後編

茹だるような蒸し暑さと、頭のおかしくなりそうな蝉の声が鳴り響く中、僧侶のつまらなそうな読経がどこか別の世界の言葉のように感じて、僕は路地裏に迷い込んでしまった孤独感に浸っている。すると、となりに座っていた姉が僕の肩を小突く。目の前にはいつのまにか白い煙を吐く焼香の台が置かれていて、姉はあなたの番だと小声で僕に言っている。

 焼香の意味は、僕にはわからない。細かい作法も知らないので適当につまんで済ませる。僧侶は言った。焼香は遺族の気持ちを落ち着かせるためのものだと。終わった人は、指で整えて綺麗な状態で次の人へ渡してください。いいですか、みなさん。思いやりの心をもってください。僧侶は言った。お経は身内の死に直面した人間への説法だと。ご縁があって巡り合ったのですから、普段考えないようなこの世の真理を問いかけてもらえる貴重な時間を無駄にしないでください。

 あっ、死んでいる。もう動かない。

 棺桶の中に眠る母を見て、ただそう感じた。眠っているようだが、もう思考していない。そのことが一目でわかった。この死化粧が美しく覆い隠している頭の中はすでにからっぽで、その中に詰まっていた本当の意味で美しかったもの、僕や家族とのたくさんの思い出や、掛け値ないほど大切だった感情などはすべて跡形もなく失われてしまっていた。不思議と涙は流れない。だから、僕は世の中の悲しみとは一切無縁な人間なのだな、と思った。

 葬儀が終わり、遺族全員がバスに乗せられ、山道の険しい坂道を登る。僕は棺桶を霊柩車に運ぶのを手伝わされたのと、昨晩から一睡もしていない疲労で今すぐ帰りたい気分だった。帰って、柔らかいベッドの温もりに包まれて、安心して眠りたい。苦しいのは好きじゃない。だけど僕の意思に反して、バスはどんどん人里離れた山奥に入って行く。皆とはぐれたら遭難して死んでしまいそうなほど深い森。終点は、そんな中に場違いに建つ、白い四角い建物で、火葬場のはずなのに、煙突があるようには思えない。

 先に到着していた霊柩車から、施設の従業員が母の入った棺桶を運んで行くのが見えた。僕たちはしばらく玄関のような場所で待たされた後、天井の高い部屋に通される。大理石の壁から突き出た台の上には、蓋の開いた棺桶が置いてあって、中には母の死体以外に、葬儀のときに入れた花束や、母のお気に入りだったポーチ、僕と姉が書いた手紙などが入っている。僧侶が再びお経を読み、もう一度焼香をして、係員が棺桶を閉ざし、壁の中の焼却炉に母を仕舞い込む。焼き終わるのを二時間ほど別室で待って、次にその場所を訪れたときには、すでに母の形はなく、台の上には白い骨だけが残っている。

 骨壷に入れるため、立派な骨だといいながら乱暴に砕いていく係員。その光景を見て、ああ、この世界にいた母という人間は、完全にこの世から失われてしまったのだなと感じた。


「怖い夢でも見たようですね?」

 重い瞼を開けると、薄暗い部屋の中、天使の澄んだ瞳が僕を見下ろしている。

 ここがどこだかわからない。いや、ここは、国立先端科学研究所東京支部の建物だった。僕は清掃作業員で、そして、ひとりぼっちのメシアだった。

 天使の美しい瞳と、すべてを包み込んでくれそうな純白の翼が目の前にある。そのどれもが、怖くて不安な僕に、穏やかな安心感を与えてくれた。まるでこの世界で初めて目を覚ました時のようだ。違うのは、あの時のように硬い床の上ではなくて、僕は今、足元まで綺麗に整えられたベッドの上にいるということ。

「頃合いです。行きましょうか」

 天使はやわらかく微笑む。どこへ? 僕は問おうとしたが、そこで、手足が少しも動かせないことに気づく。まるで本当に人形になってしまったかのように、首から下が動かない。

