第9話(1)来年の夏には、みんなで海に行ったりさ
(九)
深草駅の周辺は暗かった。先ほどまで、人や提灯の灯がごったがえして賑やかだったお祭りの中にいたのだから、余計にそう思うのかもしれない。車すら通らない。例えばお化けが出るなら今なのだろう。それほど暗くて静かで、ぼくの心がどんどん色を失うような心地になる。
家に着いたころにはもう時刻は二十二時を回っていた。ぼくはガレージに向かった。そこには懐中電灯と金属バットがある。父が愛用しているもので、少しへこんだあたりの塗装は剥げて錆が出来ている。念のため。振り回し方なんて知らないけれど、持っているだけで少し勇気が出た。夜の稲荷山には何がいるかわからない。備えは、あったほうがいい。
「なんや、秘密特訓か」
すると、家の玄関のほうから父が姿を現した。
「真剣な顔して、なんかあったんか」
ぼくはぶるぶると首だけを振る。相変わらず嘘をつくことが得意ではない。何も言わないほうが得策だ。ただ、単に言葉が出なかったから、それしか出来なかったというのもあるけれど。
「どっか行くん?」
「うん」
会話は別に続くことはなかった。扉の前に立つ父は、蛍光灯に照らされて影ができて、表情があまりよくわからない。ただその物腰は落ち着いていて、頼りがいがあった。
「気ぃつけや。最近物騒やし、いや、バット持ってるお前の方が物騒やけど」
「ありがとう」
父は何も知らない。だけど、別に何かを知るべきではない。これまでのこととか。これからのこととか。ぼくが言うべきではない。だからぼくは何も言わずに去ろうとした。でも、父を背にすると、この家を出るのが急に不安になってしまう。
振り向くと、父はまだ扉の前で立っていた。蛍光灯には蛾のような小さな虫がちらちらと集まっている。その隣で父はたばこに火を点けた。ラッキーストライク、という銘柄だと安曇野さんに教えてもらった。どういうもの? と聞くと、お洒落ぶった阿呆が吸うもの、と安曇野さんは笑って言った。
なんだか、今、どうしてか自然と言葉が溢れ出る。別に、言うつもりなんてまるでなかった言葉ばかりが溢れ出る。
「なんかわからんけど、今ならなんでもできそうってとき、ある?」
父は間を置かず答えた。
「ある」
威厳のある声だ。だけど、落ち着きがある。
「そのときの男は最強や。俺にもあった。最強の瞬間が」
「いつ?」
「お前の母さんにプロポーズしたときやな。土下座しながら。あのときやったら天守閣建てれたわ。知らんけど」
アホや、と呟くと父はうんうんと頷いた。風があるのでこの夜は少し涼しい。昼間の暑さをどこかへ吹き飛ばしてくれているのだと思った。
「なんか、今やったらぼくもなんでもできる気がすんねん」
「犯罪だけはやめときや」
「流石にそれはなあ」
「まあ、なんでもやったれ。男はな、なんでもやってなんでもな男になんねん」
「無茶苦茶や」
「あっ、なんもできんときはなんもすんなよ。無理すんなって言うけど、無理やから無理に決まってるやんな」
「なんか父親が言うことちゃうやん、いつも諦めんな、とか言うもんやろ」
「いや、諦めるときは諦めなあかんぞ。ワシも働くん諦めてるし」
「アホか」
「まあな、アホやで」
ぼくの父はアホだ。いい年なのに、真面目には働かないし、トカゲを見ただけで大はしゃぎするし、神社での拝み方も知らないし、傷跡はウォッカで消毒しようとするし、神様にも変なあだ名をつけるし、ぼくのこともなんにもわかってない。だけど、どうしてだか頼りがいがある。ぼくは父を頼りたくなる。こんな父でも、ぼくは結構好きなのかもしれない。
「ワシはなあ、いつでも今を最高にしたくて、頑張ったり諦めたりしてるからな。いつ死んでも後悔がないぐらい生きたいやん、もう、今が最高って続くようなもんをなあ」
「でも、楽しみが先にあるのもええやん」
「いーや、よくないわ。貯金はすぐ減るし、予定は実行されるまでいつでも未定やん」
「そんなもんかなあ」
「そんなもんや、人生。知らんけど」
