第1話

 「ここで合ってるはず、なんだけどな...」

 手元のGoogle Mapが到着を示すにも拘わらず、エビネの脚は竦んで動かない。

 目の前に立ちはだかる目的地は、次にちょとした地震や台風が来た途端に崩れ落ちそうな、古びた五階建ての雑居ビルだった。亀裂が入るコンクリートの壁の向こうに、小さなネズミが素早く逃げ込むのが分かる。


 (なんだって、私ってば、こんな事になっちゃったんだろ...)

 改めて己の運命を呪う間もなく、手にしていた携帯が鋭く着信を告げる。

 Google Mapを押しのけて、ディスプレイに表示された登録名は、「災厄野郎」。

 恐る恐る通話ボタンを押すと、災厄とは無縁かに思えるような男の明るい声が響く。


 『そろそろ着いたでしょ、紫 エビネさん』

 「着きましたけど...。本当にここで大丈夫なんですか?」

 『はぁ?大丈夫って、何が大丈夫なんですか。エビネさん、あなたもうとっくに大丈夫なんかじゃ無くなってるじゃないですかぁ』

 災厄野郎が人を見下したように笑う。

 (ちくしょう...。笑いごとじゃねんだよ)


 『笑いごとですよ』

 「え...」

 (なんだ、コイツ。考えてる事分かるのか?)

 エビネの背中に、得たいの知れないモノに対峙するような悪寒が走る。

 『あなたの考えてることなんか、どうでもいいんですけどね。私としてはそろそろ自覚してもらいたいだけなんだよ。あんたもう、逃げ場なんか無いんだからな。自分がやった事の代償はキッチリ支払えよ』

 途中から、反社会的勢力丸出しになった電話の向こうの男の声に、スマホを握る手が震える。

 自分がやった事の代償——。

 思い出したくもない記憶が、エビネの目の前にボンヤリと広がる。



 *****


 事の始まりは、ちょうど一週間前に遡る。

 恵比寿西口のマックでポテトを頬張りながらタイムラインを眺めていたエビネの目に、破格の時給額が飛び込む。

 ”2時間、添い寝して本を読むだけの簡単なお仕事!時給20万円からご相談!!”


 「なんちゅう絶妙な価格破壊!」

 思わず独り言が漏れるエビネに、隣の席の女子高生二人が怪訝な視線を投げる。


 時給20万円——。

 確かに絶妙な数字だ。地に足の着いたキセキといった具合に。

 これが、時給1,000万円だったら、PR効果狙いのスマホアプリキャンペーンか、なんたらゲームで実際に参加者が殺し合うパターンか、といったお約束を疑ってかかるところだ。後者はあくまでフィクション上のお約束だが。


 ”添い寝の相手は、平均年齢七十歳の男性の方々です”とあったエクスキューズの文字列を見逃した訳ではなかったが、エビネは既に決断していた。

 迷う理由が見つからないくらい財布の中身は軽かったし、家出中の身にはマックを出た先の行く宛ても無かった。


 家出について、特に具体的な理由や目的があった訳では無い。

 ただ、何だかもう無理だったのだ。

 医学部受験三回目を控えたエビネの前を、夏は容赦無く過ぎていく。

 今年もダメそうだな、何しろ私だもんな、——そんな考えが頭を支配し、参考書の文字が宙を舞い始めると、もうとても勉強になんかならなかった。


 勤務医のエビネの父親は、教授を目指すような野心は無く、かと言って心臓外科というカテゴリの特性上、大学病院を退職して悠々自適な開業医という訳にもいかなかった。

 だから、エビネには父親の後を継ぐプレッシャーなんか特に無かったはずなのに、気が付くと医学部を目指していた。

 父親のようになりたい、誰かを救いたい、なんてさらさら思った事もなかったけれど、無条件に自分は医者に成れると思っていた。

 が、しかしだ——。


 出来損ないの一人娘である自分に気を遣う、そんな父母と居るのが面倒になったエビネはふらりと家を出て、何となく帰るきっかけを失っていた。

 計画性が無いから、直ぐに所持金は底を尽きる。

 成績向上に関わらず、一応バイトもぜずに予備校に通いつめていたから、貯金も殆ど無い。


 そんな、エビネの窮地を見透かしたような、このバイト情報。

 早速、担当者に連絡するこの時のエビネは、まさか自分が殺人に関わる事態になるなんて、想像さえ出来ていなかった。


 

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