101回目の101号室

ゆらゆら共和国

第1話

 私の嫌な予感は、段々と精度を増して当たるようになっていた。

「うへえ、やっぱり居たぁ」

 自分でも予想だにしなかった汚い声が、喉から吐き出される。泥水のような声を浴びた主は、場違いに鷹揚おうような所作でゆっくりとこちらに向き直った。

 廊下と私のパーソナルスペースを隔てるドアに寄りかかって、今日も彼女は優雅に絶望している。

「やあ」

「うへえ」と言われた返しの一言目で「やあ」とか言うのだ、この人。

「今日の挨拶はちょっと王子様っぽく、をテーマにしてみました」

 キザったらしく髪をかき上げ、右手で拳銃を作って「ばぁん」と私に撃ち込む。私の記憶が正しければ、王子様はむやみやたらに銃をぶっ放したりしない。暴君の素質あり、走れメロス、飛び蹴りだ。

「決まってるでしょ」

「キまってます。やべー奴ですよ先輩」

岡崎真衣おかざきまいが絡むとやべー奴なのよ、私」

 おどけているが、冗談になっていないから困る。やべーのだ、この人。

「……なんで王子様なんですか」

「なんでだか当ててごらん、お姫様」

 めんどくさい。今日の先輩は二割増しでめんどくさい。即座に見当がついてしまう自分にもちょっと腹が立つけど。

「先輩この前『ホスト部』読んでましたもんね」

 すぐ影響されるのだ。親のしつけが厳しくて、中学出て一人暮らし始めるまで漫画読んだことなかったとかいう漫画みたいな設定持ってるから、この人。

「続きを読みに来ました」

「あ、うち今日から有料になったんですよ」

「え、本当?パスモ使える?」

「残念ながらキャッシュのみです。三時間パックで五百円」

「真衣ちゃんの指名料と制服コスのオプション合わせて五万までなら払えるわ」

「児童買春です。警察呼びますよ」

「捕まえるんならいっそこの部屋に一生鎖で繋いでおいてもらえると助かるんだけど」

 何が助かるんですか、と返そうとして、私はこの不毛な茶番をやめた。ユルい美術部所属とはいえ、私にだって疲れてる日くらいあるのだ。

 先輩はもう少し漫才を続けたかったのか、手をひらひらと振る私に不満そうに頬を膨らませた。

「王子様といえば、真衣ちゃんも髪短くしてボーイッシュにしても凄く素敵だと思うけどなあ。前髪だけでも……」

 指でファインダーを作って私を中心に据えた先輩は、そこで何かを思い出したように言葉を切った。

「あ、ううん、今の長さが悪いっていうんじゃないの。真衣ちゃんはどんな長さでも似合っちゃうから、あの、その」

 勝手に言い出して勝手に慌て出してしどろもどろになる。つい数時間前、体育館の壇上で生徒会長として完璧にスピーチをこなしていた人間と同一人物だとはとても思えない。

 立花愛華たちばなあいか

 一見して名前負けしそうな強い四文字を生まれながらにして背負い、その宿命をいとも簡単に背負い投げた私の先輩。

「素敵なお世辞をどうも。で、今日は誰から」

 キーホルダーをじゃらじゃら手中で弄びながら、私は言外に先輩をドアの前から追いやる。

「一年二組の加山かやまさん」

「ああ、知世ともよですか。へえ、あの子がねえ」

「そ、あの子がなのよ」

 言いながらおもむろに私の背後に回り、首に両腕を絡めてくる。今日は俄然春めいて暖かい。暑苦しい。このまま一本背負いで投げたら正当防衛になるだろうか。

「てか、また女ですか」

「女子高という聖域の中に引き籠ってたら自然とそうなるっていうか、世の男共はもうあらかた私を諦めたので消去法というか」

 真面目な顔でこういうことを言う。まあ先輩が男性対象外というのは、彼女の言う「聖域」の外にも知れ渡りつつあるので、あながち大間違いではないのかもしれない。

 恐ろしいのだ、この人。


 

