第7話 Her Bore 指似す物

     1


 未成年とはねえ、気が引けるんですよ。お帰り下さい。

 どの口でそんな。私にそう云ったすぐあとにえんちゃんの生徒に手を出したのに。反省の色がまったくない。研修医のときからずっと。もっと前かもしれない。思想が穢れている。どうして大学病院から追い出されたのか。よぎったこともないのだろう。大学や病院に出入りするあらゆる種類の人間と。教授、学生、事務、医師、看護、患者、家族、職員、管理、経営、理事。まだいる。まだいるけど、もう挙げたくない。年齢性別不問。最低。

 なぜ捕まらないのか。罰されないのか。訴える人間がいない。被害者がいない。強姦でなければいい。和姦なら。私の場合も、私が望んだ。断られたのに懲りもせず。

 案の定忘れられていた。むしろ好都合。あのときはえんちゃんのことで。

「ねえ、お願いがあるんだ」

 えんちゃんからなんて珍しい。

 なんだろう。私にできることならなんでもいって。

「君に、てゆうより君のお父さんに頼んで欲しいんだ。君から言えばきっと断らないよ。断らないで欲しいんだ。それはわかってくれる?」

 なにいってんの。なんで私がえんちゃんの断らなきゃいけないの。

「ごめんごめん。僕あんまりお願い聞いてもらえたことないからつい用心深くなっちゃってて。気を悪くさせたなら謝るよ」

 そう言ってえんちゃんは私の手にさわる。

 指。先の心臓がうるさい。

「僕の担当医、変えて欲しいんだ。あんなのじゃ僕のビョーキは治らない」

 確かにあの先生はヤブっぽい。全然やる気が感じられないし。お父さんも困ってた。辞めさせればいいのに。なんで、ヤブなんか。

 指。撫でられる。

 わかった。いまいないみたいだからあれだけど、帰ってきたらすぐ。

「ケータイがあるじゃん。かけてよ、いまここで」

 でもお父さん、忙しいし。

「忙しかったら出ないって。大丈夫。君には甘いから」

 病室でのケータイ使用は。

「駄目ですよ」

 誰かが病室をのぞいていた。ちょっと前からいる研修医。顔はいいけど顔がいいだけ。性格も態度も。滲み出るものが最悪。

 私はこいつが好きじゃない。えんちゃんはそうでもないみたいだけど。

 まさか、主治医変えて欲しいって、そうゆう。

 でも、研修医じゃ頼りに。

「そんなのはやってみなきゃわからない。ですよね、先生」

「さあ、どうですかね」

 なんでそんなに嬉しそうなの? えんちゃんの手が。

 指。離れる。

 私なんか見てない。私と仲良くしてくれたのは、ぜんぶ。主治医を変えてもらうため。

 こんな、やつに。えんちゃんを任せられない。

 私は約束を破った。お父さんにお願いする内容を変えた。

 あの研修医を追い出して。

「なんで僕が怒ってるかわかってるよね」

 謝らないよ。私悪いことしてないから。

 あの研修医は昨日付けでいなくなった。お父さんも気づいてた。これ以上あいつをここに置いておいたら病院自体の品位が下がるって。ナースなんかほぼ全滅。ドクタも数人。

 私も見た。見たくなんかなかった。外来受付の人が。

「約束が違うよ」

 えんちゃんはこっちを見てくれない。

 指。先に触ってくれない。距離も遠い。

 病室に入るなと言われたけど。

 一歩だけなら。

 追い払われた。手招きの逆。

 でも、私はえんちゃんのためを思って。だってそうしないといつかえんちゃんも。

「呼び名が腹立つなあ。もう金輪際近づかないでくれる? さようなら」

 そんな。えんちゃん、えんちゃんえんちゃんえんちゃん。

 聞こえてない。届かない。私は。

 お父さんしか入れない部屋に忍び込んで、あの研修医の身元を調べた。

 大学病院。直談判じゃない。私が正しかったことの証明をすればえんちゃんもわかってくれる。

「何の御用でしょうか」

 研修終わったらどこに勤めるんですか。

「口を利いていただけるのですか」

 勤められなくしてあげましょうか。

「できるんですか、そんなこと」

 できます。ここだってお父さんの知り合いが。

「知り合いねえ。まあ、せいぜい」

 できなかった。あいつは自分の出身大学のすぐそばにある病院に精神科医として。

 大学病院。なんで。わからない。いろいろ倫理違反で免許剥奪されるのが。

 えんちゃんはいつの間にかいなくなった。お父さんに聞いたけど首を振るだけ。

 退院。できたのかな。治ったんだ。

 治ったなら私はそれで。

 でもやっぱり気になって、私はナースの資格を取った。ちょっとした用事であの大学病院に行くことになってあいつの顔を思い出す。

 まさかもういないだろう。追い出されて。

 なかった。

 結佐ユサほじょう。私はそのネームプレートを粉々に砕きたかった。

 できなかった。えんちゃんが入院してたから。

 私はそこに就職した。

「いまさら何の用?」

 えんちゃんは眼を合わせてくれない。それでもいい。それでも。

「僕の主治医、死んでくんないかなぁ」

 えんちゃんの主治医は結佐じゃない。

「死んだら先生に代わってもらえるかな」

 それって私に。殺せってこと? 

