情けはヒトの為ならず
夕夕夕タ
おしまい
門番の仕事とは、通してよいと言われた者以外を伯爵の屋敷へと招かないことだ。
故に彼は今、全身から膿を吹きだす暗褐色のブヨブヨした異形と化してなお普段通りに勤める同僚たちや、中腹に据えられた門を過ぎ小高い丘の頂点に立つ屋敷――人の出入りはおろか、生活の気配すら途絶えた伯爵の邸宅に何が起きているのか。などのような、知ったところでどうにもできない事柄に触れるつもりはなかった。
給金さえ入れば、それで弟妹の世話さえできれば十分なのだった。
「お久しぶりです、愛しいお方」
――鴉の羽根に似た艶やかな黒い髪を腰まで降ろし、頭から高いヒールの爪先まで黒い正装で着飾った女がいつの間にか己の前に立って、ジッと視線を投げかけている。墨で塗りつぶしたように光を反射しない暗黒の瞳の向かう先は他の同僚ではなく、紛れもなく男自身であった。
「……」
生きているのか死んでいるのかわからなくなっても職務は全うしている同僚らに目配せしようとした男の視界に、何事か呻きながら突っ伏し痙攣したまま立ち上がらなくなったそれらが映り込んだ。再び女と向き合う。いつの間にか緋色に染まっていたその瞳から色が抜け、今はまた吸い込まれそうなほどに深い黒。
「これで
「……失礼ながら、私には高貴な身分の御方に親しげにされる覚えがないのです」
女は真っ黒な扇で口元を隠しながら「まあ」と漏らして目を伏せた。病的に白い肌に朱が差している。
「私としたことが。ええ、再開に浮かれ自分をよく見せることばかり考えて……これでは本末転倒というものですね」
最初、男は女が小さく頭を下げたものだとばかり思った。
その頭が、そして身体さえもが彼の腹、膝、踵の高さへと沈んでいき、とうとう見えなくなって……彼は女が先程まで伸びていた彼女自身の影へと溶けるように吸い込まれたのだと理解した。
「少々、お待ちを。確か髪はもっと――」
衣擦れの音、櫛を動かす小さなかすれた音。夜の帳のように真っ暗な足下で、それは確かに蠢いていた。
男はそれの前でジッと立ち尽くしていた。突然訪れた怪異にひどく怯えて茫然自失に陥ったというわけでもなければ、女の正体に興味を持ったというわけでもなく――彼はただひたすらに、門番として己の職務に忠実であった。
「――お待たせしました」
澱みの中から出てきた女の姿――みすぼらしい襤褸切れ、枝毛だらけのゴワゴワとした髪の隙間から覗く瞳にようやく男は合点した。
「ああ……あの時の」
「ええ、死にぞこないでございます」
これでいいですか? と無言で問いかけるように首を傾げた女は、特に反応を返さない男の様子に苦笑を浮かべた。見せつけるようにゆるりと沈み込んだ先程と違い、そそくさと澱みの中へと呑み込まれていく。
「あれから丸二年。あなたが今もここにいらしたのは私にとってこの上ない幸運でした……あの日も、曇り空でしたね」
「そうでしたか」
「忘れるはずもありません」
男は首を空へと向けて、遮る雲越しに太陽を見つめた。代わり映えしない日常に不意に訪れた非日常を忘れることはなかったが、細かいことまで覚えているかとなると話は別だ。言われてみれば、曇っていたかもしれない。
「あの日のあなたはたった一人でしたね」
「それは、覚えていますよ」
領民の多くが罹患した流行り病にかかったあの日。同僚らも多くが熱に倒れ、悪寒と喘鳴に耐えながら男が一人だけで門前に立っていた頃のことだった……ふと、もう動かなくなった同僚へと視線が移る。
いつの間にやら全身にウジが湧いてその膿んだ身体を食い荒らされている。――およそ掌大の体長をした、奇怪なウジだった。
視線をもとに戻すと、現れた時の通りに黒一色に着飾った女が立っている。
「私がどれほど頼み込んでも宥めても……媚びても脅しても、あなたはそこを通してくれませんでしたね」