 ◇ ◇ ◇


 

 春。 

 芳聖ほうせい女子高等学校の一年寮・若葉荘の101号室の前に初めて先輩が推参した時、先輩の頭には桜の花びらがついていた。左のこめかみの辺りと頭頂部に、二枚。

 どちら様ですか、とは聞かなかった。入学してまだ数日だし当時はまだ先輩は生徒会のいち役員に過ぎなかったけど、見た目だけでもう十分過ぎるくらいに有名人だったから。

「告白をね、断ってきたの」

「はあ」

 さもありなん、と思った。噂には聞いていたけど、近くで見たら余計美人だ。なんていうか、美人が過ぎる。

「だから、傷ついた私の心を癒して欲しいの」

「はあ」

 何言ってんだろ、と思った。

 上京したてで右も左も分からない女子高生の一人暮らしの部屋に侵入する文句としてはあまりに突飛な言い分に戸惑う私の肩を、先輩の両手ががっしりと掴む。

「大丈夫、何もしないから」

 その時の私には「何もしない」という言葉の意味がよく分からなかった。

 結局、本当に何をするわけでもなく部屋でぼーっと天井を見上げたり、棚にずらっと並んだ漫画を手に取ってみたり、たまに話しかけてきてぎこちない会話を交わしたりして、先輩は帰っていった。

 帰り際に「また誰かを振って心を痛めた時には来てもいいか」と聞かれたので曖昧に返事をしたら、二日後に来た。その三日後には、駅前のちょっと高いドーナツを手土産に持って来た。

 寮の門の脇の彩りが葉桜に変わる頃には、鈍感で初心うぶな私も「何もしない」の意味に気づき始めていたと思う。

 そういう漫画を読んだのだ。一巻の最後でキスしていた。


『失恋した傷を癒すってんならまだ分かるわ。相手を振っておいて癒して欲しいって、なんやそれ。告白云々を口実にして真衣の部屋に上がり込みたいだけで、本当は傷ついたりしてへんでその人。ええか、もし襲われそうになったら──』

 地元の友達に電話するとそんなことを言われ、早く縁を切るよう勧められた。

 だよなあ、なんて思いながらも、大体週二くらいのペースで誰かの青春を終わらせ、その度に会いに来るこのストーカー女を、私はなんとなく受け入れてしまっていた。

 


 ◇ ◇ ◇

 


「誰の告白を断ろうが先輩の勝手ですけど、私の名前出してないでしょうね」

「こっちからは出してないけど『大事な人がいるからごめんなさい』って断ったら『やっぱり岡崎さんですか』って。不思議よね、校内じゃ他人を装ってるのに」

 人前では仲良さげに話さないようにしようと言い出したのは先輩の方だ。「他人に見られると真衣ちゃんに迷惑がかかるから」だとか、アイドルみたいなことを言う。

 そういう警戒心があるんなら、私の部屋の前でうろうろしてフライデーされる危険性についても少しは考えて欲しい。

「ま、実際他人ですしね私達」

 嫌味ったらしく言って首に纏わりつく先輩の手を払いのける。冷たい手。

「で、なんて答えたんですか」

「照れて何も言えなかった」

「呆れて物も言えません」

 先輩は何を血迷ったのか、とびきりのウインクをくれた。左の目尻から星が飛んで、金属製のドアノブに跳ね返った後私の胸に飛び込む。

 まあ、五百円分にはなるか。貰っとく。

「お邪魔しまーす」

 私が勉強机の上にカバンを置いて椅子の上に崩れ落ちる間に、先輩はベッドの上に後ろ向きにダイブしてぼよんぼよんぼよんとお尻を三回くらい跳ねさせていた。邪魔だと自負している人間の所業とは到底思えない。

