第6話 Adore 指弾く者
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一気に喋ったから伝わってないかも。先生がどっかに行ったからその間に、て思って。
座り直す。間が持たない。
「よく無事だったね」スガちゃんが言う。
「あ、うん。俺もそう思う」
人質。大破した車内に放置。ともる様に起こされなかったらたぶん凍死。
「メガネ取ってくれるかな」スガちゃんが言う。
まだ本調子じゃないみたい。スガちゃんはベッドに横になったまま。
そんな、俺の顔なんか見ても。
「非言語の情報って頼りになるんだよ。特に説明の下手なゆーすけ君とかにはね」
やっぱり伝わってなかった。
「頭痛くなってきた」スガちゃんが額に手を当てる。
「え、だいじょーぶ? どうしよ」
「薬がないかな。その辺に」
サイドテーブル。引き出しぜんぶ開けたけど、空っぽ。
「もらってきてくれない?」スガちゃんがドアを見遣る。
「え、だれに」
つい訊いちゃったけどひとりしかいない。主治医。
「どこ行ったんだろうね」てゆうか戻ってこないほうが話しやすいけど。
「君が余計なこと話さないか見張ってるだけだよ。廊下のぞいてごらん」
のぞくまでもなかった。
先生が戻ってくる。タイミングばっちりすぎて、スガちゃんの推論を正解だと思うほか。
「お薬をね、お持ちしましたよ」先生が薬の袋をスガちゃんに手渡す。「今度こそは、その、捨てないで戴きたいと、ええ」
「頭痛薬だけでいいのに」
「お父上から連絡がありまして、はあ、こっぴどく叱られましたよ、ははは」
スガちゃんの、水を飲む手が止まる。
スガちゃんのお父さん? 偉い人だったような。病院のだったか大学のだったか。
「父は」スガちゃんが言う。
「お忙しいようで、ううむ、入院中だとお伝えしたらぷっつり」
「そうですか」
スガちゃんそもそも無表情だからわかんないけど、お見舞いに来て欲しかったのかな。来てくれればいいのに。忙しいとかゆってないで。て、俺が入院しても父さんは来ないだろうからおんなじか。カネだけ払ってあとは人任せ。カネで何でも思い通りになると思ってるんだから。
「ではね、そろそろ」先生が言う。
それ、俺にゆってる?
スガちゃんもいつの間にか眼瞑ってるし。疲れさせちゃいけないよね。また来るよ。こっそり手を振る。
地上に戻って即行追い出されるのかと思ったら、先生にドライブに誘われた。
どらいぶ? なにかの間違いじゃ。
「私だってねえ、仕事サボってまでなぜあなたを乗せてそんな。ですが、そうも行かないんですよ、哀しいことに。あなたに会いたいという方がね、その、病床に臥せっておりますので、まあ、こうやってですね、私はしぶしぶ」
「誰ですか」
「それはねえ、着いてからのお楽しみということで」
「えとりくんの話をしましょうかね」先生が言う。
先生は俺に後部座席を勧めた。俺の視線恐怖を知ってるのか、単に隣に並びたくないのか。
俺の投影かも。あんまり好かれてないのはわかるけどそっから先はびみょー。
「私はね、本当は実のところ正直に申しまして彼の主治医なんかしたくないんです。やる気がないのがおわかりになるでしょう、それはもう充分に。優秀な精神科医はこの病院に限らず、ほかのところにだってごろごろしてるのではないかと、はあ。なぜ彼のお守りを強いられているのか。お父上に指名されたからです。何の因果か、迷惑極まりない」
それでさっき叱られたんだ。クビにするぞ、とか。
「クビなんぞ怖くありませんよ。辞めろといわれればいますぐこの瞬間にだってね、辞めることが可能です。未練も悔いもない。むしろ清々しいほど満足です。つまりは、私はねえ、辞めることを禁止されているんです。しかしね、ひとつだけ、そう、ひとつだけ辞めることができる条件というものがありましてね。想像がつくでしょう」
スガちゃんの死。
「彼、自殺してくれませんかね」
殴ろうかと思った。運転してなきゃこんな奴。
そうか。俺に殴られたくないからわざわざドライブに。なんて汚い。
「ついでにゆうとね、あなたが一番憎らしい。あなたと彼が心中なり殺し合いなりしていっぺんに消えてくれれば私の精神衛生上非常に万々歳といいますか、ええ」
怒りというより莫迦莫迦しくなってきた。
亜州甫さんの自殺を身体張って止めたときはちょっと見直したのに。あれは、亜州甫さん限定で死んでほしくなかっただけ。医者として止めたんじゃなくて、個人的に。
「厭きれついでに参考にしてくださるとね、はい、喜ばしいといいますか。私は亜州甫君が私のそばにさえいてくれればその他雑多がどうなろうと気になりません。亜州甫君をそばに置いておくためならそれこそなりふり構わずなんでもしますので、ご承知のほどをね」
手元に置くのと手に入れるのは違う。そう聞いた。
手元に置いておきたい、かつ、手に入れたい、は。監禁。
急カーブ。スピード落としてステアリング切るのがフツーじゃないのか。
「あなたがあのとき世界で一番になんかならければ、私はこんなに」
バックミラ。
視線。
「亜州甫君はあなたに逢うためにピアニストを志したんです。頑張って頑張って頑張って。しかしその憧れの先頭にいたあなたは、世界一になるなりぽっと辞めてしまった。あっけなく何の前触れもなく突然に。どういう魂胆だったのか、私にわかるように説明していただけますよね、
右柳ゆーすけだから。ってのが一番わかりやすい答えだけど、それじゃこの人はわかってくれない。
スガちゃんにも訊かれた。なんで、て。
なんて答えたんだっけ。はぐらかす誤魔化す。出来ない。スガちゃんにはそんな小細工。ちゃんと言えたのかな。信じられない。ないない。違うと思う。
君に逢いたくて。
亜州甫さん。ホテルでのあれ。そうゆう意味だったんだ。
そう云ってよ。わかんないよ。あれじゃ、俺のこと誑かしてるとしか。
「訊き方が優しすぎたようで、返答がないようですが」先生が言う。
