DEAR MY LIAR
木下瞳子
1.今日も仕事遅いんだって
だからいつも言ってたじゃない。
「おじちゃん、ちゃんとして!」
って。靴下は裏返し、爪切りはその辺に置きっぱなし、飲み切った牛乳パックも洗っておいてくれない。おじちゃんは何回言ってもへらへら笑って、
「ああ、ごめん、ごめん」
と反省しない。
「おじちゃん、食べたお皿は水につけておいてね。またネクタイ曲がってる。ちゃんと会社行くんだよ! じゃあ行ってきまーす!」
「はいはい、行ってらっしゃい。車と知らない人に気を付けるんだよー。桜大根あげるって言われても、付いて行っちゃダメだからねー」
赤いランドセルをカタカタさせて家を飛び出すわたしを、おじちゃんは毎朝玄関で、寝ぼけまなこのまま見送ってくれた。
あの頃のわたしは、わたしがいないとおじちゃんはゴミに埋もれて死んでしまうと思ってた。ゴミの日には、間違っておじちゃんを袋の中に入れてないかなって一瞬頭をよぎるほど。
あまりに心配だから、わたしは修学旅行には行きませんって先生に言って、おじちゃんはものすごく慌てたっけ。
「大丈夫だって、若葉。ほんの二泊三日じゃないか。それくらいなら俺だってなんとでもできる」
「本当?」
「掃除も洗濯もしなくたって三日じゃ埋もれたりしないよ。ご飯は買って食べればいい」
「ネクタイはひとりでできる?」
「曲がってたって仕事はできる」
「朝は? 起きられる?」
「それは……がんばるよ。だいたい、若葉が来るまではひとり暮らししてたんだよ? だから安心して行っておいで。お土産買ってきてね」
毎晩おじちゃんに電話するわたしを、クラスの子はホームシックだとバカにして、ちょっと言い合いにもなった。
「若葉ちゃんはおじさんと住んでるの?」
事情を知らない子からはよく聞かれる質問だった。
「うん。小さい頃にお母さんが死んじゃって、おばさんに引き取られたの」
「そっか。……大変だね」
「ううん。大丈夫」
嘘ではないけれど、大きく事実とは異なることをその後もわたしは言い続けた。
シングルマザーだった母が五歳のとき亡くなったのは本当。わたしの身寄りは施設に入っている祖母と、母の妹である葉子おばちゃんだけだったのも、だから葉子おばちゃんに引き取られたのも本当。そしておばちゃんと暮らした二年の間に、わたしは“おじちゃん”と出会った。
「“おじちゃん”かあ。俺まだ二十三なんだけどな。うーん、でもまあいいか」
仕方なくわたしを引き取った葉子おばちゃんは何かと忙しく、ある日わたしはおじちゃんと引き合わされたのだ。それは秋の終わりで、昼間でも気温が上がらなくなってきた頃のこと。おじちゃんの部屋は角部屋で、ドア前には風で飛ばされてきた枯れ葉が溜まっていた。
「葉子さんが帰ってくるまで、うちでゆっくりしていてね。えーっと、寒くない? 何か食べる? 何もないな。キムチは辛いし、梅干し? さきいかならあるけど食べないよね」
「寒くないです。さきいか食べます」
子どもの相手なんてしたことないおじちゃんがわたわたする様子を尻目に、わたしはファンヒーターの前を陣取り、もらったさきいかをかじって、持ってきた絵本を読んで過ごした。
おじちゃんは、葉子おばちゃんの“彼氏”だった。大学を卒業して葉子おばちゃんの隣の部屋に引っ越してきたおじちゃんは、少し年上のおばちゃんの「色香にやられて」、部屋に出入りするようになったのだそう。
絵本を読むわたしの回りをあっちに行ったりこっちに行ったり。おじちゃんはまったく落ち着かなくて。
「あそんでほしいの?」
保育園で小さい子に言うみたいに、わたしは大きな少年に向かって聞いた。
「……あー、うん。お願いできるかな?」
