曇天の夜明け
翌朝は曇り空だった。いつものように水汲みと朝食を終えた少尉は出発の準備を始めた。
今日は週に一度の物々交換の日。伍長の細工物を村へ持っていき、食料や日用品を入手するのだ。
「今回はこれで全部であります」
「ご苦労」
少尉は小屋の隅に並べられた細工物を大型の背負いカゴに入れ始めた。この背負いカゴも伍長が作ったものだ。
『少ないな』
少尉は寂しさを感じた。かつてはカゴを満載にするほど伍長の製作意欲は旺盛だった。しかし年を追うごとに減り続け、今ではカゴの半分にも満たぬ数しか作れない。
『仕方あるまい。俺も伍長も間もなく八十才なのだ。昔と同じように作れと言うほうが無茶な話だ』
「では行ってくる。留守を頼む」
「ははっ! 了解であります」
伍長の敬礼に見送られて少尉は小屋を出る。目指す村はジャングルを越えた先にある。まっすぐ突っ切るのが距離的には一番近いが、蒸し暑く危険も多い。遠回りになるが海沿いに村へ行くルートが快適かつ安全である。
「今日はひと雨来るかもしれんな、ごほごほ」
空には一面に雲が垂れ込めていた。夜明けの太陽は雲の後ろから控えめな光を放っている。炎天下よりも雨に濡れながらの運搬のほうが疲労は大きい。雨が降り出す前に作業を終えてしまいたい、少尉は足早に先を急いだ。
「ご苦労さん。これが今月分だ」
政府の役人が物資で満載になったカゴを少尉の前に置いた。これを担いで帰るのかと思うと少々気が重くなる。だが蛇や鳥を捕獲していた頃の生活を思えば、この程度の労力に不満を感じていては罰が当たる。
「どうも」
少尉は礼を言ってカゴを背負おうとした。役人が口を挟む。
「そう急がんでもよいだろう。予報によれば雨は夕刻まで大丈夫だ。少し休んでいってはどうだ」
少尉は腰を下ろした。雨の心配がなくなったのなら居心地が良いこの官舎に少しでも長く留まりたかった。
「まだ気は変わらんのかね。こちらはいつでも受け入れる準備があるのだが」
「気遣いは無用です。今の生活に不自由を感じていませんので」
「戦争が終わって四十年以上の時が過ぎた。君たちも年をとった。国にいる元帥殿も重病だと聞いている。そろそろけじめをつける時ではないのかね」
「残念ですが私に帰国の意思はありません」
少尉ははっきりとした口調で答えた。
戦争の終結、それを知ったのは伍長がカゴを作り始めた頃だった。
ある日、いつものように細工物を畑へ置きに行くと、一人の男が自分の国の言葉で語り掛けてきた。
「もしや、司令部からの使者ではないか」
最初、少尉はそう思った。だが違った。その男は終戦を知らずに現地に取り残された兵士たちを探している役人だった。
「戦争は終わった。君たちはもう自由だ」
その日のうちに少尉は真実を知らされた。予想通り敗戦であったこと。復興を始めた祖国は以前にも増して豊かになりつつあること。帰還した後の生活は政府が保証すること、などなど。
「少し考えさせてください」
少尉は結論を保留した。実家が空襲に遭い、家族が亡くなってしまったと聞かされたからだ。同郷の伍長もまた家族を亡くしていた。親類縁者が一人もいなくなった土地に帰って今更何ができるだろうと思われた。特に失明してしまった伍長の行く末を思うと少尉は不憫でならなかった。
「この事実、伍長には伏せておいたほうが良いだろう」
少尉は終戦の事実を胸に秘めたまま、毎週細工物を持って政府の役人に会った。もはや物々交換は単なる名目に過ぎなくなっていた。カゴに入れて持ち帰る食料や物資は、全て政府から支給されたものだ。海辺の近くに小屋を建てたのも、その近くまで水道管を敷設してくれたのも、政府の援助によるものだった。軍用無線機の受信確認はもう何十年も行なっていない。伍長にはずっと嘘をつき通している。
「どうかね、まだ国へ帰る気にはなれぬかね」
役人は会うたびにそう訊いた。そして現在の祖国の様子をビデオにして少尉に見せ、語って聞かせた。急速に変化していくその現状を知れば知るほど、少尉の帰国の意思は薄れていった。立ち並ぶ高層ビル。歩きながらでも食べられるファストフード。奇抜なファッション。若者たちの言葉。
「これはもう俺の知っている祖国ではない」
今、こんな空間に放り出されても以前のような生活が営めるとは思えなかった。伍長にしても同じことだろう。あてがわれた家の一室に閉じこもって囚人のような生活を送るしかない。この島に閉じ込められている今の生活のほうがよっぽどマシだ。
「残念ですが私には帰国の意思はありません」
それが少尉の出した結論だった。以来、同じ返答を繰り返し続けている。
「そうかね」
今日も同じ返答を聞かされた役人は、いつもと同じ諦めの言葉を吐いた。
「だが、こんな生活がいつまでも続かぬことは君にもわかっているはずだ。老いは確実に君たちの生きる力を奪っていく。そして君の病気。自覚しているはずだ。もはや長くは生きられぬことを。君がいなくなれば伍長はどうなる。盲目の身で今の暮らしを続けられるはずがない。彼のことを考えるなら、私の申し出を素直に受けるべきだ」
「……」
少尉は答えられなかった。無言で立ち上がり、補給物資で重くなったカゴを背負った。
「失礼します」
「君に残された時間は僅かだ。結論は急いだほうがいい。ああ、それから大型の台風が接近中だ。滅多にない勢力の台風らしい。あの小屋からは早めに避難して高台にある避難壕へ移ったほうがいい」
「了解しました」
少尉は敬礼の姿勢を取った後、静かに部屋を出て行った。
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