「一番になればわかります」
揺れる。
衝撃。頭、うしろ。くるしい。
首をつかまれている。
車は急停車。
「なぜ私が精神科医なのかおわかりになりますか。なぜ内科医でも外科医でも況してや小児科医でも」
向いてないから。
「一番になればわかると。そう仰るんですか、それが答えだと」
頷く。振る。声。どれも封じられた状態でなにを説明しろと。
殺されるのかなあ。なんて遠くに感じてみる。
こわくない。こわくなかった。
あの人に刃物突きつけられたときも、この人に頸締められてるいまも。
なんだろう。ともる様にもそう言ってたら、おんなじ反応だったかな。とか余計なこと考えたり。
あ、コンタクトずれた。
「亜州甫君が帰ってこないんです。心当たりありませんか」
ぼやける。眼球の裏側入っちゃう前に取り出したいけど。取れそう。
瞬きしまくったら戻った。
「ありますよね?」先生が言う。
首を捉まえていた手が緩んだ。
咳き込むのも億劫。
先生は相当切羽詰ってたらしい。監禁しておいて、逃げられたらストーカ。不器用とかじゃ済まない。次元が違う。
「あるんでしょう? なにか、手掛かりが」先生が言う。
「ホントは居るんじゃないですか。隠れてるだけで」
あの女の人。どうなったんだろう。そっちに訊いたり、ちーろさんとか希硫酸とか。俺よりよっぽど。
崩れる。泣いてはない。と思う。
力が抜けたっぽい。項垂れる。
「申しわけございませんでしたね、ええ。ははは、隠れてる。どうしてあなたはそうやってものの見事に的を射るんですか。教えていただきたいものですね、その極意を」
廃墟みたいなアパートに着いた。
誰の部屋だろう。先生は降りない。俺に降りろと云ってる、無言で。指。指す。鍵を放られる。
冷える。すごく。
道路に雪。垣根に雪。駐車場の白線も雪。こないだのホールの近くかもしれない。寒い。とても。
四階建て。蛍光灯の点滅する暗い細い階段を上がる。急な上に先が見えない。螺旋階段。壁の染みが気味悪い。コンクリート。鍵に張ってあるシールによると、一番数字が大きい部屋。
ぴんぽーん。しても出ないんだろうから鍵をもらった。んだろうと。
お邪魔します。
ピアノの音。不審な音。弾けるのはあの人だけ。
「いらっしゃい」亜州甫さんだった。
「あのお、病床に臥せってると伺って」
「まっさかあ。足滑らせて骨ずれただけだよ。心配してお見舞いに来てくれたの? やったあ」
抱きつかれる。今日の格好もなんともかんとも。袖がやけに長い。魔女っぽい。ロングスカートの中央にスリットがあって、またしてもマズイ。
足首に包帯。
「ペダルとか」
「運よく左だからね。日ごろの行ないがいーからかな」
いつもの亜州甫さんじゃん。
これの何が不満だと。俺は不満だけども。
「あれ、手ぶら?」
強制連行の道中でどこに寄れと。
「しょーがないなあ。出張演奏サービスで勘弁してあげるよ。ほらほら、座って」
「え、ちょっと」
鍵盤。ひさしぶり。
「ほじょーちゃんが連れてきてくれたんでしょ。車見えたもんね」
「ほ、?」
「一緒に来たんでしょ。ええっとねえ、みょーじなんてゆったかなあ」
「結佐先生?」
「そーだっけ? あーそっかも。うん、そーだそー」
凄まじすぎないかその呼び名は。
「ダメ?」
「あの、俺に逢いたくてっての」
世界一になったから?
それはだいぶ前。十年くらい。小学生かそこらの。
十年?
亜州甫さん、何歳?
十年前なら中学高校あたりじゃ。
「弾きなよ」
うしろ、肩。
手と指。さわさわさわ。
「弾けないの? 忘れちゃってる?」
亜州甫さんじゃない。
ちがう。似てるけど、遠い。
振り返る。振り返らない。
指。
上から、指が覆いかぶさる。
「天然クーラのせいで動かない? ごめんね。ここ、天然クーラしかないんだ。あっためてあげるね」
窓なんか開いてないのに。空調もない。
冬。季節を遡ったのか先取りしてるのかはわからない。太陽のストライキ。
「あったまったら弾いてね。時間つぶしにイイコト教えてあげるよ。悪魔くんのピアノを燃やした犯人は僕」
先生?
「僕はピアニストになりたかった。バイトとはいえ教えてた子がさ、めきめき上達するのを支援するなんて耐えがたかったんだ。なんで教えてる僕より巧いんだろう。悔しくてやってられない。僕にはね、きっと教える才能しかなかったんだ。弾く才能は僕なんかより悪魔くん、そんで君、天使くんのほうが断然勝ってる。なんせ日本一と世界一だからね」
つめたい。あたたかくない。
なんでこの人の指、こんなに冷たい。
「あの日はね、前日に雪が降って指がかじかんで動かないから、悪魔くんとふたりでストーブ当たってたんだ。指があったまるまでいろいろ話したよ。悪魔くんはほんとうにピアノが大好きで、おまけに一番になりたかった。一番になりたい理由、君は聞いてる?」
はっきり明言したわけじゃないけど、なんとなく。ともる様は。
「負けず嫌い? それは後付の理由だよ。一番になるとね、イイコトがある。すっごくイイコト。世界を見下せる。すっごく厭な子だったよ、あの子。君と初めて会ったとき敵意丸出しだったでしょ。想像に難くないな」
名前は。
俺の?はあ、右柳ゆーすけです。
右柳?右柳ってまさか。
お察しの通りかと。
いやなこ。なんかじゃない。ともる様は一番になりたかっただけ。
ともる様が出場しないコンクールで俺がたまたま一番になっちゃったから。間違いだった。審査も父さんの息がかかってるに決まってる。八百長の出来レース。
「なにせ寒かった。灯油が切れちゃってね。もっとあったかくする方法、ひとつしかないよね。燃やせばいいんだ。最初に楽譜を燃やした。悪魔くんは完璧に暗譜済みだったからあんなのただの紙だよ。捨てたってどうせ燃やされる。灰になる。それならここで灰になってもおんなじ。たくさんあったよ。図書館みたいだった。それでも、あったかくなんなかった。なんでだろうね。氷点下だったのかな」
