彼女にドライなマティーニを

フカイ

掌編(読み切り)





 ゆるゆると、夜が降りてきた。




 窓の向こうには港が見える。東京湾には、十六夜いざよいの月明かり。


 窓に沿ったカウンターに片肘をついて、涼子はゆっくりとグラスを口に運ぶ。すぼまった唇がグラスの淵に触れ、透明なポーランドのアルコールがきみの喉を駆け下りてゆく。そしてその後から、ほのかな草いきれの香りとともに、灼けるような熱気が追いかけてゆく。




「久しぶりだわ」


 窓の向こうの夜に向かって、涼子はつぶやく。胃の淵まで下ったウオッカが、饒舌に口をきく。


「こんなに酔ったのは…」


 ぼくは手持ち無沙汰に、煙草に手をのばし、口にくわえる。


 涼子のイアリングが、このほの暗いバァルームの照明を、キラリとはねかえす。


「ねぇ、―――倖せに暮らしている?」


 ぼくはマッチ箱から一本を取り出して、火を点す。指先で始まる、小さな花火。オレンジとブルーが交互に踊り、その横顔を照らして。


「答えなくていいから」言い淀んだぼくが口を開く前に、きみの機転が言葉を制する。「もう、判るから」




 不意に。


 窓の向う、港をまたぐ大きな橋に、グリーンの電飾が灯る。


 つり橋のすべての鋼鉄のロープの先端に、緑色のライトが瞬いている。それはしばらくすると一斉に消灯し、そして、端からひとつづつ、もう一度明かりを灯してゆく。まるで湾にかかる細長いケーキに刺さったロウソクに、端からひとつづずつ火をつけていくみたいに。


 涼子はそれに見入っている。


「きれい…」


 そして、こちらを振り向く。ぼくも同意して、ゆっくりと頷く。


 涼子の瞳の中で、想い出にゆっくりと火が灯り、やがて視線はぼくの顔の向こうに、記憶という名の焦点を結ぶ。


「ねぇ、憶えている? あの島のこと」


 憶えているとも。


 ぼくもいま同じ事を思い出していた。






 ●






 きみと初めてあったあの夏、ぼくたちはあの島へ渡る船の中にいた。


 ぼくはオートバイでのさすらいの旅の途中だった。


 きみは週末限りの傷心旅行だった。


 フェリーのデッキで話しかけてきたのも、やはりきみだった。


 強烈な東シナ海の陽射し。透明な大気。そして、濃厚な夏の青い空。白くはじけるような入道雲。肌にまつわる潮の香り。


 白いサンドレスを着たきみは、手すりにもたれかかって、青い水平線へとつづく白い船の航路を見ていたぼくに近づいてきた。


 潮風に踊る髪をわずらわしそうに束ねながら、きみはぼくに訊く。


「ねぇ」


 あの頃もいまも、きみの出だしの言葉は変わらない。少し甘えたくちぶりで、きみはぼくのドアをノックするのだ。


「―――とてもきれいな海だと思わない?」


 いきなり話しかけられて、ぼくは面食らっていた。そんなぼくに構わず、きみは続けた。


「海がなぜ青いか知っている?」


 それは、空の青さを映しているからだ。

 言いかけて、やめた。なんだかあまりにロマンチックに過ぎるような気がしたから。


 言い淀んでいるぼくを尻目に、自分の質問に自分で答えるのも、あの頃と同じだ。


「それは、空が青いから。青い空を映して、海はどこまで青くなるのよ」


 ぼくは、その瞬間に、きみと恋に落ちた。






 真夜中の浜辺。


 都会と違って、ここには街灯のひとつもない。


 星灯りだけを頼りに、ぼくたちは夜の海を見に行く。


 パームツリーの湾曲した枝に背を預け、ぼくたちは言葉もなく、くちづけを交わす。潮騒だけを子守歌にして、ぼくたちふたりはいつまでもくちびるを寄せ合っている。とてもおだやかな気持ちで。


 やがて、水平線の上から姿を見せた月が、その銀色の光を、一直線にぼくらに投げかける。目が醒めるような鋭い光に、ぼくたちは正気に返る。すると、そこには驚くべき光景が広がっていた。


 月から放たれた光は、漆黒の海上に、ほんとうに鋭い一条の道となって続いている。そして、波打ち際が、それに呼応するかのようにぼんやりとした緑色に発光している。


 まるで海それ自体が脈打っているかのように、光る波打ち際は寄せては返す律動に従って、ふわふわと点滅している。でも不思議と恐怖は感じない。ただ、何か圧倒的に美しいものを目の前にしているのだ、という認識がぼくらにはあった。淡い緑に白い小さな波頭が染められている。




