明日の黒板

バイブルさん

明日の黒板

「ごめんなさい!」


 俺は若い女の悲しみに彩られた声を無人だと思っていた教室から聞く。


 その教室から勢い良く飛び出してきたのは涙を流す少女で、それを見た俺は内心、あちゃ~と額を叩きたい衝動に駆られる。


 飛び出してきたのは俺も顔見知りの春子という少女だ。


 何故、知ってるって? そりゃ、先生と生徒の関係で先程、担任として卒業式で送り出した卒業生だからだよ。


 はぁ、この時期はたまに見かける光景でここの高校の化学教師になって10年になる俺は幾度となく見てきた光景だ。


 春子が飛び出してきた俺が担任をしていた3-Cをそっと覗くと放心する少年、これもまた先程送り出したばかりの夏男がいた。


 俺は夏男に気付かれないようにその場を離れて中庭を目指して歩きながら頭を掻く。


 おそらく夏男に告白されて、断る春子という事か……


 2人の担任になったのは3年が初めてだが、あの2人が良く楽しそうにしている姿は普通に見られた。


「てっきり、既に付き合ってるのかと思ってたんだがな……」


 そう思える程に仲の良い2人だったから正直、断られたらしい事実に俺も驚いたが、1月ほど前に春子とその両親が訪ねて来て挨拶してきた事を思い出す。


「そういや……海外に引っ越すって言ってたか」


 ヤレヤレと顎下の無精ヒゲを撫でながらヨレヨレの白衣のポケットから煙草を取り出し、中庭にある死角になる場所に腰を降ろす。


 煙草嫌いの教頭は喫煙所で煙草を吸ってると苛立った様子でガラス越しで舌打ちするので落ち着かない俺は昔の不良か? と言われそうな場所を喫煙所にしていた。


 火を付ける前に携帯灰皿を取り出して俺は煙草を咥えて火を付けると胸一杯に紫煙を吸い込む。


「苦いのも青春……か」


 やり切れないな、と思っていると教頭の怒鳴り声が響き渡る。


「今日の当直は誰なんですかね! 当直が鍵を取りに来ない……帰れないではありませんか!!」


 やべぇ、今日の俺が当直だ!


 慌てて煙草を携帯灰皿に仕舞い、手団扇をして煙を払うと教頭の下へと走り出した。





「ウンザリだな……早く帰りたいみたいな事言ってたのに遅れた説教を3時間とか有り得ないだろう? あれはあれだな、家に帰りたくない、典型的な外弁慶だと俺が決めた」


 あの後、駆け寄り、平謝りをした俺に眉尻を上げた教頭は少なくとも5ループする有難い説教をしてくれた。


 えっ? 何故、少なくともだって?


 途中で目を開けて寝る奥義を発動したからさ!


 暗くなった学校の廊下を懐中電灯一つで俺は巡回していた。


 どうせ、何もないんだ。やってられない、さっさと終わらせて当直室でビールに柿の種でリフレッシュタイムに突入だ。


 そう、気持ちを切り替えた俺の耳に扉が閉まる音らしきものを拾い、首を傾げてそちらの方に懐中電灯を向ける。


 ここは1階で3年生の教室があるだけで、今日、卒業式があって何も物はないから盗みに入るマヌケな泥棒もいないだろうに?


 そう思う俺が面倒臭いと思いながら渡り廊下を歩いていると目の端に動く物に反応して目を向ける。


「あれは……」


 俺の目に捉えたのは昼間、告白して玉砕したと思われる夏男の後ろ姿であった。


 その後ろ姿を見送りながら後頭部をガリガリと掻く俺はぼやく。


「こんな時間に忘れ物、って訳ないよな~」


 俺が見たのが本当に夏男であるなら先程の物音がした場所はあそこだろう。


 迷いもなく、この1年間、朝一は必ず訪れた3-Cの教室に向かう。


 そして、扉を開けて正面にある黒板に目が行き、ニヤける口許を隠すように右手で覆う俺は黒板に近づく。


 黒板の中央に陣取って、そこに殴りつけるように書かれた文字に目を走らせる。





『ずっと好きでした!!』





 本当に青春だ、青過ぎて俺の背中と言わず色んな所が痒くなっちまう。


 頬を指でコリコリと掻く俺は掻くのを止めると赤いチョークを手に取る。


「俺、化学教師なんだけどなぁ……担当教科以外だが、まぁ、たまには先生らしい事もしてみるか」


 この後の事を色々考えながら俺は赤いチョークを黒板に近づけていった。





 次の日、俺は夏男に連絡を入れた。


「お前な……先生が勝手に捨てるには捨て難い忘れ物しちゃってくれてんだが? 午前中に取りに来い。絶対来いよ? 午後の俺の予定の為にな!?」


 そう連絡をした時の夏男の死んだような声音で返事するのを聞いて嘆息する。


 というか、それ以外、どう表現しろと?