ひんやりと風が滑りこむ。椅子から立ち上がれない。うしろにつめたい物体が。いて、動けない。
かちかち。メトロノームじゃない。
歯の根が合わない。
「僕が提案したんだっけかなあ。憶えがない。君はどっちだと思う? ピアノ、燃やそうってゆったの」
ピアノが燃えた日、俺は見てたらしい。燃えてるとこを。言っとくが俺が燃やしたわけじゃない。それは確かだ。俺にはピアノを燃やす理由はないし、むしろ燃えたら困る。弾けないからな。だから、それだけは信じてほしい。俺じゃない。勝手に燃えたか、誰かがつけたか。そのどっちかだと思う。
「ずいぶん信じてるんだね。本人が弁護した?」
「弾きたいなら黙ってろ、て口封じの」
これからもピアノを弾き続けたいのなら、火をつけたことを黙ってろ。
「なんだ、思い出してたんだ。悪魔くんはそう採ったんだね。それでもいいよ。僕が云いたかったのは、わかる? 世界を見下したくて一番になる。てのを黙ってたほうがいいよ。聞こえが悪いから。誰かに知られたら大好きなピアノ、弾けなくなるよ、てゆう先生からの最後のアドヴァイス。ダメだよね、君に喋っちゃたんだから」
ちがう。
「燃やしたのは僕だよ。僕じゃなきゃ誰が」
冷たい指。つかむ。
庇って、逃げた。それが正解。
とにかく先生が来てて、俺もそこにいた。ピアノのある離れに。で、先生が。手招きの逆。でもレッスンの時間だからおかしい。俺はそう言ったんだと思う。いまの俺じゃなくてもそうしてる。したら先生は、ピアノになんか撒いて、ライタを出した。で、気づいたら俺は離れが燃えてくのを見てた。俺が弾けなくなったのは、ピアノが燃えてなくなったからじゃない、と思ってる。あのときはショックで何も考えられなかったが、いまんなって急に。完全に思い出したってわけじゃない。わからないって言ってるだろ。憶えてないんだ。ちーろにも話したが、もし万一先生がやったとするなら捕まってるはずだ。それに、なんで先生が俺のピアノ燃やす必要があるのかわからない。俺に怨みがあったら俺を殺せばいい。俺の先生を辞めたかったら雇い主に言えばいい。所詮契約関係だ。結局先生は見つからなかった。お前に聞いてもらおうと思って話してる。だから余計な心配はするな。結局先生は見つからなかった。結局先生は。
「なんでそ思うの?」亜州甫さんが言う。
お前に聞いてもらおうと思って話してる。
「付き合い永いですので」
「お前には知られたくなかった、て思うんじゃない?」
「黙ってます。弾きたいわけじゃないけど」
冷たい指が頬を這う。
「弾けば、死ぬのやめてくれますか」
「演奏次第だね」亜州甫さんが言う。「ブランク何年? 知ってると思うけど僕の耳、結構肥えてるよ」
動かない。動かし方を思い出せない。設計図。取扱説明書。もやがかかってて。
つめたいのが一番阻害。
後ろの冷たい気配が離れる。
「邪魔になるからね」
「リクエストとかって」
「強気だね。そうだなあ。僕の予想、叶えてみて」
あれだ。あの。一番好きな。最後に出たコンクールで、父さんが見てる前で、曲目を勝手に変更して。失格。俺にしては思い切りがよかった。なにせ、アドリブ。俺が生まれてはじめて聴いた曲。俺が憶えてる最初の。
雪の降る。チョコレイトとウェハース。重い扉が開かない。演奏はもう始まってる。会場まで遠くてついうとうと。周りの大人が気を利かせて寝かしておいてくれた。余計な気遣い。起こしてくれればいいのに。俺をガキ扱いして。わかってた。誰のリサイタルなのか。誰が弾くのか。聴きたかった。だから付いてくと、ゆったのに。
どうしても曲名があやふや。メロディラインもおぼろげ。探そうにも探し方がわからない。父さんに訊くわけにいかなかった。なんて訊けばいいやら。訊いたら確実に、マスタしたら弾いてみろ。厭だ。絶対にヤダ。父さんが俺をピアニストにしたかった理由。負けた相手に勝ちたかった。手塩にかけて育てた最強の駒で。
手を貸してくれた人。一緒に扉を引っ張ってくれた人。演奏中だから静かに、て指を一本。くちびるに。
「早く弾いてよ」亜州甫さんが催促する。
父さんにピアノをやめさせた人。そんな人の前で、敗れた人の作曲。スコアなんか拝んだこともない。ブランク四年かそこらの。叶う要素が何も。
音。不審な。俺が弾いてるのに。
そうか。おかしかったのは亜州甫さんじゃなくて、俺の。
窓辺。
いる。よし。
「曲名、教えとこうか」亜州甫さんが言う。
「あ、自分で訊くんで」
「へえ、勇気でそう?」
音。不審すぎる。どうせカネ儲けの道具。箔付けのコンクール。世界一。
妙音は妙なる音、じゃない。妙な音。
天使は。なんだろ。嫌味?
ミスった。バレバレ。弾きなおそうと思ったけど時間がない。流れを取り戻せさえすれば。チャンスは一度きり。俺のへたっぴなこれに亜州甫さんの命と、結佐先生の怨みと、ちーろさんの。えっと、ともる様の未来と。プレッシャ。押し潰されてぺしゃんこだ。
なんで? あー、えっと。こっち見て云ってね。やだやだ見たくない。僕に嘘がつけないと思ってそうしてるんだろうけど、僕だって君に嘘がつけない。確かに僕は嘘が嫌いだけどそうゆうんじゃないんだ。たぶん無自覚だろうけど、君、僕みたいなのには相性最悪な存在なんだよ。え、さい、あ。最悪って、それフツー口に出して。ダメだった。この人なんでもずかずか言っちゃうから。言い方が悪かったね。合わないってことだよ。あんま変わってないよね。僕は飛び降りたことあるんだ。
君は、止めるでしょ。そうゆうこと。
止めるよ。止めるに決まってるじゃん。死なないでよ。なんで死のうとするの? なにも死ななくたって。死んじゃったら俺。
「だから、厭だったんだ。もういいよ、いいって。やめて」
無音。窓。
いる。けど、風が。
やけに風が通る。
「君の演奏は楽しくなる。嬉しくなる。君みたいに弾きたくて、必死に努力したカラスくんのこと、ちょっと見直さないとね」
亜州甫さん?
