その者、化物につき

作者不明

第1話 化物と呼ばれた男


 一人、ただ歩いていた。

 学校から自宅までの帰路に掛かる時間を、ただ消費していた。


 時間という有限物を代償にしたとして、獲られるものは虚無感しかなく、それは一方的な消費を意味する。

 その奪われる理不尽に対して、諦念を持ったのは、いつからだろう。

 それが世界の当たり前で、それを受け入れることに違和感を持たなくなったのはいつからだろう。

 

 だが、ふとした瞬間――たとえば学校からの帰り道を歩いている今この瞬間、それは蘇る。


 ――強烈な“違和感”。

 それはいつも強烈な眩暈と共に襲ってくる。

 この世界は、自分が“今見ている”世界は、虚構か何かで出来ていて、本当は自分が知らない世界があるのではないか。

 この世界では無から有は生じないとされている。ならば自分は無であり、存在していないのではないか。


 そんな疑念が頭から離れなかった。


 しかし、ある哲学者は言う――我思う、ゆえに我あり、と。

 いくら自分の存在を疑おうと、自分という存在を疑っている自分は存在している。

 それは確かに尤もらしく、疑いの余地すら与えない縋りつきたくなる言葉だった。


 しかし、それにすら異議を唱える人間が多くいる。この世はすべて仮設で成り立っていて、その仮説が正しいということを誰も証明することはできない。

 それならば、一体何を信じれば良いというのだろう。

 大抵の人間は、そんなことに悩むことなく死んでいくのかもしれない。


 だが、それでも考えてしまう。


 ――自分という人間は、何のために生まれてきて、何のために生きているのか。


 そんな“生”の理由を知ること――この自己に対する違和感を消すことができるのなら――


「なあ、このあとゲーセン行かねえ?」


 突如として、前方から声が発生する。眩暈を振り払うようにして、視線を向けた。


「いいね~。それ終わったらカラオケでオールとか、どうよ?」


 二人の学生が前を並んで歩いていた。制服を見て、同じ高校ではないことを理解する。


 ――つまらない光景だ。


 どこにでもある、平凡な日常。ただ、時間を消費していくだけの、虚無に満ちた人生。

 だが、自分の人生もそれらと何ら変わりのないものであると知っている。安心と安全だけを求める平和ボケした人間しか居ない世界で、形成される社会は決まっていた。


 だからこそ、その崩壊を求めて生きてきた。


 衝撃を与えれば何か変わるかもしれない、そんな子供染みた考えからか、ただひたすらに刺激を求めていた。

 だが、一時的な刺激を優先してしまえば、檻に入れられる。そして、そこで待っているのは、さらなる退屈。それを受け入れられるほど、馬鹿にはなれなかった。


「ねぇ~、そこの君。その制服、海王の生徒でしょ?」


 突然、立ち止まった男が、こちらに向かって声を発した。耳にはピアス、髪は金色に染め上げられ、その制服は見事に着崩されている。


「おお。金持ち学校の生徒じゃねぇか」


 似たような容貌の、黒髪の男も、こちらに振り向き、声を発する。


 ――またか。

 幾度となく経験した事柄を前に、ある程度の察しは付いた。


 二人は顔を見合わせ、浮付いた笑みを浮かべる。


「ま、そういうことだからさ♪ ちょっと、そこの裏路地に行こっか」


 金髪の男が、ちょうど隣にある路地を指さす。

 声を掛けられ停止した位置が、路地の入口だという事を考えると、あらかじめ計画されたものだと予想が付く。二人の会話が妙に演技がかっていたのも、そのためだろう。

 

 一目に付く場所で問題を起こしたくないため、仕方なく、指示に従う。

 二人の男と共に裏路地へ向かった。


 ――灰暗の路地。人の気配を感じさせることはなく、廃棄物が装飾品となって、外界からは断絶されたような、独特の雰囲気を醸し出していた。ゴミを漁っていた黒猫たちが人間の気配を感じ取り、その身を隠すよう一斉に散らばる。


