夜明けの落日

沢田和早

晴天の夜明け


 少尉はバケツを水で満たした。朝一番に行なう日課だ。


「ごほっ、ごほごほ」


 体に力を入れるだけで咳が出る。少尉は深呼吸をしてから重くなったバケツを両手で持った。雨期に入ったジャングルは早朝でも蒸し暑い。喜寿を越えた老体はすぐ汗まみれになる。


「鬱陶しい奴らだ」


 刈っても切っても伸びてくる熱帯の植物を掻き分けて少尉は住処へ戻る。浜風が良く通る海辺の小屋が見えてきた。


「おはようございます、少尉殿」


 小屋に入ると盲目の伍長が挨拶をした。少尉はおはようと返事をして水ガメにバケツの水を注ぐ。コップで水を掬って飲む。その後で伍長も同じように水を飲む。


「ふう、朝の一杯は格別でありますな。これで今日一日頑張れそうであります。時に、司令部からの指令はありましたか」

「いや、今日もない。現状を維持せよとの意だろう」

「了解であります」


 伍長は背筋を伸ばして敬礼した。昨日も先月も去年もずっと変わらぬ朝の会話。それを今日も繰り返した二人は朝食をとる。


「明日は物資調達日だ。用意はできているな」

「もちろんであります、少尉殿」


 昨日の夕食の残り物である茹でたイモを食べながら、伍長は小屋の隅を指差した。ヤシの葉を材料にしたカゴや帽子などの細工物が並んでいる。伍長が作ったものだ。


『ヤシの葉と伍長の腕がなければ、俺は今日を迎えることはなかっただろうな』


 盲人が作ったとは思えぬ見事な細工物を眺める少尉。その脳裏に、この島で過ごした日々がよみがえった。


 勝ち目のない戦争だった。誰もがそれを感じていた。占領したはずの島はすぐさま敵軍の激しい反撃に晒された。少尉が率いる小隊は完全に分断され、数人で逃げ込んだ塹壕の中で負傷兵は次々に命を落としていった。

 数日後、敵兵が去った島に残ったのは少尉、そして同い年の伍長の二名のみ。その日から二人だけの生活が始まった。


「やはり送信はできぬようであります」


 避難壕に運び込んだ手廻し式軍用無線機は送信機能が失われていた。受信機能は生きていたが雑音がひどく、音声は聞き取りにくい。やがてその雑音すら途絶えてしまった。

 二人は生きるために雨水を溜め、鳥や蛇などを捕らえ、時には島民の畑を荒らして食料を確保した。そんな暮らしを数年続けたある日、


「少尉殿、目がかすんで仕方がありません」


 伍長が目の異変を訴えた。瞳が白く濁っている。白そこひのようだった。

 伍長の目は日を追うごとに悪化した。生活の全てを少尉に委ねばならなくなった伍長は、初めて少尉に頼みごとをした。


「ヤシの葉を取ってきていただきたいのであります。できるだけたくさんお願いいたします」


 少尉は言われるままにヤシの葉を集めた。伍長はそれを使ってカゴやザル、帽子などを編み始めた。


「自分は代々続く竹細工職人のせがれでありますれば、物心ついた頃より手習いを始めておりました。編みカゴなど寝ていても作れるのであります」


 伍長の気持ちは嬉しかったが、カゴや帽子など今の暮らしにはほとんど無用であった。それでも少尉は伍長の気持ちを考え、外に出る時は帽子を被り、畑から作物を盗む時はカゴを使った。


 転機は突然訪れた。畑を荒らしている少尉が島民に見付かり、慌てて逃げる時にカゴと帽子を畑に置き去りにしてしまったのだ。数日後、少尉が畑へ行くと、カゴと帽子を落とした場所に作物が置かれ、その下に少尉の国の言葉で『同じ物を沢山欲しい』と書かれた紙が置かれていた。


「これは、つまり物々交換か」


 それ以来、伍長が作るヤシの葉の細工物は二人にとって貨幣と同じ意味を持つようになった。二人の生活環境は一気に好転した。食料の他に日用品、衣服なども手に入った。敵対していた島民とも次第に打ち解けるようになった。しかし二人はジャングルから出ようとはしなかった。


「司令部からの指示がない以上、島民と同じ暮らしをするわけにはいかない」


 少尉も伍長も軍人としての気概を失ってはいなかった。そんな二人に対して島民は親切にも小屋を作ってくれた。暑苦しい避難壕生活に比べると浜風が良く通る海辺での生活は快適そのものだ。

 そうして気が付けばこの島に来てから四十年以上の月日が経ってしまっていた。葉と木で作った簡素な小屋には夜明けの陽光が降り注いでいる。


「今日は一日晴れそうだな。ごほごほ」


 少尉は咳をしながらそう言った。伍長は無言で頷いた。

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