「ねえねえ」

「はい、なんでしょう」

「最近あれやんなくなったね。『邪魔すんねやったら帰ってー』って、あれ。楽しかったのに真衣ちゃん最近やってくれなくなっちゃったね、ね!」

 先輩は足をぶらぶらさせながらぶーたれている。

 私の地元の義務教育を初段知らなかったのは先輩の方だ。本当に出て行ってしまったので驚いたが、本当に邪魔だったのでそのまま捨て置いていたら、いつまで経ってもドアの向こうの気配が消えないので仕方なく部屋の中に引き込んだのを覚えている。

 新喜劇見てください、と言うと、律儀にも翌日にはDVDで学習していた。

「お約束にもいい加減疲れたので」

「疲れたなら癒してあげようか」

 ベッドの上で、先輩は両手を大きく広げて満面の笑みと共に私を受け入れる態勢を整えた。

「おいで」

 母性の押し売り叩き売り、結構毛だらけ猫灰だらけ。単純だが、一人暮らしを始めて一年足らずのいたいけな少女を誘惑する罠としてはよく出来ている。先輩の身体がもう少しふかふかしてたら危なかった。

 私は先輩に対して半身になり、拳で頬杖をついた。

「癒されに来てるのはそっちでしょう。あ、コーヒー淹れますね」

 溜め息と共に立ち上がりかけた私を、先輩の視線が釘付けにする。

「分かってるなら癒してよ。コーヒーじゃなくて、真衣ちゃんの熱が欲しいの」

 さっきと同じように両手を広げて、今度は声のトーンをオクターブ下げる。

 ぞくりと背筋が粟立った。

 怖いから、ではない。先輩が本当に心を病んでいることを知っているからだ。


 

 ◇ ◇ ◇


 

 夏。

 先輩は、折からの夕立ちで髪をぐっしょりと濡らし、ただ俯いていた。

 その日の昼休みに部室棟の裏で何があったのかを既に他の誰かから伝え聞かされていた私は、黙って部屋の鍵を開けた。

 ある生徒が精一杯の勇気を出して先輩に好意を伝えた次の瞬間、目の前で先輩に嘔吐されたと言う。隠れて見ていたその生徒の友人が周囲に触れ回ったため、この一件は瞬く間に全校生徒の間で周知となった。

「いくら相手のレベルが自分と釣り合わないからって、吐くとか最悪、性格わるっ。生徒会長選、あんなのに投票するんじゃなかった」

 帰りしな、渡り廊下で同学年の女子数人が話しているのをこの耳で聞いた私は、立ち止まって拳を握った。告白を突っぱねるのに都合がいいから吐くなどという器用な芸当が出来るはずがない。考えれば分かるだろう。

 言えなかったのは私に勇気がなかったからなのか、それとも先輩のことを信じ切れていなかったからなのか、未だに分からない。

 ずぶ濡れのまま私の部屋に上がり込んで床を滅茶苦茶に叩きながらわめく先輩を見て、私は激しく後悔した。

「元々体調良くなかったところに、あ、あんなに一生懸命、真剣に告白されたのが初めてで、どうしていいか分からなくなっちゃって、パニックになって、気がついたら吐いてた。ど、ど、どうしよう、傷つけちゃった、なんて謝ろう、酷いことしちゃった。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 うわごとのように謝罪の言葉を繰り返す目がどれだけ泳いでいたか、声がどれだけ震えていたか。おろおろするばかりの私の前で、先輩はまた吐いた。何も固形物らしいものが残っていないそれを、二人で掃除した。

「本当にごめんね、もう大丈夫だから」

 送っていくという私の申し出を固辞し、先輩はふらつく足取りで部屋を後にした。

 生き方が下手なのだ。 

 翌朝何事もなかったかのように生徒会の挨拶運動に参加していた先輩を見て、私は確信した。

 先輩が額に脂汗を滲ませていたことも、普段より顔色が悪かったことも、私以外に誰が気付くというのか。あからさまに白い目で見られていた先輩は、それでも笑顔でおはようございますの挨拶を繰り返していた。

