5. なにそれ、俺知らない!

 よほどタイミングのいいひとらしい。


「ケガしたっていうからタカ君のお見舞いに行ったんだけどさ、なんかこんがらがってるみたいね」


 数年ぶりに葉子おばちゃんが会いにきて、幸か不幸かわたしの天涯孤独は長く続かなかった。最後に会ったときとまったく変わっておらず、若さと引き換えに悪魔に魂でも売ったのだろうと思う。


「何か用? お金の無心に来たの?」


 おしゃれなカフェテラスにまったくそぐわないセリフを吐き捨てる。


「あんた、私をどんな人間だと思ってるのよ」


 魂をバーゲンセールのワゴンで売りさばくイメージが浮かんだけれど、さすがに口にするのはやめておいた。


「葉子おばちゃん、お母さんの遺産横取りしたでしょ? それからわたしに関連する手当ての類いも全部」


 わたしと姉妹と言っても通用するほど若々しいおばちゃんは、悪びれもせずきれいな笑顔を見せた。


「おじちゃん、学費も生活費も『葉子さんからもらってる』って言ってたけど、嘘だろうなって思ってた。クリスマスも誕生日もおじちゃんからとおばちゃんから、いつもふたつプレゼントがあったけど、あれも両方おじちゃんが用意してたんでしょ? 」

「プレゼントは私もあげてたわよ」

「嘘。わたしが欲しがってる物を葉子おばちゃんが知ってたはずない」

「買ったのはタカ君だけど、私だって毎回千円巻き上げられてたもの」


 驚いて目を見開くわたしに満足したようで、葉子おばちゃんは三万円分くらいの威張りっぷりでふんぞり返る。


「私にだってね、五分の魂くらいあるのよ」


 小さな魂に“70%OFF”と書いてある気がして思わず吹き出したら、テーブルの端の伝票がピラッとめくれた。

 だけど、わたしとおじちゃんの生活が成り立っていたのは、葉子おばちゃんの協力あってのことなのだ。昔から運動会も卒業式もなーんにも来ないくせに、三者面談とか進路指導とか、保護者必須のやつだけは


『だってタカ君、すっごく怒るんだもーん』


 と言って来てくれた。各種手続きも、恐らくおじちゃんがかなり手伝っただろうけど、きちんとやってくれていた。それがなければ、あんな妙な共同生活はさまざまな方向から横槍が入ったに違いない。もちろん、手もお金もかかるお荷物をおじちゃんがまるごと背負ってくれたのだから、そのくらいはして当然だけど。


「おじちゃんは、ぜんぶ『愛だよ』って言うんだよね」


 葉子おばちゃんだけじゃない。里中先生も、おばあちゃんも、山村さんも、それにおじちゃんのご両親も、おじちゃんに言わせれば“愛”なのだ。そしてわたしもそう信じている。


「あんた、幸せに育ったんだね」


 迷いなくわたしはうなずいた。おじちゃんがいなければ、きっとわたしは与えてくれないことを恨んで、おばちゃんの中にある愛情に気づくことはできなかった。周りから差し伸べられた手を、ただの憐れみだと疎んだはずだ。おじちゃんに育てられたからこそ、わたしの人生は愛に溢れて見えた。


「タカ君と付き合ってたのは、ほんの最初だけでね。あんたが来た頃にはただの親しいお隣さんだったよ。一応、言っておくね」


 大音量で映画を観ていたときのことが、一瞬頭をよぎった。


「別におじちゃんとわたしはそういう関係じゃないし……」


 わたしの言葉を聞いているのかいないのか、ちょっと砂糖入れすぎた、と顔を歪めながらも、せっせとカップを口に運んでいる。


「別にどっちでもいいけどね。だけど次にタカ君に会うときは、覚悟決めて会わないとダメだよ」


 覚悟って何? と聞くほど、もう子どもじゃない。突き付けられた重みに食欲が失せ、持ち上げたカップをソーサーに戻した。


「あんたにどんな顔見せてたか知らないけど、あのタカ君がね、私を噛み殺すくらいの勢いで向かってきて、あんたのために頑張ってたの。大事に大事に守ってきたのよ」


 おばちゃんは空になったカップを、赤ちゃんを愛でるように撫でまわす。


「わかってる。だからこそ、もう会わない方がいいと思ってる」


 葉子おばちゃんは水を飲もうとして、それも空なことに気づき、わたしのコップから半分水を移した。


「自然消滅狙うってわけ? それは良くないな。恩人でしょうが。『エロ親父!』って横っ面ひっぱたいて解放してやるのも、積み上げたものぶち壊して一緒に泥かぶるのも、あんたしかできないでしょ」


