3. むしろ邪魔


 わたしがおじちゃんの家を出たのは、高校を卒業して就職してから一年後のことだった。


「おじちゃん、わたしひとり暮らししようと思う。いや、するから」


 夕食の席についてすぐそう宣言すると、おじちゃんは汁物に入っていた里芋に箸を突き立てて絶句した。

 就職と同時に家を出ようとしたときにはおじちゃんが、


『もう少し生活が安定してからでもいいんじゃない? ひとり暮らしにはお金もかかるし、お金貯めてさ。ここからだって十分通えるんだから』


 と引き留めた。それもそうかと思って一度は引き下がったものの、これ以上迷惑をかけるわけにいかない。


「お金も貯めたし大丈夫。部屋も引っ越し屋さんももう決めたから」

「そんな急に! 相談もなく!」

「相談したら引き留めるでしょ?」

「……だって、さみしいじゃないか」

「おじちゃん、今までずいぶん迷惑かけたけど、これからは自分の幸せを考えて。さみしいなら尚更結婚したら? ……わたしのせいでできなかったでしょ?」


 おじちゃんにはときどき彼女ができたけれど、とうとう結婚には至らなかった。当たり前だ。実子でもない子どもを抱え、夜十時までには必ず帰るような男と結婚してくれる女性なんて、ヘソで茶を沸かせるひとと同等に希少な存在だと思う。

 おじちゃんの結婚と、わたしたちの特殊な関係。それはとても重要な問題であったのに、わたしもおじちゃんも今日という日に満足して、同じような明日がくると信じて疑わず、曖昧な日々を積み上げてしまった。


『結婚するなら出て行くから心配しないで』


 と言っても、


『振られちゃったよ。他に好きな人ができたんだって』


 とへらへら笑っていたのだ。

 透き通った汁に顔を映すように、おじちゃんはぬるくなるまで、お椀の中を見つめたままだった。



 引っ越すと決まったら、おじちゃんは吹っ切れたように猛然と働き出した。その意気込みは完全に空回りし、持っていくつもりのないカーテンや、30kgの米袋も用意してわたしを呆れされた。


「若葉の淹れるコーヒーも飲めなくなるな」


 引っ越しの朝、一転してしずかになったおじちゃんがマグカップを握りしめて言った。


「コーヒーメーカーは置いていくんだから、おじちゃんがやっても同じ味になるよ」

「そうだね」


 少し意地の悪いことを言ってみたら、思いの外おじちゃんの落ち込みがひどいので、ことさら明るい声を出した。


「ひとり暮らししたってまた帰ってくるから! 誰だって盆正月には“帰省”するでしょ? それと一緒だよ」

「いいんだよ、若葉」


 おじちゃんが首を振ると、癖で跳ねた髪の毛もふるふると揺れた。


「きみが俺を背負い込む必要ないんだ。若葉も言ってた通り、これから本気で婚活するから、むしろ邪魔」


 狭いテーブルを越えて、おじちゃんの大きな手が伸びてくる。お互いイスに座った状態ではほとんど目線は一緒なのに、幼い子をあやすように、ゆっくりやさしくわたしの頭を撫でる。


「俺はこれと言った特技も夢もない人間でね、なんとなーく人生を生きてきたんだ」


 おじちゃんの手が離れると、頭だけでなく身体中が、ずいぶん涼しく感じられた。


「きみを預かるふりをして、俺は自分の人生に意味を見出だそうとしたんだよ。きみを利用したんだ。だからきみは恩を感じる必要もないし、返す必要はもっとない」


 おじちゃんは立って、引き出しの奥から一枚のレシートを持ってきた。この狭い部屋で、どういうわけかよく物をなくすおじちゃんは「俺のベルトどこ?」「車の鍵見つからない!」がほとんど口癖なのに、その小さな紙切れを迷うことなく取り出した。差し出されたそれは、古いせいで黄ばみ、印刷もだいぶ薄くなっていたけれど、「チーズバーガーセット」「¥500」はしっかり見えた。


「……今、一万円札しか持ってないから」


 笑って誤魔化したつもりなのに、声だけは泣いているように震えた。


「そう言うと思った」


 わたしの大好きな顔でにっこり笑って、おじちゃんはさっきと同じ引き出しからジッパータイプのバッグに入った9450円を取り出した。


「こんなときだけ用意いいね。いや違うな。もともとおじちゃんは、ひとりで何でもできるんだよね。知ってたよ」


 初めておじちゃんに預けられたとき、部屋の中は片付いていたことを、あるときふと思い出した。きちんと分別されたゴミ、アイロンもかけられたワイシャツ、整頓されたDVDラック。


「本当はネクタイだってきちんと結べるでしょ? おじちゃんは嘘つきのくせに詰めが甘いから、慌てて出たとき、きれいに結んじゃってたんだよ」


 おじちゃんのご両親が怒鳴り込んできたときも、わたしがいじめに遭ったときも、「若葉は何も心配しなくていい」とひとり出掛けて行った。できないふりしてたことを忘れて、きりっとネクタイをして。

 仕方なく、わたしはお財布から一万円をおじちゃんに渡す。


「おじちゃんにわたしは必要ないもんね」


 おじちゃんは否定してくれず、


「確かに受け取りました」


 と、手書きで書かれた領収書をテーブルの上に置いた。


「困ったことがあったら、いつでもおいで」


 おじちゃんのその気持ちに、嘘はない。それでもちょっとやそっとで、この家の敷居をまたぐことはできないだろうと思った。

「きみを買おうと思う」なんて強引なやり方で、だらしなくわたしに世話を焼かせて、そうしてわたしが遠慮なくおじちゃんの部屋にいられるようにしてくれたひと。おじちゃんのつく中途半端でやさしいたくさんの嘘で、わたしは、わたしの置かれた境遇からは考えられないほど幸せな時間を過ごせた。だからここで人生が別々になっても、例え二度と会わなかったとしても、わたしたちの絆は変わらない。ずっと同じ思いで生きてきたのだから。


『誰よりも若葉の幸せを願う』


 領収書の但し書き欄には、おじちゃんの妙に丸っこい文字でそう書かれていた。






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