そして、「じゃあ、行ってくる」と言って、ぼくはそのまま走り出した。「いってらっさい」と父は手を振った。安曇野さんと帰ってきたら、この父と一緒にお酒でも飲んでみよう。ぼくでも飲めるお酒を安曇野さんに買ってもらおう。
伏見稲荷大社なんて、ぼくの家からは走ればすぐ着く。大きな駐車場を通り過ぎて、広い石畳の参道を歩く。この辺りはまだ街灯があるけれど、それでも境内はしんと静まり返っているから、ずっと暗く感じられる。そこらに建てられた大きなお社も物々しさがある。少し怖い。でも、そんなこと言ってる場合じゃない。ぼくは境内の奥へと進んだ。
結局のところ、安曇野さんの伝言の意味はまだわかってない。でも、きっとこれが何かの始まりで、何かの終わりだということはわかる。
だけど、それがなんの始まりであれ、なんの終わりであれ、ぼくは狸やあの男の言うようなシナリオに従うつもりはない。
奴らの言葉が本当なら、安曇野さんはこの世界を終わらせるためにやって来た。それがどういう経緯かなんて知ったこっちゃないけれど、そんなことぼくは黙って見過ごせない。
世界を終わらせればならないなんて、そんなことがあっていいわけがない!
終わらせなくて済む方法はきっとあるはずだ。安曇野さんがまたぼくを笑って、ぼくがちょっとそれに反抗するようになって、それでけらけらと互いに笑うような時間を続ける方法が。
だいたい、安曇野さんがこの世界を終わらせるなんて、そんなことあるはずない。
稲荷山の入り口は境内の奥にある。いくつかある拝殿を通り過ぎたところに、木で出来たトンネルのようなものがある。山の奥へと続く階段だ。途中までは足元を照らすランプのようなものがそこかしこに置かれているのだが、その数も次第に減っていくので懐中電灯で足元を照らしながら山を上る。
稲荷山の空気は夜のそれとはまったく違う。木々のトンネルを抜けていくのが、なにかに誘われるような感じがする。進むたびに、木々に帰り道を塞がれていく気がする。振り返らないからわからなかったけど。
一つ、二つとトンネルを抜けると、四つ辻というところに出る。山でいうところの、何合目などというところだろうか。
広場に出ると、京都の夜景が一望できる。
不思議な光景だった。広場はとても暗いのに、京都の街は明るい。その景色だけ切り取られてここまで運ばれた空間のような感じがする。
辺りは砂埃の舞う少し広い広場だった。ベンチがいくつか置かれているけど、錆びついているせいであまり座ろうとは思えない。古ぼけたお茶屋さんは今でも幽霊が出そうなぐらい不気味だった。ソフトクリームの置物が倒れているのがもの悲しい。
ざっ、と足音がした。勿論とてつもなく驚いた。心臓が一度に送り出す血液の量を誤ったんじゃないかという動きを突然する。
足が硬直した。視界が暗くなった。懐中電灯を落とした。少し間を置くと、目がもとに戻った。
その落とした電灯の明かりがさした方向を見ると、人影があった。
あのとき、大宮大橋で出会ったあの男だった。
「ああ、やっぱり来たんだね」
男は以前と同じ服装で、先へと続く石段の入り口の前に立っていた。どうしてこの男が、ここに? 不吉な予感がした。その予感が何なのかわかる前に男は言葉を重ねた。
「困っていてね。山頂までの道がわからないんだ」
その男の口調は無機質で暖かみなどまるでない。細い目は本心を隠すためのもののように思える。身振り手振りも、どこかしら嘘臭さがある。
「俺も君と同じで、安曇野ナツキとあの狸を探しているんだけど、京都は初めてでね」
ふふ、と男は笑う。でも、目が全く笑ってないのはぼくでもわかる。
こいつは、信用してはいけない。
ぼくはバットを両手で握った。刀の先を向けるような、バットの使い方をまるで間違っている持ち方だ。そのぼくの姿を見て、男は、おや、と眉を上げた。少しだけ男の眼が見えた。
「まあ、そう焦っちゃやだよ。俺もこれでも一応神様なんだからさ」
「神様?」
男の言葉をそのまま返すと、男は少し満足そうな顔をした。