 嘘でも何でもいいからそのまま二、三日萎れておけばよかったのに、弱っちい癖に変なところで強がる。その結果他人からどう思われるか、想像できないらしい。


 この日を境に、校内で先輩が誰かと一緒にいるのを見かけなくなった。



 ◇ ◇ ◇



「ねえ、癒してってば」

「脅迫ですよそれ」

「脅迫じゃないもん。脅すくらいならとっくに襲ってる」

「だから脅迫なんですってそれが」

「襲われたいんだけどなーどっちかって言うとなー」

 先輩は私の言葉を九割くらい無視して、ベッドに座ったまま左右にゆらゆら揺れた後真横に倒れ込んだ。ベッドの上の枕が先輩の頬と重なり合う。偶然ではないことは揺れ始める寸前に先輩がお尻の位置を微調整していたことから明らかであり、よってこの女は有罪である。

 ほら、半笑いになってる。裁判長、判決を。

「これが世に言うラッキースケベね。もう、もごもごもごご」

 先輩が私の枕に鼻と口を押しつけたので後半はよく聞こえなかった。多分聞いておかなくても私の今後の人生に何ら影響はないと思う。

「鼻水とかよだれとかつけないでくださいよ」

「つけないけど、お化粧ついちゃったかも」

「もー」

「洗う、洗うから!私責任持って自宅で洗うから!」

「持って帰らせませんからね」

「けち!」

 叫んだきり、先輩は壁の方を向いてふて寝の体勢に入った。

「先輩。ここが誰の部屋か理解して物言ってます?」

 先輩は返答代わりに横になったまま太腿を抱えた。帰りたくない時にたまにやる、梃子てこでも動きませんのポーズ。

『誰の部屋か、理解してる?』

 私は心の中でひとりその言葉を繰り返し、勉強机に向き直った。

 茜色が差し始めた窓の向こう、遠くの山に電波塔。この殺風景な眺めを、私は案外気に入っていた。

 もう一ヶ月もしないうちに私はこの若葉荘101号室を引き払い、二年寮に移る。



 ◇ ◇ ◇



 秋。

 101号室の前で私を待つ先輩の表情は、以前ほど沈んだものではなくなっていた。

「私も随分図太くなっちゃったね」

 例の一件以来人望が地に落ちてしまったので、性格の悪い自分がどんな振り方をしようが勝手だろうという自己暗示をかけることによって良心の呵責かしゃくを軽減できるようになったらしい。要するに開き直ったのだ。

 それじゃわざわざ癒されに来る必要ないじゃないですか、と言おうとして、私はやつれた先輩の頬に言葉を飲み込んだ。代わりに「人望が無くても求愛はされるんですね」と皮肉っぽく言ってやったら、先輩はただ困ったように笑っていた。



 ◇ ◇ ◇



 私は明日の授業でさらわれるであろう範囲の予習を始めた。いつもなら五分としないうちに背中から甘ったるい声が飛んでくるのだが、今日はそれがない、

 机の上の鏡に目を遣る。映し出されたベッドの上に先輩の丸まった背中があった。本当に寝入ってしまったのか、先の体勢から動いていない。

 先輩。

「先輩」

 先輩。

「先輩、寝ちゃってますか?」

 反応はない。私は先輩の方を振り返ろうとして、椅子の背もたれが邪魔なことに気づき、床に体育座りになった。丁度目線の高さに先輩の背中がある。

「私、漫画とかよく読むんで、こういう時相手が本当は起きてるってこと知ってます。その上で、寝たふりを続けたまま聞いてください。こんなこと、先輩の目を見て話せそうもないので」


 

 ◇ ◇ ◇


 

 冬。

 私は、先輩の好きな人を知った。

 先輩がどうして私の部屋に、若葉荘の101号室に来るのか、知った。



 ◇ ◇ ◇



「ちょっと前、上原恭子うえはらきょうこに会いました」

 駅前のカラオケボックスでバイトをしながら、メジャーデビューを目指してバンド活動をしているらしい。元気で、元気過ぎて、私とは住む世界が違い過ぎて、ちょっと苦手だった。一年前まで芳聖女子の制服に袖を通していたとはとても思えなかった。