「それが仕事ですので」
「なのに私を探してやってきた追手から隠して、彼らを追い払ってくれましたね」
「なにやら困っておられたので」
「それでも通してはくれないのですものね」
「それが仕事ですので」
「あの日に門扉を潜れなかったこと、怨みましたのよ?」
「はぁ。仕事ですので……」
口元を隠す扇越しに含み笑いが聞こえた。
「でも、それでよかったのですよ。私を裏切り貶めた張本人のことを思えば、あなたがいなければきっと今日まで生きられなかったでしょう」
「はぁ」
どうにも曖昧な語り口に、男は相槌をうつ他なかった。女もそれ以上詳しく語ることもなく、ただ憂うように伏した瞼の下からジッと男を見ているだけだった。
「……もしも」
そっと扇をしまった女が重く閉ざしていた口を開いた。
「もしも?」
「世界にヒトがあなた一人だけになったとしたら、どうなさいますか?」
目の前の女の視線はなにやら長考を望んでいるようでもあり、また自分自身改めて深く考え込むことで日頃ボンヤリ考えていたものと違う答えが出るかもしれない。男はしばし考え込み、
「困ってしまいますね。弟妹の世話をする者がいなくなる」
結局、答えは特に日頃と変わりなかった。
「ご家族がいらしたのですか?」
「ええ」
「それは……申し訳のないことをしましたね」
発言の真意を問おうとし、同時に背後で重音が轟く。
「……伯爵?」
振り向いた男の視線の先――大理石と煉瓦で組まれた屋敷が音を立てて崩れ、豪奢と簡素の調和を保ち、完璧と称しても過言ではなかったその威容がただの瓦礫へとなり果てていく……その寸前で、繋ぎ止められたかのようにピタリと静止した。
「あら……わかってはいましたが、往生際のわるい」
事実、崩落しかけた屋敷は繋ぎ止められていた。伯爵の書斎があった箇所を中心に長く太い何かが隙間を縫って、さながら管理が行き届いていない壁に繁茂する蔦のように伸び広がっていく。
「……花?」
その中から天高く伸びた一際太い組織の頂点に、何十何百枚もの花弁で形作られた極彩色の花が一輪咲いた。丘の頂点を仰ぐ門から見上げても咲いているとわかる、屋敷の残骸に影をつくる程に巨大な花。見つめる女の瞳が、徐々に赤く光を帯びていく。
「あれはなんですか」
「伯爵ですよ。ああなってはもはや自我もないでしょうに」
「どうするおつもりですか」
「当然、仕留めます」
女の瞳が緋く、紅く、さらに赫く輝きを増す。同僚を食い漁っていたウジはその輝きに促されるように肉体の奥へ奥へと身を沈めて行き……やがて赤子の背丈程、異様な大きさの蠅が腹を突き破り幾匹も現れた。
「これは……」
不意に、景色から光が奪われ、視界が闇に覆われた。何事かと男が仰ぎ見ると、太陽は蠢く黒い雲によって完全に覆い隠されていた。
だが、それは決して雲などではない。喧しい羽音が知らせている……夥しい数が群れなす、理不尽に巨大な蠅たちを。
屋敷を囲むように滞空していた蠅たちは丘の上に黒い渦を生じるほどに頭数を揃えると、他のあらゆる音が聞き取れなくなるほどに凄絶な羽音を鳴らし、大輪の花へ殺到した。
だが、大花が全身を大きく震わせ何やら毒々しい色調の粉塵――遠目で見てもその色彩がハッキリとわかる程の量の花粉を撒き散らかすと、それに触れた蠅の黒雲が先端から次々と墜落していく。
青ざめた煙をかきけすように黒い渦がぶつかっては落ちていき、そのすべてを拭いきらない内に新たに濃霧がまき散らされていく。物量と物量の果てないぶつかり合い、消耗戦。
「……はぁ」
世俗の者は一生関わるまい世界で起こった何か、そしてその結果として目の前でなされている理解の及ばない凄絶な戦いを前に、男はただただ唖然とするばかりだった。