ともる様の先生?
えんでさん?
「そーすけにゆっといてよ。追悼CD、ミリオンいくから作れって」
ナガカタさはりさん。
「父さんは」
「僕が嫌いだよ。だ」
い
き
ら
い
声が出なかった。君は、止めるでしょ。てゆうスガちゃんの声が聞こえて。
吸収音
車から降りて足元を。見てもあなたは見てない。駐車場。車のすぐ脇。空。曇天。最後まで、最期の瞬間まで私のことを見てくれなかった。亜州甫君。そんなに私が厭でしたか。ははは、そうですよね。大好きだった先生を破滅に追い込んだ私なんか。カラス君。そう、エイヘンえんでは呼んでましたね。忘れてませんよ。忘れませんよ。ええ、愛してますから。
ゼロだ。亜州甫かなまは百パ自殺する。
2
似てない。
ほうじ茶をぶっ掛けたような色の髪。地毛だろう。右柳ゆーすけの地毛は金に近い茶。瞳の色も違う。レンズに色が入っているのは機能的な理由。蒼い。日の光はさぞ眩しい。
「本人を連れてくるのが筋じゃないか」社長が言う。
「認められないと、そうゆうことでしょうか」
「本人から直接聞きたいものだが」
ともる様には、検査入院してもらっている。
来れるわけないだろ。だから私が代わりに。
「時間の無駄だな。また、アポを取るなり」社長が部屋を出て行こうとする。
「ナガカタさはりの」
社長が動作を止める。
止めた。まだ、話は。
「なんだ」社長が億劫そうに聞く。
「愛弟子が亜州甫かなまです」
「それで」
わからないのか。わかれないのか。
「一番最初の生徒が」
ともる様。
「やめたいと言ってる。その意味、社長には伝わりませんか」
社長のケータイが鳴る。ノック。呼び出し。秘書らしき人が顔をのぞかせる。忙しい、の生き見本。
やはり似てない。右柳ゆーすけは母親似だ。
似なくてよかった。
「本題はそっちか」社長が言う。
社長。と秘書が時計を見せる。
社長はそれを見ない。
「十分遅れる。待てないような俗物ならお帰り願え」
いえ、しかし。俺の判断だ。承知致しました。
秘書退場。
「幾ら要る」社長が言う。
釈放。私が報せた憶えはないから、別の。
どこだ。買収された。安い口。
「あれはこれから売れるよ」社長が言う。
先行投資。
「幾ら要ると言っている」社長が言う。
「受け取りは」
「君でいい。何かとカネがかかるんだろう」
社長は知ってる。ともる様に眼をつけた段階で私も調べつくされていたと考えたほうがいい。何も出なかったと思う。陣内ちひろの権力以外は。
「その分でともる様をやめさせてはいただくことは」
「別問題だな」社長が言う。「だいたいホールの使用料とリサイタルのキャンセル料と亜州甫に対する慰謝料は」
カネカネカネカネ。
「連れてくるなら考えないでもないが」社長が言う。
強制労働。
「死にました」
「ほお」社長が言う。
「ずっと前に死んで、もう一度死んだんです、昨夜」
「自分で。まさか君が」
損害賠償。
「君がいながら」社長が言う。
ノック。社長は無視。
勝手に開く。
オレンジの髪。肩で息。
「亜州甫さんが」
あれほど言っておいたのに。傍を離れる。望みを叶える。ピアノを弾かせる。そのどれかでも欠けていれば防げた。百パを十パまで。
右柳ゆーすけは黙ったまま。言いたくないのだろう。
社長が立ち上がって廊下に。話し声。連絡調整。情報収集。
目撃したのかもしれない。眼の前で。望み。亜州甫かなまの望み。天使の妙音の私的リサイタル。叶えたのか。叶えただろうな。結佐じゃなくても俺も。
揉めてる廊下を素通りし、社長令息を連れて本社ビルを出る。話しても伝わらない。右柳ゆーすけは私に報せに来てくれたのかもしれない。
とっくに十分経つ。無駄な時間。ともる様が辞めたいと言ったのなら、許可も契約も関係ない。
悪魔の誘響は返還。
「ともる様は、その」右柳ゆーすけが言う。
「ちょうどご命令です」
病室に派手な装いの女性がいた。ともる様のお母上。
右柳ゆーすけは初対面らしい。お父上はいまさっき帰ったとのこと。入れ違いになってしまった。ともる様のご両親は別々の家に暮らしている。仲が悪いわけではない。生活圏が、いわゆる世間一般にいう夫婦像よりも多少離れているだけで。
「ちーちゃんがいてくれて助かったわ。ありがとう」お母上が言う。
頭を下げるしかできない。はい、ともいいえ、とも言えない。私はともる様を守れなかったとほぼ同義。
感謝されるべきは右柳ゆーすけ。
私じゃない。
お母上はともる様の額に触れて、忙しそうに帰っていく。右柳ゆーすけはまともに自己紹介すらできなかった。滞在時間がどうこうではない。手際が悪いだけ。
ともる様はまだ一言も口を利いていない。利く必要がない。
「ちーろ」ともる様が言う。
先に、右柳ゆーすけと話を。畏まりました。
「あ、あの」右柳ゆーすけが引き止める。
止めても無駄。ともる様が退場といったらそれは絶対。
腕。停止。
「誰が出ていけと言った」
違った。出て行きたかったのは、私の。
何を、話せば。
「亜州甫さんは無事なのか」ともる様が言う。
クビ。
触れない。
「怪我をしたと聞いたが」ともる様が言う。
首。
振れない。
「ともる様の最初のピアノの先生ですけど、もしかして、もしかするとですよ。父さんのライバルだったかもしれない、かも、で」
ともる様が眉を寄せる。
右柳ゆーすけが自分から自分の周辺事項を話すのは珍しい。尋ねられても答えない。拒否拒絶。
「本当か」ともる様が言う。
「た、ぶん」右柳ゆーすけが頷く。
珍しい。私を庇って無理に話題を提供するなんて。
「俺がピアノ弾きたいって思ったのは父さんの弾くピアノが好きだったからで、でも父さんはともる様の先生に負けて弾かなくなっちゃって、そんで、だから」
「社長に鍛えられたお前と、先生に扱かれた俺は、ライバルで当然か」
「あの、もういちど」右柳ゆーすけが言う。
珍しいにもほどがある。
眼が、合ってる。ともる様を真っ直ぐ見て。きちんと自分の言葉で。
「もういちど、弾かせてください」
「なんで俺に許可を取る。弾こうが弾かまいがお前の自由だろ」
語彙選択が下手くそだ。
ともる様もそれをわかってる。お顔がほころんで。
「世界一は譲ります」右柳ゆーすけが言う。
「なんだそれは」ともる様が息を吐く。