 できない。私は命を救う専門職に。

「サキ」

 できる。命を救えるってことはその反対も。造作ない。医療ミスは患者に限った話じゃない。罰されるべきは管理者。監督不行き届き。証拠もない。

 でも結佐をえんちゃんの主治医にはしたくない。もっといい精神科医を。

「僕が先生がいいってゆってるんだ。僕を先生の患者にしてよ」

 私は結佐を呼び出した。当直。本当はふたりっきりで会いたくなんてなかった。

 こんな密室。同じ空気を吸っていたくないのに。

 えんちゃんのため。私のため。夜中なんか。

「厭ですよ」

 どうしてですか。

「未成年とはねえ、気が引けるんですよ。お帰り下さい」

 最低。そうゆう意味で云ったのではないのに。どうしてこんな。

 性犯罪者。

「あの患者は私の手に負えません。薬が効かないのならお手上げです、はい」

 えんちゃんに薬は処方されていない。診断もついていない。この病院は治療なんかしていない。研究。えんちゃんを実験材料にして愉しんで。

「僕は先生の子どもが欲しいんだ」

 私は持っていた体温計を落としてしまった。床じゃない。窓の外に。

 捨てた。見たくなかった。見てない。

 違う。私は。

「サキ、最近僕を避けてない?」

 そうかな。気のせいだと思うよ。

「これの使い方がわかんないんだ。ちょっとやってみてくれない?」

 どうしたの、これ。

「欲しいって云ったら買ってきてくれたんだよ。友だちがね」

 友だち。たまにお見舞いに来る、あの大きな人。

 友だち友だち。

「一緒に行こうか」

 どこに?

「トイレだよ。それともここでやってくれるの?」

 やり方なんか簡単じゃん。ここに。

「わかんないな」

 えんちゃんは取扱説明書と箱をぐしゃぐしゃに丸めてスープの中に漬けた。染み込む。

「ほら、二つある。僕の分とサキの」

 それは。失敗したら困るから。

「しないよ。サキは使い方知ってるんだよね。行こう」

 行きたくない。

「いま出ない? じゃあこれ飲んで」

 お茶。食事と一緒に運んできた。コップ。プラスティック。

 それはえんちゃんの。

「出るの?」

 ごめん。もう行かないと。

「ほーら、やっぱ避けてる。君は僕だけの担当ナースなんだから、他に行くところはないよ。それとも先生のところ? 僕は会えないってのに」

 知ってる。えんちゃんは。

 飲む。えんちゃんはお茶を飲み干してコップを私に投げつける。

 痛い。かどうかもわからない。痛いのはコップが中ったところじゃない。

「これに入れていいよ。改ざんされると困るから、ここでやって」

 妊娠検査薬。

「かけてよ、いまここで」

 私はえんちゃんのために。

「ため? 僕との約束破って僕を裏切って。ちゃっかりサキが先生と」

 違うの。聴いて。そうじゃない。そうじゃなくて。

 私は。

「色が変わったら殺すから」

 色は。

 変わったんだろうか。見てない。見たくもない。えんちゃんが見てばきばきに折り曲げた。コップの尿は。えんちゃんが飲み干した。からになったコップにえんちゃんが自分の尿を。

 妊娠検査薬。色は。変わるわけ。

「ねえサキ。喜んでくれる? 僕ね」

 に

 ん

 し

 ん

 した

「どうしよう。どうすればいいのかな。ここって産婦人科あったっけ。ねえサキ」

 よんできて。

 私は、ナースをやめた。

 やんできて

 私は、ケーサツになった。陣内ちひろ。えんちゃんの友だち。会いたかった。友だち。私はなんだろう。なにをすればいいんだろう。なにをすればもういちど。

 僕を先生の患者にしてください。

「厭です」結佐が言う。

 口を開かせれば反射的にこれ。鼻も塞いでしまいたい。メガネはすでに粉々。掛けさせたまま割った。眼球を潰してしまおうか。耳たぶはなくたって。音は拾える。

 あっさり殺すだなんて。永劫に苦しませる。鬼立警部は単純だから気づかない。陣内ってのに話されたら。違う展開もあり得るかもしれないけど。私はこいつよりサキに死ぬなんて。

「ようやくそのねえ、思い出しましたよ。あなた、あのときの」

 未成年。

「すみませんねえ、その。ですがあの方、ええっと、えんでさん、でよろしいですか。あの方若く見えるでしょう、ええ。あなたよりもね、はい、お若いのだと」

「気安くえんちゃんの名前呼ばないでもらえます?」

 えんちゃんが生きているのなら、仕方なく生かしておいたが。もうそれも適応外。えんちゃんはこんな奴のどこに。それは思ってはいけないけど、思わないことにしていたけど。どうしても納得できない。

 性犯罪者。

「もしやもして、ああ、その、お名前を言ってはいけないので伏せますが、ええ、あの方が死んだのだと、そうお思いでしょうかね。だとしたら、あなた、なんともねえ、無駄な時間をお過ごしですよ」

