第9話(2)来年の夏には、みんなで海に行ったりさ
狸とぼくは近くに備え付けられていた青いベンチの方へと向かった。夜景を背にして座ると、鬱蒼とした山の木々が目の前に広がって面を食らう。狸は獣の姿のまま、ベンチに座るぼくに背を向けてお座りをした。その獣の毛並みの反射は蛍光灯の光のものだが、月明りの色味を帯びているような気もしてくる。
「今までいろいろ黙っててすまんかったな」
狸は口を開いた。口を挟むことが憚れるような、落ち着いて、そして重みのある口調だった。
「坊主には何もかも知る権利があるし、そんで、選ぶ権利もある。今から、話す。全部。この世界のことも、ワシの罪も、安曇野ナツキのことも」
聞こえてきたのは、秋の虫の声だった。少し早いと思ったけど、そういえば夏ももう終わりなのだった。山の中だからか、空気も街のそれと違って澄んでいる。この澄んだ空気の中では、夏の香りも微かなものになっていた。
ここは季節が純なものとして感じられる場所だ。季節は移り変わっていく。夏はもう終わる。
「はっきり言う。あの蛇の言う通りや。この世界は、神様の夢の中や」
あの男の本当の姿は蛇であると狸は補足した。
「この世界は、キツネが十年ちょい前に生み出した世界や。お前には十年以上前の記憶があるんかもしらんけど、それはキツネが生み出した設定みたいなもんなんやな。お前は、だから実は十年しか生きてへん。父親も、や。そういう世界なんや。全て、作り出されたものが、そのまま作り出された意志で動いて、十年という歳月を経て勝手に発展した世界や」
作り出された世界。その言葉が重くて苦しい。つまり、ぼくという存在も、ナツキちゃんや、父も母も、十年前に「そういう存在」として作られ、そしてそれに気づかぬまま生きていた。
胸に穴が空いて、風が通りすぎるような気分だった。虚しい。ひゅう、と虚しい音が鳴る。
「キツネは、もともとは守り神や。でも眠ってしまったんやったら起こさなあかん。それがワシの役目や。キツネを起こすには、夢に入り込んで、そして眠りこけてる原因となってるものを探るしかない。そんで、目を覚まさせる。この世界を終わらせる。それが、ワシの使命や」
そのときからだろうか。狸の声が、妙に、とぎれとぎれになっていく。一言一言、振り絞って出すように。その声は湿っぽくて、そして悲しい色をしていた。
「ワシは、それが、出来んかった。この世界を、終わらせるなんて、出来んかった」
獣の姿がみるみる小さくなっていく。骨格が変わり、顔の大きさが小さくなり、毛並みに張りがなくなり、ぼくより大きな姿がいつの間にか、ぼくの足元に収まってしまうような、あの小さな狸の姿となった。
「ワシは、この世界を、壊したくなかった」
狸の背は、いつもよりも小さく見える。月明りがぼくと狸の小さな影を作っている。苦しかった呼吸も、痛かった脇腹も、それよりも痛むもののせいですっかり忘れてしまう。
虫の声が、寂しくこだました。誰も反応することがないというのに、虫の声は鳴りやまない。
「だから安曇野はんをこの世界に連れ込んだ。ちょうど、あっちの世界の稲荷山を登ってた安曇野はんを。誰でもよかったんや。この世界から出ようとしてくれる意志のある人やったらな。この世界を壊してでも、外に出ようとしてくれる人やったら。ワシの代わりに、この世界を壊してくれる人やったら――」
「ほんまに、すまん」
それ以降、狸は黙った。ぼくも、何も言えなかった。沈黙。果てしなく続くような沈黙。どんどん沼に落ちていくような、どんどん胸に冷たく暗いものが染み込んでいくような、沈黙だ。
でも、この沈黙が終わればまた何か大事なものが壊れてしまうような気がした。
こういう日に限って、空は晴れて風が心地よい。せめて蒸し暑くて鬱蒼とした空ならば、ただ暗い気持ちのままずっといられるのに、いやに清々する空だった。自分の心の色がはっきりわかってしまうぐらいに。
しばらく時間が経った。そよ風が、あたり一面の空気を一新させたぐらいの時間だ。
はあ、とため息をついてみた。それが、あたかも最後のため息であるかのような気分で。ぼくの気持ちが少し落ち着いたのだと思った。やはり脇腹が痛い。なんだか笑ってしまいたくなった。ぼくは狸の背に向かって、声をかけた。
「安曇野さんは?」
狸は背を向けたまま答えた。
「山頂で、お前を待ってる」
「山頂?」
「そう。そこに行けばわかる。山頂にな、この夢をずっと塞いでるもんがあんねん。多分、キツネの神が、勝手に眠り続けるために、夢が覚めないために、作り出されたもんやなあ。誰が拵えたんや。ほんまにな」
安曇野さんが待っている。
彼女の真意はぼくには全くわからない。どうしてぼくを待っているのか。この世界を終わらせたくないから? それならばこの山にどうして上ったのか。元の世界に戻りたいなら、ぼくなんかを待たないでとっとと行けばいいのに。
全く、みんな勝手だ。狸も、あの男も、安曇野さんも。何が目的なのか、どうしてこうもぼくを左右するのか。わからないなら、確かめに行くしかない。
立ち上がった。傷跡はやはり痛んだが、先ほどみたいに足が震えて前に進めないというわけではない。山頂まではやはり少し距離はあるけれど、まだその体力は残っている。男と争った場所に向かって、懐中電灯を拾い直した。そこに血の付いた大きなナイフもあったので、手に取ってみる。ずしりと重いが、金属バットよりかはマシだと思う。護身用だ。ぼくはその二つを手に取って、先へと続く石段、木のトンネルのほうへと向かった。
「待てや」
すると、狸がぼくの前に立ちはだかった。蛍光灯に照らされたぼくの影の先に、狸の姿がある。
「ワシは、でも、ここでお前を通すわけにはいかんのや」
狸の声は震えていた。
「な、なんで――」
「男として、神様として、せなあかんことや」
狸はそう言うと、牙を見せ、そしてぐんぐんと大きくなっていく。骨格が変わり、顔も置きくなり、毛も逆立ち、先ほどの恐ろしい獣の姿になる。
大きな影がぼくの前に生まれた。
それは、先ほどの小さな狸の存在など思い出せなくなるぐらいに圧倒的だった。眼も、牙も、その大きさだけでぼくを威圧する。思わず、足が後ろに出た。前に進めない。体重も前にかけることが出来ない。獣の周囲だけ空気の重みが違う。息を吸うことすらも出来るわけがない。
「先を行きたかったら、ワシを、殺してから行くんや」
その声は震えているけど、その眼は本気だった。
「なんで、そんなことすんねん!」
「わからん! わからんけど、ワシはせなあかんねん!」
「ほんまに、勝手すぎるやろ! 神様なんやろ!」
「せや。勝手な神やわ! しょーもない神やわ! せやから、最後ぐらい、しっかり仕事するわ、ボケ!」
怖い。
足が震えた。傷口が痛んだ。もう一歩後ろに下がってしまった。ナイフを持つ手に力が入らない。
逃げたい。
どこへ?