「世界一とか日本一とかじゃなくて、俺はそうゆうのは厭だから。ともる様なら父さんが裏工作しなくても、ぜったい、ぜっったい、世界一ですから」
来週のコンクール、頑張ってください。
そう云えばいいのに。云わんとしてることは伝わってるだろうから心配はないが、問題は内容。父さんが裏工作。それは、言わなくてもよかった。
まったく、正々堂々を掲げるともる様にそんなこと言ったら。
「おい、裏ってどういうことだ」
「大丈夫です。ともる様なら確実に誰がなんと言おうと世界一決定ですんで」
「答えになってないぞ。社長がそんな」
「もう退院できるですか。あ、長野は寒かったですね」
「おい」
くしゃみ。本気でやってたら大した役者だが。
「風邪引いちゃったみたいで。ともる様は気をつけてくださいね。なんせ来週」
「右柳!」
やはりこれは私の仕事。右柳ゆーすけには荷が重すぎる。寮には遠いが自分で帰ってもらうほかないだろう。右柳ゆーすけは、私にぺこんと頭を下げる。廊下に出た際に一言くらいあるのかと思ったが、なにも。眼も合わない。
いつもの右柳ゆーすけだ。
そろそろきちんと私の仕事内容を説明したほうがいいかもしれない。勘違いされている。常時怪我必須の危ない職務かなにかと。
静かに病室に戻る。
機械で測れる数値には異常なし。
これから私がすべきは、精神科診療を勧めることではない。云わなければ。
亜州甫かなまは。
「何度も云ったはずだ」ともる様が言う。「云いたくないなら言いたくないと言え。どうなんだ」
云いたくない。
でも、これは云わなければ。言わないと。
「私の我が儘を聞いてもらえないでしょうか」
「なんだ」ともる様が言う。
「これを」
外してください。ガーゼ、包帯。
「いいのか」
躊躇。するだろう。
ともる様は見たことがある。知っている。知っているからこそ知らないふりをしてくれていた。
顔を洗うとき。入浴するとき。手を洗うとき。調理するとき。外さざるを得ない機会はそれこそたくさん。同じ家に暮らしていれば。
「本当にいいんだな。いまだって特に見たいわけじゃ」
気持ちが悪い。爛れた皮膚と、欠けた指。指は私にも見えるが、頬は。
ここではともる様にしか見えない。私もしばらく見ていない。なかったことにしていた。見たくないなら見なくてよかったから。
ともる様が私の手を摑む。
包帯。白い布。右から。右はぜんぶある。
次は左。中指から遠いところから。
中指。
「腰落とせ」ともる様が言う。
頬。眼を瞑る。皮膚が攣る。
風。
開ける。黒い眼がそこに。
「治っているじゃないか」ともる様が言う。
治ってない。
「見たぞ。見たから、なんだ」
指輪。さすがはともる様。気にしてくれてない。
左手の。
「亜州甫かなまが亡くなりました」
無言。
「ともる様の最初のピアノの先生、エイヘンえんでは私の古い」
友人? 恋人? わからない。気にしたこともない。
つながり。
「黙っていて申し訳ございませんでした」
無言。
指。中央の空虚。
頬。上皮の荒廃。
ともる様の指が撫でる。錯覚。重ねる。
えんでの言うとおり。忘れた。忘れるしかなかった。あのまま居たら。よくて監禁。わるくて破壊。忠誠を誓ったところで主従関係に甘んじられない。
ハリの言ったとおり。破滅。しそう。
亜州甫かなまの死。結佐の破滅。
私の破滅は、いま。
やめる。お父上には話をしてある。ともるがいいと言うなら。条件。
じゃあ頼むよ。困ります。開店時間。客が。小学生が居ていい場所じゃない。連れて外へ。行けない。手。指。見られてしまう。触ったらすぐに。すみません。抱えて外へ。下ろせ。鋭い視線。なんだおまえ。なんだろう。私は。名前。陣内です。ちがう。陣内の名前だ。なまえ。名前。ちーろ、です。ちーろ。でも、書くと。ちひろ。ちひろって書いてちーろって読むのか。誰にも読めない。私にも読めないんだから。ハリは読めたけど。特別。ちーろ。おれはともるだ。ともる。よろしく。
ちーろ。
何してる。なんだろう。わからない。あ、黒い。赤い。腕、つかまれて。やめろ。やめるってなにを。鋭い眼。なんでこんなことした。わかりません。わかんないわけないだろ。血が出てる。血。この黒いのは。赤いのは。厭なのか。なにが。厭なんだろ。これ、見たくないんだろ。だから俺と眼を合わせない。何か後ろめたいなら言わなくていい。云いたくないことは言いたくないと言え。誤魔化されたり嘘なんかつかれたら腹が立つだけだ。正直に言え。これとこれ。見たくないんだろ。うなずく。じゃあ見なければいい。ちょっと待ってろ。ガーゼ。包帯。眼、瞑ってろ。頬がくすぐったい。指があたたかい。もういいぞ。ガーゼがない。包帯は手に。これでいいだろ。見なくて済む。隠したからな。
ちーろ。
紹介してやる。右柳だ右柳。ほら、こないだ話したろ。世界一になった奴だ。俺と同い年なんだ。お前も、黙ってないでなんか言え。なんだ。怖いのか。こいつは俺の護衛の。
ちーろ。
聴いてたか。まあ、この程度じゃ俺は満足しないがな。次は世界だ。あいつに負けてられない。技術だけなら俺が勝ってる。そうだろ。社長にも言われた。俺には足りないんだと。何だと思う? 一緒に考えてくれないか。俺に足りないもの。それがわからないと俺は世界で一番になれない。そんな気がする。右柳にはあって俺にはない。そうだ。右柳の聴いてみたくなった。行くぞ。
ちーろ。
なんていった? もっぺん言ってみろ。やめる? なんで。理由を言え。俺が納得できるように。黙るなよ。俺は怒ってるんじゃない。訊いてるんだ。なあ、頼むから。なんでやめるなんて。お前がやめたら俺は。わかった。お前が決めたんならそれで。
ちーろ。
付き合わせて悪かったな。でもお前がフランス語話せるなんて。そうゆうことは早く。迷ったんだドイツと。なんでドイツにしなかったかって。右柳に悪い。内緒だからな。右柳の母親が。まあ、そうゆうことだ。言うなよ。あいつ、気にしてるから。兄貴もいるらしい。ドイツに行ったらばったり会うかもしれないだろ。そうしたら右柳は。会ったことないんだと。だから、俺が先に会っちゃ悪い。