「そうそう。正確には狸と一緒で神様の使いなんだけどね。あちこち回って神様同士の調停をしているのが俺の仕事。わかる? 何かな、秘書みたいな?」
ぼくが何を言わないのをいいことに、男はそのまま言葉を続けた。
「キツネは伏見稲荷を住処とする、京都を守る神様の一体なんだよ。前も言ったけど、それが十年ちょっと前からどういうわけか眠りこけてるんだ。狸はそれをなんとかするために派遣された使いなんだよ、俺は狸の仕事の遅さの様子を見に来たお使い」
はあ、と男はわざとらしくため息をつく。いちいち鼻につく話し方をする。バットを持つ手に力が入る。それは、手が震えているからというのもある。
「敵意むき出しだねー。仕方ないけどさ。俺も狸も安曇野ナツキも、元の世界に戻るためにはさ、キツネが目覚めるしかないんだよねー。そしたらさあ、方法がわかったっていうのに、あの女がね、八月の終わりまで待ってくれって。勝手だよ、ほんとに」
「安曇野さんが?」
男は、またわざとらしくため息をつく。ぼくに見せつけるように。
「君に話がしたいらしいよ。でもねえ、やっぱりあの女は、どーも夢を覚まさせてくれなさそうなんだよね。だから俺がさ、直々に――」
よし、と少し勇気が湧いた。こいつは単純に、敵だ、と確信が持てた。
いつの間にか足の震えも止まっていた。そうだ。今のぼくに恐れるものなんてないんだ。
バットもあるし、いたって冷静だから策だっていっぱい考えられる。自信があるときは自分の能力以上のことがまぐれで出来たりするものだ。今日はそういう日なんだ。だいたい、こんなところでこんなやつに邪魔されるような話なんかあってはならない。
男の眼は、ぼくを見下している。馬鹿にするな。なにが神様だ。そんな弱そうな人間の身体で。武器のあるこっちのほうに分がある。
ふう、とぼくは呼吸を整える。そうだ、ぼくは今落ち着いていて、そして武器があって、勇気もあって――。
すると男は、ふーん、と言って、くすりと笑った。
「道を教えて、って言おうと思ったんだけど、無理そうだね。まあいっか」
その手には、どこから出てきたのか、映画でしか見たことがないような、前腕ぐらいの大きさのサバイバルナイフ。
「俺もちょっと中二病みたいなとこあるからね」
ちょっと待っ――。
ざっ。
土を蹴る音。消えた男の姿。深くなる夜の闇。突然訪れた静寂。なにも聞こえない。葉の揺れる音も、虫の羽ばたきも。
熱い。感じたことのないような熱さ。触れているというわけではなくて、内側からじりじりと熱されていくような感覚だ。
なんだ、これ。熱い。痛い。自分のお腹に、何かがある。痛い。熱い。なんだ、これ。
ナイフ、だ。
「あぁぁああああああああああああっ!」
ぼくの目の前で屈んでいた男。そして、手にあったナイフが、ぼくの腹に突き刺さっている。
感覚が、全ておかしい。
硬直する身体――開いていく全身の汗腺――嘔吐感――重くなる頭――とぎれとぎれに停止する思考――からん、と、空々しい音をたてて倒れるバット――ぼくの血、の温度。
「がはっ、げほっ、ああああああ!」
男は、にい、と笑ってナイフを抜いた。
痛い――。
悪魔、だ――。
なにが、神だ――。
ぼくの膝はがくんと折れて、身体はそのまま崩れ落ちる。屈んで、土をじっと睨む。顔を上げることができなかった。前を向くことができなかった。
「邪魔されちゃあ困るんだよねぇ、マジ」
温度の無い男の言葉。なんだ、なんだそれ。だからって、こんな理不尽なことが。
言葉が出ない。何を言おうにも叫びにしかならない。ああ、とだけ声が漏れる。
目には地面と、男の履く黒の革靴しか映らない。ただ、ぼくを見下す視線は嫌と言うほどに背中に突き刺さっている。
「ここで、ずっと世界の終わりを待っている?」
なんだそれ。どうしてお前なんかが、全てを決めつけるんだ? どうしてぼくは何も出来ないんだ? 結局、ぼくは、なんにも、でき、な――。
「世界が終わる前に終わっちゃうほうが楽かな? ねえねえねえ!」
これが、そんなぼくの限界だったのか?