「さ、財布出して。」


 少し離れた位置で金髪の男が言う。壁に背中を預けながら、足で通路を塞いでいた。


 だが、それを無視して、無言でたたずむ


「おい!」


 痺れを切らしたのか、近くにいた黒髪の男に胸倉を掴まれる。


「さっさと出せ!」


 揺らされた反動で、身体が壁に激突する。

 まだ怒りが収まらないのか、黒髪の男は今にも殴りかかりそうな勢いだった。


「一つ聞いてもいいか」


「なんだ⁉」


 一息。


「――お前たちは何のために生きている」


 予想外の問いに――いや、疑問の色すら孕んでいない、ただの言葉の投げかけに――目を丸くする二人。


「んなこたぁ考えたことねぇな」


 黒髪の男は即答する。


「だろうな。なら『生』について考えない奴に『死』を味合わせてやってもいい」

「なに言ってんだ、てめ――」


 途中で言葉が途切れる。その代わり――


「が」


 間の抜けた声が路地に響き渡った。


「――流石に二人居ると集中できないからな」


 首を絞めていた両腕を解きながら、独り言のように呟く。

 まさか一瞬で後ろに回り込まれ、首を絞め落とされるとは思わなかったのだろう。意識を失った男は、瞳孔を大きく開いたまま、糸が切れたように、地面に倒れこんだ。


「ここなら少し派手に暴れても問題ないだろう」


 呟きながら、もう一人の男を横目で見やる。

 友人が一瞬で倒されたことに驚いたのだろう、その目は大きく見開かれていた。


「――次はお前だ。さっさと答えろ。」


 一服しようと、その手に持っていた煙草が地面に落ちる。その手は震えていた。

 次は自分の番だと理解したのだ。


「う、うおおおおおおおおおおお‼」


 突如として雄叫びが上げられる。金髪の男が拳を振り上げていた。


 ――遅い。

 素人としか思えないほど隙のある大振りが、振り下ろされる。その瞬間に、左手で腕を掴み、逆の手で顎をカチあげる。

 さらには体重が乗った足を払い――全力で地面に叩きつけた。


「がはッツ」


 鈍い音が路地に響き渡る。頭部が地面に衝突したのだ。

 だが、頭部だけでは勢いは死なず、背中にまで衝撃が走る。


「――――」


 声が出ていなかった。背中を打ったことで、上手く呼吸ができないのだろう。

 水を失った魚のように、のたうち回っていた。


 ――そこに、拳を振り下ろす。ただ全力で。


 先程まで暴れていた男の動きが止まる。

 まだ意識はあるのだろう。目で助けを訴えてくる。

 だが、そんなことは気にせずに、


 ――次の一撃を振り下ろす。

 

「お前は何を感じる」


 答えは返ってこない。


 ――振り下ろす。


 ある程度までなら、痛みを与えることで、強制的に意識を保たせることができる。暴力によって消失しかけていた意識を、さらなる暴力によって呼び戻す。

 そして、最後に痛みで取り戻した思考を、恐怖によって引き出す。


 ――今度はゆっくりと拳を降ろしていく。


 そして止める。眼球に触れる、その直前で。男の瞳孔は開かれ、震えていた。

 恐怖で選択を強制された男の口はゆっくりと開かれ――


「し、『死に』たくない……‼ 俺はまだ『生きて』いたい……‼」


 ――やはり、そうなるか。

 何も考えてないような人間でも、生存本能には忠実だ。


「な、なんでも言うことを聞く――だ、だから、命だけは……!」


 先程までの飄々とした態度は見る影もなくなり、その必死に助けを求める姿は強者に媚びる弱者そのものだった。


「――なら、お前は俺を殺してくれるのか」


 悪魔が囁きかける。


「こ、殺し――? そ、そんなことできるわけがないだろ……」


「そうか」


 返答を聞いて興味を失い、倒れる男に背を向ける。そして来た道を戻り始める。


「お、おまえ……な、名前は……」


 暴力に支配されても相手の名を問うことだけは忘れなかった。いや、それは暴力に支配されたからこそなのかもしれない。

 それは不良としての習性か、あるいは別の何かか。


「――岡部十蔵。」


 ただ、答えた。そして、ゆっくりと路地を後にした。


 