不可能だ。無責任とか情が移ったとかを差し引いても。差し引けない。ハリは死んだ。ろなしあも、ふつちも、そあんも、いくるも、なぼのも、えんでが殺した。えんでは死んで、ひゆめも死んだ。じらふは鬼立を殺そうとした。私はじらふを殺した。亜州甫かなまも死んだ。陣内ちひろだけ生き残って。頬も指もどうでもよかった。ともる様の近くにいたのだって。忘れたくなかったから。思い出す。似てる。あまりにもそっくりな。やめたくない。やめたいわけない。
「いつ」ともる様が言う。
亜州甫かなま。
「今日です」
「それで、あいつ」
右柳ゆーすけがピアノを弾く。四年ぶり。
やめる。と言ったときのともる様の落胆ぶりがあまりに痛々しく。日本にいられないとばかりにフランスに。どこでもよかったのかもしれない。右柳ゆーすけがいないところなら。眼の届かないところなら。眼の前にいたら催促してしまう。無理強いをするご自分に耐えられない。
「殺されたのか。それとも」ともる様が言う。
「自分で」
「知ってたのか」
私が見殺しにした。といっても過言では。
「亜州甫さんとも」ともる様が言う。
「ともる様ほどの親交は」
「リサイタル、してないのにな」
頬と指。離れる。
力が。入ってない。
退室命令が出てなかったので、ともる様が落ち着くまでそばにいた。
帰るぞ。はい。と返事はしたものの、帰る? どこに。住居はここ。なんだその顔は。不明なことがあるんなら。まさか、ご実家に。そっちじゃない。まあ、ついでに寄るくらいだ。目的は。チケット。リサイタルの。場所が日本。なるほど。帰らないと聴けない。最近頻繁にメールの遣り取りをしていたのはこの人だったのか。てっきり右柳ゆーすけかと。ライバル関係は一方的に破棄されたとはいえ、ともる様の数少ないお友だちのひとり。
楽しみにしていた。コンクール直前だというのに。それほどまでに。聴きたかった。えんでのせいかどうかは。
ああ、えんでのせいだった。
しかしえんでをそこまで追い詰めたのは。駄目だ。原因特定してるんじゃない。
「どうりで懐かしかったわけだ」ともる様が言う。「亜州甫さんのピアノは先生の。そうか。亜州甫さんも俺と同じ」
おなじ。なんだろう。わからない。探れない。
指輪。指して。
「もらったのか」ともる様が言う。
「言えません」
「やめたら、そいつのところに行くのか」
やめる条件。ともる様の。
「お聞きに」
「見ればわかる」ともる様が言う。「許可なんか下ろさない。まだやめさせないからな。こんなとこで、こんな中途半端なところでやめさせられるわけないだろ。無責任だ。俺が未成年のうちは認めない。あと三年だから。三年だ。だから、もう少しここにいるべきなんだよちーろは。わかったな。お父さんが何言ったか知らないが、俺が駄目だと言ったら」
やめる条件。クリアできるはずない。お父上は、はじめからやめさせるつもりなど。お母上に刺された釘も。やめられるわけがない。
駄目なのだ。あなたが駄目だというのなら。
建物の外に出て電話をかける。お父上に報告。それと、もうひとつ。
ゆーき出してってこと。
「あした帰る」
3
ふざけるな。
この忙しいときに、電話一本で。通るわけがないだろう。
職務怠慢。クビだ。
「ずるいですよね。私だって本当は」
「お前まで」
いや、ちょっと待て。ずるい?
「あれ、聞いてませんか」緒仁和嵜が言う。
「なにをだ」
有給です。以上。龍華からは詫びも何もない。たったそれだけ。
嘗めているとしか。
「言うな、とも云われてないんでゆっちゃいますけど」緒仁和嵜が言う。
フられた。
「はあ? そんなことくらいで」
「そんなこと、てそりゃあなたはいいですよ」緒仁和嵜が言う。「あなたの直属ってだけで友だちいーっぱいできましたもん。女の子の」
「理由はどうでもいい。ったくあいつ、今後こそ」
「辞めよっかなあ、ともゆってましたよ。龍華ってああ見えて細いんで、相当ひっどいフられ方したんじゃないですか」
「やけに詳しいな」
「世間話くらいはね」
龍華は、逐一私を避ける。上司の私には何も言わず同僚の緒仁和嵜にはなんでもべらべらと。人事を考え直したほうがいいかもしれない。
陣内。あいつもそう言って。
あ
忘れてた。そっちを聞き出すつもりが。
「ここ、頼む」
「ちょっと、駄目ですよ。これから会議」緒仁和嵜が言う。
「下調べだ。すぐ戻る」
「陣内って人の」
「お前にいう必要は」
「無駄だと思いますよ。龍華だって朝方気づいて」
まさか。ケータイ。このタイミングが悔しい。
彼女が黒だよ。俺のゆうとおりにしてくれたら、お前にだけ話してもいい。
絶対に間に合わない。間に合わせないために電話を掛けたとしか。
空港。
「余計な荷物が紛れ込んでたから引き取りに来ねえ?」陣内から。
龍華。じゃないだろうな。
「傷心旅行だと。くっだらねえから叱ってやれ」
「行くのか」
お前にだけ話してもいい。
また、約束を破る。
信用するんじゃなかった。こいつを信用していままで莫迦を見てきたというのに。忘れてる。
「次は」
「いまから来るとか、そーゆー考えはねえのかアホが」陣内が鼻で嗤う。
「アホとは何だ。だいたいお前が上にいたなんて知らせもしないで」
「いねえよ。辞めた」
辞めた? 何故。
「だからもうお前がヘマしようが庇えねえから。そんつもりでしっかりやれよ」
「まだ間に合うんだな」
「いまから飛ばしゃあな。どっかの道交法完無視ケーサツなら余裕じゃね?」
行くべきか。行ったら確実に莫迦を見る。
わかってる。そのくらい。
しかしこのままここにいて下らない会議に出るより。事件だって納得いかない。
緒仁和嵜が訝しい顔を向ける。だだ漏れだ。
移動する。
鬼立、悪いが先。あのあと何を話した。爆炎。彼女は死んだのだろうか。鑑識待ちだが、あの爆発ではまず。
陣内は泣いていた。あいつが泣くなんて。
おかげで私は泣けなかった。眼の前で彼女が死んだというのに。
あのときも、泣けなかった。十二年前。
電話は切れていた。余計な荷物。傷心旅行。掛けなおす時間が惜しい。龍華にサボるなと言っておいて、自分で。世話ない。
「好きなんですか」緒仁和嵜が言う。
「誰が誰を」
「私だったら会いに行くけどなあ」
「だからなんの」
「昔ナースだったって話、しましたっけ。辞めたのはケーサツになりたかったからってわけじゃなくて、単に産休です。子どもって思いの外手がかかるんですよ。知ってます?」
いったい何の話をしてるんだ。産休?
