最後の夜明け
少尉はベッドの上で目を覚ました。隣のベッドには伍長が寝ている。
「ここは……官舎の一室のようだな。ごほごほ」
少尉はベッドに横たわったまま記憶をたどった。彩煙弾を撃った後も救助隊はなかなか姿を現わさなかった。やがて疲れ切った伍長が眠り始めた。少尉は伍長の目を覚まそうとしたが自分も眠気に襲われ始めた。
夢うつつの中、少尉は近付いてくる複数の足音を聞いた。二人の名を呼ぶ大きな声、体を包む毛布、運ばれていく伍長の姿……記憶にあるのはそこまでだ。
「気が付いたかね」
これまで世話をしてくれた役人が部屋に入ってきた。少尉はベッドの上で身を起こした。
「面倒をかけたな。やはり年には勝てぬ。伍長一人を背負って避難壕へ行くことすらできぬのだから」
役人はベッドの脇にある椅子に腰掛けると、優しく、しかし真剣な口調で語り掛けた。
「今度のことで踏ん切りがついたのではないかな。君も伍長も間もなく八十才。本来なら孫、いや曾孫に囲まれて隠居生活していてもおかしくない年だ。そろそろ二人だけの暮らしに別れを告げ、祖国に戻っても良い頃ではないのかな。この島は開拓が進んだとは言ってもまだまだ未開の場所は多い。今回は運よく君たちを助けられたが、次も同じように助けられる保証はない。それに、これで伍長にも真実を話さねばならなくなっただろう。いい機会じゃないか。祖国に帰ろう。懐かしい故郷へ戻ろう」
少尉の覚悟はできていた。救難信号を発信し、彩煙弾を撃った時、この島の暮らしは終わったのだ。ただひとつ、少尉には懸念があった。伍長だ。
「そうだな。これでもう伍長に隠し立てはできない。何もかも話すつもりだ。だが伍長は私を許してくれるだろうか。戦時中だと嘘をつき、島での生活を強要してきた私を、伍長は……」
「知っておりましたよ、少尉殿」
少尉と役人は驚いて隣のベッドを見た。伍長は眠ってはいなかったのだ。ゆっくりとベッドの上に身を起こし、顔を二人に向ける。
「戦争が終わったことも、我が国が負けたことも、とうの昔に知っていたのであります、少尉殿」
少尉は驚きのあまり言葉を失った。伍長は話を続ける。
「ある日を境にして細工物の交換品が変わりました。食料も服も日用雑貨も、以前より上質に感じられたのであります。しかも海辺に快適な小屋が建てられ、毎朝飲む水は雨水とは思えぬ新鮮さ。自分の細工物にそれだけの価値があろうとは思えない、きっと自分たち二人を取り巻く環境に何か異変が起きたに違いない。そう考えた自分は少尉殿が物々交換に出向いた時を見計らってこっそり避難壕へ戻り、そこに置かれている軍用無線機で情報を探っていたのであります。少尉殿は機械に不慣れゆえ、あれは軍部の通信しか受信できぬと思っておられたようですが、実は民間のラジオ放送も受信できるのであります。そうして自分は祖国の敗戦を知りました」
「そうだったのか……」
少尉は言葉がなかった。国に戻れると知っていながら自分の我儘を聞き入れ、四十年以上も自分に尽くしてくれた伍長に何と言えばよいのか、言葉が見付からなかった。
「今までありがとう。戦争が終わった今となっては俺も君も軍人ではない。身分も関係ない。君は国へ帰って新しい人生を……」
「いえ、自分は国へは戻りません。もしよろしければ少尉殿と共に、この島に骨を埋めたいのです」
「な、何を言い出すのだ、伍長」
思いも寄らぬ伍長の言葉を聞かされ、少尉だけでなく役人もまたひどく狼狽した。
「どうしてかね。戦後終結から四十年以上が過ぎた今、我が国は世界でも有数の先進国となった。そして今なお発展を続けている。君たちにはその恩恵を受ける権利がある」
「そう、戦争が終わって祖国は夜明けを迎えたのです。しかしながら自分たちは既に役目を終えた身。地表を照らし終えて沈みゆく落日に過ぎないのであります。祖国の地で肩身の狭い思いをして生きていくより、この島で自由気ままに沈んでいきたいのであります」
「いや、しかし……」
役人の言葉は続かなかった。見えぬ目をこちらに向けた伍長の顔には断固たる意志が表れていた。どんな説得も受け入れぬ、そう語っていた。
「少尉、君も同じ考えなのかね」
「伍長が島に残るのを承諾してくれるのなら、私は考えを変えるつもりはない。今まで通りの生活を希望する」
役人はため息をつくと立ち上がった。もはや二人に帰国を促すことは二度とないだろうと思いながら。
「わかった。こちらも従来通りの援助を続けよう。少尉、体を大切にな。ああ、それからもうひとつ言っておかなくてはならないことがあった。昨日、元帥殿がご逝去された。これで我が国は完全に戦後を脱したと言えるだろう」
役人は部屋を出て行った。少尉と伍長はいつしか手を握り合っていた。
* * *
夜明けの海は穏やかだった。砂浜に座った少尉と伍長は、明るくなり始めた東の海に顔を向けていた。
「そうか。俺が不治の病に罹っていることも気付いていたか。盲目だからと言って侮ってはいかんな」
「盲目だからこそ勘が鋭くなるのであります。自分の祖父も同じ病に罹っておりました。湿った咳の音、そして時折漂う薬の匂い。祖父が飲んでいた薬と同じ匂いでありました」
少尉自身、残された命がほとんどないことは承知していた。伍長もまた日々の暮らしの中でそれを感じ取っていたのだろう。
「本当に悔いはないのか、伍長」
「ありません。少尉殿と共に暮らした四十年余りの日々は本当に楽しいものでした。最後までお供する所存であります」
少尉は微笑むと夜明けの海を見た。初めて南国の島に来た時の感動は今でも忘れない。この世にこんな場所があったのかと思うほど美しい海と空と砂浜。眩しい陽光と生温い風に触れて弛緩していく身体と精神。まさにこの世の楽園だと感じた。
「若かった頃の自分を思い出します。海を眺めながら潮風に吹かれているだけで、言いようのない幸福感が湧き上がってきたものであります。少尉殿も同じでありましょう」
「ああ、俺もこの景色が好きだ。だからこそ、ここを最期の場所に決めたのだ」
砂浜に座る二人に海から風が吹き付けた。夜明けの陽光が海を照らす。白い雲を浮かべた空は今日も青く、波は規則正しい音を周囲に響かせる。いつもと変わらぬ朝の風景。平和と幸福に満ちた砂浜に二発の銃声が聞こえたが、それもすぐ波の音に掻き消された。これまでもこれからもずっと、この情景は変わらない。多くの命を生み、
夜明けの落日 沢田和早 @123456789
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