 強制された『死』にしか意味を感じない。

 自ら選択した『死』は『生』への諦念であるのに対して、強制された『死』は 『生』への執着を生む。先程の絡んできた男たちも、初めて味わう『死』を前に 『生』への執着が生まれ、これまでとは違った世界が見えるようになったのだろうか。

 そんなことを考えながら、十蔵は再び帰路に着いていた。


 ――道は、工業地帯に差し掛かる。

 地面に目を向けると所々に鉄パイプが散乱しており、視線を上に向ければ、工事中である鉄骨構造の建物が見える。違法駐車する運送トラックに、壁に描かれたグラフィティ。人の気配は少ないが、そこに人は在るのだということは見て感じ取れた。


 この何とも言えない灰色の空間が、十蔵は好き"だった”。

 建築に使われる素材には目的のための手段という明確な理由が与えられ、その目的である建築物も人間に使われることで、手段と化し、その存在に意味が生まれる。


 それらは“ちゃんと”生きて“いた。

 だからこそ、十蔵はここを通るたびに強く思ってしまう。その“生”を知りたいと。

 何度も呼び起こされる違和感が、刺激に対する欲求を強める。


 自分を殺せる存在――それほどに理不尽な存在を、十蔵は求めていた。


 あの人は確かに“生きていた”。だから知りたいのだ。


 ここを通ると必ず思い出される一人の女性に想いを馳せる。

 普段は遠回りしてまで避けて通るはずの“この道”を帰路として使ったのは、あの人を思い出してしまったからだろう。


 あの人だけは“本気”だったから。

 でも、もうあの人は居ない。彼女と居たときには感じなかった渇きを、刺激で代替しようとする自分の虚しさに、さらなる渇きが生まれる。


 悪循環と呼ぶしか名前のない地獄に、十蔵は吐き気と渇きを同時に覚えた。

 あの人が居なくなって以来、己の中に取り込まれた“普通”をすべて吐き出して、渇きを刺激で潤して、あの頃と同じ状態に戻りたいと、心の底から強く思った。


 それでも知っている。分かっている。


 この世界に居る限り、この渇きが満たされることはない――


「危ない――‼」


 突如、悲鳴にも似た声が叫ばれる。

 急に変容した状況。緊迫した空気。何が起きたのか把握することができないが故に、ただ危険を過ぎ去るのを待つことしかできない。


 だが――


 十蔵は叫ばれる声に呼応するよう全力で走り出した。


 ――前に向かって。


 その瞬間――背後から爆発音が発生する。

 それを聞いた十蔵は即座に急停止。後ろを振り向く。



 トラックが壁に衝突して燃えていた。

 その原型を留めていない大破した車体は、異常な速度で壁に激突したことを意味していた。

 斜めに入射した車体の傾きと位置からは、あのとき、前に走るのではなく、後ろを振り向くことを選択していれば、衝突していたのは、壁ではなく十蔵であったことが分かる。


 ――間に合うか、間に合わないかの、紙一重のタイミングだった。


 それは声の聞こえた方向から、その人物が視野に納める方向――すなわち声とは反対の方向に危険物がある、という答えに一瞬で辿り着いたが故の結果だった。


 十蔵は車体の中に視線を向ける。

 この衝突では、まず生きていないだろう、そう思いながら運転手を探した。

 だが、運転席を見た十蔵の目は大きく見開かれる。

 そこには誰一人として居なかった。


 強烈な違和感が十蔵を襲う。

 その違和感を拭うように、十蔵は当たりを見渡した。


 燃える車体の先――そこに一人の男が立っていた。

 爆発した車からの煙で顔は見えない。だが、少しの隙間からその口元だけを覗かせた。


 ――笑っていた。


 この状況で、笑みを浮かべていた。

 その意味を考えることは難しくない。この惨状の犯人は間違いなく、目の前の、

 