「結婚してたのか」
「婚外子です」緒仁和嵜が言う。「だから世間体悪くって。私の実家ってそうゆうの全然」
「悪いが、急な用件じゃないのなら」
「子どもの顔知らないんです。変でしょう? 私が産んだってのに」
立ち去れない。別に緒仁和嵜がここに来る前に何をしていたかなどどうだって。いま話さなければいけない内容とも思えない。
それよりもっと重要な。
「無駄ですって」緒仁和嵜が言う。「行ったってみっともないからやめてくださいよ。別にあなたに好意があるとかそうゆうことじゃありません。私がケーサツに入った理由。いくつかあるうちの一つ教えます。どうしても会いたい人がいたんで」
「俺じゃないんだな」
「違いますね。あなたと深い知り合いの」
陣内。
「居場所、知ってるんだな」
「飛行機でしょ」緒仁和嵜が言う。「大丈夫です。あなたに怨みはありませんし、陣内って人にも直接的な怨みはありません。会ったことあるってのに、憶えてなかったし。きちんと名前も云ったんですよ。院長の娘ですってね。えんでさんが入院してました」
彼女が。入院。
いつの。
「ちなみにそこでナースしてたんじゃないですよ。親のコネ使ったみたいで気が引けるから遠くに。ただ闇雲に遠くにしたわけじゃなくて、やっぱり会いたい人がいたんで、そこに。その人も私のこと憶えてませんでした。陣内って人は顔合わせただけからまあしょうがないとしても、その人とは。てあんまり話したくないんですよね。私、そいつのこと殺しても殺しても殺し足りないくらい憎いから」
それは、私に話すべき事柄なのか。誰かに聞いてほしいのなら龍華辺りに。
「関係ないんで」緒仁和嵜が言う。「一応関係者に聞いてもらったほうが私としても」
「なら陣内に」
「憶えてないんですよ。憶えてない人に言ってもしょうがない。憶えてないんですから。忘れてるんじゃなくて、そもそも記憶になってない。だったらなんにも知らない、且つ即実践力になりそうな上司に相談したほうが。旧友のお見送りに向かいたいところを出端挫いてごめんなさい。たぶん、陣内って人、あなたを待ってると思うんで」
「そいつを俺が陣内に持ってけと」
「そうしてもらえればよかったのかもしれませんね」緒仁和嵜が言う。「もういいんです。えんちゃん逝っちゃったんで。橋渡しもなにも。ケガ人なんか放っといて、私も行けばよかったなあ。そうやっていつも違うほう選んじゃうんですよ。五択あるうちの二択まで絞れるんですけど、最後の最後で間違ったほう。こっちじゃないってほう選べばきっと合ってるんでしょうけど。運が悪いのかも。えんちゃんにも気づいてもらえなくて。そんなに私、変わってないのに。ちょっと髪切ったくらいで」
腕時計を見る。会議の時間だ。
「行ってください」緒仁和嵜が言う。「我が儘な部下のせいでお咎めとか厭なんで」
「続きがあるんだろ」
「また後日」
出席しようが遅刻しようが欠席しようが。どれを採ってもマイナスにしかならない。最初からサボるつもり。口実を考えていたところだった。緒仁和嵜は、私に見込みがなかったことがわかって中断を申し出たのだ。優秀な上司はそのくらい察しなければ。
案の定、あまりにも不毛な堂々巡りに嫌気が差して退席した。電話がつながらなかったので空港に。いるわけがない。あなたを待ってる思うんで。
まさか。嫌味のひとつでも言うためにか。そこまで暇な奴ではないだろう。私だってこんなところまでのこのこと。お前にだけ話してもいい。彼女が黒。彼女がやったというのならそれでもいい。罪は問えない。逮捕もできない。被疑者死亡。
国際線。どこに行くのかも知らない。だいたいあいつはこの十年どこでなにを。
「あした帰る」陣内が言う。
「じゃあ何故今日ここにいる」
何か違和感。ガーゼと包帯が。
ない。
「フランスだ。またしばらく帰ってこない」
「何故ここにいるかと訊いてる」
「勇み足の誰かさんが来ると思った」
展望デッキ。滑走路が見下ろせる。風が強い。おまけにうるさい。子どもが走り回っていて危なっかしい。大声を張り上げなければ聞こえない。会話の内容が第三者に聞かれることはまずない。
私にだって聞こえないのだから。
「亜州甫かなまが死んだ」陣内が言う。
誰だそれは。
「ホールの屋根から飛び降りようとした奴だよ。やる気ねえだろ」
「実感がない。他人が死んだところで哀しくも何ともないんだ。おかしいか」
「えんでんときも?」陣内が言う。
「あれはお前がわんわん泣くもんだから」
「そうじゃねえ。十二年前のほう。ショックで監視係サボったんだろうが」
「容量を超えただけだ。あれは死に方が悪い」
火傷なんかとっくに治ってる。指の数だっていちいち数える輩もいない。
「ひっでえな」陣内が鼻で嗤う。「好きだったくせに。指輪まで贈っといて」
「忘れた」
「お前の得意技だ」
「そうらしいな」
何を訊きに来たのか。何をしに来たのか。
陣内の様子。さぞ落ち込んでいるのかと思ったが、取り越し苦労だった。これだけ皮肉を言えれば平気か。
離陸。
「いまのうちに訊いとけよ。こん次会ったときにいろいろ言ったってなんも答えねえぞ」
「龍華は何故知ってる」
陣内が探偵だと。それを知っているのは私と本人と、さらに上層の。陣内は探偵と呼ばれるのを嫌うので、自分から話すとは思えない。
