気が付いたら大海原に立っていた時の話。
三好ハルユキ
「うみをあるく。」
目が覚めたら、というほどハッキリとした境界線は無かったように思う。
少しボーッとしていた意識が何かの拍子で我に返るみたいに。
ちょっとした居眠りにかくついた首の反動で頭を揺らされたようなタイミングで。
本当にただ、気が付いたら、わたしは海の上を歩いていた。
見上げれば空に雲が光り、見下ろせば海面が自分の姿を映す。
そして見渡せばどこまでも続く母なる海と自由な空が何処かで溶け合って、景色はひたすらに青い。
そんな面白味の無い絵画みたいな背景に、わたしは一人で立ち尽くしていた。
「……いやいやいや」
まぁ綺麗な景色だわ、と美景に感動するより、ここ何処だよと眉間にシワが寄る方が早かった。
しばらくの間、目を丸く見開いたり細く凝らしたりしながら何度も辺りを見回して。
足下には、水面の感触。
「……」
見れば明らかに浅くはないその水面に、恐る恐る膝を突いてみる。足の裏同様、沈んでいくことはない。次に、両手を付けてみる。うっすらと水温が伝わって、一度確かめた掌は少しだけ濡れていた。試しに舐めてみたらその塩気の強さにしばらく噎せ返った。見た目通り、これは海だ。
水面は硬いとも柔らかいとも言えないけれど、押しても押してもこの手が水面を貫くことはない。イメージとして一番近いのは体育で使うようなマットの表面か。あれを、足を滑らせそうなくらい滑らかにしたような。
なにはともあれ。
わたしはどうやら浮いているのではなく、水面に立っている。
「えぇ……」
不気味、としか言い様が無かった。
その証拠に、水面に映ったわたしも酷い顔をしている。ドン引きってやつだ。
水面は醜悪な面のまま四つん這いになった私の全身をくまなく映し出している。
いつも頭の後ろでまとめている髪の毛はバラバラに解けて、首から下は見覚えのないワンピースを身に付けていた。
飾り気も特徴も無い、真っ白なワンピース。改めて何度見ても買った覚えはない。っていうか何処に着てくのこんな服。ひまわり畑?
わたしはわたしで、わたしのまま、わたしの知らない世界に居る。
これは夢か、幻か。
あるいは昨日までの日常が夢幻の泡影で、ここに居るわたしがわたしの現実なのか。
「……」ぐぅ、と腹が鳴る。
どちらにしても、そう、なんだか酷くおなかが空いて。
だからわたしは歩くことにした。
広大な景色に一人。
あの大空に飛び立つ翼も与えられず、母なる海に身を投じることもどうやら叶わず、用意されたのは健常な体と二本の素足のみならば。
海の上を歩く。それ以外にすべきことなど、今のわたしには何もなかった。
最初に出会ったのは、などと記せば更に次の出会いを予期させるが、それは約束出来ないとして。
歩き出したわたしが最初に出会ったのは、波を待つ男だった。
つまりサーファーである。
「やあ、こんにちは」
「……はぁ、どうも」
片手を上げた爽やかな挨拶に、曖昧な返事で応える。
その男はわたしより頭一つ分ほど背が高くて、顎まで伸びた髪の毛は茶色で、日焼けで、筋肉質な体をピチピチのスーツで包んでいて、足元にはサーフボードがあって、歯がやけに白かった。
つまり、多分、サーファーである。
けっこう遠くから見えていたので、近づくまでまさかとは思っていたが、寄れば寄るほどサーファーだった。
「……こんなとこで何してるんですか?」
挨拶して以来、ひたすら爽やかに歯を光らせて笑いかけてくるだけだったのでこちらから話を振ってみる。
どうもこういう軽そうな人には苦手意識があるのだけれど、無視して通り過ぎるのも、この殺風景な場所じゃどうかと思うし。
「もちろん、良い波を待っているんだ」
「……はぁ」
辺りを見回してみる。
良い悪い以前に、向こう一体の海面には波一つ見当たらない。
だからサーファーのお兄さんも今はただ、サーフボードの上に直立しているだけである。これではサーファーというよりサーフボーダーだ。丘サーファーとも言う。
はて、沖なのに丘サーファーとはこれいかに。
「乗れない波は無いけれど、乗りたい波と乗りたくない波があるからね。焦っちゃいけないのさ」
サーファーお兄さんが爽やかな風に長い前髪を揺らしながら微笑む。
言ってる意味は分かるのに何が言いたいのか分からないのは、わたしの方に問題があるのだろうか。
「そもそも波が立たなかったら意味が無いんじゃないかなぁ」
独り言のフリでそっと呟く。
サーファーお兄さんは、はにかむようにまた笑った。
「最初から意味のあることなんて何処にも無いよ。目標さえあれば、他は後から付いてくるからね」
「……はぁ」
それは。
夢へと進むための強い覚悟のようでもあり、結果を出せないことに対する言い訳のようにも聞こえた。
「……」ぐぅ、と腹が鳴る。
おなかの音はサーファーお兄さんにも聞こえたようで、にっこりと笑われた。
「お腹が空いたなら、あっちに行くといいよ」
お兄さんは笑顔のまま、わたしから向かって左を指差した。
「ありがとうございます」
挨拶もそこそこに、わたしは左へと歩き出す。
覚悟にしろ言い訳にしろ、他人の夢ではわたしのおなかは膨れないのだ。
しばらく歩いてから振り返ると、サーファーお兄さんはまだその場所に立っていた。
「あ」
ただしさっきまでと違うのは彼に向かって、彼の身長の五倍はありそうな高さの波が近付いていることだ。
遠目で見ても分かるほど、その高さは絶望的で。
遠目で見ても分かるほど、波を見据えるサーファーの瞳はキラキラと輝いていた。
……わたしはその顛末を見届けることなく、また、左へと歩を進める。
ボードの上に立っていたのは彼一人だけ。わたしには何の関係も無いのだから。
「……ん」
いくらか歩いているうちに、真横をスーッとサーフボードが流れてきた。
振り返っても、見渡しても、あのサーファーの姿は無い。
「……」
乗れない波は無いと彼は言った。
例え本人がそう信じていても、叶わないのならそれはただの嘘であり、嘘になり、嘘で終わる。
うそつきは、きらいだ。
引っくり返っていたサーフボードを直して、その上に寝転がる。
途端に頭がぼーっとして、視界が端から白んでいく。多分きっと、目覚めの予兆だ。
……あぁ、そういえば。
夢の中でも、あの人は私の苦手なタイプで、軽くて、嘘つきで。
夢の中でも、私はまた、あの人に別れを伝え損ねてしまった。
気が付いたら大海原に立っていた時の話。 三好ハルユキ @iamyoshi913
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