第8話(1)鴨川デルタに八月は溶けて

(八)


 夢の中で意識があることを明晰夢と言うらしい。

 だいたいは、今見ているものが夢だと気づく。夢だから何してもいいんだ、と勇気をもらうこともあれば、早く覚めないかって思って頭を壁にぶつけたり頬をつねったりすることもある。

 どうしてそうするのか。簡単だ。夢は覚めるものだからだ。

 夢は覚める。だから、ぼくはあの子を抱擁しようとする。目覚めるとぼくの記憶以外ではなかったことになるから、なんとでもなれと勇気が持てる。

 夢は覚める。だから、ぼくは早く目覚めようと奮闘する。この嫌な夢の世界から脱して、元の世界に戻りたいって思う。

 夢は覚めて、そしてようやく夢として完成する。

 ところで、夢から覚めたとき、夢の中で出会った人や、ものはどうなるのだろう。



「キツネの夢?」

 安曇野さんは、現れた男の言葉を受け入れることが出来ないかのように、そのまま返した。

「そう。君はこの狸によって、キツネの夢の中に誘われたんだよ」

 男はそう言って、はあ、とため息をついた。狸は下を向いたまま何も言わない。この男と狸との間ではもう全てがわかりきっているようだった。

なんだこの、蚊帳の外であるかのような気分は。ただ、どうしてだかこれ以上何も聞きたくなかった。何かを知るたびに、ぼくの中に積みあがっていたものが、ぽろぽろと崩れていく。

 そんなぼくの気持ちなど、きっとこの男にとってはなんの価値も意味もないのだろう。男は言葉を続けた。ぼくの心を、崩していきながら。

「現実世界の京都を守る神のキツネが十年前からずっと眠っている。この世界は、そのキツネの見ている、夢だ」

「狸と俺はキツネを目覚めさせるためにやってきたんだな。この夢を内側からこじ開ける。そのためにさ。キツネが眠り続けているせいで、京都を守るものがいなくなって、京都は乱れ始めている。もちろん、現実世界のほうだよ」

「キツネが目覚めればこの世界は崩壊する。でも、仕方ない。この世界にあるもの、そこの少年も、少年の記憶も、全ては夢で偽りのもの。いつかは終わるものだから。本当のものは現実世界にある。偽りのものは、消えるしかないんだよ。狸には、それが出来なかったんだろうね」

 夢。偽り。消える。この世界が?

 受け入れようとしない言葉。ぼくの胸には響かない。身体中が拒み続けている。だけど、少しずつ崩れていくものがある。心が揺らいでいる。それは、そこにいる狸や男や、安曇野さんの存在のせいで。

 自分の手を見た。透けているわけでもない。体温も感じられる。ずっと、見てきたぼくの手だ。これが、夢? 全部、なかったことになる?

「もうええやろ! なんで今そんなことを!」

「彼に俺たちのことを邪魔されちゃあ困るじゃん。彼女もちゃんと理解しないといけないだろうしな。夢の中の者は、大人しくしてればいい」

「せやかて、今言うなんて、そんな殺生なことが――」

「君はこの世界の人間に関わりすぎたよ。だから安曇野ナツキを現実から呼んだんだろ。この世界を終わらせるために、さ」

 狸は、ぎっ、と歯を食いしばった。それは狸の葛藤を表すには十分なものだ。顔は険しく、いつものような朗らかさなどまるで感じられない。安曇野さんは、そんな狸を見てみるみる表情を失っていく。色の無い頬、口元、眼。理解と感情との間に生まれた大きな乖離。

「夢?」

 色の無い、声だ。

「そう。君はこの夢を終わらせるために来たんだよ。ま、なかなか終わらせてくれないから俺まで来るハメになったんだけどね」


「この世界を終わらせるために」


 風が吹いた。その風は、すう、と男の方へと向かって集まっていく。ぼんやりと男と、そして狸と安曇野さんの周りがオレンジ色に光始めたのがわかった。なんだ、これ。夢? 光はどんどんその強さを増していく。いつの間にか、目を開いて直視するのが出来なくなるぐらいに。

 まずい。行き場を失っていた感情が、再び熱を帯びてぼくの胸へと戻ってきた。胸のあたりが訴えている。まずい。このままでは、なんともならないことになる。

安曇野さんの方を向くと、もう光に包まれている彼女の顔を見ることすら難しくなっている。その場に立ち止まっているというのに、ぼくと安曇野さんの距離はどんどん開いていくような気がする。

 安曇野さんが、どこかへ行ってしまう。

「待って!」

 こみ上げた感情が声になった。身体がいつになく熱に満ちている。ぼくは駆けだした。駆けるような距離でもないはずなのに、手を伸ばして、足を出して、でも、光に包まれた安曇野さんが何十メートルも先に見える。届かない。どうして? 安曇野さんは、すぐそこにいるはずなのに。

 これで最後だ。諦めは意外と早くやって来た。もうダメだ。そう思ったとき、もう見えなくなってしまう、安曇野さんの表情がぼんやりと映った。色の無い、悲しい眼。目に焼き付くこともないような、すかすかの表情。