「ちょうどいまっ頃かな」陣内が言う。「遥々京都まで迎えに来させたあれ。坊ちゃんの実家だかがすぐそばでな、あすこに支部がある。大陸から渡ってきた薬屋の」
「大阪のとは別なのか」
「あっちは扱ってるもんが生もんだから。売りゃしねえよ貸すだけだ。お前が流される前の上層辺りはお世話になってっと思うぞ。特に夜中とかな。どっちにしろカネだカネ。坊ちゃんの名字、漢字で書くとなんとなくそれっぽくね?」
着陸。
何も聴こえない。聞かなかったことにするか。本人に追及。煙に撒かれるのが落ち。
龍華。考えたこともなかった。
「スパイじゃないだろうな」
「絶縁したんだと」陣内が言う。「つーか怒んねえのな。クビ飛ばせよ」
「検討しておく」
さすがに冷えてきた。暴風に体温が奪われる。昨夜の猛吹雪よりはましだが。
「何してた」
「少なくともニートじゃなかった」陣内が言う。
「日本語ですら覚束ない奴がフランスなんかでやってけるのか」
「やってけてなかったら務まんねえ仕事なんだよ。会話なんざそんなもん。十年丸々そっちにいたわけじゃねえし」
「何の仕事だ」
「よーじんけーご」
用心敬語?
「小っさい頃にえんでの猛毒に中てられちまったおかげでいつ爆発すっかわかんねえ不発弾抱えた国王様」
「わけがわからないが」
「お前とおんなじだよ」陣内が言う。「えんでに人生の岐路いじられた」
「いまもか」
「期限切れかと思ったら、あと三年はへーきだと。そっから先は」
「どうするんだ」
「ご意見番辞めちまったし、また、ニートかもしんねえな」
着陸。離陸。
子どもらがいなくなっていた。親が建物内に避難したからかもしれない。
曇天。雪は降らないとは思うが。
「震えてっぞ」陣内が言う。
「寒いんだ」
「引き上げるか」
「俺の部下の緒仁和嵜って知ってるか」
「いんや」陣内が首を振る。
「えんでさんの入院してた病院の院長の娘なんだと。お前にも挨拶したそうなんだが完璧に忘れ去られてたと嘆いてた」
「いつの?」
「さあそこまではな。サキは昔看護師だったらしいが、そのときに知り合ったわけじゃないそうだ。ああ、それと子どもがいると言って」
陣内が不穏な表情になる。
憶えてないんですよ。憶えてない人に言ってもしょうがない。憶えてないんですから。忘れてるんじゃなくて、そもそも記憶になってない。それを、思い出したのか。
「おい、そのサキって奴ひとりに」陣内が言う。
「なんだ。問題でも」
「大アリだ莫迦が。なんでそこまで聞いといて放っとくんだ。助けてくれってことだろうが」
た、すけ
だったらなんにも知らない、且つ即実践力になりそうな上司に相談したほうが。
「戻るぞ」陣内が言う。
「戻るったって車で来て」
「わーってる。お前が運転」
本部にいるという確信はない。自宅。いや、龍華とは違う。何かが起こっていない限りは待機。それでも大人しく書類整理だのをしているとは考えがたい。
なにか、ヒントになるような。
ただ闇雲に遠くにしたわけじゃなくて、やっぱり会いたい人がいたんで、そこに。その人も私のこと憶えてませんでした。陣内って人は顔合わせただけからまあしょうがないとしても、その人とは。てあんまり話したくないんですよね。私、そいつのこと殺しても殺しても殺し足りないくらい憎いから。そうしてもらえればよかったのかもしれませんね。もういいんです。えんちゃん逝っちゃったんで。橋渡しもなにも。ケガ人なんか放っといて、私も行けばよかったなあ。そうやっていつも違うほう選んじゃうんですよ。五択あるうちの二択まで絞れるんですけど、最後の最後で間違ったほう。こっちじゃないってほう選べばきっと合ってるんでしょうけど。運が悪いのかも。えんちゃんにも気づいてもらえなくて。そんなに私、変わってないのに。ちょっと髪切ったくらいで。また後日。
後日。そんな日は来るのか。
「手遅れの可能性は」
「ねえな」陣内が言う。「そうじゃねえよ。ホントに死にたい奴は黙ってこっそり死ぬ。要は止めてほしいから」
即実践力になりそうな上司に相談したほうが。
十二年前と変わらない。あのとき、彼女からかかってきた電話。必死に助けを求めて何度も何度も着信が入っていた。ひらがなばかりのメールも緊急性の高い証拠でしか。
それなのに私は、無視した。気づかなかった。気づいたときにはもう。
「ナース苦しめるのはどいつだと思う?」陣内が言う。
昔ナースだったって話、しましたっけ。辞めたのはケーサツになりたかったからってわけじゃなくて、単に産休です。子どもって思いの外手がかかるんですよ。知ってます?婚外子です。だから世間体悪くって。私の実家ってそうゆうの全然。子どもの顔知らないんです。変でしょう? 私が産んだってのに。私がケーサツに入った理由。いくつかあるうちの一つ教えます。どうしても会いたい人がいたんで。
違いますね。あなたと深い知り合いの。
「患者じゃねえよ」陣内が言う。「医者だ」
無駄ですって。行ったってみっともないからやめてくださいよ。別にあなたに好意があるとかそうゆうことじゃありません。
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