虹の恋

奈乃 有

虹の恋

水曜日の午後、私は友人と近所の喫茶店で紅茶を飲みながら話していた。席はいつもの窓際のテーブル席。ちょうど話にひと段落ついたところで、友人はテーブルの上のスマホをいじっている。

 店内の客はまばらで、店の制服を着たアルバイトの少女も手持無沙汰そうに、カウンターに身体をもたれさせて立っている。私たちの他には、カウンター席で店主に話しかけている常連客らしい老人と、熱心に勉強をしている眼鏡をかけた若い男性、それから少し離れたテーブル席で何やら楽しそうに語らっている大学生らしきカップルの姿しかない。

六月半ば、梅雨らしく外は雨が降り続いている。今日でもう三日間雨続きだった。窓の下側を見ると、店の周りには薄紫色の紫陽花が並んでいる。紫陽花達は葉と花に雨粒を存分に浴び幸せそうに咲いている。

 ティーカップを片手にぼぅっと外を眺めていると、赤い傘が目に入った。セーラー服を身に着けた女子高生だった。黒い髪の毛を飾り気のないゴムで1つにまとめた彼女は、まだ中学生のようなあどけない顔つきをしていたが、その制服は私がかつて通った高校のものだった。彼女はちらとこちらに目を向け美しく咲いた紫陽花を見つけると、にっこりと笑った。微笑みを残したまま前を向き、赤い傘をくるくると回しながら通り過ぎて行った。

 私はそんな光景を眺めながら、ふっと懐かしい気持ちを抱いた。

 私もかつて、あんな鮮やかな赤い傘を差していた。

「ねえ」

 頬杖をついてスマホを眺めている向かい側の友人に、私は声をかけた。友人は「ん?」と顔を上げないまま返事をする。

「昔の話をしてもいいかしら。高校時代の私の、恋のお話」

「あなた大学まで付き合った人なんていなかったじゃない」

 友人はやっと顔をあげると、スマホの画面を下向きにしてテーブルの端に置いた。

「付き合った人はいなくても、ずっと好きだった人はいるのよ」

「へえ。初耳だわ」

 友人が微笑んで続きを待つようにこちらを見つめてきたので、私はいつかの思い出をぽつりぽつりと語り始めた。それは、いつかそっと蓋をして、忘れてしまう程心の奥にそっと閉まっていた小さな宝物のような思い出だった。


 高校時代、私は大人しく、クラスの中でも目立たない少女だった。成績は中の上。仲の良い数人の友人達に、得意科目を教える程度。窓辺の席がお気に入りで、休み時間には時折窓の外の景色を眺めながら小説を読んで過ごしていた。

 特に雨の日にそうして過ごす事が好きだった。普段より薄暗い廊下と蛍光灯に照らされた教室のコントラスト。はたはたと水滴が窓を打つ静寂と、普段ならば外に出ているクラスメイト達が教室にいて笑い話をしている喧噪。そんな二つの音の間で、滴る水滴を通して映る外の景色と、窓に反射して映った私。いつもと違う景色が非日常のようで、胸の底をくすぐられるような小さな寂しさと、じわじわと広がる幸福感に包まれた。

 年頃の女の子である友人達は、湿気を含んで髪のセットが決まらない雨の日を、ただ憂鬱だと嫌っていた。しかし私は雨の日が好きだった。

 ある梅雨の日の午後、得意科目の授業が退屈だった私は、ぼんやりと窓の外を眺めていた。その日は梅雨らしい曇りの日で、今にも雨が降りそうに重たい灰色の雲が空を覆っていた。

 私たちの高校は、校舎がコの字型に建てられている。一、二年生の教室がある東棟と、三年生の教室や美術室、音楽室といった特別教室がある西棟に分かれていた。その頃私はまだ高校一年生だったから、窓の外の向かいの校舎では三年生の先輩たちが熱心に授業を受けていた。まだぼんやりと授業を受けているクラスメイトと先輩たちの様子を比較して、ただなんとなく「受験生って大変そうだなあ」なんて思っていた。

 ふと、窓際の席で私と同じように外を眺める人影を見つけた。白い半そでシャツから伸びた少し焼けた腕で頬杖をついて、窓から外を眺めていた。短い黒髪のその先輩の顔は、特に印象深いわけではなく、それだけであったら私の記憶には残っていなかったでしょう。