 と理解した、そのとき――


 ――充満する煙に大穴が穿たれた。


 前方から膨大な運動エネルギーを持った物体が飛来する。

 目では認識できない事象に、十蔵はわずかに反応した。


 瞬時に煙に空いた穴の形状から物体の大きさを認識し、その射程範囲から逃れられる動きを取る。だが、それでも間に合わない。


 ――左耳が吹き飛ぶ。


 抉り取られた左耳から大量の鮮血が飛んだ。

 だが、十蔵は、その血が地面に落ちるより先に、下に落ちている鉄パイプを拾い上げ――


 ――足を地面に踏み込んだ。

 そのまま最短距離で攻撃が飛んできた場所へと向かう。


 常人ならば、初めての『死』を前に恐怖で足が動かないだろう。

 だが、十蔵は即座に動いた。まるで、この状況を待ち望んでいたかのように。


 

 『死』の元凶へと辿り着く。そして――

 一切の躊躇いなく、鉄パイプを全力で叩きつけた。


 想定していた鈍い音ではなく、鋭い音が響き渡る。鉄が折れた音だった。

 音から瞬時に状況を判断した十蔵は――全力で後方に跳んだ。


 ――轟音。

 飛翔した直後、十蔵の元居た場所には大穴が穿たれていた。


「……はあ……はあ……」


 流石の十蔵でも、連続して迫る『死』を前に、消耗の色が見えた。

 手と額には大量の汗をかき、心臓の鼓動は破裂しそうな程に早まっている。


「――ははは。殺されかけたっていうのに、即座に動くか。かなりイカれてるね。」

 

 煙幕から姿を現したのは、若い男だった。


「これ負けイベントなんだけどなー。普通ありえないよ? 普通の人間が、これを回避するなんて。」


 軽妙な語り口と共に振る舞われる道化のような仕草。そのどれもが、人間味を引き立たせる要因となりうるものだ。だが、この男の場合は違った。


「お前は、なんだ」


 十蔵が問う。


「なんだ……? う~ん、“なんだ”か。そうだね」


 十蔵の問いに一瞬困ったような表情を見せる若い男。

 だが、すぐ何かに思い至ったのか、その口元に笑みを浮かべ、


「――物理という概念そのものだよ。」


 答えた。


「世界の修正力とでも言っておこうか。だから、まあ世界の法則に従って君を消さなければならない」


 突然の情報飛躍に、一瞬理解が追い付かない十蔵。だが、汗を握らされている自身の手に視線をやる。本能が理解を示していた。

 

 違和感の正体が何であるか、それを知ることは適わない。それは本能よりも先に導き出していた答えだった。だからこそ、その違和感が違和感であることに従った。

 

