しんごん

大滝のぐれ

しんごん

「ぶっ殺してやる」

 そう叫んだ健司は俺が止める間もなく走り出した。そして、地面になぜか落ちていた女性ファッション誌に持っていたビニール傘の先端を突き刺し、それを剣のように思い切り下に引いた。

 鋭く乾いた音がして、表紙に閉じ込められていたモデルあがりの女優が、傘がえぐった目を始点にしてまっぷたつに裂ける。体の部分に躍っていたありきたりでセンスのないキャッチコピーも、それによって意味のない言葉へと変えられ、彼女がウリにしている唇と白い肌は、表紙がめくりあがったことにより隠れてしまう。

「殺す殺す殺す」

 壊れたおもちゃのようにそう連呼しながら、健司は雑誌に向かってなおも傘を突き刺し続けた。ホームレス、ブランドものの鞄の中にゲロを吐く女、それを介抱している性欲まみれの男などがまばらに点在している終電間際の池袋駅構内で、彼のおこないをとがめるものはいない。皆、自分とその周り数メートルを死守することに必死になっている。

 俺は騒ぎを聞きつけて警察がやって来ないかどうか神経を尖らせながら、携帯の録画アプリを起動し、健司が女優の印刷された紙を蹂躙しているさまをカメラに収めていた。健司が傘を振りあげるたび、彼が着ているシャツの背中に複雑なしわが浮かぶ。そこには彼が背負っているぼんやりとしたなにかが、とぐろを巻いた蛇のように鎮座していた。胸の奥底がずきりと痛む。そのせいか、彼の行為を止める気はなかったはずなのに、気がつくと制止の言葉が口をついていた。

「おいおいもうその辺にしとけって」

「やめねえよまだこいつ死んでねえもん。おらー! 死ね死ね死ね」

 ほぼ紙くずになってしまったそれを、健司はなおも傘でかき回していく。ところどころ色の残った紙の破片が、たくさんの通勤通学に急ぐ人間の足に踏まれる。それが今をときめくナントカという女優が印刷されているものだということに、誰も気づかない。翌朝までこの残骸が掃除されずに残ってしまったときのことを想像し、俺はほくそえむ。

 しかしその瞬間、濃紺色をした人間が二人、こちらに駆け寄ってくるのが見えた。後ろを振り返ると、スーツ姿の陰気な男がそこにいて、日ごろ堆積した鬱憤がにじんだ嫌な笑みを浮かべていた。彼は俺たちから視線をそらさないまま、どんどん近づいてくる制服を着た警官をこちらに手招きしていた。気づかぬうちに通報されてしまっていたらしい。

「やっべおい健司逃げるぞ」

「あ? んだよ止めんなよ今いいところなのに」

 なに言ってるんだよ、だって、俺たちは。言葉の続きを喉元で留め、ごね始めてしまった健司の手を乱暴に握り、俺たちは汚らしい地下道の床を蹴って走り出した。有楽町線の改札寄りにある、エソラへと通じるエスカレーターの近くにいたので、そのまま後方にのびている階段を一段飛ばしでのぼっていく。石鹸屋のシャッターが一瞬だけ俺の目をひっかいたのを感じながらルミネ前の空間を抜け、西口公園のほうへと向かう。

 芸術劇場の前にある、女性が二人向かい合っているデザインのブロンズ像の前までくると、もう警官が追ってくる気配はなかった。彼らが接近してきていたのに早めに気づいて対処したのが功を奏したらしい。

「危なかった」

 像の腰辺りに手をついていると、安堵が胸の底からしみ出すように湧いてきた。

「あぶねーあぶねー捕まるところだったー」

 のんきな言葉と健司の息が、うなだれている俺の首筋にかかる。アルコールを含んだ甘いにおいが、俺の顔の周りにまとわりつく。それにつられて顔をあげると、彼の満面の笑みが視界に広がった。とりあえず、警察撒いた祝いで飲もうぜ。健司はそう言うと、ちょうど青になった横断歩道に飛び込み、向かい側の通りにあるセブンイレブンにスキップしながら入店していった。ワンテンポ遅れて店内に入り、酒類コーナーの前で突っ立っていた彼に追いつくと、健司の右手に握られているにんじん色のかごの中には、すでにチューハイのロング缶が二つ寝そべっていた。

 会計を済ませ店を出ると、最終的に俺たちの手にはそれぞれ、酒が三本ずつくらい入ったビニール袋が握られていた。俺たちは袋の中に転がるそれらに目を向けた後、お互いに顔を見合わせて微笑んだ。

「いやーコンビニって年確クソ適当なんだな。おれたちまだ高三なのに」

「なー。昨日、安いからってスーパーで買おうとしたときは普通に年確されて焦ったわ」

 俺たちは未成年。そのことを自覚し直すと、周りの風景がどんどんデフォルメされていくような感覚がやってきて、体がふらつきはじめた。確定申告と青色申告の違いもわからないクソガキの体内に、アルコールによる根拠のない全能感がみなぎっていく。自分が世界で一番強い存在なのだという思い込みが、頭の中で膨らむのを止められない。