――終わることがないように思われた勝負は、しかし日の暮れる頃に決着がついた。花粉が生成される速度、それによって駆除される量を押し寄せる蠅の物量が遂に上回り、根や葉、そして花弁は取り付いた蠅たちで真っ黒に染まる。
おそらく普通の蠅がそうするように食害されたのだろうか。断末魔のように花粉を少量吹き出し、女の曰く伯爵の
決着を見届けた女の瞳からもまた彩度が失われていく。肩で息をする女の瞳が夜色のどす黒さを取り戻す頃には、枯れた花を離れ奔放に飛び交っていた残り少ない蠅たちが皆地に伏していた。中には男たちの側まで落ちてきたものもあったが、もがくように羽ばたきこそすれどその身が浮く様子はない。
まるでその巨躯で羽ばたいて飛ぶことなど不可能だと、今更世界に拒否されたような有様だった。
「彼らはどうなりますか」
男がもはや微動だにしない同僚らを指し示す。
「どうもなりません。あの蠅たちは羽化に合わせてヒトの臓腑を軒並み喰いつぶす、そうできていますので。貴方のご同輩さま方は鮮度を保ちつつ思考は腐らせ、ずっとこの領を囲ませておりました」
「……では、あれほどの数の蠅は」
「追い込まれたとて伯爵は相応の使い手。なればこそと十全に仕度をしたのですが、村を、町を、国を腐らせあそこまで数を揃えるのにはとてもくたびれてしまい……どうされました?」
女は玉のような汗を浮かべながらも強がるようにニコリと微笑んだ。男は思わず後ずさり、もはや用をなさない門扉にその背を預けた。
「いえ……そうですね、伯爵がいなくなり国も亡びたと知れば、彼と懇意にしていた諸侯も黙っていないかと。これからどうされるので」
男は明後日の方へ視線を飛ばし、努めて理屈を……自分の目の前からこの女がいなくなるに相応しいような理屈を探した。女は視線こそ男に投げたまま考え込むように首をかしげていたが、やがて得心したようにコロコロと笑った。
「私、何かと敵の多い身の上でして」
「はぁ」
「それも伯爵で最後なのですよ」
「それは……」
――世界にヒトがあなた一人だけになったとしたら
「……困ってしまいますね」
男は大きく息をつき、門扉に背を預けたままずるずると座り込んだ。
「申し訳のないことをしましたね」
女は心底申し訳なさそうに眉を下げた。
「……仕方のないことです。弟妹の世話は私一人ですればよい」
「この地を去るのですか?」
「そういうことになります」
男が
「一つ、不躾なおねがいがあります」
「ええ」
「非礼を承知でお訊きしますが、私もご一緒してよろしいでしょうか」
か細い指先から扇を手放し、ほっそりとした腕が男の前に伸ばされた。彼は躊躇うように視線を泳がせ――。
「……まあ、これも何かの縁です」
――その柔らかい掌を握り立ち上がった。
「縁……」
縁という言葉を反芻した女の頬が、小さくほころぶ。
「では遠慮なく、地の果てまでも御伴いたします」
――。
身分のちぐはぐな装いをした二人の男女が、陽の落ちた街道をぽてぽてと歩む。
「それほど遠くはありませんが。ただ、幾分殺風景なのであなたの趣味に合うかどうか」
それを見咎める者もいなければ奇異の視線を投げかける者もいない。
「あら、私は一向に構いませんよ。こちらこそ、ご家族さまに無礼のないよう気をつけませんと」
「よほどのことがなければ、黙って見逃してくれるでしょう」
「たとえば?」
「そうですね……寝ているところの邪魔でもしなければ」
「なるほど」
男と女が灯りのない街道をてくてくと歩む。
「ところで、私はあなたを何と呼べばいいのでしょうか」
「そういえば、お互い名乗っていませんでしたね。私の名前は――」
――。
情けはヒトの為ならず 夕夕夕タ @sekibata-yuta
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