 十蔵には精神的な理由で汗を欠いた記憶はない。そして、この環境下で物理的要因があるという可能性も限りなく少ないことは理解している。

 そこから導かれるのは、この状況が十蔵にとって未知であるということ。

 世界の“普通”を“当たり前”のように見てきた十蔵が、経験したことのない事象。 

 それは“普通”ではない“何か”との邂逅を意味していた。

 だから十蔵は男の語った異様な状況を現実だと、素直に受け入れた。


「クソみたいな世界だとは思っていたが、その世界クソが相手とは――最高に面白くなってきたじゃねぇか。」


 世界クソが現れたことによって世界クソ世界クソではなくなった。

 自分が長年求めていたものが手に入るかも知れない――それを考えただけで、口元の笑みは止まらなかった。


「君は世界に抗うと言うのかい?」


 今までの表情とは一転――そこには真剣な眼差しがあった。

 圧倒的上位に位置する存在からの問い掛けに、尋常ではない圧迫感が生まれる。


 だが、そんなことは意にも返さず、十蔵は、即答した。


「ああ、ぶち壊してやるよ」


 ――それは世界への挑戦だった。


「なるほど、これは獣だ。君の中に眠っている“それ”は人間のそれではないね」


 地面を穿った二本の鉄骨が、再び空中に浮かびあがり、その矛先は十蔵へと向く。


「――それじゃあ、いくよ。」


 声と共に、二本の鉄骨が、左右から横を薙ぎ払う軌道を描き、物理上の限界速度で迫ってくる。このまま動かなければ二本の鉄骨に挟まれ、十蔵は命を失うだろう。


 横の攻撃に、対処すべきは縦の回避のみ。だが、迫りくる「死」は、その思考を導く時間すら与えない。その速度は目で捉えられるものではなかった。

 だから十蔵は“本能”だけで動いた。人間とは思えない程の飛躍。

 十蔵が飛んだ瞬間――地面には、さらに隠し持たれていた二本の鉄骨が同じ軌道を描いて迫っていた。

 上空ではなく、地面を縦の移動として選んでいれば、十蔵の死は確定していただろう。


「化物め」


 一度の間違いが死を意味する、この絶望的状況で常に正解を選び続ける“直感染みた”判断力、それを実行できるだけのずば抜けた運動能力。

 そして何より、それらの前提にあるのは目で見てから反応できる異常な反射速度だった。

 それは化物を以てしても、化物という言葉を用いざるを得ない異常さだった。


 左右の鉄骨が衝突して、甲高い金属音が響き渡る。十蔵は着地先を地面ではなく、鉄骨を選んだ。空中に浮遊する鉄骨は人一人の体重が加わったとして、微動だにしなかった。だから、十蔵は走った。鉄骨の上を。

 その鉄骨の道の先――無防備に立つ、一人の男に向かって。


「綱渡り――いや、鉄渡りでもするつもりか」


 おそらく人類でも類をみない挑戦だろう。鉄骨の横幅は片足が限界で、決して足場と呼べるような代物ではない。だが、


 ――十蔵は必ず成功させる。その信頼にも似た確信が、十蔵が渡り切るよりも前に鉄骨を動かした。

 その十蔵を振り落そうとする意志は、その足場である鉄骨を垂直に傾けた。

 だが、十蔵にとって、平行だろうと、垂直だろうと、この鉄骨の距離なら同じことだった。

 壁を走るのと同じことを十蔵は、息をするように簡単にやってのけた。

 その異次元の芸当を見た目は見開かれ――


「物理法則にすら抗おうと言うのか……!」


 重力に対して傾いた状態情報を的確に察知する十蔵の異様な平行感覚が、その曲芸を可能にしていた。


「世界に抗うって言ってんだ――物理おまえ如き簡単に超えてやるよ」


 そう言うと十蔵は垂直の鉄骨を足場として――


 ――足を踏み込み、飛んだ。


「があああああああああ!」


 十蔵が吼えた。


「なに、間に合わな――」


 その牙は、その爪は――化物の喉笛に傷を刻んだ。


 鉄骨を動かすことに意識を割いてしまったことが仇となり、研ぎ澄まされた十蔵の爪に喉を抉り取られることとなった。


 攻撃を喰らったことで、純粋な重力落下を体験しながら地面に向かって倒れてゆく。

 その考えもしなかった自身の状況に、わずかな後悔の思考があった。


 自分の失態は十蔵を相手に感覚で勝負してしまったこと。十蔵の土俵に立ってしまったこと。物理を操る論理という土俵を手放して、感覚の世界で戦ってしまったこと。

 ――そして何より、出会って数分の相手にある種の信頼を覚えてしまったことが、すべての元凶となっていた。


 そこに思い至った時には、もう遅い。


 着地した十蔵は、血に飢えた獣のように、敵対者に飛びかかった。両足で相手の体を固定しながら両腕で化物の首を絞め落とす。

 いくら超常の存在とはいえ、本人自体に危険がないことは攻撃が通じた瞬間に理解していた。故に懐に入りさえすれば、十蔵の勝ちは目に見えていた。


 ――が。

 十蔵が勝利を確信した、そのとき――


「は――?」


 ――地面が浮いた。十蔵と共に。

 それは地上という言葉の意味すら揺るがしかねないものだった。


 空中に浮く身体を必死に制御しようとする十蔵。だが、それは何の意味もなさなかった。

 不可視の力が、暴れ狂う十蔵を、小石を投げるかのように――壁に叩きつけた。


「がはッツ……⁉」


 一瞬、十蔵の意識が飛ぶ。

 その直後に重力に従っておとずれる地面への衝突で意識を取り戻した後、十蔵は自身に何が起こったのかを思い出した。

 即座に体勢を立て直し、次の手を考えようとした。

 