「そうですね。無駄な時間だったんですよ、いままでが」

「死んでませんよ、あの方。少なくともねえ、私にはあの方が死ぬとは到底、そのね。死の概念から超越したところにいらっしゃるのではないかと」

「わかってます。余計なこと喋らないでいただけます?」

「あなたの怒りはご尤もです。しかしねえ、あの方が私との子どもとやらをねえ、欲したのならば本人が私のところに来て、まあその、ははは。あり得ませんね。あの方、大事な器官を持っていらっしゃらない。だから気を利かせたあなたが私のところにいらっしゃったのでしょう。代わり、としてね。あの方の許可を取らずにいらっしゃるからそのような目に遭われても仕方がないといいますか」

「黙ってください」

「どうせいたぶられて惨めに死ぬのでしょう。ならばそのねえ、遺言くらいは云わせていただきたいものですよ、あなたが聞いているかどうかはさておき。私のとあの方の出会いをひょいと思い出しましたのでお話しましょう。気に入らなかったとしてもどうか最後まで聞いて」

 首に巻きつけたコードをきつく絞める。べらべらべらべらべら。と。

 出会い。誰がそんなもの。

 顔の色が蒼くなってきた。気色悪い。指もそんな色。

 えんちゃんのために切り落とそうか。

 十本。プラス一。だくだくだくだくだくだく。緩める。

 くっきり。

「命乞いのつもりですか」

「乞えるのならね、なんだってしますよ。やっと私の思い通りになったのですよ。それはもう永い永い無駄な時間を耐えて耐えて。あの方が欲しいのなら差し上げます。どうぞもらってくださいよ。要りません」

「そうやってあんたがえんちゃんを拒絶するから」

「あなたとあの方との出会いも病院でしょう。私とあの方との出会いもね。まああの方があまりに危ういせいで病院にしか容れてもらえないのでしょうが。ない器官に焦がれるのなら治療をすればいい。違いますか。私の考えは間違ってますか。もちろん紹介しましたよ、ええ。ですがあの方はそれすら超越してらして、まったく。私にどうしろというんですか。ないんですよ。あの方には。生まれ変わるしかないんじゃないでしょうか。生まれ変われますよあの方ならね。保証します。現に成功してますし。私だけが悪いわけがないでしょう。陣内ってゆうあの大男も、当の本人も、あなたも。私ばっかりが悪いだとか仰りますけど、人格を増やしたところでどうして子どもがどうとかそのような流れになるのか。私が知りたいくらいです。だから私は精神科医になったというのに。産婦人科にも整形外科にもならなかった理由がおわかりいただけましたか」

 僕は先生の子どもが欲しいんだ。

「お帰しいただけませんかね」

 厭です。

「主治医拒否したのとつながらないんですが」

「それはあなたに関係がない」

「どう関係ないんです?」

「関係がないといったらないんです。さ、時間の無駄ですよ。拘束を解いて」

「言って」

「関係ない」

「言いなさい」

「そうやって独断でお考えになるから莫迦を見る」

 性犯罪者の断罪法。

 去勢。


      2


 なんで鍵をかけてくれない。俺がお見舞いに行く時間くらいスガちゃんにはお見通しのはずなんだから。邪魔者をシャットアウトしたいのなら。結佐先生だっていない。もうかれこれ一週間は姿を見てない。病院にも来ていないらしい。だとするならスガちゃんの治療は誰が。

 治療。必要なんだろうか。わからない。

 ドアが開く。出てきた人はスガちゃんそっくりだった。違いはメガネがあるかないか。スガちゃんが大人になったらそうなるんだろうな。て顔が俺の横を通って。

 無言。何か言ってもらっても困るけど、何も言われないのも。

「あの」

 エレベータに乗るところ。足を止める。止めさせた。

 スガちゃんの父親。

 ドアが開く。

 後姿。俺よりちょっとだけ大きい。

 エレベータに乗る。

 正面。ほとんどスガちゃん。

「あの、俺」

「毎日来てくれているようだね。ありがとう」

 閉まらせない。

「なんでですか」

「これからも仲良くしてやってほしい」

 お父上から連絡がありまして、はあ、こっぴどく叱られましたよ、ははは。父は。お忙しいようで、ううむ、入院中だとお伝えしたらぷっつり。そうですか。

 そうですか。は、そうゆう意味。

「なんでスガちゃんあんな」

「それは結佐くんに」スガちゃんの父親が言う。

「来てなくてもですか」

「体調でも崩したのだろう」

 そうじゃない。そうじゃなくて。

「いいかな。急いでいるんだ」

 スガちゃんがどんな思いで。

「手を退けてくれないか」

「何しに来たんですか」

「父親が息子に会いに来てはいけないだろうか」

 ちがう。

 ここは病室じゃない。地下。スガちゃんを閉じ込めてるだけのただの。監禁。閉じ込めてるのは。スガちゃんにそっくりな。父親。とは思えないけど、顔が似すぎてるから。顔。当てにならない。見間違いかも。きっとそう。一瞬見ただけで。なぜ彼のお守りを強いられているのか。お父上に指名されたからです。

 スガちゃんはベッドに仰向けになってた。

 俺が入り口で躊躇してたら。

 入れば。と。

 入ればいいんだ。そうか。入れば。

「幻滅した?」スガちゃんが言う。

 手元に置きたい。手に入れたい。

 おなじ。ちがう。

 おんなじ。

「いいよ。明日から来なくて」スガちゃんが言う。

「別に」

「無理しなくていいよ。大丈夫。ここにいる限り僕は死ねないから」

 治りませんよ。詳しいことを伺ってないようなので私もあまり申し上げられませんが、彼の病気は治りません。薬を飲んでるでしょう。確認してきてくれませんかね。きっと減っていない。まあ、そうゆうことです。拒薬といいましてね、はあ、困りますよね。治療も何もあったものでは。

