第7話 気をつけて帰りなよ

(どうして未だに生きてるのだろう)


 悠紀は耳を澄ませて人の気配がないことを確認し、机の中からポーチを取り出した。乱雑に入った文房具をひとつずつ机上に並べ、最後に折り畳み式のカミソリを手に取る。刃に赤茶色の汚れが付いているのを見つけて改めて思った。


(また誰かが殺してくれればいいのに)


 中学1年生の夏、悠紀はなるものを覚えた。

 「自傷はしていないのよね」悠紀を担当していたスクールカウンセラーの、ふとした問いかけである。これが、皮肉なことに、自傷を教えてしまったのだった。

 この少女にとって自身を傷つけるという概念は、ジグソーパズルを埋めるかのようにぴたりと収まった。

 カミソリの刃は皮膚に吸い付き、軽く滑らせると血の雫がぷっくりと現れる。それが球体愛をくすぐるフォルムだったことも、自傷行為を魅力的にした。


 悠紀はいつもの要領で左手首に刃を添え、ゆっくり引いた。色白い肌についた傷はさながら赤い糸のようだった。渡辺悠紀という存在をこの世界に繋ぎとめているような気がした。

 血液が固まっていく様子を観察しているうち、いつの間にか教室は夕焼けに染まっていた。


「渡辺さん?」

「わっ……」


 背後から男子の声がかかった。つい数時間前にも聞いた柔らかい声色である。彼はやや遠慮がちに歩み寄ると、悠紀の机に手をかけてしゃがみこんだ。


「こんな時間までどうしたの」

「そっちは」

「忘れ物を取りに」


 悠紀は机上の文房具とカミソリをポーチに戻した。自傷を隠すつもりはなかったが、人前で傷痕観察を続ける気にもならなかった。井上はまじまじと眺めていたが咎めることはせず、やがて忘れ物を探すべく自席に向かった。会話は教室のぬるい空気を挟んで続けられた。


「『ミニスカ』たちが怒ってたわ」

「ミニスカ……あぁ田橋のことか。大丈夫だった?」

「ええ。あなたはどうして清掃係になったの」

「中原に頼まれた。『渡辺が卒業までずっと孤独なのは気の毒だから仲良くなってやれ』だって」

「大きなお世話」

「あいつはサッカー部の顧問なんだ。断りづらくてさ」

「そう」


 井上は気まずさを誤魔化すように「あった」と呟く。机から取り出されたのは一冊のノートだった。彼の持ち物には似つかわしくもなく泥で汚れているが、裏表紙には力強く『絶対優勝』という文字が記されていた。彼はもはや、下校時間が迫るまでリストカットに勤しんでいるような人間とは別世界に生きていた。

 二人がこうして会話をしているのは、中原の指示とは言うものの、運命という存在がまともな仕事をしていないとさえ思われた。


「田橋たちのことは気にかけておくから」

「それはどうも」


 井上は再び悠紀の方へ歩み寄ると、くっきり足跡のついた通学カバンを綺麗にはたいて拾った。悠紀が差し出されたカバンを受け取るとき、互いの指先が触れ合った。男子の指は少しだけ血で汚れた。


「じゃあ、気をつけて帰りなよ」


 そう言い残して井上は教室を後にした。廊下を遠ざかる背中はどこか寂しげだ。

 悠紀は血濡れた指をティッシュで拭いながら立ち上がり、日没とともにようやく清掃後巡回を始めたのだった。

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球体のイデア 三国 碧 @Heckey

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