どんっ。
鈍い音だ。刃物の刺さる音って、意外と暴力的な音だ。
感覚がない。どこに何があるのかわからない。
ひょっとしてもう死んでしまったのか?
意外と意識はあったりするものなのか?
どんっ。
音の鳴る方へと目がいくように、首が自然に動いた。見えたのは、男の膝が地に着く瞬間。
なんだ、これ。ぴっとりとぼくの顔に生温かい液体がひっかかる。
血、だ。
男のシャツに血がついている。その血は男の方から、やってくる。一体、何が。
「あ、ああああああああ」
男のうめき声。初めて男の声に色味を感じた。
それはどす黒い、絶望の色だ。
ようやく、ぼくの目はその光景を捕らえた。獣だ。見たことないぐらい大きな獣。大人の人間をすっぽりと覆いかぶさることが出来るほどの大きさ。顔だけでも、人間の子供の大きさを優に超える、その獣が、男の首に、がぶりと噛みついていたのだ。
「あああああああああああああああ!」
稲荷山に響く断末魔。聞くだけで狂人になり果ててしまうような、悪魔の叫び。ああ、とぼくの声が漏れたが、その叫びにかき消される。
男は獣を振り払おうともがくも、動くたびにその叫びを大きくするだけで、次第に力が弱くなっていく。
「ああああああ……あああああああああああああああ――」
その時間がどれだけ続いたのだろうか。ただ、最終的に、男は崩れ落ちて、力なく倒れ、そして、ついにはその叫び声が聞こえなくなったとき、もう動かなくなっていた。
獣はそのまま男の首から牙を外した。そして、少しぼくと距離を取って、屈むぼくを、じっと見る。なんなんだ、これ。痛みとか、苦しみとか、吐き気とかも相まって、この状況が何を示すのかなんても考えるのが億劫だ。
もう、なんともならないところまで来てしまった。このまま、ぼくを導く何かに導かれるままがいい。
すると獣はこちらをじっと見つめ、そして口を開いた。闇夜の中でも、光を集めて不思議とその表情がよくわかる。
聞き覚えのある声が、獣の口から聞こえてくる。はっ、とした。その瞬間に、ぼくの意識が頭の奥底に集中した。
「坊主、大丈夫か」
狸、だ。
「致命傷はわざと避けよったみたいやな、あの蛇。性格悪いやっちゃなあ」
獣はぼくの目の前までゆっくりと歩みよってくる。そして、くんくんと鼻を動かしながらぼくの前にその鼻先を向ける。
声がなかなか出ない、そんなぼくを察するように狸は言葉を続けた。落ち着いた、優しい物腰だ。とてつもなく大きな獣の姿だというのに、この闇の中で唯一頼りがいのある存在だった。
「ちょっと、男同士で話がしたいんや。だから助けに来た。こいつの気配がこの辺にあったから、坊主が狙われるんはわかってたし」
立てるか? という問いにぼくは兎に角頷いてみた。力を入れてみると、意外と立てたのだから不思議だ。力は入らないから、足元はふらふらとしていて覚束ない。情けない、と思いつつ獣となった狸を見ると、その獣の足もどうしてだか震えていた。
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