 こういう方面に関しては、わたしよりおじちゃんより、ずっと歴戦の武者である葉子おばちゃんだ。その言葉は重い。


「決めるのは若葉だよ。どっちを選んでもタカ君は受け入れるだろうから」


 葉子おばちゃんが伝票を持ったので、その顔を見上げた。


「そんな意外そうな顔しないでよ。私だって姪っ子にお茶くらいごちそうするわ」

「ありがとう」

「私にしてみれば、たったひとりの身内だからね。遺産は全部あんたのものよ」


 年甲斐もなくウィンクした目元には少しだけ皺が寄っていて、変わらないように見えるこの人の上にも年月は積もっていたのだと感じられた。


「どうせ借金だらけだろうから放棄する」


 からからと笑って、葉子おばちゃんはヒールの音も高らかにカフェを出ていった。



 ずっとしまい込んでいたリボン型のキーホルダーは、安いプラスチック製にも関わらず、あの日と同じようにキラキラ輝いていた。それを初めてバッグのストラップに引っ掛けて、あの日逃げ出すように走った道を、ゆっくり歩いていく。まだ積もらないまでも雪がちらつくようになり、踏みしめるアスファルトは黒く濡れていた。お昼までは少し時間のある日曜日の午前中。おじちゃんが大好きだった、カスタードとホイップクリームの両方が入ったシュークリームをふたつ持って、チャイムを鳴らした。


「……お願い。帰って」


 この前とは違って青ざめた顔で、おじちゃんは頭を下げた。


「これが最後だから。場合によっては、もう二度と来ない」


 おじちゃんはしぶしぶ部屋の中に引き返して行き、わたしは堂々とそのあとを追う。


「足、どう?」


 松葉杖は使っていないけれど、少し左足を引きずっている。


「うん。もう大丈夫」


 そう言ってキッチンに向かうおじちゃんをイスに座らせて、勝手知ったるわたしはコーヒーとシュークリームをテーブルに並べた。


「ありがとう」


 そう言ったあとしばらくわたしの様子をうかがっていたが、話す気配がないとわかるとシュークリームに手を伸ばした。ひと口かじって、キョロキョロと辺りを見回すので、ウェットティッシュを一枚差し出す。


「あ、ごめん。ありがとう」


 大きくて食べにくいシュークリームも、おじちゃんにかかるとあっという間になくなった。わたしのコーヒーはまだ半分も減っていない。

 丹念に指先を拭うおじちゃんに、わたしは一枚のレシートを差し出す。


「シュークリーム一個220円。わたしはこの金額で、おじちゃんを買うことにした」


 ウェットティッシュを指先に当てたまま、おじちゃんはレシートを覗き込んで、顔を歪めた。


「……やられた」


 よろけながら立ち上がり、テレビ台の上からお財布を取ってきたおじちゃんを手で制する。


「そのお金じゃダメ」

「なんで? これは俺が働いて得たお金だよ?」

「支払いはおじちゃんの生命保険のお金でしてもらうから」

「じゃあ、すぐに解約して……」

「そういう意味じゃないの、わかってるでしょ?」


 シュークリームを食べた直後とは思えない、苦味走った表情でレシートを睨みつけている。


「おじちゃん、わたしまたおじちゃんと暮らしたい」

「ダメ」

「どうして?」

「それは聞かないで」


 こういう肝心なときに上手な嘘ひとつつけないこのひとは、たくさんの嘘でわたしを守ってくれたのだ。“ロリコン”とか、“いかがわしい”とか、容赦ない世間の言葉を一身に受けても笑って、誠実に育ててくれた。


「おじちゃんとは、もう二度と会わない方がいいと思ったんだよ」

「うん」

「おじちゃんが本当の本当にやましい気持ちなんてなかったってわかってる。わたしが誰かと結婚して幸せになるのを、心待ちにしてたよね」


 高校生のとき、初めて彼氏を紹介したら涙声で『若葉を幸せにしてやってください』と頭を下げられた。正直なところ、その想いは高校生男子には重すぎて引かれたっけ。


「わたしがここに戻るってことは、おじちゃんが築き上げたもの全部ぐちゃぐちゃに壊すことだから、ずっと迷ってた」


 きっと世間のひとは、わたしがまだ幼い頃からふしだらな関係だったんだと思うだろう。おじちゃんは、最初からその目的で引き取ったと後ろ指を指されるかもしれない。


「俺のことはどうでもいいけど、若葉にはみんなから祝福されるような恋愛をしてほしいんだ」


 よくわかってる。痛いほどにわかってる。胸が丸ごとひっくり返るような痛みに耐えて、うんうんと小刻みにうなずいた。


「だけどごめんなさい。わたし、おじちゃんがいい」


 初めて熱を出した日の夜、不安で離れないわたしを一晩中膝の上に抱いて、一緒に毛布をかぶって寝てくれた。翌朝頬擦りするおじちゃんの、伸びた髭の痛みを今でもよく覚えている。高校受験のときなんて、わたし以上に心配し過ぎて眠れず、合格発表の朝にトイレで倒れたこともあった。そんなおじちゃんのことは、わたしだって誰より大切に思っていて、だからこそ離れた方がおじちゃんのためだとわかっているのだ。それなのにおじちゃんがつまずいたりするから、積もった気持ちがドミノ倒しのようにひとつの方向に向かって、もう止められない。