 そう連絡してから俺は正面玄関の脇にある柱に凭れて夏男が来るのを待っていた。


 すると、魂が抜けた、まさにゾンビのように足を引きずるようにして歩く夏男の姿があった。


 ノッソリノッソリと歩くので酷く歩みは遅いがしばらく待つと夏男は俺の前にやってくる。


 俺はポケットからスマホを取り出して時間を確認したと同時に溜息を洩らす。


「11時か……ギリギリだな」

「……午前中は後、1時間……」

「うるせぇ!」


 夏男を黙らせるとヘッドロックして校舎に引きずって歩き始める。


 一瞬、引きずられるのに抵抗しようとする動きがあったがすぐに諦めた夏男に俺は嘆息して目的地を目指して歩いた。




 無気力に引きずられていた夏男であったが引きずられる先に気付き始め、うろたえ出す。


「せ、先生! わ、忘れ物は職員室とかじゃないんですか!!」

「先生な? 昨日、当直だったんだわ」


 夏男の質問とはまったく違う解答をしたがすぐに欲しかった解答に行き着いたらしい。


 ジタバタと暴れる夏男を押さえ付けて3-Cに連れていき、扉の両端を掴んで入るのに抵抗する夏男の尻を蹴っ飛ばして中に入る。


 転ばされたがすぐに起き上がって逃げようとする夏男の頭を両手で掴んで黒板に向けさせる。


「えっ!?」


 黒板を見た夏男は逃げるのを忘れて前を見つめる。


 やれやれ、やっと大人しくなったか。


 俺は夏男から離れて窓を開け、窓枠に両腕を置いてその上に顎を載せると白衣のポケットから煙草を取り出すと火を付けずに咥える。


「せ、先生、どうしてこんな事を?」

「どうして? お前は俺を先生と呼ぶのにそれを聞く? 確かに担当は科学だがな」


 俺も首だけで夏男が凝視する黒板に目を向ける。





『ずっと好きです!!』




 白字で『ずっと好きでした!!』と書かれている『した』を斜線してその下に我ながら下手だと思える赤字で『す』と添削してあった。


 俺は煙草を唇でピコピコと揺らして背後にいる夏男に話しかける。


「悪いな、お前が振られる所を見ちまった……告白する前に断られただろ?」

「――ッ!」


 絶句する気配を背中に感じた俺はやっぱりか……と肩を竦めた。こんな所で書き殴るぐらいだから、もしやとは思ってたがな。


「すまん、カマかけした。本当は泣いてる春子が飛び出して行くのと教室で放心するお前を見ただけだ」


 苦しそうな息づかいをする夏男が絞り出すように言ってくる。


「……別にいいです。どうせ終わった事ですし、もう春子と会う事も……」

「やっぱり、海外に引っ越すという事は聞かされてるか?」


 後ろに目を向けると頷く夏男を見て寝癖混じりの髪を掻く。


 なるほど、高校卒業したから大人の仲間入り、物分かり良くなる事が大人ってか?


 本当にヤレヤレだ。


 振り向いて窓枠に凭れる俺は火の付いてない煙草で夏男を指す。


「まあいいか、本題に戻るぞ」

「本題?」


 首を傾げる夏男に俺は顎で黒板を示す。


「忘れ物だ、本来、返すべき場所に返してこい」

「えっ!?」


 固まる夏男を無視して空を見上げると丁度、飛行機が飛んでるのが目に入る。


 夏男の下に行き、再び、ヘッドロックして窓まで引っ張り空を見るように言う。そして、飛んでいる飛行機を指差す。


「15時半だ。3時間あれば着くだろう」

「何の話……!」


 訝しげにした夏男であったが空を飛ぶ飛行機と俺を交互に見た後、慌ててスマホを取り出して時間を確認する。


『11時半』


 そう表示されているのを俺と見つめた後、俺は空を見上げながら言ってやる。


「想いは置き去りにするものじゃない。届けるモノだ。例え、叶わぬ想いであったとしても……それが本物だと自負するならな」


 下唇を噛み締める夏男を出口の方に向けさせた後、背中をパンという音をさせて押し出す。


「夏男、国境は越えられない壁じゃない、越える線だ。お前が天井の高さを意識するには若すぎるさ」


 背中を摩りながら俺を見てくる夏男に「ありきたりでスマンな?」と笑ってやる。


 体を震わせ、拳を握り締め、頬を紅潮させる夏男が勢い良く頭を下げると教室を飛び出して行く。


 そして、俺は窓枠に両腕を置いた上に顎を置いて渡り廊下を駆けていく夏男の背中を見つめながら火を付けてなかった煙草に火を付ける。


 煙草の先からユラユラと上がる煙を眺めながら紫煙で胸を満たす。


「走り出した若い想いはどこからどこに行くってか?」


 煙草を咥えながら笑みを浮かべる俺の背後から怒鳴り声が響く。


「先生!? 生徒がいないからといって教室で煙草を吸うとは何事ですか!!」

「ゲッ! 教頭先生!?」


 慌てて煙草を隠そうとするが今更隠しても意味ないと頭を掻きながら必死に愛想笑いを浮かべる。


「こんな所で煙草を吸ってた私が納得できる理由は勿論あるんでしょうね?」

「えっと……これはあれです。立ち上がった煙はどこからどこに行くという実験で……」

「先生!」


 教頭の怒鳴り声に俺は肩を竦めながら携帯灰皿で煙草を揉み消して仕舞う。


 そこに座れ、と生徒の椅子に座らされた俺は本来なら入れてなかった午後の予定が埋まるようだ。


 これから始まる途中退場が許されない耐久レースに項垂れる俺は呟く。


「俺、カッコ悪い」

「何か言いましたか!」

「いいえ、ナンデモアリマセン」


 この耐久レースは俺を優しく茜色染めるまで続けられた。

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