4. 大丈夫、大丈夫

 おじちゃんは立て続けに何かを踏み外すことになるのだけど、最初のひとつを踏み外したのは三年後の秋のこと。


『今朝アパートの階段から落ちたの。左足首骨折だって。入院するからって着替えを頼まれたんだけど……』


 一階に住む山村さんからそう電話がきたのだ。


『おじちゃんに何かあったら必ず連絡してください。いいことでも、悪いことでも。あのひと、絶対言わないと思うから』


 そう言って連絡先を残してきたことが功を奏した。



「何やってんの?」


 仁王立ちで現れた三年ぶりのわたしを、おじちゃんはポカンとした顔で見上げた。


「……なんで?」

「情報提供者については申し上げられません」

「ああ、山村さんか」


 つぶやきは聞こえなかったことにして、下着や日用品の入ったバッグをロッカーにしまい、洗面具をベッドサイドの棚に入れる。


「……若葉、背伸びた?」

「伸びるわけないじゃない。おじちゃんがベッドにいるからでしょ?」

「いや、なんか雰囲気が……」

「ああ、髪は伸びたからね」


 しばらく切っていない毛先を、指でつまみ上げながら答える。小学生の頃は、お風呂場でおじちゃんが切ってくれていたものだ。


『よーし、できた! かわいい、かわいい』


 揃えるうちにどんどん短くなったボブを、おじちゃんはそう言って褒めてくれたから、美容院に行くようになってからも、長い間そのヘアスタイルは変えていなかった。今毛先は肩より10cmほど下にあって、窓から入り込む光に明るく透けている。


「それにしても、ちょっと目を離すとこれなの?」

「あはは、ごめん、ごめん。朝寝ぼけてぼーっとしてたらね。……ほんと、ちょっと目を離すとこうなるんだなあ」


 遠く月でも眺めるように、おじちゃんは目を細めてわたしを見る。


「これお水とお茶。ヨーグルトもあるから全部冷蔵庫に入れておくね」


 その視線はまるで知らないひとのもののようで、ベッド下にしゃがむことでそれを断ち切った。


「ありがとう。あとは大丈夫だから、もう来なくてもいいよ。いろいろ忙しいだろうし……」

「洗濯とか買い物はどうするの?」

「……か、彼女に頼むからいい」

「へー、“彼女”ね。最近の妄想はコンビニにまで行ってくれるんだ?」


 三年の間、おじちゃんに“彼女”がいたのかどうかわからないけど、今このタイミングでひとりだったことに、本当はホッとしていた。

 反論できなくなったおじちゃんは寝癖を直すように何度も何度も頭をなでる。その指の間で、何かがキラリと光ったように見えた。


「あ、おじちゃん白髪……」


 昔よく取らされた癖で、わたしはそのキラキラ光る髪の毛に手を伸ばした。ところが触れる直前で、おじちゃんはビクッと大きく身体をそらして逃げ出し、すぐに痛みでうずくまる。


「いっったーい!」

「ほんと、何してんの? もうっ!」


 助けようとするわたしの手を尚も拒む。


「白髪と言えど髪の毛。一本だって貴重だからね」

「え……まさかおじちゃん……いや、おじいちゃんなの?」

「繊細なオジサン心を弄ぶと痛い目見るぞ?」


 白髪が増えようが、皺が増えようが、わたしにとっておじちゃんは出会った頃から変わらない。あの頃よりわたしの背はかなり伸びたはずだけど、こうして見下ろしてもその姿は大きく見える。


「おじちゃん」


 ベッドサイドにしゃがんで、顔を下から覗き込む。


「こんなときくらいお手伝いさせてよ。何のためにわたしがいるの? わたしはおじちゃんの何なの?」


 いつも目を真っ直ぐ見て嘘をつき続けたおじちゃんの視線は、不自然に合わない。


「若葉は俺の……」


 そこで考え込んだまま、結局答えはもらえなかった。

 わたしは『家族だよ』と言ってもらえると思っていたし、下手な嘘でもいいからそう言うべきだったと思う。おじちゃんはこのとき、二つ目の何かを踏み外した。



「これも練習だから」

「だけど転んでまた悪化させたら……」

「過保護だな、若葉は」

「おじちゃんがそれ言うの?」


 おじちゃんの退院の日、当然“妄想彼女”は何もしてくれないので、わたしが仕事を休んで迎えに行った。病室から車までは病院の車イスを借りたけど、車から部屋までは松葉杖を使うしかない。慣れない松葉杖に苦労するおじちゃんを何度も支えようとするけれど、そのたび頑なに拒まれていた。


