっくりと立ち上がった。そして大きく深呼吸した。夏の空気。まだ、夏は終わらないらしい。
終わっとけ、馬鹿。
「夏、飽きたんだけどな――」
『キツネ・サマー・サヨナラ』
キツネ・サマー・サヨナラ うさぎやすぽん @usagiyasupon
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