 ちょうどその時、どんよりと空を覆っていた雲が、雨の重みに耐えかねて、さっと無数の雨粒を落とした。そうして降ってきた雨粒を見た先輩は、ふっと微笑んで黒板に視線を戻してしまった。何故だか分からないけれど、その一瞬の微笑みが衝撃的で、網膜に焼き付いて、「ああ。私はあの人が好きだ」と思った。

 先輩を意識し始めると、学校の中でよく姿を見かけるようになった。高校に入学してから三か月間、一度も見かけたことがないような気がしていたが、案外本当はすぐ傍を頻繁に行きあっていたのかもしれない。

 それから数日が過ぎた頃、昇降口を出たところで先輩の姿を見かけた。その日も雨が降っていた。先輩は校門近くで友人と話をしていた。その友人がどんな顔をしていたのか、部活動生のようだったけれどもどんな格好をしていたのか、荷物は持っていたのか、そういった事は欠片も覚えていない。しかし、先輩の差した透明なビニール傘がスポットライトになったかのように、先輩の様子はよく覚えている。先輩は黒いリュックサックを片方の肩にかけていて、時々楽しそうに笑っていた。ビニール傘の上で跳ねる水滴が、まるで照らすように先輩の周りで輝いていた。

あんまり長く見つめていても不審に思われるだろうと、私は傘立てから自分の真っ赤な傘を手に取り、外に出てゆっくり開いた。それから、少しうつむき気味に、傘の陰から時々先輩の方を伺いながら校門の方へ歩いた。私が先輩の真横を通る時、先輩は友人と話し終えて別れたようだった。「じゃあな」と友人へ呼びかける声が、俯いた私のほんの数十センチ離れた斜め上から降ってきて、それだけで何だか胸が苦しくなって泣いてしまいそうだった。私はぐっと唇を引き結んだ。特徴的な声ではなかったけれど、その時の私には叫んでしまいそうなくらい素敵な声に聞こえていた。

校門を出て、もう少し進んで先輩から離れたと思ったところで、私は引き結んでいた唇を緩めた。そのまま私の唇は、自然とにやけてしまう。先ほど聞いた先輩の声が、繰り返し頭の中で響いていた。「なんて素敵な声なんだろう」と小さく呟いてみた。

そんな風に完全に油断していたものだから、後ろから先輩が同じ方向に歩いてきている事に気づいていなかった。

「素敵な赤い傘だね」

 突然後ろからかけられた声に、私は驚いて辺りを見回してしまった。少し笑いながら、先輩が追いついて私の隣に並んだ。

「君、この間教室の窓から外を眺めていた子でしょう。五限の、ちょうど、雨が降り始めた頃」

 先輩から話しかけられた衝撃と、見ていた事を気づかれていた恥ずかしさから、私はすぐには何も言えなかった。その時の私がどんな表情をしていたのかは分からないけれど、思い返してみると、きっと目は泳いで口も開けたり閉じたりと可笑しな顔をしていたに違いない。そんな私の様子を見た先輩は、くすりと笑った。

「いや、突然ごめんね。先輩から急にそんなこと言われても驚いてしまうよね。別に授業を聞いていなかった事を咎めようってわけではないよ。それを見ている俺も似た者同士だからね」

 先輩が優しく微笑んでくれたから、私は胸が苦しくなりながらもなんとか落ち着いて、「本当ですね」と少し笑って返すことができた。

 先輩は途中まで私と家の方向が同じだったらしく、二人でしばらく並んで歩いた。何か話したかったけれども、何を話していいのか分からないまま、色んな話題を頭に思い浮かべては却下した。

「君は、雨は好き?」

 少し歩いたところで、先輩がそう話しかけてくれた。

「好きですよ。クラスの皆は、憂鬱で、髪もまとまらないし嫌いだっていうんですけど。私は好きです」

 私は率直にそう答えてしまってから、少し不安になって、「変かもしれませんけど」と笑って付け加えた。

「俺も好きだよ」

 先輩の顔を見上げてみたけれど、先輩は前を向いていて、目は合わなかった。

「水滴に濡れた窓の外側と自分のいる内側の世界が隔たって、このままずっとこの場所にいられるような気がしてくる」

「わかります」と、つい、言ってしまっていた。その言葉に先輩が驚いたように私を見たので、私は慌てて「いえ、その、初対面なのに簡単にわかるわけないですよね」なんて言い訳をした。しかし先輩はにっこりと笑って、