 光る、海。




 ぼくたちは意を決して、波打ち際まで歩いてみることにする。互いの手を握りあい、それぞれの体温を分かち合った。


 波打ち際までたどり着くと、それが何なのか、ぼくらにもわかった。


 夜光虫の群が、波打ち際に大量に打ち上げられているのだ。


「…きれい」


 きみはそう言って、握った手に力を込めた。






 街に帰ってからの40週間、ぼくたちは互いの部屋を行き来するのが面倒になり、ぼくの家に暮らすようになった。


 南に向いた窓からは、都会の狭い海が見えた。デッキチェアを買い込んできたぼくたちは、週末の度にその窓辺で何本もの缶ビールを空にしながら、夢や理想について語り続け、そして言葉が尽きると、その代わりにベッドに戻ってセックスをした。こころのままに生きていく、それでいいと思い込んでいた。


 あとはお馴染みの場末じみた結末。


 誤解と勘違いを、性格の不一致や諦めという言葉に置き換えて、互いを非難することに人生の熱量を費やし続けた不毛な5週間。


 そして、それからはぼくたちはまた、ラインを閉ざし、知り合う前の状態にもどることにした。


 互いへの断ち切りがたい想いを、こころのどこかに隠したまま。


 やがて、回転木馬のようにせわしなく季節がいくつか巡り、ぼくはほかの何人かの女の子とデートしたり、ベッドをともにしたり、幸福な何ヶ月か何年間かを送ったりしながら、年を重ねてきた。そして、加速度的に人生の坂道を転がり続けたぼくたちは、ひょんなことから顔を合わせ、こうして夜のとばりに杯を合わせることとなった。彼女の目尻には魅力的な皺が増え、ぼくはこの歳になって、煙草を覚えた。






 ●






「…きみは?」


 と、だしぬけに訊ねてみる。「倖せに暮らしているのかい?」


 涼子は驚いたように、こちらを向く。そしてまつげを伏せて、舌の先で前歯の裏側を舐めながら、少し考え込んだ。少女の頃からの、涼子の癖だ。その愛らしい表情は、ずいぶん大人になっても変わらない。


 きっと、人には変わってゆくところと、変わってゆかないところがあるのだろう。若かった頃には見えなかったものも、見えるようになる。あの頃だったら目にもとめなかったことが、不意に心を強く揺さぶる。それをして成長と呼ぶにはあまりに単純におもえるけれど。

 でも、それが大人になるということなのならば、それはそれで悪くないじゃないか。




「―――あなたと同じに」


 涼子は謎かけのように答えると、ぼくの瞳の奧を探る。


 涼子の目の中で、あの二十二の頃のきみが微笑していた。涼しげに、何も恐れることなどないような顔をして。身構えていた何事かがとろりと溶けて、肩の力が抜けた。互いの虚勢を静かに脇において、潔く白旗を掲げよう。そして、ぼくたちはいまならばことを素直に認めよう。回転木馬の日々は、無駄ではなかった。同じところを、それはぐるぐると回り続けたわけではなかったのかもしれない。


 ぼくは苦笑を返す。

 他にどんな答がある?


 涼子も皮肉顔で微笑すると、ほっそりとした人差し指を一本立てて、さらりと言ってのけた。


 ぼくには「もういっぱい?」と聞こえたのだけど、あるいは「もういっかい?」と言ったのかもしれない。


 でも、どちらでもいい。どちらの要求にもぼくは喜んで応ずるだろう。ひょっとして、こういうのはとても馬鹿げた話なのかもしれない。酒の勢いや一時の気まぐれなのかもしれない。でも、どちらでも構いはしない。いまこの瞬間に、嘘はないから。


 …いま、この瞬間に、嘘は、ないから。




 ぼくは背後を振り返って、せまいカウンターの中にいるバァテンダーに声を掛ける。


 何度も聴いたLPレコードのB面の三曲目。ふたりの想い出の曲を思い出しながら。


 そして涼子もそれに気づく。


 下がる目じりに皺が増えたけれど、その分深みをたたえた微笑は、少年のぼくを大人にしてくれた気がして。


 きっとぼくたちは、上手いこといくんじゃないか。いま、そんな気がしている。


 ぼくは、言った。こんな風に。


「彼女に、ドライなマティーニを」




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