第10話(2)夏の終わりとサヨナラ
「私は、元の世界に帰るから」
安曇野さんの眼は、ずっと大事にしていたビー玉のように澄んでいて、そして、簡単に壊れないぐらいに強い。
また、ぼくは言葉を失った。失われていくのは言葉どころじゃなかった。感情も、記憶も、ぼくの身体から抜けていく。大きな穴の中に落ちていくような。落下するに伴って、自分の身体がいろんなものを宙に置き去りにする。暗い、そこの無い世界に落ちていく。手も足も動かしても甲斐がない。ただ、垂直に落ちていく映像が、ぼくの頭をずっと支配する。
「この鳥居ね。通り抜けるところがガラス張りになっているでしょ」
自分の身体にはもう色がないんじゃないかって思った。
「これが、キツネの瞼なんだって。たぬ吉が教えてくれたの。めちゃ閉じられてるけど」
安曇野さんの声が身体を通り抜ける。
「このガラスみたいなのを割るとね、夢が覚めるんだってさ」
もう何も、考えることが出来ない。
「私は、元の世界に帰るよ。この世界と、サヨナラして」
なんで。どうして。
この世界は。安曇野さんは。ぼくは。どうして、こうなる。
「サヨナラ?」
「うん。サヨナラ」
清々しい、夏にぴったりな微笑みだった。
「ほんとに、この世界と――」
「うん、サヨナラ」
「じゃあ、この世界は?」
「私だって、壊したくないよ。でも、仕方ないじゃん」
「でも、そんなの」
「私たちの世界だって危ないの。この世界にずっといるわけにはいかないの」
「ぼくたちの世界は――」
「壊すよ、私にもね、待ってる人が向こうにいるんだよ」
からん、とバールが地面を叩く音がする。ぼくの中で何かが壊れる音。
「私は、絶対に元の世界に帰るから、だから――」
吹き飛ばされそうな圧が、正面からやって来る。もう、どうにもならない。諦め、危機感、絶望、悔恨。そのような感情がぼくを再び色に染めた。押し飛ばされないように。安曇野さんの前で立てるように。ぼくが、安曇野さんの言葉を受け入れられるように。
「私を殺さないと、この世界は、終わっちゃうよ」
安曇野さんを、殺す。
そうしなければ、この世界は終わってしまう。
考えていたシナリオは、こんなはずじゃなかった。思い描いていた未来はこんなはずじゃなかった。ぼくの夏はこんな風に終わるはずじゃなかった。
夏はまだ続く。安曇野さんはそこにいる。
涼しくなったら、紅葉なんて見に行くといいんじゃないか。渡月橋だって、父とまだ行ってないし。ナツキちゃんも一緒に行こう。でも、それだと狸も絶対来るんだろうな。「人多すぎやわ。はよ団子食べよ」なんて言うんだろうな。
雪が降るほど寒くなったら、みんなで鍋とかどうだろうか。すき焼きがいい。「肉ばっか食わなあかん。男は」と父がいつも言っているのを安曇野さんが笑う。「野菜も食べなきゃモテないよ」とか安曇野さんが言う。
それでまた暖かくなったら、心地の良い晴天の日に、二人で鴨川を歩く。出町柳の鴨川デルタの飛び石を飛んでる小学生を見ながら、並んで座って、すぐそこで買ったミスタードーナツのドーナツを食べる。二個ずつ。計四個。ぼくはポンデリングとゴールデンチョコレート。安曇野さんはきっと、チョコファッションとエンゼルクリームを食べるんだろう。それで、「時間が経つのは早いなあ」と笑う。
そしてまたやってくる。クソ暑い日々。
この夏は終わらない。ずっと続く。九月になっても、十二月になっても、新しい年を迎えても、そして、また八月になって、また過ぎても。ぼくの夏は、始まったばかりで、そして終わることがない。
サヨナラなんて、そんなことがあるはずはない。
