第2話


 ぽたりぽたりぽたり。


 フロントグラスには雨粒が間断なく降りている。

 雨粒は、落ちた端からガラスの斜面を伝わって流れ落ちる。時折不意に方向を変え、となりの水のしたたりと合流して、より大きなしずくになって早足で、フロントグラスを駆け下りてゆく。


 窓の向こうには雨にけむる、大きな駐車場が見える。海沿いのスーパーマーケット・ストアの、巨大な駐車場の端に、彼女のステーション・ワゴンは停まっている。

 スピーカーからは、オーセンティックなカルテットの、クールジャズが流れている。ヴァイヴラフォンを中心に据え、緩急を自在にコントロールしながらもあくまで、熱を失わない。緊張と解放。奔放と自省。けしてオーバーヒートはせずに、スマートにクールにスィングを続ける。まるであの部屋の花たちのように、彼女を受け入れ、やがて解き放つ。


 駐車場の一角は、地元の子どもたちのためのバスケットコートになっている。オリーブ色のフェンスで囲まれたその中に、二本のゴールポストが雨に濡れて立っている。ボストンのハイ・スクールの校庭にも、同じようにフェンス囲いのコートがあった。このコートの向こうはコンクリートの背の低い壁があり、そこから先は海である。それと対照的に、ボストンのコートの向こうは、川が流れていた。


 川には秋になると、サーモンが遡上した。彼女は土手に座って、小春日和の一日を、サーモンを観察することで過ごす日が何日もあった。古い大木のように、濃い朱色と黒のまだら模様をした背中をねじりながら、サーモンは水の浅い川を遡上してゆく。背びれや尾ひれにはささくれが目立ち、残り時間の少なさを物語る。彼らは脇目も振らずに一日中、彼女の眼前で川を上り続けていった。


 サーモンを見ているとやがて、叔父が彼女を訪ねてきた。

 銀縁眼鏡の叔父は、彼女にクラブハウス・サンドイッチを届けてくれた。魔法瓶に入ったダージリン・ティも一緒だった。

 叔父は言葉も少なく彼女の隣に座ると、背広のポケットからオペラグラスを取り出して、彼女と同じように熱心にサーモンの背中を追った。


 ふたりは歳でいえば30歳近くも離れていたけれど、不思議とこころが通じ合う仲だった。

 どちらも口数が少なく、そして押しつけがましいとこがない代わりに、確固とした自分の世界のなかで生きる時間が長かった。陽気に生きてゆくことは、苦手とはいわないまでもあまり興味がなく、それよりも自分の興味のあることに、限られた人生の熱量を消費することに執心した。

 親戚の集まりがあるといつも、ふたりは座の端のほうで口数も少なくお茶を飲みながら、日々の暮らしを話した。初老の域に達した叔父は、若い頃に妻に先立たれてからはずっと独身を貫いて、悠々自適な生活を送り続けた。親類のものが日々の暮らしに汲々きゅうきゅうとする間、叔父は英国仕込みの午後のお茶と、のままで飲むウィスキーを欠かさず、スタイルに合わないことは一切しないという暮らしを維持し続けた。叔父は見事なまでに遺産を残さず、自分の稼ぎで生き切って、葬式代だけを残して死んでいった。それはまるで品のよいジョークのように、彼女には思えた。


 叔父が彼女に何かを押しつけたことは一度もないが、彼女が叔父から学び取ったことは大きい。

 叔父の家は彼女の家から歩いてすぐのところにあり、午後のお茶の時間に彼女はそこを訪れては、叔父の膨大な蔵書に囲まれて、見知らぬ異国の話や、歴史上の人物の物語りに熱中した。

 叔父は、もちろん彼女に読むべき本を示したことはないが、彼がひとつだけ、繰り返し言ったことは彼女の心に深く刻まれている。


「押しつけられたら、逃げなさい」


 彼は死ぬまで、それについての説明をしなかった。ただ、自らの行動でそれを示し続けた。


 叔父が死んで、彼女に子どもが生まれると、そんな彼らの“傾向”は、彼女の子どもに引き継がれた。

 幼い頃から彼は自分ひとりの世界を好み、ひとりごとを言いながら何時間でも遊んでいるような子どもだった。

 彼が好んで遊ぶダンプ・カーの木製玩具は、やはり叔父が送ってくれたものだ。回転するゴムのタイアと昇降する荷台という可動部分を持った、その極めてシンプルなモデル・カーに、彼は自分の世界を見出したようだ。何ヶ月も飽きることなく、彼はそれを前後に走らせては、架空の工事作業を行っていた。


 ある日彼は、通学の途中行方がわからなくなった。

 学校は、すぐに彼女に連絡を取ると、警察を手配すると言い出した。彼女はその大袈裟さにあきれ、その必要はない、と言った。夕食までに戻らないようならば、その時に改めて自分の方から連絡をする、と。

 やがて日が西に傾き、いつも彼が帰宅する時間になると、何ごともなかったかのように彼は家に帰った。


 彼女は彼の好物の、クリームシチューを作っていた。

 キッチンに立つ彼女の脚に両腕を回し、彼は草いきれの匂いを強く漂わせながら、今日の出来事を語った。登校途中に見える山(それは大人にはどう見ても「丘」にしか見えない)の上に、大きな動物がいた、という。それが何なのか、見に行ったのだ、と。


 彼女はすぐに、それがこの地方特有の牛の放牧なのだとわかったが、夕食のあいだじゅう興奮して語る彼の話を聞き続けた。





 中空をさまよっていた視線が、ふたたびフロントグラスに伝う雨水へと戻る。

 車は雨の中にぽつりと、かれこれ30分も停まっていた。

 パワー・ウィンドウのスイッチを入れると、くぐもった音と伴に、窓ガラスが下降する。それに連れて、車内には潮の香りが満ちてくる。


 ―――私は積極的に孤独を選んできたのではない、と彼女は思う。

 自分に素直に生きた結果として、ひとりの時間が多くなっただけのことだ。それを一度たりとも悔やんだことなどない。

 しかしあるいは、あの小説に描かれたように、ふとしたきっかけが、ドラスティックに自分を変える日が来るのだろうか?

 既に30代を半ばまで生きたひとりの女として、彼女はそれをリジェクト拒絶することを確信する。運命が、たとえどんなにドラマティックにプログラムされていようと、私はこのまま、私であり続けるのだ、と彼女は思う。


 しかしそれは、積極的に自分であることを維持するわけではなく、自分でないものを拒否し続けた結果として残る程度のもので良い、と思う。押しつけられたら、逃げ続けること。そうすれば、いつかは誰も追いつけない高見まで、自分を持っていくことができるかもしれない。やがては運命さえ、追いつけない高見へと。




 私は、このままがいい。




 彼女は人差し指で、くちびるを撫でてみる。

 雨の中にしっとりと沈んだ駐車場に停まったステーション・ワゴンのなかで、彼女は丁寧に自分の世界をパッケージングする。誰にも犯されぬよう、誰にも触れられぬように。


 叔父のためには、好きな物だけが見えるオペラグラスを。

 息子のためには、彼の土木作業をつかさどる、木製のダンプ・カーを。

 そして、自分には、やはり花を。鮮やかでなくてよい。香りもほのかでかまわない。ただ、無彩色のこの世界をすこしだけ彩る、白い花を。


 だって、花はハンナの花なのだから。

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花はハンナの花 フカイ @fukai

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