 口元が動いたのがわかった。声はきっと出ていないのに、その言葉は、耳なんかじゃなくてぼくの胸にすとんと入りこんだ。


「ごめんね、アマ君」


 風が止んだ。

 気が付いたときには、もうそこには光なんてなかった。ただ、街灯が大きなアーチを描く、コンクリートとアスファルトの橋を照らしているだけだ。歩道も車道も広くて、車も通り過ぎているのに、なんだか、空っぽの場所だと思った。

 そう、誰もいない。

 いつの間にか、男も、狸も、安曇野さんも姿を消していた。



 あれから三日ほど経った。

 いつものように目が覚める。夢を見ていたということが、ベッドから起き上がるときになんとなくわかる。少しリアルな夢だった。ミスタードーナツで、ぼくとナツキちゃんと、なぜかぼくの母が三つずつドーナツを選んでいる夢だった。本当にそんなことがあったんじゃないかって思うぐらい鮮明に覚えていた。でも、なんとなく夢だとわかる。

 リビングに行けば父はテーブルに大人しく座って新聞を読んでいる。今朝はレコードが流れていた。ここ最近、父はよくレコードをかけている。ビートルズの曲がほとんで、今流れているのは「イン・マイ・ライフ」だ。

テーブルについて、自分の分の食パンをトースターの中に放り込む。「おはようさん」「おはよう」と互いに声をかけた。テレビの天気予報を見ると、しばらくは晴れのようだった。

「今日も暑いわ、ほんまに」

 父の言葉に反応するのは、ぼくと母だけだ。「明日も暑いんでしょうかね」と言いながらトーストに蜂蜜をかける人がいない。「マイ蜂蜜を買ってきたんだよ。アマ君もどう?」と、この家に住み着き始めてすぐに、自慢げに言っていた、あの人がいない。

つい最近まで、そこにいた安曇野さんの姿は、そこにはもうない。

父も母もなんだか納得はいかないようだが、それでも安曇野さんが消えたことを受け入れている。もともと別世界の人だから、というのもあるだろう。「別れが突然すぎたなあ」と惜しそうに言うけれど、それ以上のことを言うことはなかった。当然のことだけど、安曇野さんが消えた経緯を言うことはやめた。

消えたのは安曇野さんだけじゃない。狸だってそうである。

あのあと、すぐさまナツキちゃんにメールをした。狸が帰ってきたかどうか、それが聞きたかった。しかし、次の日も、その次の日も狸はナツキちゃんの家には帰らなかった。

「今まで毎日会ってたから心配やわあ。お仕事忙しいんかな」

 好きな女の子に連絡もしないで放置するなんて、最低じゃないか、全く。しかし、そんなことを言う相手の所在がわからない。

 一日は、今まで通り淡々と進む。安曇野さんが消えたせいだからか、少し一日が長く感じられた。こんなに淡々としているのに、こんなに中身が薄いのに、朝起きてから、正午になって、そして日が暮れるまで、とてつもなく長い。それは、毎年の夏休みと同じような日々だった。

 どうして、今までと同じような月日が流れるのだろうか。

 ぼくは取り憑かれたように机に向かった。そしてペンを握った。原稿用紙に向かう黒鉛はいつもよりその濃さを増していた。どうしてだろう。一文ずつ、頭の中にすぐ浮かぶ。そして、ペンはその文をすぐさま原稿用紙のマスの中に納める。今までにないような感覚だった。インスピレーションとか、そういうの、なのかな。

ただ、変わらないのは、ぼくはやはりずっと居場所を求めていたということだ。

 ぼくには居場所がある。

 それは夢なんかじゃなくて、もっとちゃんとした―ー。

 夢?

 ずっと引っかかっていた。この世界が、夢の世界だということが。

 あの男は言った。この世界は「キツネの夢」である。この世界の存在や、ぼくの存在は偽りのものである。

 そんなわけないだろう。現にぼくは、こうして生きている。朝起きて、ご飯も食べて、小説も書いて、誰かと話している。昔の思い出だっていっぱいあるんだ。たいしたものはないけれど。

 でも、不安だった。例えば、ぼくの書く小説の主人公のように、ぼくという存在が、ぼくの周りにある存在が、誰かの手によって生み出されたものならば? ぼくの記憶も、ぼくのこの感覚も、誰かの手によって生み出された設定なら?

 そして、「君の人生は全て嘘です」って言われて、突然終わりを告げられたとしたならば?

 寒気がした。誰にも伝えられない苦しみだった。心臓が冷たい血液を巡らせる。身体が遠位へと次第に冷たくなっていく。息がどことなく苦しい。血管にも消化管にも気管にも、どこかに何か黒くて重く、冷たいものが詰まっている。

 だから書いた。没頭した。朝起きて、食べて、書いて、昼寝して、書いて、書いて、食べて、書いて、眠って、また起きて。

 また日は過ぎる。いつの間にか、安曇野さんが消えてから一週間も経っていた。

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