「さあ。かかってきなさい。そのために待っていたんだから」
安曇野さんはバールをゆっくりと持ち上げて、その先をぼくに向けた。
「ちょうど、ナイフを持ってるんだし、互角でしょ?」
悪戯っぽい微笑みだ。それでいて、優しい、いつもの微笑み。
「なんで、待ってたん?」
「勝手に世界を終わらせるなんて、卑怯じゃん? 私は優しいから」
本心かどうかわからない、嘘だってすぐわかるようにわざわざ変えているような口調だった。
「面白いでしょ。私の世界とアマ君の世界。ここで決まるの。私たち、今世界を背負ってるの。かっこいいじゃん」
なんとなくわかった。いつもより言葉が多いんだ、安曇野さん。
安曇野さんは、強がっている。
「安曇野さんは、ここにずっといる気はないん?」
「ない、私は帰る」
「嘘や。安曇野さんにはこの世界は壊せへん」
「そんなことない! 私は帰るためならなんでも!」
「じゃあ、さっさとその鳥居を壊せば良かったのに!」
「だから待ってたって言ってるでしょ!」
「待つ方が残酷なん、わかってるやろ!」
「で、でもっ!」
「安曇野さんは、そんなアホちゃうやろ!」
次第に安曇野さんの声は震えていく。抑えていた感情が、どうしても声に乗ってしまう。
「はよ壊せば良かったのに、ぼくなんか待たんと」
「だって――」
「安曇野さんは、優しすぎる」
思い出す。こんなときに。安曇野さんと過ごした日々を。
疎水の遊歩道で、二人で並んで歩いたことを。安曇野さんはぼくをからかって、ぼくはそれを笑って返すことしか出来なくて、でも、それが嬉しくて、楽しくて。優しい安曇野さんをすぐそばで感じられて。いつも強くて、そして優しい。
初めて、安曇野さんの弱さを見たような気がした。凶器をぼくに向けているけれど、強がりだってすぐわかる。そう思うぼくも強がっている。ナイフを持つ手には力が入る。でも、足がもう動きそうにない。安曇野さんに近づくことはもうできない。
「ダメだね。お互いさ」
力の抜けた、安曇野さんの微笑み。
もう、引き下がれないところまで来てしまった。
もう、なんともならないところまで来てしまったんだ。
安曇野さんもぼくも、もう。
安曇野さんの肩や手には力が入った。もう終わりが近いんだ。諦めは意外と早く来る。ぼくはナイフに目をやった。血がついている。これは、ぼくの血だ。
狸のことを、ふと思い出した。
安曇野さんとぼくは、一歩ずつ前に進む。戻れない。進むしかない。逃げたい。元に戻りたい。投げやりに近い感情。なんとでもなるがいい。ぼくたちはここまで来てしまった。
安曇野さんは、バールを、バットを構えるようにして肩より上に先を構えた。その眼は、もう引き下がるわけにはいかない、と語っていた。
ぼくはナイフの先を安曇野さんに向けた。手は震えている。ぼくは今、どんな眼をしているのだろう。
次に何かが起こったとき。風が吹いたとき。虫が通り過ぎたとき。遠くで何かが倒れたとき。何かが終わる。
何とでもなれ。ぼくは出来る。
ぼくの世界のためなんだ。
ぼくと、父と、母と、狸と。
そしてナツキちゃんと――。
安曇野さんなんかに、ぼくの世界を壊させはしない。
そんなことがあるなら、ぼくは安曇野さんを――。
殺して――。
「少年」
安曇野さんは、にい、と笑った。
「サヨナラ」
駆ける。
前へ。ナイフを突き出して。
安曇野さんがバールを振り下ろす。
手の震えなんて知らない。
バールが当たることなんて知らない。
ぼくは安曇野さんに向かって。
前へ。
駆ける。
そして、その距離一メートル。
