色物語。

白野カナ

色物語。

 とある世界のとある国。そこに、とてもとても上手に絵を描く男の人がいました。その国に生きる人、その世界に生きる人、皆が皆、男の描く絵を褒め称えました。「なんと素敵な絵なのだろう」

「こんなにも美しい絵を見たことがない」

「凄いわ、生きているみたい」

 男の絵は、国の中央にある大きな展示館に飾られています。その絵はしばらくすると新しい物に替えられるのです。誰もがそこに飾られる絵を見に来ます。新たな絵を見た人々は、そのたびに感嘆のため息をもらします。しかし、その誰もが絵の作者を知りませんでした。名前も、容姿も、何もかもを。

 人々は思っていました。展覧会でひときわ目を引くその美しい絵、感動のあまり涙を流してしまうような素晴らしい絵を描く人はきっと、この絵のようなとても澄んだ、美しい心の持ち主なのだろうと。

 しかしそんな人々の思いとは裏腹に、男は人が嫌いでした。国が嫌いでした。世界が嫌いでした。そして、自分のことが一番嫌いでした。そんな自分が描く絵を、心の中のぐるぐるとした、凄く気持ちの悪い真っ黒な真っ黒な感情から生まれる最低な絵を、美しいと言う人々を彼は汚いと思いました。

 「汚い汚い汚い汚い……」

 今日も彼は絵を描きます。いつものようにたった一人。独りぼっちのその作業は、彼の絵の評価とはかけ離れたものです。筆に絵の具をつけて、真っ白なキャンバスを彼は穢していきます。世界が嫌いな彼だから、国が嫌いな彼だから、人が嫌いな彼だから、絵の中に新しい世界を、美しくて誰もがうらやむ素晴らしい世界を作り上げるのです。

 ある日のことです。その国の王様が言いました。

「この絵を描いた者に会いたい。私の肖像画を描かせようではないか。必ず素晴らしい物が出来上がるぞ」

 その日から、たくさんの家来が男を捜しまわりました。勿論、男は隠れていたというわけではないので、すぐに見つかりました。見つかりましたけれど、家来は迷いました。この男を本当に王様の前に連れて行っても良いのだろか、と。それというのも、男の姿はとてもみすぼらしいものだったからです。ぐちゃぐちゃに絡まって、油でギトギトに固まった髪、体中にこびりついた垢、雑巾のほうがましなほど、汚れと痛みのひどい服。しかし、家来たちは王様の命令に逆らうわけにもいかないので、そのゴミのような男を連れていくことにしました。

 小さな部屋で絵を描いていた彼の前に、そいつらはやってきました。彼は一目でわかりました。その綺麗な身なりをしたやつらが、綺麗なように見えるやつらが自分の世界を崩す、めちゃくちゃにしてしまう絶対的な悪なのだと。そして、逆らうことが不可能であることも。男は連れだされる前に、自らを閉じ込めていた小さな部屋を見渡しました。汚れた壁、朽ちた窓、何処を見てもそこは男の嫌いな汚れた世界です。しかし、中央にあるキャンバスを守るために必要な、大切な世界でした。ドアが開いた瞬間に崩れた小さな世界は、そこで役目を終えたのでした。

 王様は、目の前に連れてこられた男を見て言葉が出ませんでした。自分が望んだものが、こんなにおかしな、歪な、気持ち悪い物であるはずがないのだ、と。これは何かの間違いだと思いました。そんな王様を見て男はにやりと笑いました。男は面白くて仕方がないのです。見にくい外見と心を、煌びやかに飾った王様が。男は気持ち悪くて、ばかばかしくて、滑稽でたまりません。こんなもののために自分の世界が壊されたのか。彼は王様を、濁った眼でじっと見つめながら笑いだしました。大きく大きく、ところどころ欠けて変色した歯を晒け出すように口をあけて。その笑い声は、しんと静まり返っていた広間に響きました。柱を通り抜け、窓ガラスを揺らすほどに。