 レシートを突きつけたときの強気はどこに消えたのか、みっともなく流れる涙を両手の甲で交互に拭う。


「わたしを誰より大事にしてくれるのなんて、おじちゃんしかいないじゃない。わたしが誰より大事なのも、おじちゃんしかいないじゃない。他なんてどうでもいいよ。おじちゃんといたい。だからおじちゃん、わたしのために汚名を着てくれる? せっかく守ってくれたものに泥を塗っちゃうけど、許してくれる?」


 長い時間、返事はなかった。泣きじゃくるわたしに困っているようにも、怒っているようにも、すべてを諦めたようにも見える。初めて見る顔だった。不安に駆られてわたしの涙が止まる頃、おじちゃんの目があたたかくふんわりと細められ、レシートに手が伸びる。


「220円か。俺、やっすいなあ」


 そして視線と同じくらいあたたかい両手が、わたしの顔を包んで涙の跡を拭った。


「泥なんてかぶってないよ。俺の守ってきたものは、真っ直ぐ育ってくれた。予想以上でびっくりしたけどね」


 テーブルを回ってきつく抱きついたら、首筋から慣れ親しんだ“わたしの家の匂い”がした。込み上げる想いは大きすぎて、ご近所迷惑になりそうなので、おじちゃんのTシャツの肩のところを強く噛んで、声が出ないようにしてから思いっきり泣いた。


「懐かしいなぁ。若葉は初めてうちに泊まった日のこと、覚えてる?」


 とんとんとわたしの背中を叩きながら、おじちゃんはゆったりと話し出した。

 ある夜、葉子おばちゃんから「帰れない」と連絡をもらったおじちゃんは、預かっていた合鍵で部屋に入ったのだそう。わたしは黙って座ってテレビを観ていたらしい。おばちゃんがつけていった夕方の幼児番組からそのままのチャンネルで、最先端のガン治療についての特集を、まんじりともせず。


『……若葉、大丈夫?』


 呼ばれたわたしはおじちゃんを見て、無表情のまま走ってしがみついた。そして、そのまま声を殺して泣いたそうだ。


「あんな風にされたらもう仕方ないじゃないか。あれを愛しいと思わない人間はいないよ」


 わたしの涙なんて安いもののために人生を棒に振るなんて、本当にばかなひと。


「おじちゃん、ありがとう。ご褒美に、わたしの分のシュークリームもあげるね」


 シュークリームなんて食べきれないくらいあげるから、ずっとずっと一緒にいて。


「じゃあ遠慮なく、いただきます」



「…………ものすごい罪悪感! ちょっともう無理!」


 唇が触れる直前で身をよじって逃げると、おじちゃんはソファーの上まで逃げて行った。左足はまだ本調子でないはずなのに、驚くべきスピードで。まるでそこが安全地帯であるかのように、いくつものクッションを盾にして堅牢なバリケードを作り上げる。


「嫌ってこと?」

「嫌じゃない! 嫌じゃないから罪悪感なの!」

「でもさ、これくらいで逃げてて、その先はどうするの?」

「“その先”!? なにそれ、俺知らない! そんなの考えられない!」


 天の岩戸に閉じ籠ったおじちゃんに、わたしはそっと声をかける。


「愛してるよ、高砂」


 堅牢なバリケードにあっさりヒビが入ったので、ポンポンとクッションを蹴り落として、中からおじちゃんを発掘する。


「何か言うことは?」


 ソファーの上に正座してわたしと向き合ったおじちゃんは、わたしの両手を握って何度も何度も深呼吸をした。


「俺も若葉を愛してるよ」


 たくさんの嘘に彩られた生活の中で、一度も口にされなかった言葉。疑ったこともないし、当たり前過ぎてわたしも言ったことはなかった。ずっと同じ想いを抱えてきたわたしたちは、一瞬の恋を経て、本物の家族になっていくのだろう。

 言い終えたおじちゃんはやっぱり赤い顔をする。


「……ダメだ。まだ当分慣れない。心臓痛い。次の健康診断、絶対引っかかる。いやその前に事切れるかも」


 本当はわたしも慣れなくて、ジャムのように煮詰まった甘い気持ちが口から溢れそうだった。


「そんなこと言わないで長生きして。それでずっと一緒にいて」


 おじちゃんの瞳の奥が揺れた。わたしも目をそらさずにそれを見つめていた。言葉を交わすような自然さで、一瞬だけ唇が触れ合う。すぐ目の前に、わたしの大好きな笑顔があった。


「できるだけ頑張る」


 正直なおじちゃん。他人からみたら“ロリコン”で、“ふしだら”で、“いかがわしい”男。

 だけど、このひとがいてくれたら、わたしの人生は永遠に愛で溢れてる。






 fin.


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DEAR MY LIAR 木下瞳子 @kinoshita-to

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