「全部分かっちゃいました。先輩がどうしてここに、一年寮の101号室に入り浸るのか。私の前にこの部屋に誰が住んでたのか、分かっちゃいました。入寮した時、ほんのちょっとだけタバコのにおいがしたのがなんでなのか、分かっちゃいました」

 退学した理由を聞いたら、笑いながら「合わなかったんだよ」とだけ言われた。立花愛華の名前を出したら「私が男だったらよかったんだけどね」と言って、紫に染められた頭を掻いてばつが悪そうにしていた。

「可愛い可愛いって言ってくれて、からかってくれて、私幸せでした。好きって一度も言ってくれないのはなんでだろうって、付き合おうって一度も言ってくれないのはなんでだろうって、心の中でずっと引っかかりながら、それでも私幸せでした」

 き止めていたものが口と目から同時に溢れ出す。止まらなかった。

「ねえ、先輩。私、どうでもいいんです。先輩が本当は誰のことが好きで、誰に会うためにこの部屋に来てるかだとか、そんなことはどうでもいいんです。先輩に会えればいいんです。先輩と一緒にいたいんです。ねえ、先輩。今日は少し暖かかったですね。卒業式の練習で送辞を読む先輩、素敵でした。二年の寮ってどんな所ですか?ここより広くて、ご飯も美味しいんですよね。ねえ、先輩。今度春休みに帰省したら先輩の好きそうな漫画沢山仕入れてきます。先輩の好きなコーヒーも用意して待ってます。他に何がしてあげられますか。何でもしてあげます。だから、だから先輩。四月になっても私に会いに来てください。私の後輩の誰かのものになった若葉荘101号室じゃなくて、上原恭子の面影を探すんじゃなくて、私に、私に会いに」

 口に涙が入ってくる。私の言葉を私が否定する。

 私の願いが叶わぬことを、誰よりも私が知っている。

「ねえ、先輩、ひとつだけお願いがあります。起きたら私、先輩に告白します。今ちょっと顔がぐしゃぐしゃでカッコつかないんですけど、ちゃんと真面目な顔で言います。だから」

 景色が歪んできた。きっとぐしゃぐしゃって言葉じゃ追いつかないくらいみっともない顔をしているのだろう。愛しい人の前で、可愛い後輩に戻れるだろうか。

「だから、諦めさせてください。ちゃんと真面目に、いつものように」

 そんな、私の一世一代の大立ち回りの最中に、なんと、先輩は、この女は。

「振ってくださ──」

「むうううん」

 寝返った。

 深夜の冷蔵庫が出すアレみたいな音を被せてきながら、大きく百八十度寝返りを打ったのだ。幸せそうな寝顔を世界でただ一人独占しているのは、多分この瞬間世界で一番間抜けな、涙目の私。

「……はぁ?」

 いやまさか、そんなまさか。こういうシーンで大事な告白を受ける時は狸寝入りって相場が決まってるだろう。先輩、今まで一年間私の部屋に通い詰めて散々漫画読み漁ったくせに、そんなことも学ばなかったんですか。

 愕然とする私に追い打ちをかけるように、信じられないものが目に飛び込んでくる。先輩の口元、重力に逆らって天井の方向に垂れている液体。寝返りを打つ前によだれを垂らしていた動かぬ証拠。

