第10話(1)夏の終わりとサヨナラ

(十)


 山頂へと続く道は、ぼんやりとオレンジ色の光によって照らされている。木々は紅葉したかのような色となる。進むたびに、光の色がさらに暖かみを帯びて幻想的になる。分かれ道はいくつもあるけれど、ぼくは迷うことなく光に誘われるように進んでいく。

 足はどうしてだかすいすいと進む。さっきまで震えていたくせに。そのことなんてもう忘れている。森はさらに深くなる。街の色なんてものはそこには存在しなかった。月明りと、木々と、石段と、オレンジ色の光と、虫の声と、夏の残り香の生み出す不思議な空間。通り抜ける風は何も混じりけの無く、澄んだもので。

 この世界はいったいなんなのだろう。

 キツネが眠って十年間。ぼくは生きていた。それは確たることである。それ以前の記憶は、勝手に誰かが作ってくれたものなのかもしれないが、この十年、ぼくは確かに生きていた。

 死にたいと思うこともあったけど、生きている価値もないと思ったこともあったけど、毎日起きて、小説を書いて、食べて、寝て、起きて、夏になって。安曇野さんと出会って、狸と出会って、ナツキちゃんと出会って、みんなでどこかへ行って、夏をして、また一緒にどこかに行こうなんて言って。

 次第に歩くスピードが速くなる。息も切れ始めるけれど、それでも速くなる。むこうからたくさんの木がやってきてぼくの傍を通り過ぎる。光の球体がぼくの傍を通り過ぎる。

 すると、道の真ん中にキツネが現れた。綺麗な黄金色の毛をした、小さなキツネだった。

キツネは、きゅーん、と鳴いてぼくをじっと見る。

 なんだ、この道は。なんだ、この光は。なんだ、このキツネは。

夢?

 でも、夢だったとしても、覚めない夢があってもいいんじゃないか。

 ぼくはまだ、この夢を見続けていたい。



 トンネルの終わりは突然現れた。そこを抜けるとぽっかりと森に穴が空いたような空間に出る。見えたのは石造りの、ぼくぐらいの高さがある段。進んでみると階段になってる部分がある。そして、その先には大きな、朱色の門のようなものがある。

 鳥居、だ。あのとき、安曇野さんが言っていた形のものがそこにある。

 家一つをすっぽりとはめることが出来るような大きさの、朱色の鳥居がそこにある。神様のための門のようなものであると安曇野さんは言っていた。しかし、肝心のその鳥居はくぐれるようなものではない。柱と柱の間、門となってくぐるところはガラスが貼られたように光っている。遠くからでも、その鳥居を潜り抜けることが出来ないということはわかる。

 なんだ、あれは。

 そして、ぼくの心を揺り動かしたのがもう一つ。その柱にもたれかかっていた、安曇野さんの姿。

「遅かったね、少年」

 ぽつり、と安曇野さんは呟いた。

 言いたいことはたくさんあった。聞きたいことはたくさんあった。歩きながらそれをずっと考えていた。これを言おう。これを聞こう。すると安曇野さんはこう返すからこう言おう。こうしよう。また、これを聞いて、こう返されて。

 完璧だったはずだ。ぼくの頭の中では全て上手くいっていた。こんな夢のような道をたどりながらも、ぼくの頭の中だけは冷静で、だから完璧なシナリオが描けていたはずだった。

 だけど、安曇野さんがそこにいる。白のポロシャツとオリーブ色のロングスカートの安曇野さんが、そこにいる。初めて出会ったあのときと同じ姿の安曇野さんがそこにいる。

言葉が出ない。あれほどいろんなことを考えていたというのに、言葉がもう、もとから何もなかったかのように出てこない。言葉なんてものがもとから存在しなかったように。

「久しぶり。そうでもないか」

 安曇野さんはスカートをぱんぱんと手で払い、もたれかかっていた柱から背を外した。辺りに明かりになるものはないけど、鳥居がオレンジ色の光を仄かにまとっているから、安曇野さんの表情はよくわかった。

ぼくを見下ろす安曇野さんの顔は、今が世界の終わりになるなんて全く思わせないほど穏やかだ。二人で夜道を散歩したときのような、鴨川の流れを見ながらコーラを飲んだときのような、優しくて、頼りがいのある、あの表情。

 安曇野さんに釘付けになるぼくの目。安曇野さんは、優しく微笑み、そしてぼくを石段の上へと手招きする。その動きの一つ一つが、美しくて、キザで、趣がある。クラシック映画の中の世界のような、その空間。だけどコマ数だけは異常に多くて、その動きがぼくの意識からなくなる瞬間が一つもない。

 ぼくは石段に足をかけた。そうしようとする意志もなく、何かに操られるように。それが映画のワンシーンであるように。それがもう決められたストーリーであるように。ひとつ石段を上るたびに、ぼくの身体にまとわりつく光の密度が高くなる。その不可思議な雰囲気にのまれていく。夢を見ているように、世界が覚束ないものになる。

 石段の上は舞台のようになっていた。その真ん中に鳥居がどんと構えている。安曇野さんは、その鳥居の前で、両手でバールを持って立っていた。どこかのガレージから盗んできたものなのだろうか。その細い身体と洒落た服には似つかわしくない、錆びて物騒な香りがするものだった。片手にナイフを持ってるぼくが言うのもなんだけど。

「あれ、怪我してるの?」

 安曇野さんはそう言ってぼくのもとへ近づこうとする。ぼくは思わず一歩足を後ろに出してしまう。それを見ると安曇野さんは、何かに気づいたように眉を上げ、そして表情をまた落ち着かせた。仕方ないか。彼女は確かにそう呟いた。ぼくに聞こえない程度の声で。