安曇野さんは、ぼくに身体を差し出すように。
両手を広げた。
「サヨナラ」
にい、という、彼女の優しい微笑み――。
「アマ君、ありがとう」
ざっ。
刺さった。確かに刺さった。
でも、ナイフは、ぼくの身体は、安曇野さんを通り過ぎた。
少しだけ、安曇野さんの脇腹にナイフは刺さった。
浅い。
ナイフは、簡単に、安曇野さんを通り過ぎた。
安曇野さんをただ傷つけただけだった。
振り向くと、安曇野さんは、眉を上げて、驚いていて、そして、ため息をついた。
「馬鹿」
そう言って、安曇野さんは鳥居に向かって、バールを振り落した。
ばりん。
ガラスの砕ける音が、辺りにこだました。
夢オチなんてやめてくれ。本気でそう思った。
世界の終わりはどんなものだろう。そう考えて怖くなって眠れなくなって、でもそのどきどきというか、わくわくというか、胸が高鳴るものもあって。勝手だ。勝手に感傷的になってただけだんだ。あのときぼくは、きっとただの阿呆だったのだろう。
世界の終わりに実際直面して思うのは、ただひたすらに、「畜生」、それだけだった。
「ごめんね」
安曇野さんは、目を閉じて呟いた。涙は零れなかった。でも、頬にはガラスのかけらが光るような輝きがちらちらと散りばめられていた。
やめろ。謝るな。畜生。
ぼくは、ぎっ、と歯を食いしばって、安曇野さんを睨みつける。でも、ただただ涙がこぼれるだけで、ぼくの眼は涙を通してしか安曇野さんを映すことしか出来ない。
畜生。どうして世界が滅ぶんだ。
畜生。どうして安曇野さんは悲しそうな顔をするんだ。
畜生。どうしてぼくはもう安曇野さんに会えないんだ。
大きな朱色の鳥居の前で、ぼくとぼくより少し背の高い安曇野さんは、向かい合って立っている。鳥居の向こう側はオレンジ色に光って、ぼくと安曇野さんの大きな影を作った。視界は次第にぼやけてきて、向こう側に見える森の木は歪んできて、夜空には亀裂が入ってきて、そしてぼくの身体は霞んでいく。
手に持っていたナイフはいつの間にか消えていた。そのナイフを持っていた感覚も消えていた。
安曇野さんは、またぼくの方をみて、そして悲しそうな表情を見せた。真っ黒のショートヘアと、きりり、とした黒い目が、こんなぼやけた明るい光に包まれた中でもはっきりと目立つ。こんな、ぼくの感情が、もう心許なくなってしまった身体の中でぐるぐるめぐって溢れそうになっているというのに、やっぱり綺麗な人だ、なんて疚しくも思ってしまう。
「少年」
安曇野さんは、そう言って立ち上がって呆然とするぼくを抱きしめた。安曇野さんの体温がじんわりと伝わって、そして髪のほんのりと甘くて爽やかな香りが、すうっ、とぼくを包んだ。
「ごめんね」
嘘つきだ。
安曇野さんは、ずるい人だ。
ぼくは涙をこらえる。それは、彼女への反抗だ。ぼくは涙をこらえきれない。それは、彼女への、なんなのだろう。
世界の終わりは、こんなはずじゃなかったんだ。
安曇野さんの体温が、ぼくにじんわりと染み込んでいく。あのとき感じた体温だ。安曇野さんの吐息がぼくの首にかかる。
「ねえ、安曇野さん」
ぼくは、安曇野さんの肩に手をかけた。
「なに?」
「楽しかった?」
安曇野さんのぼくを抱きしめる力が少し強くなった。
「すっごく」
こうしてぼくの夏は、ぼくの世界は、そして、夢は終わった。跡形もなく、救いもなく、ロマンチックな情もなく。
夏は終わる。世界も終わる。
安曇野さんの体温が、次第に感じられなくなっていく。
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