Rowing.15

 まもなく三百メートル地点。現在の順位も分からず突き進んでいく俺たちは余裕のない張り詰めた状況をキープしていた。切れる息が荒くなりつつも一漕ぎ一漕ぎを疎かにしないようにレートを維持していく。バウにいる勝也の状態は分からないが、船の進み具合から察してまだ順調だ。



 「(ここで置いてかれるわけにはいかないんだよっ‼)」



 心中の温度は半端ではない程に燃えている。だが、それをいかに表に出さずに相手を警戒させるかが勝負のキーになると俺は考えている。隣をチラ見しても、ライバルたちは全くボロを出していない。まだ余裕と全身に言い聞かせているには間違いないが、実際は本当にキツいだろう。だから、俺たちも他のクルー以上に気を張り、攻撃のタイミングを見計らなければならない。



 「(まだ誰も仕掛けてこない………もうすぐ五百メートルのポールを過ぎるころだが)」



 と、まさしくその時だった。全艇が横一直線の状態を維持しながらも仕掛けてきた艇が二艇。



 「(愛工第一が動いた!それも二艇が一斉にスパートをかけてきただとッ⁉)」



 俺の思考回路はマヒしそうになった。同タイミングで、それも残り半分のこの距離でスパートをかけてくる時点で意味が分からない。気力が持ってもせいぜいトップスピードが出るのは二百メートルぐらい。ロングスプリントといってもかなり無謀な道のり。そのように考えているうちに保ってきた均衡が崩れ始めた。



 「(クソッ!スピードが違う!)」


 

 二艇はチラ見してもギリギリ見えていたはずなのに、既に視界の外へと消えていた。愛光第一につられた他の艇が続々と動き出した。現在最下位は間違いなく俺たちの艇だ。ここで仕掛けるべきかと悩んでいると、後ろから信頼できる相棒の声が聞こえた。



 「ハッ、ハッ…………宗次郎。ハッ、ハッ、…………後百メートルだけ我慢」



 その声が俺を現実へと戻してくれた。隣に居た船たちはもういない。スパートをかけているが故の必然状況。「自分のペースを崩すな」 以前にとある先輩に言われた一言がふと脳裏に蘇った。俺たちの欠点は周りにつられ過ぎることだと言い聞かされてきたにも関わらず、もう一度同じ過ちを繰返そうとしていた。そのことを勝也は覚えていたのかは分からない。でも、勝也の一言のおかげで俺はマイペースを貫くことができた。ダブルスカルの良い点は心強い相棒と共に出場ができることだと個人的には思っている。自分が崩れそうなときには有難い。だが、そんな悠長なことを言っている場合ではないことを薄々感じている自分もいた。



 「―――行くぞッ‼ここからフルスロットルで体を使うぞ。勝也ああ!後ろは任せたぞッ‼」



 勝也の前に座っている俺の声が正確に彼へと届いたかは分からない。だが、勝也は叫ぶこともなく、静かに俺の耳元に小さく入ってくるほどの声量で言った気がした。



 「…………もう、俺たちは負けない」



 そう言った相棒の表情が見てみたかった。しかし、それは叶わない。向き合う形ではできない競技である以上、その表情を見られるのは勝利のラインを踏み越えてからだろうから。



 ♦



 六百メートルのブイを超え、七百メートルのブイを超えようとしていた先頭に立つ艇のクルーが言った。

 


 「「この勝負は貰ったぜ」」



 愛工第一Bの野本野本ペアこと「のものも」ペアの二人だ。双子の息というのは恐ろしく、話すタイミングも同じでスパートをかける瞬間の把握まで完璧。現在は他の艇を圧倒して独走。彼らについて行くことのできなかった艇が必死の形相で追いかけてきているにもかかわらず随分と涼しげな様子だった。



 しかし、その勢いについてこようとするのクルーが速度を上げてきている。その様子を見て二人は同時に言い放った。



 「「何をいまさら!もう俺らの勝ちは決まっているんだぜ?」」



 完全に舐め切った態度。流しながら進んでいるというわけではないが、トップスピードのようでもない。一見フルパドルに見えないこともない、というギリギリのラインで漕いでいる。レートも少しは落としているが、一本一本の伸びが他のクルーとは全然違う。スーッと静かに伸び、アメンボのように水面を闊歩していく。これが彼らの速さの所以。人呼んで「アメンボパドル」というらしい。


 

 「やっと優勝だなっ」



 「ああ、そうだねっ!兄さん」



 優勝した気分を分かち合う二人の後ろにはまだ諦めていない一つの影が徐々に迫ってきていた。



 ♦



 気が付けば、隣に先ほどまで俺たちを抜かしていった船が俺たちに逆に抜かれていった。手に握力が感じられず、しっかりとオールのハンドルを回しているのかさえ分からない。追い越したはずの艇に再び迫られていることに気付いた他の艇がさらに艇速を上げてきた。再び彼らに戦闘態勢をさせてしまう状況が出来上がってしまった。そのことを気にすることもなく俺たちはブレードを一回一回沈めていく。