「今いくら持ってる」

「五〇〇円くらい」

「勝った。俺は一〇〇〇円くらい」

「うっわークッソ負けた……そうすると二人合わせて、一五〇〇円くらいかあ」


 んじゃあ、明日あたりには死のうか。


 端々がふやけた声で、健司は静かにそう口にした。軽い口調ですさまじいことを言っているはずなのに、俺の耳にはそれが綿に包まれているかのように柔らかく聞こえた。

 家出して東京に行って、お互いの金が尽きたら死のう。三日前の昼休み、学校の教室で健司はそう提案してきた。校内模試が近かったので英単語帳に目を落としていた俺は、それに困惑しながらもうなずいた。なにかに対して強く絶望していたわけでもなく、不良じみたことがやってみたかったわけでもなく、ただ死にたいというわけでもなかったのに、俺は健司に導かれる形で、ここまで来てしまった。親は、急に消えた俺のことを心配しているだろうか。失踪届のようなものは、もう出しているのだろうか。もしそうなら、それはとても困る。未成年、家出、飲酒、深夜徘徊。これだけずらずらキーワードが並んでいれば実家に強制送還はまぬがれない。それはとても嫌だ。

 嫌? なんでだ? 怒られたり愛想を尽かされたりするのが嫌なら、今すぐ家に帰ればいい。俺にはそれができる。それなのにどうして俺はわざわざ飲んではいけない酒を飲み、自殺願望のある友達が雑誌を破壊するところを見て心を痛めていたのだろう。

 胸がじんじんと痛むのに体は熱を持ってふわふわしているため、考えがうまくまとまらない。ついに立っていられなくなって、俺はコンビニの横にある路地で尻から地面に倒れ込んでしまう。アスファルトに頭を打ちつけ、甘いしびれが頭蓋の中に生じた。路地の曲がり角にあるトルコ料理屋の窓から突きだしたトルコ国旗、ビルの看板や窓、そしてそれらの隙間に広がる夜空が、仰向けになった俺の視界を覆った。

「うわっちょっと大丈夫かよそんなに飲んでたっけ」

「ビールを二缶」

「それだけ? じゃあお前は弱いのかもな、酒」

 痛みが曖昧になった中、頭を押さえて芋虫のように道路上を転がる俺を健司はのぞきこんだ。いつの間にか、桃のチューハイのロング缶を袋から取り出している。ほんのりと赤くなった彼の顔は、とても明日死ぬような人間の顔には見えない。

「なあ、明日ほんとに死ぬの、俺たち」

「死ぬよ」

 健司の顔が、途端に笑顔を失う。それを視界に捉えながら、まだしびれの残る頭を持ちあげ、俺は上体を起こした。

「なんで。どうして死ぬんだよ」

「えっ今さらそれを聞くの? そりゃ死にたいから死ぬんだよ」

「なんで」

「だから、死にたいからだよ。ていうかお前もそれに納得してついてきたんじゃないのかよ」

 健司が怪訝そうな顔をして、こちらをにらみつけてくる。違う。そうじゃない。俺の言いたいことはそうじゃない。言うべきことはわかっているのに、苦労して口を開いても、出るのは酒臭い呼気だけだった。

「なんだよ、お前も感情を言葉にしないと納得しない人間か。いいじゃんしなくてもって思うよおれは。曖昧でぬるっとしたもののまま、『これです』って掲げていちゃだめなのかよ」


 抱いた感情を一から十まで、どうして言わなきゃいけないんだよ。自分以外のやつに。


 健司はそう叫ぶと、ロング缶に口をつけ、中身を飲み干さんばかりの勢いで流し込み始めた。喉ぼとけがゆらゆらと蠢いている。俺はそれに引っ張られるようにして立ちあがり、彼が缶から唇を放すのを待った。体の一部が、それにつれて熱を帯び始めていく。

 そしてそれが限界まで高まり、彼が口から缶を離した瞬間、俺は健司に顔を近づけた。人工的な桃の風味と、質の悪いアルコールが口内で弾ける。ほどなくして彼の濡れた瞳が、俺の姿を固定した。んむっ、というどちらのものかもわからない低いうめき声の後、俺は思い切り突き飛ばされ、再びアスファルトに頭を打ちつけた。今度は痺れすらも感じなかった。口の中に残った健司の舌のぬるついた感触だけが、妙にリアルだ。

「ふざけんなよなに考えてんだお前。酔ってんだろ完全に。冗談とはいえ、こんなことするなんて……だめだな寝たほうがいい。もうネカフェに戻るぞ」

 健司が手の甲で唇を拭いながら、俺のことを見おろしている。その瞳は先ほどと違って真っ黒で、もうなにも映っていなかった。

 肩を貸してもらい、俺はなんとか立ちあがる。そのまま路地を抜け、大通りのほうへ向かう。ここ数日のあいだ宿代わりに使っているネットカフェは、その通りの並びにあった。

「とにかく、おれは明日死ぬから」

 耳元で健司がそうささやく。俺は目だけを動かして彼の横顔を見た。やはり、明日死ぬような、いや、明日死ぬべき人間の顔には、どうしても見えない。

 ネットカフェが入っているビルのエレベーターに乗り込むと、俺は携帯をポケットから取り出し、なんとはなしに先ほどの動画を再生した。駅構内で撒き散らされた健司の叫びが、狭くて四角い箱の中にこだましていく。暴力的なその言葉が体に染み渡るたび、熱を帯びていた部分がどんどん小さくなっていくのを、俺はわずかな疲労感と共に感じていた。

 そういえば、いつの間にかビニール傘がなくなっている。

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しんごん 大滝のぐれ @Itigootoufu427

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