 大事をとって今日明日ってとこ。じゃないのかな。もう退院したっていいのに。

「なんでいるの?」

 わかってる。すんごいカード。マスタキィ。

 それの意味。

 父さんが。

「来てくれるからね」スガちゃんが言う。

 俺は床に落ちていた服を拾う。

 スガちゃんの眼線。その辺に置いといて。その辺。ベッドしかないのに。その辺てゆわれても。わからない。わかるわけ。

 受付で宇宙人に指輪を返す。息苦しい。久しぶりにネクタイなんか締めたせいかも。学校行ってそのまま直行したから。

 春休み。生徒会の仕事。スガちゃんの穴なんか埋められないけど、なんか役に立つかと思って出向いたけど。役立たず。意味なしの副会長。

 スタッフの人にもう一回訊いてみる。意味ない。来ていません。そうだと思った。

 結佐先生。

 何してるんだろう。わかんなくなってきた。わかんない。

 外来の待合室。なんとなく座る。

 厭なにおい。病院の。このにおいは。

「厭だよね。なんでこんなに待たされるんだろう」

 カーディガン。膝丈。スカート。長い前髪。前下がり。ショートボブ。膝にコート。トートバック。弁当箱を入れたらぴったりくらいの。

 名前を呼ばれる。俺じゃない。隣でもない。となりのとなりの隣。診察室に入っていく。

「そこの学校の?」その人が聞く。

 制服。エメラルドのワイシャツは目立つ。

「高校生も大変だね。ストレス溜まるんでしょ」

「ええまあ」

 精神科。外来担当。結佐先生じゃない人。診察室にいる人は別の。

「きみも?」その人が言う。

「今日はいないみたいですよ」

「おかしいなあ。担当曜日だって聞いたから」

 亜州甫アスウラさん?

 えんでさん?

 足首に包帯はない。

 学園の裏の公園。てゆっても木があるだけ。森林公園だとかなんとか。

 遊歩道の脇にベンチ。

 寒い。冷える。ポケットに手を入れる。

「先生が帰ってこないんだ」その人が言う。

「捜しに」

「ううん。これ」

 お弁当。

「作ったのに」

「一週間、来てないそうです」

「常勤なのにね」

 クビなんぞ怖くありませんよ。辞めろといわれればいますぐこの瞬間にだってね、辞めることが可能です。未練も悔いもない。むしろ清々しいほど満足です。つまりは、私はねえ、辞めることを禁止されているんです。しかしね、ひとつだけ、そう、ひとつだけ辞めることができる条件というものがありましてね。

 想像がつくでしょう。

「亜州甫かなまは死んだよ」その人が言う。

「見ました」

 人形。結佐先生が回収。車のトランク。

「だったね。最期に憧れのきみの生演奏が聴けて満足ってお礼ゆってたよ。永片えんでももう限界だってさ。先生が帰ってこないもんだから錯乱状態。きみのところにケーサツが来てない?」

 希硫酸。一度だけ。

「じじょーちょーしゅってやつです」

 精神科医が来ていないか。自宅ももぬけの殻。知ってると思うが病院にも。行方不明なんだ。

 知らないならいい。何かわかったらここに。

「ちーろは帰った?」その人が言う。

「見送りには」

「ひこーき嫌いなんだ」

 退院したその日にその足でフランスに戻った。コンクール。最終調整。ともる様は相変わらず強引というか我が道を行くというか。いま空港。てメールでいきなり呼び出して。そのままバイバイだなんて。

 三年後に。

 また。会えるだろうか。今度はもっとゆっくり。

「そーすけと話できた?」その人が言う。

「これからです。夕方呼ばれてて」

 笑う。笑わない。

 笑えない推論。

「父さんはさはりさんのこと」

「勘違いだよ」その人が言う。

「違うんです。そうじゃなくって、それはわかってます。俺の地毛」

 母さん。一度だけ。

「そーすけってね、欲しいものはぜんぶ、どんなことしてでも手に入れるから。断られたくらいじゃ諦めない。手に入ってないってことは要らないってことだよ。参考までにゆっとくと、さはりがそーすけと会ったとき、きみはお胎の中にいたんだ。しょーしんしょーめーのお母さんの」

「なんで断ったんですか」

「浮気。不倫。きみがお母さんのお胎の中にいたから。それじゃ」

 あなたのこと嫌いなわけじゃないのよ。結婚てややこしいのよね。そーすけの育て方が不満ならいつでもおいでなさいな。これ、住所ね。歓迎するわ。

「駄目みたいだね」その人が言う。「そうだなあ。なんてゆったかな。なにせだいぶ前のことだし。これから会うんなら、本人に訊いてみればどうかな。答えてくれるかどうかはわかんないけど」