 「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ………勝也‼粘れええええええええ!」



 「…………ああ」




 温度差の違うように見える俺たちだが、それは表面に闘志が溢れているかそうでないかの違いだけ。心の中はどちらも溶けそうなくらいにカンカンに熱くなっている。蹴散らしていった一艇を全速力で追跡する。現在は七百メートル付近。



 「まだ望みはある。勝つんだ、勝つんだっ!俺たちの為にも勝つんだっ」



 「…………わかってる。もう、負けないってずっと言ってる」



 俺には勝也の声が聞こえている。だが、周りの観客が大歓声を上げている中で勝也が俺の声を正確には聞き取れないはず。俺は勝也と面と向かっているわけではなく、心に直接問いかけているわけでもない。要するに。



 「―――悪いな双子コンビよ。お前ら兄弟のような堅い絆には負けても、勝ちたいという一心で漕いでいる俺たちの『コンビとして』の絆は勝っている!」



 もう後がない。恐らく奴らは八百手前で悠々と漕いでいるに違いない。だが、こちらが双子ダブルを抜かしにかかっているとは一つも考えてはいないだろう。途方もない距離。縮まることのない絶対的なアドバンテージという風にしか見てないあいつらに一泡吹かしてやるしかない。例え最後のコンマ一秒とてギブアップするわけにはいかない。



 ♦



 

 「やばいよ兄さん。あの落ちた艇が這い上がってこようとしてる。それも、他の艇を蹴散らして俺たちのところまで来ようとしてる」



 「そんなことはない。例え一センチでも、タイムならコンマ一秒でも上回っていたらいいんだ。負けるはずがない。この圧倒的な差を前にして、俺たちが負けるはずない」



 兄弟の間で小会議が行われてた。嫌な予感を察知した弟の意見を突っぱねた兄。この心持ちがいつまで続くかは見ものだろう。



 ♦



 正直、現在俺には話せるような余裕が消えていた。皮膚を流れる濁流のような汗はまるでユニフォームで水中に入ったかのように服に染みこんでいる。そんな中、追いかけるのに必死で脳に酸素が行き届いてないのか思考まで止まってしまっている。全力の勝負をしに決勝という舞台に立ち、一位を取られそうというこの状況では戦略とかは言ってられない。この地区の本当の強者を決めるのがこの大会。世間一般で見れば小さな大会であることには間違いない。しかし、それを大きな舞台だと感じている人間がいるということも忘れないで欲しい。俺たちのような弱小選手が今、ジャイアントキリングを起こそうと足掻いているのだ。部内で倒れ、突っ伏して、叫んで、引いて。そして、ようやくの思いでここまで来た。例え負けても…………とは一切眼中にない仮定であることを伝えておきたい。



 ♦




 手に汗握る残り百メートル地点。このとき、奇跡が起きていた。



 「嘘だろ‼あの最下位ペアが一位と競るポジションにまで復活しやがったぞ!」



 一人の観客が叫ぶ中、その事実を目の当たりにしている大勢の観衆。何故こうなってしまったのかは本当に分からない、といった様子。ただ見たのは全力を長時間持続させているクルーが一位独走のはずのクルーをしっかり捉えたということだけ。地区大会ではめったに見られない熱きバトルの予感が観客席一帯に渦巻いていた。



 ♦



 「やっぱりだ兄さん!もう俺たちは射程圏内に入っちゃってるよ!



 「いや、落ち着け。ここから温存していた体力で残り百メートルの間に差をつけてゴールするだけだ!行くぞ、本気のパドルはしんどいぞっ!」



 双子は中盤以来のパドルでさらにスピードを上げていった。しかし、一つの誤算が目の前に広がっていた。



 「引き離せない…………?俺たちが詰められてる。もうすぐ横に並ばれるっ!兄さん!もっとレートを上げないと………」



 「馬鹿ッ!こういう時こそ落ち着きだって監督に言われてるだろ!それに、ただレートを上げたからって早くなるわけじゃない」



 「やばい兄さん!もう隣に居るっ!」



 愛工第一の双子はその言葉の後に感じたはずだ。その時にはすでに遅かった、ということを。



 「ピッ‼……ピッ‼………」



 二つの電子音が会場内に響き渡った。観客も審判も誰もが唖然とした瞬間だったからだ。見紛うことはない、ガッツポーズを天に向ける二人の姿。深紅のユニフォームに身を包んだ、白銀の艇の上の戦士たちは雄叫びを上げていた。



 「「ぬおらあああああああああああああああああああああ!」」



 普段はおとなしめのバウも勝ちにこだわって来た整調は互いに勝利を分かち合っている。雨に濡れた後のような汗がそのバトルの壮絶さを語り、うなだれる双子のペアがレースというものの厳しさを身に染みて感じた。

 天国と地獄、まさしくそう呼ぶにふさわしい構図が観客には目には映って見えた。

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