どこに行ってももうダメだ。世界は終わるかぼくが死ぬ。逃げたい。過去だ。過去へ。あのときに。ナツキちゃんとデートしたあのときに。狸とバスで喋っていたあのときに。安曇野さんと疎水沿いを歩いたあのときに、みんなで素麺を食べたあのときに。父と安曇野さんと花火をしたあのときに。安曇野さんとコーラを飲んだ、あのときに。
「もう、戻れへんのかなあ」
ぼくの震える、懇願の声。耳に入っても鼓膜を震えさせる力がないような弱弱しい声。お押し寄せる感情が、そんな声や、汗となって、ぼくの防波堤をゆっくりと壊していく。
「もう、あかんねん」
狸は、また震える声で呟いた。
「ワシも、お前も――」
狸の足も、震えていた。
そして、勢いをつけて狸は、ぼくのほうへと駆けだす。大きな口を開けて。がうっ、と声を上げて。
ああ、だめだ。
ぼくは、もう目を閉じるしかなかった。
どん。
足に何かがぶつかった感覚がした。小さな何か。サッカーボールのようなもの。
全ての意識が途絶えて、自分が今どこにいて何をしているのかがわからなくなった。温度の感覚も、時間の感覚もまるでない。
ただ、足に何かがぶつかった。それが何かわからない。どうしてそういうことになったのかも、まるでわからなかった。
少し間を置いて、ぼくは目を開けることが出来た。そのときに、全てを思い出す。夜。夏。木々。風。虫の声。
そうだ、ぼくはここで、安曇野さんを追いかけて、あの男に刺され、狸と出会って、そして狸が獣になって、ぼくを食い殺そうとして――。
目に映ったのは、夜の稲荷山と、ちかちか光る蛍光灯、古ぼけた茶屋、ソフトクリームの置物、赤い布のかけられたベンチ、砂埃の舞う地面、倒れたスーツを着た男。
そして、ぼくの足元で、こてん、と倒れていた小さな狸の姿だった。
「あかん。ライフゼロやわ」
狸は力なく、自嘲するように笑った。
「これでも、人とか神とか、殺すのは、初めてやってんで。気力も体力も、もうあらへん。でっかいもんに変身するもんとちゃうわ」
狸の笑み。それを見て、こみ上げてきたのは、罵倒の言葉でも励ましの言葉でもない。汗でもない。力でもない。
涙だった。
「アホちゃう?」
「せや、アホやな」
目頭が、熱くなった。涙の止め方が、わからなかった。どうして、泣いているのかも、ぼくは、分からなかった。力なく倒れる狸の姿は、いつもより、も、小さく見える。土がついて、みすぼらしい。それが、悲しい。寂しい。上手く、言葉も作れない。
「ほんまにアホや。アホや。アホダヌキや」
「アホアホうるさいねん、ワシは頑張ってんぞ。何千年生きて今一番頑張ったわ」
「何千年も生きてるのにアホや」
「アホ言うもんがアホや」
「そんな小学生ちゃうわ」
「知ってるわ。アホ。童貞」
「関係あらへん」
「大ありや。童貞が移る」
ぼくは屈んで、狸を拾い上げて抱え込んだ。思っていたよりも軽かった。この場で軽くなったような気にもなった。「ほっとけ、アホ」と狸は言うが見捨てることは出来なかった。ただ、狸を抱えて歩くのはつらかった。ぼくは狸をベンチの上に置いた。狸は、ふう、と息を吐くと、「すまん」とただ謝った。
「ここから先は一人で行き」
じっとこちらを見つめる狸の言葉を受け止め、ぼくはすんなりと頷いた。それを見ると狸は満足そうな笑みを浮かべる。やはり、表情豊かな狸である。涙はすぐ止まった。ぼくはナイフと懐中電灯を再び持って、狸に背を向けた。
足は震えるし、腹は痛いし、少し気持ちが悪いし吐き気もする。でも、行かなきゃいけなかった。
「行ってらっしゃい」
狸の声に、ぼくは片手をあげることで答えた。それがちょっとかっこいいと思ってたから。
「頑張れよ、坊主」
狸の表情が見えなくなった距離で、また声がした。
「お前なら、出来るで」
山頂へと続く道は、どうしてだか、オレンジ色の光の玉がぷかぷかと浮いて、道を照らしていた。
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