 父さんが欲しかったのは、さはりさん本人というより。才能。それでおカネ儲けしようとしたんだ。亜州甫さんみたいに。ともる様みたいに。俺も。おカネ儲けの道具。

 だからさはりさんは断った。さはりさんはおカネが欲しいからピアノを弾いてたんじゃない。ピアノが好きだから。亜州甫さんみたいに。ともる様みたいに。

 俺は。

「寝てないよ」その人が言う。

 わかってる。父さんが暴行しない限り。

「襲われたけどね」

「え」

「そんな顔しないでよ。そーすけも切羽詰ってたんだろうね。でも服剥いどいて僕にあんまりにも胸ないのわかって萎えたってさ。知ってる? そーすけ、でかいの好みだから」

 なんだそれで。母さんが日本国籍じゃない。

「とも限らないよ。ヨーロッパじゃそーとーゆーめーなピアニストだし。才能に惚れたんだよ、きっと」

 でも、父さんにピアニストを諦めさせたのは。

「僕じゃないよ。さはり。ナガカタさはり。もうその話はいいや。えんでの話を聴いてくれる? 誰かに話さないと僕が壊れそうで」

「え、俺なんかで」

 指。冷たいゆび。えんでさん。


      3


 僕を先生の患者にしてください。厭です。

 私とえんでの合言葉。別れ別れになったとしても、顔が変わっても名前が変わっても姿形が変わっても、それさえ憶えていれば出会える。我ながら名案だった。自画自賛。記憶が変わる。という致命的な選択肢について何も策を講じられなかったのは私の幼さに起因するものではない。忘れない自信はあった。強いて言うのなら合言葉の内容を誤った。僕を先生の患者にしてください。はい。にしていればこんなことにはならなかった。

 ボイスレコーダ。

 あのナースが取り上げなかったのは再生してみたからだろう。えんでの声が入っていれば壊せない。私も壊せなかった。実はまだ再生していない。あのとき最初で最後のリサイタル。再生していたら気づけただろうか。再生。せずともわかる。

 僕を先生の患者にしてください。

 厭です、と呟く。誰も聞いていないが。

 ナースが戻ってこない。ケーサツがこの場所を見つけたのだろう。まったく遅すぎる。もう少しで私の大事な器官が切り離されていた。これを失うわけにはいかない。戻ってくるのだ。唐栖栗せつき。ナガカタの生徒。私を離婚させて自らが私と同居するための人質。やっと解放される。

 やっと、これを、ずっと。

 病院。えんではそこにいた。

 私は中学生。不登校。というよりは登校を禁じられた。停学。というほどでもないが退学。にするにはまだ。決め兼ねていたのだろう。うんうん唸って熟考に熟考を重ね議論に議論を重ねている間の経過措置。として私はここに放り込まれた。おかしい奴は閉じ込めろ。まあ、そうゆうことで。

 えんではベッドに縛り付けられていた。暴れていない。逃げ出そうともしていない。見ればわかる。口を縛っているタオルがべたべただったのでとってあげた。ハンカチで唇を拭く。本当は舐めてもよかったけど、即行でこいつと同じ処遇が決まる。収容初日から。

「なにやっちゃったの?」えんでが言う。

「さあ、なんだろうね」

「僕にもしてよ」

 なんだ。知ってる。ならいいか。収容初日から幸先のいい。私しかいなかったらどうしようかと思っていた。穴でも掘るか。王様の耳はロバの耳。

 選択を誤っていたことにいま気づく。相手が悪かった。

 何のためにニンゲンは二種類いると。

「僕ね、子どもが欲しいんだ」えんでが言う。

「努力します」

「どんな?」

「こうやって毎日会いに来てるよ」

「うん。だからね、せーりが来ないんだ」

「へえ」

 来てたら奇跡だ。

「僕らは穴を間違えてるんじゃないかな」えんでが言う。「こないだ図書室で見たんだけど僕にあるはずの器官がない。足りないんだよ。なんでだろう。でね、これも図書室で見たんだけどゆーせー手術ってのがあるんだよ。ふりょーな子孫のしゅっせーぼーしだってさ。僕はそれをされちゃったんじゃないかと思うんだけど」

「はあ、なるほど。知らない間に摘出されたと」

「元に戻してくれない? そーゆー努力が欲しい」

 医者になれ?

 誰があんな。次の日からえんでが会ってくれなくなったので他を。当たれない。そもそもそれを禁じるために放り込まれたんだった。

 治らない。去勢されたら考え直すかもしれないが。

 さあ、どうだか。

 結果的に大人しくしていたらここを出られることになった。えんでとはお別れ。忘れ物と虚偽を吐き病室に。

「やっぱ手術されてた」えんでが言う。

「戻るって?」

「戻してよ」

「医者になんか」

「僕を患者にして」

「厭だ」

 病院。えんではそこにいた。

 私は研修医。あのときの呪いのせいで私は医学部に入っていた。笑えやしない。

 えんではベッドに寝そべっていた。院長の娘が傍らに。いないときを狙って病室に。

 髪が伸びている。まるで女。

「僕の主治医になってよ」えんでが言う。

「研修医ですけど」

「研修終わったら。予約ね。一番最初の患者にして」

「産婦人科じゃないですよ」

「なんでもいーよ」

「整形外科でもない」

「それ、なにするヒト?」

 院長の娘の嫉妬を煽ってそこを追い出された。教授の口利きで大学病院に勤められることになったから特に困ってない。

 病院。えんではそこに来た。

 よほど私の患者になりたいのだろう。治せないのに。治らない。治る治らないの領域から逸脱している。

「僕を先生の患者にしてください」えんでが言う。

「厭です」

「精神科医で全然構わないよ」

「あの、私結婚してますんでね」

「その割に相手が多いよね。民法読んだほうがいいよ」

「バラしますか?」

 バラされた。おかげで妻は出て行った。離婚届。代わりにえんでが私の家に転がり込んできた。ピアノ講師。ナガカタえんでとして。せつきと出会えたことは感謝するがそれだけ。

 えんでのニセモノ。亜州甫かなまは死ぬほかない。えんでが蘇れば。血はつながってない環境が同じ俺はえんでと同じ生まれ。そんなに僕が好きなら言葉でゆいなっての。なんのために口と耳があるんだか。ね、先生?