わたしの前に正座して、もじもじと小さくなるおじちゃんを見た瞬間、わたしは動物が生まれつき持っている本能的な警戒心さえホロホロと抜け落ち、剥き身の肌で全面的にこのひとを受け入れてしまった。それからいろんなことがあり、どれだけたくさんの嘘をつかれても、この気持ちは磨かれた玉のように傷ひとつついていない。
おじちゃんの家に預けられる回数は、次第に増えていった。それは夜のひとときだったり、朝から晩まで一日中だったりまちまち。そのままおじちゃんの部屋に泊まることも珍しくなかった。
「おじちゃん! それなに!?」
「うわー! だめだめ、見ないで!」
わたしはそれなりに自分のことは自分でできたけれど、まだまだ危なっかしいところが多く、おじちゃんが付き添うことがほとんどだった。当然それはお風呂にも適用される。
「え? なに? ちょっと、見えないー!」
「だから見なくていいんだって! ぎゃあああああ!! さーわーらーなーいーでーーーー!!」
一般的に娘がお父さんと何歳まで一緒にお風呂に入るのかは知らない。けれど、わたしは娘ではなく、おじちゃんはお父さんではなかった。また、他に家族と呼べるようなひともいなかった。
「若葉ぁ。きみ、里中先生に俺と一緒に風呂入ってるって言ったでしょ?」
「うん、言った」
「まいったなぁ。おかげでめっちゃくちゃ警戒されてるんだよ、俺。もー、どうしよ……」
三、四年生の担任だった里中先生は四十代のハツラツとした女のひとで、わたしの複雑な家庭環境をかなり心配していた。ことあるごとに声を掛けてくれて、何かと助けてくれたのだけど、親戚でも何でもない“おじちゃん”の存在をとても不審に思っていたようなのだ。先生からの提案で、おじちゃんとのお風呂は三年生で卒業となった。
結果として、おじちゃんは里中先生の信頼を勝ち取り、その後先生にはずいぶん助けていただいた。女の子の成長に伴う身体の変化についても先生が教えてくれて、ひと揃い用意してくれたりもした。小学校を卒業して十年ほど経つけれど、いまだに年賀状のやり取りは続いている。
話は五歳の頃の、どうして葉子おばちゃんがそんなに忙しいのか、というところに戻る。恐らくそれが、おじちゃんがわたしについた最初の嘘だったと思う。
「葉子さん、今日も仕事遅いんだって。だからうちで寝て待っていよう」
そう言うくせに、おじちゃんは夜遅く大きな音で映画を観たりした。
「おじちゃん、音大きくない?」
「こういう映画は迫力が大事だから、ちょっと大きいくらいがちょうどいいんだよ」
おじちゃんがにっこり笑ってそう言うから、わたしもそんな気がしてきて、大きな音で映画を観た。おじちゃんの笑った顔が、わたしは大好きだった。だからそれ以上は追及せず、おじちゃんはアクション超大作映画が大好きなんだと思っていた。
けれど、それとは別に葉子おばちゃんの行動に違和感を持っていた。幼いわたしは、おじちゃんの部屋と壁一枚隔てた向こう側でどんなことが行われているのか、本当に知らなかった。それでも何かもやもやと濁った空気だけは敏感に感じるもの。具体的なことはわからなくても、おじちゃんが葉子おばちゃんにとって“たったひとりの彼氏”ではないことにも気づいていた。むしろ、おじちゃんが彼氏らしい扱いをされていたとは思えない。電話で話すおばちゃんの、外国製のストロベリーアイスのように甘ったるい声は、おじちゃんには向けられていなかったから。そしてそのことは、決しておじちゃんに言ってはいけないと思っていた。
大音量の映画が流れる壁の向こう。おじちゃんはおじちゃんなりの理由で、わたしはわたしなりの理由で、そのことには触れずに過ごしていたのだ。
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