 こいつ、本当に寝てやがった。

 そしてあろうことか、最悪に最悪を上塗りしたこのタイミングで、先輩は目を覚ました。

 眼前には、体育座りで涙目で呆れ顔の私。にもならない。

「……あれぇ?真衣ちゃん?なんで泣いてるの?」

 なんでって、そりゃ訳分かんないだろう。分かんないだろうけど、原因はあんただ。

 右手で寝ぼけ眼をこすり左手で口元のよだれを拭きながら、まだ残っている惰眠の快楽を拭い去るように先輩は頭を左右に振った。

「え?本当に、夢じゃなくて?なんで泣いてるの?」

 俄かに覚醒し始めた先輩が、今度はおろおろしながらベッドから這い寄ってくる。近づいてくる。

 そして勢いに任せて私を抱き寄せようとして。

 何かに撃ち抜かれたように動きを止めて。

 めちゃくちゃに躊躇って。

 私の耳元まで伸ばしかけた腕を、何か恐ろしい物でも見るような目で自分の胸元に引き寄せ直した。

「……あ、ごめ、んなさい」

 怯えるように呟く先輩を、私は恨みがましさを込めに込めた表情で睨みつけた。きゅっと唇を結んだ先輩は、申し訳なさそうにスカートの裾を握って俯いた。

「もう、いいや」

 口をついて出たその言葉を言い終わらないうちに、私は先輩に飛び込んだ。抱きついていた。

「わっ、真衣ちゃん?」

 先輩のあんまりふかふかしてない身体を、私は初めて感じた。戯れで背中に纏わりつかれるのとは全く別物であるその感触を、精一杯身体に染み込ませる。先輩は私の中にいたから、ちょっと私のにおいがする。もっと私のものにする。全部私のものにする。

 先輩の身体は震えていた。

「やめて真衣ちゃん、やめて」

 やめない。もう、どうせ終わりなのだ。いたずらに踊る胸の動悸も、甘ったるいだけの二人の時間も、私の初恋も、全部今日で終わり。終わりにする。

「……やめてって言ってるでしょう」

 突き放された。

 強い力ではなかったが、腕から伝わった熱が、それが先輩の本気の拒絶であることを私に痛感させた。そんなの、押し返せるわけがない。

 ずるいなあ。

 無残に床に倒れた私は、仰向けのまま天井と見つめ合った。無機質なロックウールが視界に広がり、また涙が溢れる。高いんだな、お嬢様学校の寮の天井って。

「──やめないと」

 遠くで何かが弾ける音がして、気がつくとロックウールは視界から消え去っていた。

 先輩が。

 先輩が私に覆い被さっていた。

「やめないと、私、我慢できなくなる。理由も分からず泣いてる人を抱き返せないよ」

 見たこともない悲痛な表情で、先輩はまた私に触れようとして、手を震わせた。

 この期に及んで、なんと正直で、なんと臆病な。

「あはは」

 私は笑っていた。もう、おかしくておかしくてたまらなかった。

 天井が見えない。先輩で見えない。私の愛しい先輩で、涙が溢れて、先輩が見えない。何の涙だか分からなくなったそれは、上から落ちてきた先輩の涙と混ざり合って、更に何だか分からなくなった。



 私は結局、真面目な顔で、先輩の目を見て……見たり逸らしたりして、さっきの独白を手短に纏めて言い直した。死ぬほど恥ずかしかった。

「ああ、恭子のこと」

 照れ隠しに胡坐あぐらをかいている私の前でお行儀よく正座している先輩は、私に負けないくらいびーびー泣いた。私が顔を真っ赤にしているのは恥ずかしいのが半分だが、先輩の顔が赤い理由は十のうち十、涙が止まらないからだ。

「そりゃ私が唯一フラれた相手だし、ここに来ると思い出しちゃうこともあるよ。でも違う。私がここに来るのは、私の愛おしい人に会うためだよ。思い出や残り香でノスタルジックに浸るほど私老いぼれていないもの。それに本当に恭子のことが忘れられないなら、直接会いに行ってるし、何なら一緒に退学してバンドやってるって。私ピアノ習ってたもん」

 先輩は泣き笑いになった。凄く安心したようなその表情に、私の心もほっと和んだ。先輩が悪魔みたいなフェイスペイントで髪を振り乱しながら観客に中指を立てているのはちょっと想像できないけど。

「人並みに恋して、人並みに言い出せなかっただけ。それでもいつかって思ってた矢先に、ほら、私、学校で孤立しちゃったでしょ?そばにいてくれるのが真衣ちゃんしかいなくなっちゃって、もうあなたに愛想尽かされたら終わりだって思ったら、関係が壊れるのが余計怖くなっちゃって」