 だが、十蔵の身体は動かなかった。ありとあらゆる箇所の骨が粉砕され、全身には激痛が走る。

 左耳があった場所からは大量の鮮血が垂れ流され、肺は空気を吸い込まない。

 満身創痍という言葉すら生ぬるい――それほどに瀕死の状態だった。


「ぼくの勝ちだ」


 一本の鉄骨が十蔵に向く。それは銃口を突き付けられているのと同じだった。


 ――詰み。

 そんな言葉が十蔵の頭を過った。

 壮絶な死闘の果てに、思考を紡ぐことすら適わない。

 そして、鉄骨の動きと共に手が振り上げられる。


「――死ね、化物。」


 死の宣告と共に、一本の鉄骨が十蔵に向かって発射された。


「うるああああああああああ!」


 死力を尽くした生命の叫びが、最後に断末魔として世界に残された。

 鉄骨は深く壁に突き刺さり、その破片が空中に散る。

 

「――本当に化物か、君は」


 突如として、世界は驚愕の声で塗り替えられる。


「……はあ……はあ……」


 そこには、首を九十度に近い角度まで曲げ、荒い呼吸を行う、瀕死の十蔵の姿があった。

 その十蔵の顔面から数ミリ離れた位置に――鉄骨が突き刺さっていた。


「なぜ、その状態になってまで避けられる……?」


 目の前に倒れる一人の少年に、存在することを非難するかのような声で問う。

 だが、十蔵には喋る体力すら残されていなかった。


「まあ、いい。次で仕留めれば――」


 突如として、紡がれていた声が停止する。

 途切れた言葉の代わりに繰り出される舌打ちと共に、聞きなれた音が響いてきた。


 それは警報音サイレンだった。

 警察車パトカー警報音サイレンを鳴らしながら、十蔵たちが居る方向に向かってきていた。


「幸運すらも君の持ちうる武器ということか」


 鉄骨が不可視の力を失ったように、純粋な物理法則である重力によって地面に落下していく。


「――また、殺しにくるからね。」


 そう言って、人間の皮を被った化物は十蔵に背を向け、去って行った。




 十蔵は駆け付けた警察官に見つからないように、全身に激痛が走るのを我慢しながら、何とか近くの路地に入り込み、その壁に肩を預ける。

 そこから倒れそうになるのを我慢して、一歩前に踏み込んだ。


 意識を手放そうとする意識を手放し、強引に前へと進んだ。


 そこに歩こうとする意識はなかった。意識を手放して、ただ本能のままに身体を動かしているのだから当たり前だ。

 だが、それは昨日までの当たり前ではなかったはずだ。


 ――そこで初めて気付く。


 自分が迫り来る『死』を避け続けていた事実に。

 殺されかけても、即座に身体が動いたのは、本能が『死』を拒否したからだ。


 そして、現在いまもそれは続いている。


 まだ十蔵の戦いは終わっていなかった。

 ここから病院までの道のりを、呼吸しているだけで全身に駆け巡る激痛と、激痛を無視してやってくる意識の朦朧状態に、ひたすらに耐えながら進まなければならない。


 ただ歩いた。歩き続けた。途中で何度か意識が飛び、倒れそうになった。

 だがそれでも、倒れる直前に何とか持ち直し、再び足を踏み出した。


 ひたすら歩き続けた。生存に向かって。


 病院までに掛った時間は実際には数分だっただろう。しかし、十蔵にとっては何時間にも感じられる程に、濃厚な時間だった。十蔵は初めて、時間を代償にして、あるものを獲ようとした。


 もう、それは消費などではない。今は生きるために――


 生死を彷徨いながらも、病院の入口に辿り着いた十蔵は、空を仰いだ。

 見上げた空は決して快晴とは言えない灰色の曇り空だった。


 それを見て、うっすらと口元に笑みを浮かべながら、十蔵は再び歩みを始めた。


 そして病院の中に入った瞬間――十蔵は地面に崩れ落ちた。


 生に辿り着いたことで、張り詰めていた緊張が一気に解けたのだ。


 安堵したのだ。自分が“生きている”ということに。

 そして、たしかに感じているのだ、『生』というものを。


 血だらけで倒れる十蔵を見て駆け付けた看護師が必死に呼び掛けを行う。

 しかし、それに反応する十蔵の声は聞こえてこなかった。


 聞こえてきたのは、わずかな寝息だけだった。



 ――こうして岡部十蔵の『生』が産声を上げた。

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