お茶は、あとで飲めばいい

フカイ

掌編(読み切り)






 ふと気がついて、昼寝から目が覚めた。


 ここはどこか、と一瞬戸惑うが、ここは南の島の民宿であることをすぐに思い出す。


 民宿のお部屋は座敷になっており、畳の上に枕を置いて、夫と子どもといっしょに、わたし達は昼寝をしていたのだった。





 わたしは横になったまま、ぼんやりと部屋を見ている。


 背中には、夫の寝息。


 そして目線の先には、息子の寝顔。みずみずしい頬に、かすかな産毛が光って見えている。


 息子のむこう、開け放たれた障子の先には、丈の低い壁が見える。握りこぶしふたつ分ほどの白い石を積み上げてできた、素朴な石積みの塀だ。


 壁の周囲には深い緑色の植物が育っている。


 目が痛くなるほどの、白い砂の路地。


 そして、真っ赤なハイビスカス。その向こうには、青一色の空。


 何もかもが原色の風景だ。まるで息子がクレヨンで描く絵のように。


 熱帯の風が、そよ、と部屋に入ってくる。


 わたしの二の腕を撫で、息子の淡い栗毛色の髪を揺らして去っていった。


 そして、ハイビスカスに黒いアゲハチョウがやってくる。


 ハタリハタリと、優雅に羽根をゆらしては、ハイビスカスの花弁の奥に顔をいれ、その蜜を吸っている。蜜を吸うときだけ、羽根が小刻みにはためく。


 遠くで、なにかのセミの啼き声がする。


 東京では聞くことのない声だ。





 やがて、ぎしぎしと音を立てて何かがやってくる音がした。


 黒アゲハはその音に飛び去っていった。


 わたしはぼんやりと、その音を聞き流す。


 この民宿の前を通らず、横を抜けていくのだ、と気づく。


 わずかな人の話声。そして砂利をタイヤが踏みしだく、じゃりじゃりした音。


 牛車だ、と気づく。


 大きな黒い牛。角には赤いリボンをつけて。


 昨日、私たちも港からここまで、乗せてもらったのだった。


 牛に引かれて、小さな東屋のような車が、ゴムタイヤをガタゴトいわせて、のんびりと町内を行く。


 御者であるおじいの、ちいさな歌声が聞こえるようだ。


 方言がきつく、歌の意味はよくわからない。


 でもそれが倖せそうな唄であることだけは、わかる。


 それを聞くともなく、さきほどの出来事が心に浮かんでくる。





 今日の午前中は、家族で海遊びをした。


 どこまでも遠浅の、白い砂浜。


 わたしはパラソルの下で本を読み、夫と息子は虫取り網を持って、海に入っていった。


 遊びつかれて宿に帰ると、おばあがお昼ご飯を出してくれた。


 香りのいい、白いおそばと、ちいさな茶碗の炊き込みご飯をのんびりといただいた。





 気がつくと、視界の端のほうに、お盆に載せられて飲みかけのさんぴん茶が、コップの中に半分あった。


 コップは盛大に汗をかいている。さっきまでは氷が入っていたのに。


 きっと、全部溶けたのだろう。


 あの、飲みかけのぬるくなったさんぴん茶を飲みたいと思った。


 窓の外を、濡れたように光る、黒いアゲハがまた、横切ってゆく。


 時が、とまっていた。


 わたしも、また、眠りにつこう。


 お茶は、あとで飲めばいい。


 なんと、贅沢な時間か。


 息子の髪を一度だけ撫でて、わたしはまた、目を閉じる。


 ゆるい眠りに、身を任せてみよう。





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