 優しくて、優しすぎて不器用で、臆病。私の知っている先輩そのままだった。ただそれだけのことだったのに、同じくらい臆病で、かつ性格が捻じ曲がっている私は勝手に邪推してひとりで踊っていた。

 それから少し沈黙があった。二人の間で氷解した何かが人の体温くらいまで温まるのを待つ。

 私の部屋にはコチコチと音を立てて秒を刻む時計はないので、どれだけの時間をただ見つめ合って無為に過ごしたのかは永遠に分からない。緊張と恍惚がい交ぜになった空間の中で、私は考えが纏まらないまま口を開こうとして、先輩の唇が僅かに動くのを見て口を噤んだ。

「……真衣ちゃんから、どうぞ」

 先輩は髪をぎこちなく手で梳きながら恥ずかしそうに俯き、その権利を譲った。

 弱っちいまんまだ。こんな人、ひとりにしておけるわけがない。

 私はちょっとわざとらしく制服のネクタイを締め直し、居住まいを正した。

「先輩」

「はい」

「こっち見てください」

「はい」

「明日もここに来てください」

「はい」

「明後日も明々後日も来てください。誰を振ろうが何があろうがそんなのどうでもいいです。毎日私に会いに来てください。会えない日には電話してください。寂しくなったらいつでも電話してください。時間によっちゃすっごい不機嫌かもしれませんけど、絶対に出ます」

 先輩はいちいち頷く。

「今度告白を断る時、心に決めた人がいるんですかって聞かれたら、ちゃんと照れずに名前を言ってください。岡崎真衣って、言ってください。ていうか、もう告白なんてしてくる輩が現れないように、学校でも私が常に一緒にいてあげます。立花愛華は私のものだって触れ回ります、自慢しまくります。だから……だから」

 息が切れそうになる。一度唾を飲み込んだ。

「私を先輩の彼女にしてください。誰からどれだけ恨まれようと構いません。私、そのくらいで先輩を諦めたりできません。覚悟があります」

 言った。言ってやった。誇らしさと気恥ずかしさと不安で頭がおかしくなりそうになる。

 先輩は最後に大きく頷いて、下を向いたまま手の甲で涙の残滓を払った。

「おいで」

 とびきりの笑顔と共に両手を大きく広げた先輩の胸の中に、私は吸い込まれていった。私を溶かす、甘い甘い罠。


 長い抱擁が終わるまでに私の手足はすっかり力を失ってしまっていて、支えがないとすぐに崩れ落ちそうだった。頭もぼうっとしてて、目の前の人のこと以外何も考えられない。他のこと、どうでもいい。

 先輩は、そんな私の前髪を優しくかき上げた。

「やっぱり真衣ちゃん、分け目こっちの方が似合うよ」

 言って、生え際にある痣を慈しむように撫でる。先輩への恋に敗れた誰かに投げつけられた空き缶でつくった傷。俗に言う嫉妬、当てつけ、八つ当たり。思いの外血がだらだら流れたが、別に痛くも痒くもなかった。

「バレないようにしてたのに」

「ごめんね。気付かない振りしてた」

「謝らないでください。名誉の負傷です」

 照れ隠しに俯く私の顎を、先輩の指先が軽く持ち上げる。見上げた先にあった先輩の顔は、なんていうか、その……エロかった。

「名誉に見合う勲章をあげないと」

 言うなり、先輩は私の狭い額に軽く唇を重ねた。 

 ちゅって音がした。ほんとに。そこだけはっきり覚えてる。ああ、だからキスのことをちゅーって言うんだって思って、それがキスだったことに気づいて。

 んで、なんかイルカの鳴き声みたいな音が聞こえた。後で先輩に聞いたら、私の喉から出た音だったらしい。

「ここじゃ足りないかしら」

 なんか最後、先輩はそんなこと言った気がする。もうそこはあんまり覚えてない。

 勲章の授与式は、私が真後ろに卒倒してお開きとなった。



 また春が来る。

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