 わたしは

 えんでが

 すきなの

 かどうか「そんなのわかんないよ」

「わからないわけないだろ。その奥に」

「どいて。お願いです」

「できない」

「どかないと」

「撃ってみろよ」

「どいてよ。あなたもいけないんだから。えんちゃんは」

「撃てるもんなら撃てっつってるだろ」

「来ないで」

「撃てよ。憎いんだろ。俺がえんでとつながって」

「うるさい」

 わたしは

 えんでが

 すきなのかもしれ

 なくない

 ナースは戻ってこなかった。

 ピアノの音。靴を脱ぐ時間が惜しい。リビングの奥。せつきがいつ帰ってきてもいいように。

 抱き締める。

「弾けないよ」せつきが言う。

 ナガカタえんでも死んだ。亜州甫かなまも死んだ。永片えんでも死んだ。

「ただいま」

 待ってた。ずっとずっと。

 いいにおいがして眼が醒める。朝か。永い夜だった。一週間の有給。短いくらいだがあまり長い間留守にすると。困らないか。

 どうでもいい。あんな患者。

「おはよう、先生」せつきが言う。

 料理。作れたのか。

「ガンバったんだよ」

 創作料理。私はこんなメニュは知らない。が、せつきが作ってくれたのならありがたく戴く。味はお世辞にも美味いとは。

「ごめんね。やっぱり上手じゃないよね」

 そんなことはない。口で言うよりはすべて胃に入れたほうがいい。笑顔で。せつきも微笑んでくれる。包丁。

 包丁? 

 おかしい。頭が重い。床が一気に近く。

 同じ手だ。私がせつきに使った方法。同じ薬物を。

 紅茶に。

「やっと先生が僕だけの先生になってくれる」せつきの声とは思えない。

 動けない。ベッドに拘束。あのとき。えんでがベッドに縛り付けられてたのと同じように。タオルがないだけ。よく見えない。そうか、メガネ。ナースに割られてそのまま。せつきが帰ってきてくれたことがあまりに嬉しくて。記憶で見ていた。

 せつき。本当にせつきなのだろうか。ぼやける。

 天上なのか床なのか壁なのか。

「サキは死んでもらったよ。とーぜんだよね。僕の先生にこんなひどいこと」

 えんで?

 ナガカタ?

 亜州甫君?

「カラス君は死んだって、ゆったよね。許せないよ。僕の先生とあんなこと」

 包丁。記憶で見える。意識がなくなる直前に見えた。のは床だが、手に持ってるのだから床ではない。包丁。

 せつきは私の脚と脚の間に立っている。

 落ちる。包丁。

「ごめーん。手が滑っちゃった。だいじょーぶ?」

 さする。脚と脚の間。

「サキがやろうとしてたことは単なるふくしゅーだけど、僕がしようとしてることは」

 手に入れて手元に置く。

 考えたくもない持論。えんでの考えそうな。

「それとも指にする? 僕にしてみればおんなじよーなもんだけどさ」

 えんでだ。

 これは、

 永片えんでだ。

「やめませんか」

「なんで?」

 命乞い。だろうか。いや、その器官を切り落とされても生きている人間はいる。生きられるしかし私は。それを失ったら死と同等。

「なんで、といわれましても。死にますよ私」

「だいじょーぶ。すぐ塞いでもらえば」

 電話。それで私の職場に連れて行く気だろうか。あそこの外科医は虫が好かないのに。

 あ

 な

「だったんでしょ。僕。気にしてないよ。僕を否定しなかったのは先生が初めて。ちーろもなんにもゆわないでくれるけどゆいたそーな顔するんだ、ときどきね。先生と初めて会ったびょーいん。憶えてる? 僕はあそこにぶち込まれる前、ちょっと遠いところにいたんだ。そこにいたえらーい人が僕のこと」

 あ

 な

「にしよーとするから逃げてきちゃった。ゆび」

 しゃぶる。でっかいのの左手中指も。

「噛み切ってね。ちーろのは僕じゃない。僕がお休みした日に図工があってさ。クラスメイトが気を逸らさせるもんだから、ちーろ手が滑っちゃってね。ちょーこくとーだったかなあ。糸ノコかも。飛んじゃった」