 しばらく呆然と男を見やっていた王様は、ハッと我に返ると叫びました。この無礼者を牢に入れろ、と。王様の顔は真っ赤に染まっていました。それを見て、男の口はさらに大きく開きました。ようやく綺麗なものが見えた。彼は思いました。ようやく本当の色に出会えたのだ、愉快でたまらない。彼のその笑い声は家来たちによって止められました。そして、彼は地下の牢獄へと入れられたのです。

 男は言いました。絵を描きたい、と。毎日見張りに言いました。しかし、王様は男に何も与えません。毎日毎日、男は言い続けます。ぶつぶつぶつぶつ、それはまるで呪文でした。日を追うごとに、男は狂っていきます。見張りは男が恐ろしくて仕方がありません。ろうそくの火が揺らめいて、男の影を動かします。それが自分に襲いかかってくる気がして、逃げ出したいほどの恐怖を感じるのです。

そのころ、世間は展覧会で飾られる絵が替わらなくなったことで、ざわついていました。誰も作者を知りませんから、どうして絵を描かないのか、何があったのかが分からないのです。様々な憶測が飛び交いました。死んだのだ、いや、事故にあって腕が使えなくなったのさ。こんな話もあるぞ…。

そして、ある日お城に何人かの人々がやってきました。彼らは王様に、あの絵の作者のことを調べてもらえないでしょうか、とお願いしました。まさか、自分たちの探している男が城の地下につかまっているとは知らず、彼らは男の絵の素晴らしさ、誰もが男を心配しているのだと語りました。勿論、王様は自分の命令で男を連れてきて、気持ちの悪い、無礼な男だったから牢に入れてやったとは言いませんでした。見張りからも何とかしてくれと苦情があったので、仕方なしに王様は男の捜索をすることを了承しました。そして家来を呼び出して、男に絵を描くための道具を与えてやることにしました。王様は、絵さえ描かせればすべての問題が解決すると思ったのです。

しかし、その時すでに男の心は壊れていました。もともと、ぼろぼろに崩れかけていたものでしたから、あっという間に修復不能なくらいになってしまったのです。

彼は真っ白なキャンバスに白い絵の具をぐちゃぐちゃっと塗りつけました。赤、青、黄、緑…。彼はそこにある絵の具を、次々と交わることなく塗っていきます。それはすでに、絵を描く行為ではありませんでした。それは、世界を作る行為です。彼はすべての色に心をこめて、透明だった世界に一心不乱に筆を突き立てていきます。今までの独り言が嘘のように、口からは何も言葉が発せられません。その代わりに、口の端はつり上がり、時折かすれた音が漏れていました。

急に静かになった牢獄の中、見張りが中を覗くと、すでに男はこと切れていました。

男の前には、男の最後の作品がありました。それは、絵ではなかった。と見張りは後に言いました。色とりどりのキャンパスの上には、一か所を除いてすべての面に絵の具が塗られていて、塗られているだけで、男が何を描いたのか見張りには分かりませんでした。ただただ、とても恐ろしく見えたのです。男が死ぬ間際に作り上げたそれのことが。

そして、王様はすべての人にあの素晴らしい絵の作者は亡くなったと公表しました。誰もがその訃報に涙し、男の冥福を祈りました。男の絵は、専用の美術館をたててそこに飾られることになりました。

男が最後につくりあげた一つの世界は、その美術館に飾られませんでした。その絵は男の遺体と共に燃やされ、そしてこの世界から完全に独立することになったのです。

さて、そうして生まれた色とりどりの世界。美しい色でできたその世界は、本当に美しいといえるのでしょうか。それはきっとその世界で生まれ、そして死ななくては分からないでしょう。

男がどんなにその世界に憧れても、男はこの世界の住人です。死んだからといって男はこの醜い世界から解放されることはなかったのです。ああ、今日も男はかつて自分の描いた絵の前で、醜い人々をただただ見つめるだけの毎日を送っています。彼が描いた絵が、この世界からすべて消え去ったあと、彼はようやく消えることが許されるのです。

そして、男の描いた絵が人々に愛され続ける限り、男の世界は終わることはないのです。

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色物語。 白野カナ @sironokana

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