雨天の夜明け
官舎での用事を済ませた翌朝、少尉は雨の音で目を覚ました。すぐに後悔した。
「やはり昨日のうちに避難壕へ移っておくべきだったか」
役人の言葉に従い、昨日持ち帰った補給物資は直接避難壕へ運び込んだ。だが小屋に置かれている食料や道具を運ぶのは翌日に回してしまった。
村まで往復して疲れていたのもあったが、できるなら小屋で眠りたいという欲求もあった。それほど小屋の居心地は快適であり、避難壕の居心地は劣悪だったのだ。
「荒れるような雨風ではないように思われますが」
伍長は耳を澄まして小屋に吹き付ける雨音を聞いている。少尉も同感だった。しかしこの島は数年に一度、小屋が水浸しになるくらい巨大な台風に襲われている。わざわざ役人が避難せよと教えてくれたのだ。今回もそれに匹敵する大きさなのだろう。
「いや、用心に越したことはない。雨脚が弱まった頃合いを見計らって壕へ移動しよう」
「はっ! 了解であります」
敬礼する伍長。もちろん彼には役人から聞かされたとは教えていない。あくまでも少尉の勘としての見解だとだけ言ってある。
夜が明けてから小一時間も経った頃、雨と風が弱くなった。少尉はカゴに物資を入れて一人で避難壕へ運んだ。何往復かして移動を完了させると、今度は伍長の手を引いて外へ出た。
「少し強くなってきたな。急ごう」
伍長は覚束ない足取りで付いて来る。無理もない。一日中床に座ってヤシの葉で細工物を作っているのだ。足腰が弱るのは当然だ。だが、そうとわかっていても叱咤激励するのが少尉の務めである。
「どうした伍長、遅れているぞ。気合いを入れろ!」
「ははっ! 申し訳ありませぬ。さりとて三年ぶりの徒歩行軍でありますれば、何卒寛大なご処置をお願い申し上げまする」
「ははは、心得た。確かに前回の避難は三年前だったな」
どんな物事でも笑い飛ばせる明るさを伍長は持っていた。その性格は八十才になろうという今でも変わらない。
少尉は歩くペースを落とすと、伍長の手をしっかりと握ってジャングルを進んだ。
「まずいな、急に強くなってきた」
雨は土砂降りに変わり突風も頻繁に吹き始めた。二人の歩みは更に遅くなった。不意に伍長の手が重くなった。振り返れば地に倒れている。
「どうした、足を滑らせたか。怪我はないか」
「だ、大丈夫であります」
そう言いながらも伍長は起き上がろうとしない。右足を抱えたまま地に伏している。伍長のズボンをまくった少尉は顔を曇らせた。右足首が赤黒く腫れあがっている。
「あの時か」
小屋を出てすぐ伍長は転んだ。その時に足首を捻挫したに違いない。痛みに耐えてここまで来たが遂に我慢できなくなったのだろう。
「なぜ黙っていた」
「申し訳ありません。避難壕までなら何とか歩けると思ったのであります」
相当傷むのだろう。陽気な伍長も軽口は叩けないようだ。少尉は伍長に背を向けてしゃがんだ。
「おぶされ。俺が連れて行ってやる」
「有難き幸せであります」
伍長の体が背中に密着する。立ち上がった少尉はふらつきそうになった。重い。人を背負ってこれほど重く感じたのは初めてだった。少尉もまた自分の老いを実感せずにはいられなかった。
「くそっ!」
泥沼を歩いているように一歩一歩が重い。突風と激しい雨が体力を確実に奪っていく。少尉は立ち止まって膝をついた。
「少し休もう、ごほごほ」
二人は大きな葉の陰に身を寄せた。しかし激しい嵐の中では葉も樹木も何の意味も持たなかった。いつもは蒸し暑く感じる熱帯のジャングルも、強風に吹かれる二人の濡れた体を温めてはくれない。手と足が冷たい。体が震える。伍長が力のない声で言った。
「先に行ってください、少尉殿。自分は少し休んで後を追います」
そんな言葉に従えるはずがなかった。伍長にはもはや這う体力すら残っていないのは明らかだ。ここに置き去りにしていくことはできない。だからと言ってこのまま二人で風雨に晒され続けていれば、肺炎を発症するだけでなく命の危険さえある。
「覚悟を決める時がきたようだな」
少尉は懐から小型発信機を取り出した。役人から支給された救難信号発信機だ。そのスイッチをオンにする。それが済むと腰に下げた信号拳銃を空に向け、彩煙弾を発射した。音に驚いた伍長が身を強張らせた。
「い、今の射撃音は何でありますか。もしや敵襲!」
「心配するな。味方を呼んだのだ」
力強く、そして寂しい声で少尉は答えた。
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