「まるで、ええっとその、観てらしたみたいですね」

 刃先。

「おーいしかった」

「お腹がすいているのならねえ、これをほどいていただければ、ええ、二分以内にお作り致しますよ」

 駄目だ。ゆび蒐集家になにを言っても。

 チャイム。訪問客。

 おそらく。

「宅配便かも」

「見てきていただけませんかね」

「うーん、でもまた来てくれるんじゃない?」

 チャイム。

「ほら、呼んでますし」

 行け。さっさと。

「僕を捕まえるの?」

「多分に身に覚えがございますでしょう」

 チャイム。そんなものいいからドア蹴破ってでも上がって。

「ねえ、先生。僕だれ?」

「アイデンティティ拡散ですか。多重人格、解離性同一性障害。パーソナリティの問題でしょうか。お望みならねえ、診断付けてあげましょうか。あなたは」

 えんでが

 すきでは

「ひとりに絞れないんじゃないよ先生。浮気がちなのもたったひとりに入れ込むのがこわかっただけだよ。僕のことが大好きだったから。好きで好きでしょーがなかったくらい好きだったからそこから逃げるためにニセモノに入れ込んで僕のホンモノっぷりを確かめたかったんだ。先生がニセモノ如きで満足できるわけ」

 ないので

 わかれさせられたつまも唐栖栗カラスグリせつきも亜州甫かなまもすきなはずが

 チャイム。遅い。なぜ上がってこない。なぜ。

「いまごろサキが死んだかな」

 まさか時間稼ぎ。どうりで戻ってこないわけだ。

 じゃあ、いま鳴ってるチャイムは。

「荷物だね。やっぱ見てこよっと」

 そんな、なにしてるケーサツの莫迦どもは囮私で誘き出すといって。

 よく見えない。メガネ。してないんだった。ここが私の家だという証拠が何も。

 そうか。眠っている間に移動。

 おなじ。せつきも私が家まで運んで。

 ダンボール。抱えて中身。

 弁当箱。

 ふた。

「サキが作ってくれたみたい。僕のお夜食」

 撃てんのかようるさい撃てねえだろうるさいどうやって撃つんだようるさいてめえゆびいっぽんもねえじゃ。うるさい。

 くちに。いれる。それは食べ物では。

「はい、先生。あーん」

 厭だ。

「してよ。おいしーよ、ほら」

 厭だ。

 無理矢理口に。開けたくない開けてしまったら開けたらそれが口に。入って。ゆびじゃない。ゆびはそんなに長くないし直径も。二本。

 確か、ケーサツの数も。

「僕がゆーせー手術されちゃった理由がいまわかったよ。僕が先生と巡り会うためだ。もしされてなかったら僕が無限に増えちゃって先生の奪い合いになっちゃうもんね。殴り合いの殺し合い。血で血を洗う争いの渦中に先生が巻き込まれないよーに、だ。よかったあ。だって僕と先生の子ども死んじゃ」

 口の中に入ってくる。気持ちが悪い。唾液なのか血液なのか胃液なのか精液なのかわからなくな、て。

「亜州甫かなまに云ったこと、まさか忘れてないよね」

 もう、いいんですよ。なにも言いませんから。あなたが亜州甫かなまでも、永片えんででも。どうだっていい。どうでもいいんです。永片えんでだというのなら私はそう呼びます。永片えんでがいいというのならそう名乗っていいんです。誰も責めません。私も、あなたがいいのなら、それで。

「えんで」

 微笑んで。

 おやゆびひさしぶり。ひとさしゆびあれから十年かな。くすりゆび君が気づいてくれれば、こんなことしなくて済んだんだよ。こゆび僕を忘れてのうのうと暮らしてるなんて許せない。思い出してよ。おやゆび君は僕を愛してた。ひとさしゆび僕も君を愛してた。くすりゆび両想いだったじゃないか。それなのに。こゆびまあ、いいや。その点は水に流すよ。ここで僕が云いたいのはいくつかあるんだけど、わかる?なかゆびわかるよね。僕のこと、何でもわかるもんね。

「えいえんに一緒だよ」

 えんでのいらないきかん僕を止めてよ。もしくは、つかまえて

    みせて

       ひだりての

            まんなかわたしがえんでをきらいになるりゆうがみあたらないすきになるりゆうはよっつほどおもいついた

 破滅。

 えんでを忘れるために大学病院に出入りするニンゲンと欲しいえんでと同居しないために妻と結婚し欲しいえんでに入れ込まないためにえんでに憧れている唐栖栗せつきを睡眠薬で欲しいえんでを忘れないためにえんでそっくりな亜州甫かなまを。殺した。ひょっとしてひょっとすると私はえんでの名前を呼びたくなかったのはえんでに脳髄を支配されるのがこわ


      4


 ボイスレコーダはそこまでだった。右手。

「消して」えんでさんが言う。

 消去。

「いいんですか」

「いいもなにも。いま君が消しちゃったよね」

 ホントだ。よく考えもしないで行動するから。

 指。指が勝手に。

 左手。えんでさんはずっと俺の指をしゃぶってた。亜州甫さんがやったみたいに。

 唾液まみれ。風ですーすーする。ミント食べたみたいに。

「お腹すいたね」えんでさんが言う。

 お弁当。

「先生いないし、食べちゃおっか」

「それ、本当に」

 お弁当。

「どうゆう意味?」

 包み。お弁当箱。

「僕の腕が信じられない?」

 それもあるけど。とは云えないけど。

 結佐先生のこと。

「手に入れたかったんですか。手元に」

「どっちもだよ。僕は先生の子どもが欲しかった。そうゆうこと」

 蓋。取る。

 なかみ。

 お弁当の具。

 箸。挟んで。

 くちに。

 いれない。そうじゃない。手元に置く。はそれでいいかもしれないけど、手に入れたいはそうじゃなくて。指。欲しかったからです。あなたにも欲しいものがあるでしょう。それと同じです。娘に限りません。欲しくなれば手に入れます。