「こうやってアマ君と喋るの、なんだか久しぶりな気がするな。一週間ぐらいだっけ」

 安曇野さんの言葉はやはり、そんな雰囲気に飲まれるでもなくいつも通りだ。ぼくはその言葉になら答えることが出来た。いつもの安曇野さんと会話するような気持ちで。ぼくは口を開くことが出来るようになる。

「そんくらいかなあ。突然消えるからびっくりした」

「私だって別に、突然消えようとしたわけじゃないよ」

 安曇野さんは、にい、と笑った。いつものあの笑顔だ。ぼくが何かを言うと、その笑顔で対抗してくる。逆に、安曇野さんは誰よりも子供っぽいんじゃないかな、とたまに思う。

「何してたん、今まで」

「狸と一緒に逃げてたよ、いろいろ、あってね」

「心配した」

「ごめんね、アマ君。でも、ご覧のとおり私は元気」

 安曇野さんは両手を広げた。相変わらず、腕も首筋も細くて綺麗だ。それでも、その頼りがいのある姿を見るとたまらなくなってくる。寄り掛かってしまいたい。手を引っ張ってほしい。そういうどうしようもない甘えがぼくの中に生まれてくる。

「ナツキちゃんとデートはどうだった?」

「あれ、お祭り行くこと言ったっけ」

「都路里に行ったその日のうちに言ってたから、なんかすごく嬉しそうなアマ君」

「そやったっけ?」

「男の人が都合悪いこと忘れるフリをするのは、中学時代からもう始まってるんだね」

 頭を掻くぼくを見て、安曇野さんは誇らしげな顔をする。

「図星でしょ」

「なんか恥ずかしい」

「別に隠すことでもないでしょ。楽しかった? お祭り」

「うん、浴衣がめちゃ可愛かった」

「いいなー。ちゃんとエスコートしてあげた?」

「それは、わからん」

「ダメだよ。まあ、アマ君がダメなのはわかりきってるけどね」

「うん。無理無理。ぼくには無理。でも楽しかった」

「うん。まあ、一番大事なのはそこよ。デートってもんは」

「安曇野さんは『デート』って言葉好きやなあ」

「いいじゃん。『デート』って響き。特別感があって。特別なことって多ければ多い方がいいでしょ。毎日が特別だったら素敵じゃない?」

「そんなもんかなあ。なんか重さもあるけれど」

「でも可愛い女の子と二人で遊ぶか、『デート』するか、だったらどっちがいい?」

「デート」

「ほらあ」

 いつものような何気ない会話だった。例えば夕食後にするような。書いていた小説を批評されながらするような。思い出すのは安曇野さんと過ごした日々だ。

 ぼくの毎日は、それはもう退屈だった。生きているだけ無駄だと思うことにしていた。生きることに労力を割くのが格好悪いと思った。それぐらい、くだらない毎日だと思っていた。 

何も生み出せない。何も生まない毎日。夏が来て、秋になって、冬を感じて、そして春を迎え、また夏が来るのを繰り返して、それを傍観することに慣れてしまっていて――。だって、生きる意味なんてないから。

 そんなの、言い訳だった。

 意味のない人生とか、くだらない毎日とか、勝手に決めつけて。自分が真っ当に生きられる自信がないということに目を瞑って。それが楽な生き方だと思っていたんだ。そうすれば、このなんだか満足いかない自分の日々を正当化できると思っていたんだ。何もしない、何も言わない、自分の日々を。

 でも、安曇野さんと出会ってしまった。

 生きる意味とか、存在意義とか、そんなの考えるだけ仕方ないと思った。

 安曇野さんに手を引かれて、いろんなことをした。いろんなことを話した。毎日の密度が濃くなっていく。時間が経つのがあっという間になる。退屈なんて言葉を言う暇がない。そんな暇があれば、ぼくは誰かに「明日は何すんの」と聞いていたい。

 ぼくは明日のことを考えたくなった。

考えるのは、それだけでいい。

「来年も行きたいなあ。安曇野さんも一緒に」

 シナリオ通りではなかった。でも、ぼくは自分の気持ちをようやく言葉にすることが出来た。それは、安曇野さんがいつも通りの安曇野さんだったから。ぼくの知ってる安曇野さんだったから。ぼくが、また明日この世界で一緒にいたいと思う安曇野さんだったから。

 そうだ。安曇野さんはきっと、頷いてくれる。

 この一角は虫の声も届かない。風の音も聞こえない。この空間だけ、世界から切り取られたような心地になる。鳥居が放つオレンジ色の光が、安曇野さんの表情に影を落とす。安曇野さんの輪郭を、煌々と光が包んでいる。石畳についた苔。錆びついた燭台。捨て置かれたように見える小さな祠。その空間の中に、ぼくと安曇野さんは向かい合って立っている。世界と、世界の間の、ぼくたちだけの世界。

 そして安曇野さんは、少し困ったように笑った。

「そうだね――」

 凛とした、張りのある声だった。ちょっと、不安になるぐらい。


「ごめんね」


 ごめんね――。

 世界が崩れる音がした、気がした。

 安曇野さんはそう言って、バールを両手でしっかりと掴んでその先を彼女の足元に向ける。それが、ぼくと安曇野さんとの間に大きな壁を作るように。ぼくの足は固まってしまう。もう、安曇野さんに一歩も近づけないと思った。そこには大きな壁がある。

「安曇野さんは――」

 ぼくの言葉も届かなくなるような、大きな壁が。


「私は、元の世界に帰るから」

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