アメフラシを救うモノ
唯月湊
アメフラシを救うモノ
しとしとと降る雨の中、しくしくと女が泣いていた。
それは誰に聞かれることなく、ただ悲しさだけをにじませて。見た目の齢は二十歳に満たず、けれど十五は過ぎた頃。黒いおかっぱを少し下げ、その顔を両手で覆うこともなく、さめざめと。ただ彼女は泣いていた。
景色に溶け込む雨色のワンピースは少し季節に合わない代物で、見るものにどこか寒々しさを感じさせ。傘もささず、けれど彼女は濡れることもなく。ただ静かに彼女は泣く。
そこはヒトがより良い住まいをと願い望んで土地を切り開き、命を育んだ自然とヒトの共存する町。ヒトはその技術で自分たちの生きられる場所を獲得していった。
その町で、彼女はただ泣くより他に、道など見いだせることもなく。
「おやおや。お泣きでないよ、お若いの」
その声に、涙にくれる彼女は顔を上げた。はらはらとまだ涙の伝う中、そしてなにより雨の滴る中。女の前に立っていたのは、黄色い傘をさした一人の老女。時代ハズレでぶかぶかな、子供が絵の具を好きに塗りたくったようなカラフルなローブを身にまとった、皮膚はしわくちゃで背も曲がった、まるで御伽噺に出てくるような老女であった。
「そんなに悲しいことがあったかね。こんなに良い、雨の日に」
水たまりをけとばしながら、どこか幼い子供のように無邪気さを兼ね備えて、その老女は女のもとへと歩み寄る。身の丈などずいぶんと違っていて、ずいぶんと見上げなくては、ずいぶんと視線を下げなくては、ふたりは視線を合わせることも出来なかった。
「良い日、など。どうしてそんな事を言うのですか。こんなひどい、雨の日に」
女はそう返した。彼女にとっては、それ以上の意味を持たなかった。
「雨を嫌うかね? 誰より愛さねばならぬお前が」
老女はそのしわがれた手で彼女の手を取った。どこか怯えるように、けれどどこか抵抗もできずに、その手を引かれて歩んだ先には、誰もいないひとつのベンチ。木製の塗装も剥げたその場所へ、老女はためらうことなく腰掛ける。もとより雨も濡れた場所も構わぬ身の、女もつられてその場に座る。
雨はなおも降り続いている。老女の傘は二人を覆う。バツバツと雨が傘を叩きつけた。
「愛せぬのかね。この雨は」
静かに老女は問いかけた。その答えなど、きっと分かっているであろうに。女はうなずく。
「愛せるはずもありません。この雨は、私の愛しいものをすべて奪い去っていく雨です」
「はて。主に仇なす力もさして珍しいことではないが。話してみるといい。言の葉はこころを軽くするものだ」
「……」
女は少し、悩んだようだった。その老女の言葉を疑っていたこともある。けれど、それより何より彼女自身が、救いを求めるのを拒んでいた。
「救われてはならぬ命はないんだよ。それは、ヒトだけの話ではないんだ」
ヒトならざるものであっても、その願いは叶えられる。老女は、そう知ったように告げた。告白が懺悔となることを、恐れているその女のためであった。
いくらか唇を震わせて、ためらいを乗り越えた末に。女はようやく言葉を発す。
「愛していたのです。はじめての、ともだちを」
老女の傘の下。雨空を女は見上げた。
その女のいる場所には、必ず雨が降る。それは、この世に生まれ落ちたその時からの必然である。
この世界に生きとし生ける生命は、何かの役割を負っている。その役割に気づけるものはほんの僅か。けれど、彼女は否応なしに気づくさだめを負っていた。
アメフラシ。ヒトが乞い願う、恵みの雨。それを司り、大地に生命に潤いをもたらす雨を司る、雨の精。それが彼女の負う種族の名だった。
母も知らぬ、父も知らぬ。ただ、物心ついたそのときから彼女の周りには雨が降っていた。
ヒトのように食事も睡眠も必要のない彼女には、ただ雨の中を漂うようにさまよう他に行き場もなく。ぱしゃぱしゃと水音を立てながら、雨を伴って彼女は歩む。ひとところにとどまれば、雨はその場所にとどまってしまうから。
