2. きみを買おうと思う

 葉子おばちゃんと暮らし、しょっちゅうおじちゃんに預けられる生活が二年ほど続いて、わたしが二年生になったある日。おじちゃんはわたしをハンバーガーショップに連れて行った。おじちゃんがわたしを外に連れ出すのは初めてのことだった。梅雨の真っ只中で、おじちゃんのデニムの裾が泥で汚れるのを見つめながら、歩幅の違うわたしは一生懸命そのあとを追った。

 店に着くとおじちゃんはわたしに何も聞かず、子ども向けのセットをひとつと自分の分のコーヒーを注文する。


「はい、これ」


 渡されたのは、セットについてきたキラキラした赤いリボン型のキーホルダーだった。当時人気のあったアニメキャラクターのもののようだけど、すでにそのアニメから卒業していたわたしには、ずいぶん幼く安っぽく思えた。


「ゆっくり、よく噛んで食べるんだよ」


 わたしがチーズバーガーを恐る恐る食べる様子を、おじちゃんはしずかな笑顔で見つめて、ゆっくりとコーヒーを飲む。どことなくいつもと違う空気を感じたわたしは、お腹がいっぱいだと言えず、ポテトの最後の一本まで食べ切った。


「あのね若葉」


 それを待っていたように、おじちゃんは口を開く。お昼までは少し時間があるとは言え、日曜日のハンバーガーショップにしてはからんと落ち着いていて、おじちゃんの声はよく聞こえた。


「今日から俺の家で暮らそう」


 空っぽのトレイを前に、わたしは首をかしげる。


「実はね、葉子さんの仕事が忙しくなって、なかなか帰るのが難しくなるんだって。だから落ち着くまで、俺の家においで」

「わたしはひとりで大丈夫だよ」


 おじちゃんと暮らすのが嫌なわけではないけれど、それが不自然であることは十分にわかっていた。いくら葉子おばちゃんの事情でも、あまりに迷惑な話だと思ったのだ。だけどおじちゃんはゆっくり確実に首を横に振った。


「これは提案じゃなくて、決まったことなんだよ。今若葉は、これを食べたよね?」


 トレイの端を、おじちゃんは指でとんとんと叩いた。


「550円。俺はこの金額で、きみを買おうと思う。もしこのお金を返せたら、きみは自由に人生を決めていい」


 そう言って、ペラリとさっきのレシートをわたしの前に置いた。それを見て、わたしは自分のポーチの中にあるお小遣いを出そうとする。


「いやいやそれはダメだよ」


 おじちゃんはそれを見越して言った。


「お年玉とかお小遣いとか、そういうお金じゃない。若葉がちゃんと自分で働いたその対価としてのお金じゃないとダメ。返すまでは俺の家にいなさい」


『はたらいたそのたいか』

 その言葉で、わたしにとって550円は途方もなく高額なものになった。安っぽく思えたリボン型のキーホルダーが、ひどく重く感じる。

 そうして、わたしとおじちゃんのふたり暮らしは始まったのだった。



 おじちゃんと暮らすことに、特別違和感はなかった。


「何かあったとき困らないように、使い方だけ教えておくね」


 と洗濯機や掃除機、キッチン周りについてひと通り説明してくれたから、わたしは暇にまかせて脱ぎ捨てられた靴下を拾って洗ったり、ぐちゃぐちゃの新聞紙をまとめて回収に出したり、ウィンナーを炒めてみたりした。


「これ、若葉がやってくれたの?」


 何かひとつできるようになるたび、おじちゃんは敏感に気づいて喜んでくれた。


「おじちゃんがちゃんとしてないからだよ」


『ちゃんとしてない』ことに関しては葉子おばちゃんも同じだったけれど、何かしてもおばちゃんが気づいてくれたことはなかったのに。

 わたしの炒めたウィンナーを食べ、わたしが洗った靴下を履いて仕事に向かうおじちゃんを見ていたら、とても誇らしいような気持ちになり、もっとこのひとのために何かしてあげたいと思った。リボン結びもうまくできないくせに、ネクタイの結び方を一生懸命練習したっけ。

 そうしているうちに、一階に住む山村さんがお惣菜や果物をお裾分けしてくれたり、最初は反対していたおじちゃんのご両親も、手が足りないときには助けてくれて、異常なはずのわたしたちの生活は順調だった。ずっとずっと、順調だったのだ。



 家事の多くはわたしの仕事だったけれど、それでも遠足の日だけは特別で、おじちゃんはお弁当のためにかなり気合いを入れたようだ。


「これ、おじちゃんが作ったの!? すごい!」

「張り切ったからさ、朝四時までかかったよ」


 海苔を使って細かくカットされた白雪姫、シンデレラ、ラプンツェルは売り物みたいに見事だった。だけど、


「おじちゃん……この海苔のサイズだと、大き過ぎるよ」

「ああ! 本当だ! そこまで考えなかった!!」


 海苔に全力を注いだせいで、おかずは冷凍のコロッケと冷凍のからあげとイチゴだけ。わたしはブーブー文句を言ったように思う。それでも里中先生が撮ってくれた写真を今見ると、高校生男子が食べるような大きなおにぎりを三つ抱えて幸せそうに笑うわたしが写っている。

 その頃には口さがない父兄から“内縁の夫”とか“育児放棄”などという言葉をたびたび向けられていた。親から聞いたのだろう。他のクラスの知らない子にまで揶揄されたこともあった。それは当然おじちゃんの耳にも届いていたはずで、だからこそ運動会のように親子で参加する行事がわたしは嫌いだった。それなのにおじちゃんは、


「俺、お父さんたちより若いから有利だと思うんだ!」


 と、むしろ前のめりで臨んでくれて、その笑顔にわたしはいつも救われたのだ。本気で挑んだ親子競技は、高校生のお兄ちゃんと参加した子にあえなく負けたのだけど。


「俺ももう年かな……」


 ゴールの脇に倒れ込むように座って、おじちゃんは大きく肩で息をする。三十目前のおじちゃんは、ときどき白髪を見つけては、「若葉! これ抜いて!」とわたしにピンセットを持たせるなど、衰えを意識するお年頃になっていた。


「年だね。早く結婚しないと、相手いなくなるよ」


 年なんてどうでもいい。おじちゃんの大きな心に気づいてくれるひとはきっといるはずだから。本当はそう思っているけれど、「もうやだっ!」と身をよじって嘆くおじちゃんが面白くて、言ってあげたことはない。

 おじちゃんが結婚できない理由。それは火を見るより明らかで、当然わたしのせいだった。


「おじちゃん、休みの日なんだから彼女と来たらよかったのに」


 毎日家事してくれてるご褒美だと水族館も動物園も映画も遊園地も、ぜんぶ連れて行ってくれるから、申し訳なくてそう言った。それでも、


「もちろんそのつもり。だから下見に付き合ってよ。デートで格好悪いところ見せられないでしょ」


 と、真顔で言ってきたりする。


「ちょっとやそっと格好悪いからって振るようなひとなら、こっちからやめたらいいんだよ」

「至言だね」


 わたしはおじちゃんの幸せを心の底の底から願っていた。今でも願っている。おじちゃんが、わたしなんか放り出して行ってしまうくらい好きなひとが早くできればいいと、本気で思っていた。





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