第8話(2)鴨川デルタに八月は溶けて

 八月の三十日。

 もう夏休みも終わりだ。そう意識したのはカレンダーの日付を見た朝だった。つい一昨日ぐらいまでは一日がとても長かったのに、昨日今日と一日が早い。一秒という定められたはずの単位は、結局のところ誰かが操作しているのかもしれない。

 夕方、ぼくはバスに乗って出町柳まで向かっていた。河原町通りを北上するにつれて、往来の人の数は増えていく。浴衣を着ている人なんても結構多い。どことなく、道行く人の顔は火照っていて、頬を綻ばせている。

 「下鴨納涼祭」が始まったのは、ほんの四、五年前のことである。

 主催は城南宮の古本市を企画した「京都おもしろくし隊」(このネーミングは本当にどうなんだ)京都には、祇園祭や葵祭などの伝統的で大々的なお祭りや、地域の神社で神に感謝するために行われている祭りは多々あれど、例えば打ち上げ花火をあげるような、「ただ騒ぐためだけの祭り」はない、と誰かが声をあげたことから始まったという。鴨川は市街地の真ん中をつっきってるけど、そこでも花火が打ち上げられるような工夫がいっぱい凝らされているらしい。

 賀茂川と高野川の合流する場所にある鴨川デルタをスタートにして、屋台は南の方へと、二条大橋の近くまで続いている。歩いてみればわかるけれど、これはとてつもなく長い。屋台を出す人だけで京都の人口の半分は使っていてもおかしくはない。もしくは、人間以外のなにかが屋台をやっているのじゃなかろうか。鴨川デルタにはステージがあり、そこではミュージシャンやら芸人やらが昼からずっと芸を繰り広げている。ぼくは見たことないのだけれど。そしてみんな「優勝や!」と叫んで鴨川に飛び込んで警察に怒られる。阿呆の祭りとも言われているらしいし、実際去年は父が鴨川に飛び込んで母がドン引きしていた。


 河原町今出川でバスを降りて、待ち合わせの「いせはん」という甘味処まで歩いていく。待ち合わせは十八時。日はまだ暮れないけれど、空気はもう夏の夕方のそれである。風が幾分か出ていた。まだ、じめじめとした夏の風だが、これも次第に秋の香りを帯びていくものである。今はまだ、秋を感じられないけれど、どことなく寂し気な、夏の終わりの香りがした。

 ナツキちゃんはその時間まで高校の友達と遊んで、そしてそれ以降はぼくとお祭りを回るということになっていた。

 十七時四十分にはもう待ち合わせ場所に着いてしまった。しまった、と思いながらもすることがなく、ただ立って待つことにした。暑い、でも我慢は出来るぐらいの暑さだった。それよりも、暑さなんて感じてる余裕すらないというほうが正しい。

 そんな中、風が、すうっ、と通りを抜けた。誰か来た、と直感。その感覚のした方に顔を向けた。しかし、そこに人影はない。河原町今出川の交差点の赤信号が、威厳もなく気だるげに光っているだけだった。はて、と首を傾げたのと同時だった。声がしたのは、足元からだった。


「坊主、久しぶりやな」


 まさか、と思って下を向く。狸だ。狸はぼくの顔を見上げて、そして顎で会釈をした。どうして、今、狸が。足が硬直した。手も首も動かない。ぽかん、と頭を殴られたような気分だ。車が通り過ぎても、その音が聞こえない。

「ひ、久しぶりやなあ」

 思わぬ来客に、狸の言葉を繰り返す以外出来なかった。そして、頭から言葉があふれ出る。聞きたいことが山ほどある。それは土石流のように、ぼくを飲みこむ。

何をしに来た? どこへ行ってた? 安曇野さんは? お前は? あの男は? この世界は? なんだ? いったいなんなんだ?

言葉は出ない。息も出来ない。時が止まったわけではない。ぼくだけが、止まった。信号は変わるし、車は行き来する。狸は、切ない表情でため息をつく。固まってしまったぼくは、その姿をただ見続ける。

「これからデートなんやてな。お前は浴衣着てへんのか」

 何もかもわかりました、みたいな口調だった。狸はぼくの隣に並んで、道路の方をぼうっと見る。なんだ。いったい何がわかっているんだ。どうしてそんなに落ち着いて、まるでぼくを憐れむような感じで。

「安曇野はんからの伝言や」

 なんなんだ。どうして勝手に話が進むんだ。安曇野さんは一体どうしたんだ。お前だけがどうして何もかもわかっているんだ。ぼくは、どうして何もわからないままここにいるんだ。

 本当に、この世界は夢なのか。この世界を終わらせるためにお前はいるのか? この世界を終わらせるために安曇野さんはやって来たのか?

 お前は、何がしたいんだ? 安曇野さんは、何を思っているんだ。

 もう言うんじゃない。言わないで欲しい。聞けば何かが終わるから。聞けば何かがわかってしまうから。物語が進んでしまう。夢が進んでしまう。そして夢が――。

「デートが終わったら、稲荷山の山頂まで来い」

 狸は、ふう、と息を吐いた。煙草なんて吸っていないけど、その息には白いもやがかかった気がした。

「あと、下手にかっこつけなくてもいい、楽しんで、って」

 そして狸は、じっ、とぼくを見た。


「坊主、ワシは、この世界、けっこー好きやで」


 それを言ったきり、狸は姿を消した。

 

 広くなった河原町今出川の交差点から、菜月ちゃんの影が見えた。ナツキちゃんは、小さな歩幅でこちらにゆっくりと手を振りながら歩いてくる。淡い水色の紫陽花の柄の浴衣は、彼女に溶け込むように馴染んでいた。少しウェーブのかかった後ろ髪はうなじを見せるように綺麗に束ねてあげられている。

 可愛いな、と思った。素直に。心の底から。

「お待たせー。丹波君早いなあ。待ちぼうけしてみたかってんけど」

 そんな、馬鹿な話があってたまるか。

 これが夢だって? 嘘だって?