 ではなぜ手放したんですか。欲しかったのなら。

 手に入れる、と手元に置く、は違います。わたしは子どもの指を切り落とした瞬間に欲しかった指を手に入れました。ですからそのあと手の届く範囲に置いておく必要はありません。好きな方がいるとします。その方を手に入れる、ということは手元に置くことですか。そうではないでしょう。互いに想いを通わすことではありません? 好きな方を手元に置いておきたいという思考は。

 ごろごろごろごろごろごろごろごろごろ

 弁当の具が傾く。

 なんで。

「きみもどう? いっぱいあるから」えんでさんが言う。

 ゆび。十本と。

 もうひとつ。ゆびじゃないけど人体の。

 食べかけ。とじる。

「もしかして今日?」えんでさんが言う。

 電話。ともる様から。コンクールの結果が。どうせわかってるけど。お手数にも連絡をくれるというから。

「よく知ってますね」

「僕それ出たことあるから。そーすけもね。どっちが勝ったか聞きたい?」

「母さんですね」

「あたり」えんでさんが言う。

 私は亜州甫君が私のそばにさえいてくれればその他雑多がどうなろうと気になりません。亜州甫君をそばに置いておくためならそれこそなりふり構わずなんでもしますので、ご承知のほどをね。

 似てる。

 僕はね、飛び降りたくて堪らなくなるんだ。ふとした瞬間に窓が見えるとする。君なんかは、窓だ空だ雲だ、そのくらいのことなんだろうね。でも僕はそうは思えない。僕は死にたいわけじゃないんだよ。飛び降りたくてその結果、死んじゃうこともある。そうゆう可能性の話をしてるんだ。ごめんね、変な話して。でもこれだけは君に憶えておいて欲しい。僕がおかしくなったら、ここに連絡してくれると。

 うっれしいな。君は、止めるでしょ。そうゆうこと。これ、住所ね。何かわかったらここに。

 ケータイ。

 ポケットから出したところをえんでさんに奪われる。

鬼立キリュウのとこならここでお別れだよ」

 母さんのケータイ電話も知らないのに?

「きみはそーゆーことしないって思ってたのに。あーあゲンメツ」

 幻滅した?

「結佐先生はどこですか」

「なんで僕にきくの?」えんでさんが言う。

 いいよ。明日から来なくて。無理しなくていいよ。大丈夫。ここにいる限り僕は死ねないから。僕がおかしくなったら、ここに。

「結佐先生に掛けます」

「なにゆってんの。先生のケータイは」

 トートバック。もうひとつの中身。

「先生のだって証拠がありますか」

「しょーこ? そんなの掛けてみれば」

 手。伸ばす。

「じゃあ返してください」

「厭だよ」

 サイレン。

「返してください」

「やだ」

「じゃあ先生の番号を押してこっちに」

「なんでそんなこと」

「だまし討ちしないためです」

 サイレン。

「はやく」

 ちかい。近づいてる。

「どうせきみが呼んだんでしょ」えんでさんが言う。「違うのに。僕は先生と一緒にいたかっただけで」

 仕方ない。実はもうひとつ。父さんから渡されてるのが。

 耳に。

 サイレン。

 手が。

 届かない。届かせない。やっと役に立った。でかい身長。

「やだ。やめて。出ないよ。出るわけないじゃん」

 バックの中から音。

 切る。バックも消音。

「ほら、出るわけ」

 サイレン。

 一回目は切れる。そのくらいわかってた。先生はてきとーなのだ。

 サイレン。

 サイレン。

 腕。つかむ。

「自首なんかしないよ」えんでさんが言う。

 掛ける。

「離してよ。ねえ、やだ。出ないんだ。先生は」

「大丈夫です。絶対、出てくれますから」

「なにゆってんの。先生はね、僕が」

 サイレン。消える。ドップラ効果。

 着信。俺のじゃない。父さんからもらってるやつでもない。

 トートバック。音。聞き覚えがあると思ったら。

 作曲。亜州甫かなま。

 これを着信音に設定する人はこの世にふたり。

「出ないんですか」

「僕のじゃない」えんでさんが言う。

「じゃあ俺が出ても」

「離してよ」

 音。

「離したら出ても」

「いーよ」えんでさんが言う。

「じゃあ出ません」

「出てよ」

「両方ってことに」

 音。

「はやく出なよ」えんでさんが言う。

 バック。中身。

 着信が切れる。

 すぐに、もう一度掛かって。ディスプレイ。

「あの、俺が出ないほうがいいっぽいんですけど」

「やだよ。時間どーりに来ない人なんか」えんでさんが言う。

 それで怒ってたのか。約束の時間に遅れると待たされてるほうはこんなに怒るんだ。知らなかった。次から気をつけ。られないからヤバいんだけど。

 あまりにしつこいから出てしまった。腕はつかんだまま。俺はとっくに離した。つかんでるのは俺じゃない。俺じゃなくて。

 ゆび。

「なんてゆってた?」えんでさんが言う。

「場所伝えました。そしたらすぐに」

 来てくれるからね。

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ゆろびと微笑んで She ENDEd sound. 伏潮朱遺 @fushiwo41

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