「そう。分かってくれるんだ。君ならそう言ってくれる気がした」

と言ってくれた。私は、そんな先輩の言葉に顔が燃えるように熱くなるのを感じて、慌てて先輩から顔をそらした。

「紫陽花がきれいな場所があるんだよ」

 また先輩が唐突に話を変えた。私は手を頬に当てて火照った顔を冷やした後で、先輩の方に目線を戻して「どこですか」と尋ねた。

「この近くの公園だよ。珍しい色の紫陽花が咲いているんだ。紫陽花は咲いている場所によって色が変わるから、きっとそこでしか見られない色なんだと思うよ」

「いいですね。行ってみたいです」

 まだ出会ってばかりだったから、「先輩と一緒に」とは言えなかった。少しだけ期待をしたけれど、先輩も「うん。是非行ってみて」と言うだけだった。

 それからぽつりぽつりと話しながら、またもう少し歩いて、私と先輩は郵便局前の交差点で分かれた。


「それで?それからどうなったの?」

 私はあまり自分の話をするタイプではなかったので、珍しく話した私の恋物語に、友人は夢中になっていた。

「それからたまに一緒に帰る事もあったけど、基本的にはただ私が一方的に姿を追っていて、そのまま先輩が卒業して、おしまい」

 私がその後をざっくりと説明すると、友人は「なんだそりゃあ!」と大げさに天を仰いだ。私はそんな友人の様子を見てくすくすと笑いながら、紅茶の入ったティーカップを口に運んだ。

「告白は?しなかったの?」

「しなかったよ」

「第二ボタンは?」

「もらってないよ」

「じゃあ!ラブレターは?」

「書いたんだけど、渡せずじまい」

「何でよぅ!話の感じ、完全に脈はあったでしょう」

 友人はカフェの椅子に座ったまま、もどかしそうにじたばたと手足を動かした。私はゆっくりとティーカップをテーブルに置いた。

「先輩と付き合うとか、そういう事はあまり考えていなかったのよ。ただ、好きだった。渡せなかったラブレターも、ただ好きだった思いを綴っただけだったわ」

 友人は、「分からないなあ」と言って不満そうにしている。窓の外を見ると、雨は止み幾筋かの光が雲の隙間から差し込んできていた。雲の向こうの空に、うっすらと虹がかかっているのが見える。

「手の中の花も素敵だけれど、目の前で輝いているのに決して触れられない虹のような恋だって、素敵だと思わない?」

 友人は釈然としない面持ちだった。


 背後で、「カランカラン」と店の扉が開く音がした。店に入ってきた人物を、私の背中越しに見た友人が「あら、お迎えよ」と、私に声をかけた。振り向くと、夫が保育園帰りの娘を抱いて立っていた。

 私は友人に「またね」と言って、荷物をまとめて席を立った。アルバイトの少女に声をかけ、自分の紅茶代を支払う。傘立てに建てていた臙脂色の傘を手に取り、夫に続いて店を出る。

「雨は止んだみたいだね」

 そう話しかけた夫は、抱えていた娘を下ろして、持っていたビニール傘をくるくると畳んだ。娘はとことこと私に近寄り、「ママ、おともだちとどんなおはなししてたの?」と尋ねた。

 私は娘に笑顔を向けて、「昔のおはなしよ」と答えた。

 傘を畳み終えた夫と娘と手をつないで、二人に先ほど見つけた虹を指し示した。

「すごいね!」

 まだ本物の虹を見たことがなかった娘が、飛び跳ねて喜んだ。

「ねえ、パパ。あれって、どうやったら手が届く?」

 娘が夫を見上げて尋ねた。夫は少し笑って、「そうだなあ」と考えた後、娘に視線を合わせて答えた。

「大きくなっても手を届かせたいと願い続けていたら、もしかしたらいつか手が届くかもしれないね」

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虹の恋 奈乃 有 @nanoyuu

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