 世界はもう、終わるんだって?


「人多いなあ。丹波君、はぐれんときやあ。あは、ごめん。子供みたいな扱いしたらあかんな。反省反省」

 ナツキちゃんはぼくの手首を優しく掴んだ。

「夏ももう終わりやなあ。このお祭りがあるたびに、夏も終わりやって思うんやろな」

 ナツキちゃんの手は小さくて、そして少し冷たい。

「また寒い冬が来んねんなあ。冬もお祭りとかないんかな」

 少し甘くて、爽やかな香りがする。青林檎のような香り。

「でも、夏だけやなあ。こんなに鴨川が綺麗に光るんは」

 まだ空は明るい。けれど、提灯の光や屋台を照らすライトの光を反射する鴨川の流れは美しかった。

 この世界はもうすぐ終わるかもしれない。

 ナツキちゃんはそんなことを知らないまま、ただぼくに微笑みかけて、何かを尋ねて、返事を待って、そしてまた笑う。

 これが幻とか、嘘とか、夢とか。そんなこと、ありえない。

 何かに心臓を掴まれる。その力がどんどん強くなっていく。そんなこと、ありえないはずなのに。この世界は、ぼくは、決して夢とかそういうもんじゃなくて。

 じゃあ、一体なんなのだろう。

 狸は何も言わなかった。ナツキちゃんのことが好きなくせに、あの男の言葉を否定しなかった。突然現れた男は勝手なことを言うだけ言って消えてしまった。でも、その言葉は少しも嘘っぽくなくて、否定する言葉が浮かばない。そして、安曇野さんは消えてしまった。ぼくに何も言うことなく。ただ、「ごめんね」とだけ言って。

 安曇野さんはどう思っているんだろう。この世界を。この夏を。そして、ぼくを。あの、安曇野さんの、悪戯っぽい笑みも、おでこの温度も、柑橘類を思わせる爽やかな香りも、夢なのだろうか。消えてなくなってしまうのだろうか。

「丹波君」

 鴨川デルタに向かう飛び石を前にして、菜月ちゃんはぼくの顔を覗き込むようにして立ち止まった。はっ、とぼくは足を止めた。

「さっきから顔がしょんぼりしてはるよ。具合悪いん?」

 ぼくは、ぶるぶると首を振る。思いがどうやら顔に出ていたらしい。しまった、せっかくナツキちゃんが隣にいるというのに。

にっ、と笑顔を作ってぼくは「なんでもないんやけど」と明るく聞こえるように返事した。上手くできたかどうかわからないが、菜月ちゃんは「そう」と言って微笑みかけた。

「安曇野さんのこと考えてたんやろ」

「えっ?」

 その微笑みは、真っすぐぼくの目に映る。

「女の子はわかんねんで。男の子が、誰か他の女の人のこと考えてること」

 菜月ちゃんの微笑みは、そのまま見続けるには眩しすぎて、ぼくは目を逸らすしかなかった。

 そんな、簡単な話じゃないんだって、そのときは少し苛々した。そんなこと思いたくないのに。だけどぼくは、それに笑って応えるでもなく、冗談を言うでもなく、「うん」とただ頷くことしか出来なかった。ナツキちゃんは少し意外そうな顔をした。「慌てるかと思ったのに」だって? 違う。そういうレベルの話じゃない。

 これはぼくが安曇野さんをどう思っているかとか、安曇野さんがぼくをどう思っているかとか、そういう話じゃない。安曇野さんが、この世界を滅ぼすかもしれないんだ。そういう次元の低い話じゃないんだ。どうしてそんな呑気な顔でいられるんだ。その微笑みだって、消えてなくなってしまうかもしれないのに。記憶だって、なかったものになってしまうかもしれないのに。

「丹波君? ほんまに、大丈夫?」

 大丈夫なわけ、あるか。ぼくは、安曇野さんが消えてから、ずっと、ずっと。

 ぱん。

 小さな、破裂音がした。どこかで聞いたことのあるような、何かの弾ける音だ。辺りにこだまする軽快な音。その音を聞いてから、時間の流れがスムーズになる。わっ、という歓声がぼくの顔を空に向けさせた。いつの間にか暗くなっていた空に、小さな、おもちゃのような打ち上げ花火が上がっていた。

 なにかをぼくは思い出した。

多分、ぼくとナツキちゃんが初めて出会って、安曇野さんと父と三人で馬鹿みたいにはしゃいだあの夜だ。はっきりと覚えている。

夏だった。あの日は、ぼくにとっての夏の始まりだったんだ。

 夢なんかじゃない。ぼくのこの記憶が誰かの夢なわけがない。そうだったとしても、夢なんかにしたくない。

「大丈夫」

 ぼくは、うん、と頷いた。ようやく、明るい声が出せたと安心した。

「また、来年も来たいなってこの花火見てたら思った」

 そやなあ、とナツキちゃんは笑った。

「また、みんなと会えるって」


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