「おねえさん!」
ヒトには見えぬ身の上の、アメフラシを呼び止めるものがいた。思わず立ち止まってぱちくり目を瞬かせ、その背後の声に振り向いた。
そこにいたのは小さな身の丈には少々不釣り合いな大きめの傘をさして、長靴を履いた幼い少女。黄色の長靴は灰と青の情景の中で鮮やかであった。
「おねえさん、雨の中、どこへいくの?」
「……雨の中を、行くのじゃないわ。雨を連れて、行くのだわ」
雨に従うわけでなく、雨を連れて、女は行く。その順序は決して変わることがない。それは諦観のような自覚であった。
けれど、そんなことを少女は知る由もない。そして、何より。彼女はその言葉を理解しているのかいないのか、女の言葉に喜んだ。
「なんてこと! おねえさん、あなたがこの雨を呼ぶの? それは、とても、すてきなことだわ!」
「何を言うの。雨は、ヒトが忌むもの。恵みとなることもあろうけれど、過ぎたれば呪われるそんな存在。素敵なことなど、なにもないわ」
「そんなことは、ないわ。おねえさん、私はずっとずうっと、あなたと会いたかったの」
雨の中、そう少女は晴れやかに笑った。彼女の言葉がわからない。彼女の思いがわからない。アメフラシはただ、彼女の言葉を待つより他になかった。彼女が何をいいたいのか、どこか恐ろしくもあり、同時にかすかな希望を持った。
幾度裏切られたかわからなくとも、それでもまだ、アメフラシはヒトを、誰かを信じていたかった。
「私はね、音の魔女。いろんな音を愛する魔女よ。聞こえるものは、全て音楽に聞こえるの」
音には感情が宿るものだと彼女は言った。心を取り繕えばどんどん汚くなっていく。
「あなたの雨は、いつだってやさしくてきれいだわ。だから、こんな雨をよぶのはいったいどんなモノなのだろうと、ずうっと楽しみで」
思ったとおり、とってもかわいいおねえさん、と。少女は笑う。
音の魔女、などと言われても、アメフラシはそんなモノを聞いたこともなかったし、屈託なくその少女はただのヒトと違いもなく見えた。
少女は、名を名乗らなかった。名前は、大事なものだから、と。それはアメフラシにもわかることであったから、それ以上尋ねることもしなかった。
その日から、アメフラシはほんの少しそこにとどまることにした。特別なにかが足止めをしたわけでもない。ただ、あの自分のさだめが呼ぶ雨を、「きれい」と称したのは彼女が初めてであったから。
少女は毎日、同じ時間にアメフラシがとどまる公園へやってきた。彼女の座るベンチの隣に腰掛けて、他愛のない幼い話を聞かせてきた。
知れぬうちに、アメフラシは彼女の話を楽しみにするようになった。
ただ、その日々も長く続くこともなかった。
アメフラシがその町にとどまったのは一週間。その間、雨はずっと降り続いた。その結果、そこにあったヒトの集落は、ヒトが住めぬ環境に変わってしまった。
集落からヒトがいなくなったのと同時に、あの少女もその場所に訪れなくなった。
自分の雨音が好きと言った彼女の消息はわからぬまま。魔女と自称して履いたものの、本当はただのヒトであったのではないか。なれば、もしや。アメフラシの頭の中を、嫌な予想が頭を駆け巡った。けれど、それを確かめるすべもまた、彼女にはなかった。
それ以来、アメフラシはひとところにとどまることをやめていた。己の境遇を呪うだけの勇気もなく、たださまようことを良しとして。
「そう、嘆き続けてきたのかい」
老女はそうひとつ相槌代わりにつぶやいた。そうして小さく苦笑して、雨を見上げる。
「どれだけの時がたっても、きっとこの音は変わらないのだろうね」
隣のアメフラシが、老女をそっと見る。
「あなたの雨は、いつだってやさしくてきれいだわ」
その老女の言葉は、かつての少女の音色をまとっていた。
アメフラシを救うモノ 唯月湊 @yidksk
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