 天使はそんな僕を一瞥してから、ストッパーペダルを蹴り上げ、僕を乗せたままのベッドを押して、ゆっくりと部屋を出る。

「あなたの体は限界が近いようですが、怖がる必要はありません」

 人類が滅亡した静けさの中で、僕たちは迷路のような廊下を右に曲がり、左に曲がり、右に曲がる。こうして運ばれていると、まるで天使と一つの生き物になったみたいだ。カラカラと車輪の転がる音だけが廊下に響く。僕は仰向けのまま、華奢な体でベッドを押す天使の整った目鼻立ちをぼんやりと見つめている。

 壁に設置された100V用コンセントの上には、今でもあの見にくくておぞましい虫たちが蠢いているのかもしれない。動かない体では、確認することも、綺麗に掃除することもできない。今の僕が、救世主としての責務を果たすことは難しい。

 天井の幅がだんだんと狭くなり、照明が減って、いつの間にか僕たちは薄暗い倉庫に入り込んでいる。天使の手により焼却炉と化した貨物搬送用エレベータがある部屋だ。大量の亡骸を効率よく処理するための火葬場。

 天使がスイッチを押すと、赤いランプが開き、扉が開く。中は見慣れた普通のエレベータで、どこにも灼熱の炎は見当たらない。

「ここからは、メシアの声を聞かせてください」

 天使が右手をあげると、僕の喉から勝手に声が溢れ出す。

「あああ……」

 恐ろしく若々しい少年の声だ。風呂場でみた、あの醜く太った中年男性の声じゃない。この声が偽物なのか、この身体が偽物なのか、僕に判別することは難しい。

 エレベータを最上階で降りて、薬品の香りと金属臭の漂う真っ直ぐな廊下をひたすらに進む。両脇はガラス張りになっていて、中には人の身長ほどの銀色のカプセルが無数に並んでいる。数は数百、いや、数千はあるかもしれない。

「夢を見ていたんだ」少年のような声で、僕は言う。「なつかしさのある夢だった。母親が死んで、葬式をあげているときの夢。ねえ、ひょっとすると、あれは僕の記憶なのかな」

 どうでしょう、というように、天使は首を傾げる。

「ここは、人体を冷凍保存する場所です」

 深刻な病気に侵されて、それでも死を受け入れられなかった人間がここに入り、未来の医療技術にすべてを託した。けれど時が経ち、蘇生する側だった人間がすべて死んでしまうと、後には行くあてを失った氷の人形たちだけが残された。

「あなたの記憶が確かでないのも、声が出ないのも、仕方のないことかもしれません」

 天使は左右を見渡して、何かを見つけたのか、歩みを止める。ガラス張りの部屋の奥の方で、一つのカプセルだけが空いていた。おそらくは僕が入っていた場所なのだろう。天使はそれを名残惜しげに見つめている。

「人類が滅んでから、もっとも長く命が保存されていたのがこの設備です。全電力が停止し、すべての冷凍個体が駄目になる寸前に、私は最後に残った一人に干渉して、強制的に目覚めさせました。それがあなたです」

 つまりこういうことですよ。天使が左手をあげる。途端、建物のすべての照明は消えて、あたりは真っ暗になる。そして、なぜだかうまく呼吸することができない。ひょっとしたら、大気はすでに人類を絶滅させるのに十分なほど汚染されているのかもしれない。電気はすでに止まっていて、それを食べる害虫はすべて幻覚で、僕は天使の言うような、世界を救うメシアではないのかもしれない。

 息苦しさに意識を失いそうになり、そして、次の瞬間には何もかもが元通りになっている。

 再び見えるようになった天使の顔に向かって、言う。

「なぜ僕が生かされているのか教えてくれ。どうして他の人間を見殺しにしたのかも」

「誰かに必要とされないなら」天使はとても冷静に、淡々と答える。「それはどこにもいないのと同じです。存在する意味がない。でもこれは、私一人の力でどうにかできる問題ではないのです。あなたは私の、最後の悪あがきでした」