「はあ、きつい。こんなに段差ってあったかな」

「アパート、一階ならよかったね」


 ゆっくり階段を上ってきたおじちゃんは、入院のせいもあってふらふらで、何もないところでつまずいた。


「危ないなぁ」


 伸ばした手はまたもや振り払われる。


「大丈夫、大丈夫」


 わたしは仕方なくおじちゃんを先導する形でアパートのドアを開けた。


「ここ、最後の段差気をつけて」


 玄関と部屋の間にある段差は低くて、室内に砂が入りやすくて困っていた。もっと高ければ靴を履くにも楽だったのに、と思いながらおじちゃんが入りやすいようにサンダルや傘を避ける。


「ふうー、やっと着いた」


 ちゃんと注意したのに、おじちゃんの松葉杖は低い段差のちょうど境目に当たり、ずるりと滑った。これが三回目の踏み外し。おじちゃんがグラリとバランスを崩す。


「危ないっ!」


 倒れてくるおじちゃんを抱きとめるように手を広げたけれど、男のひとの体重は予想より重く、結局尻餅をつく形で玄関先に座り込む。あちこちぶつかって、お尻も手も顔も痛くて、すぐには気づかなかったけれど、唇が、おじちゃんのと重なっていた。条件反射で身を引き、距離を取る。身体に残るどの痛みよりも、濡れた唇のすーすーとした冷たさが強く感じられた。


「……や、やだー、おじちゃん、痛いよ。あ、足は大丈夫?」


 このときおじちゃんは、四つ目の決定的な何かを踏み外した。いつもみたいにへらへらするべきだった。「しっかり支えてよ、若葉ぁ」って笑い飛ばすべきだった。それなのに、おじちゃんは真っ赤な顔をして固まっていた。


「……おじちゃん?」


 おじちゃんは激しく動揺したまま立ち上がろうとして、また転ぶ。それでも這うようにわたしから離れて、背中を向けたまま叫んだ。


「ごめん、若葉! もう帰って。ごめん!」



 アパートを飛び出したわたしは車に乗り、あてもなくうろうろとどこまでも走った。上の空だったために赤信号を無視してしまい、クラクションを鳴らされてようやく危険に気づく。そしてすがるようにコンビニの駐車場に車を停めた。

 おじちゃんから移った熱はドキドキと、いつまでも冷めない。ぶつかった瞬間はあちこち痛くて、正直なところ感触なんてまるで覚えていないのに、その事実だけは鮮明に、また剥き出しの傷のように心に残っている。

 家を出ても、何年会っていなくても、わたしとおじちゃんの繋がりは変わらないと思っていた。実際、おじちゃんに何かあればわたしは駆けつけるし、わたしが困ればおじちゃんは絶対助けてくれる。領収書を渡されたのはさみしかったけど、それでも会いに行ったなら、変わらない笑顔で迎えてくれたはずだった。

 全部壊れてしまった。

 だからいつも言ってたんだ。「おじちゃん、ちゃんとして!」って。ちゃんと最後まで“家族”でいてくれたら、ちゃんと最後まで嘘をついてくれていたら、ちゃんといつもみたいに笑い飛ばしてくれたら、わたしたちはこれまで通りの関係でいられたのに。おじちゃんは、本当に詰めが甘い。情けなく床を這いつくばっていても、赤い顔を覆っていても、おじちゃんは確かに“男の人”だった。驚いて早くなった鼓動の中に、違う音が響いている。この気持ちは、あの家に持ち込んではいけないものだ。もう二度と『帰れない』。

 強い横風に車が大きく揺れた。フロントガラスの上を乾いた葉っぱがザアーッと通り過ぎていく。それは初めて会った日、おじちゃんの部屋の前に溜まっていたそれを思い出させた。

 おばあちゃんは亡くなった。葉子おばちゃんはどこにいるかわからない。そして今、たったひとりの家族もいなくなってしまったのだ。

 母が死んでから初めて、わたしは天涯孤独になった。





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