 ベッドから仰向けに見上げる天使の姿は、まるで年相応の少女のような、不安定で頼りのない印象を僕に与えた。背中にずっしりと生えた二本の翼は、いつになく小さく折りたたまれている。

「さあ着きましたよ。目的地、最終地点です」

 足元で、金属の軋む音とともに扉が開いた。

 階段と、その脇にはスロープが見える。天使は細い腕からは想像もできないほどの力で、ベッドごとスロープを上っていく。出口を抜けて視界が一気に開けると、そこは夜の屋上で、頭上には無限に広がる空。

「メシア。私と一緒に、永遠の時を生きてみる気はありませんか?」

 すがるような声の響きだ。静寂の中、微かな月明かりが僕たち二人を照らしている。

「私の翼の片方をあなたに埋め込めば、あなたは永遠の命を手に入れることができます。きっと、そう悪くない日々を過ごせると思いますよ。家族になれるかはわかりませんが、試してみる価値はあります」

 役割を失った孤独な天使。その苦しみを救ってあげられるのはもう、この世界で唯一、僕だけなのかもしれない。だけど僕は僕の選択を、天使に告げる。僕は早く楽になりたい、もう耐えられない、と。

「そうですか」天使はすぐに元の笑顔を取り戻し、言う。「付き合わせてしまいました。あなたの魂は、私が責任を持って天へと送り届けましょう」

 天使の整った顔がすぐそばにあった。お互いの鼓動すら聞こえてしまいそうなほどの距離感で、僕たちは最後のお別れをする。カプセルの中でただ失われるはずだった僕の命を救い出してくれたことには感謝している。そう告げるが、天使はただ張り付いた笑みを浮かべるばかりだ。やがて天使は僕のベッドを動かし、屋上フェンスの破れているところの前で止める。

 フェンスの向こう側の風景は、あらゆるものが灰色の堆積物で覆われているようだった。その下にはきっと、数多の人類の遺産が、静かに眠っているのだろう。もはや誰も、その価値に気づくことはない。

「さようなら」

 背後で天使の声がして、僕の体は浮遊感に包まれる。ベッドごと、屋上から落ちていく。

 僕は選択を誤っただろうか。僕が彼女の手をとれば、何かが変わったかもしれない。もっと僕が強ければ、もっと積極的に行動していれば、何もかもがうまくいった可能性はある。

 自由落下の中、足の隙間から、翼を広げて夜空を舞う天使の姿が見えた。二枚の翼をはためかせ、行くあてを失った鳥のように、ゆっくりと大空を旋回している。

 役目を終えた彼女は、これからどこへ行き、何を見るのだろうか? 彼女には無限の時間が残されている。永遠の自由と、永遠の孤独。それらはきっと、終わりのない、絶望的な体罰だ。

 頭上に地面が近づく。眼前で、蒸し暑い夏の葬式場で行き場を失っている少年と、ぐるぐると羽ばたく天使の姿が重なった。どちらも絶望したように肩をすぼめて、ひとりぼっちに耐えている。まるでその身を襲う不条理が、仕方のないことだと諦めているようだ。

 不意に、その背中を突き飛ばして、笑ってやりたいと心から願う。だって、すべてを失ったように思えるこの世界でも、君は眩しいくらいに無邪気で、勝手気ままに僕を起こして、そうしてそばにいてくれた。君は、それをただの悪あがきだといったけれど、僕はそうは思わない。どれだけ大切なものを奪われたって、残る確かなものはあるはずだ。今この場で僕がそのことを証明して、君の冷え切った瞳に刻みつけて、笑い飛ばしてやれたなら。もう他に望むものなど何もないと思った。

「やっぱり前言撤回だ、僕を助けてくれ!」

 地面に触れる寸前で、僕の身体は翼を広げた彼女に抱きかかえられる。彼女は涙を振るって、心底嬉しそうな笑顔で、風を切る音の中でも聞こえるように、声を荒げて、叫ぶ。

「メシア!」

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終末スコレー ころん @bokunina

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