第5話 Giraffe 指食むモノ
1
だから俺は役立たずなんだろう。
滅多にない経験をしているとは思うんだけど、今回限りで勘弁してほしい部類の。首に当てられてるのがナイフなのか包丁なのか。それだけでも確認しておきたいとか冥土のみやげにしては危うい思考をせっせと構築しているところからゆってもう末期。この組織が人命第一を掲げてなかったら間違いなく遺言だった。
でもこれだけ大量にいれば統計的にひとりくらい。いるんだよね、そうじゃない人が。
ともる様にそっくりな、希硫酸。
「撃つぞ」
お願いだからやめて。手元が狂うとかして。俺に中らない確率って。
「一度しか言わない。そいつを離して大人しく」
「お願いがあります。聞いていただけるのなら彼は」
「聞けるわけないだろう。さっさと」
なんか、首に。
「ならば彼の首を掻き切ったのちにわたしも死にます。それでよろしい?」
よろしくないよろしくない。ちっともよろしくないですから。他の人が一斉に躊躇うのに希硫酸だけは違う。銃構えたまま距離詰める。
なにそれ。ちょっと、え。眼が血走ってるんですけど。
「お前のような奴は死んだほうがいい」希硫酸が言う。
「せめて条件を聞いていただけませんか」
トリガ。にかかってる指が動く。かちゃ、て。
「連れてっていただきたいのです」
「地獄にか」希硫酸が言う。
この人本気だ。ぜったい撃つ。顔に書いてある。
「あなたの車に乗せてください。そのあと場所を」
もう痛いのか痛くないのかわかんなくなってきた。頭は痛いけど。
「あの、できればゆうとおりに」
「お前は黙ってろ。人質だろ」希硫酸が言う。
コントか。
「わたしからもお願いします。彼を殺したくないのです。どうか」
ぜったいおかしい。犯人がケーサツに人質の命乞い。
間違ってる。他の人もそう思ってくれてるみたいで、希硫酸にそうゆう眼差しを向けてくれてる。多勢に無勢。てわけじゃないんだろうけど、銃口が。逸れて。
「乗れ」希硫酸が言う。
拘束されつつ後部座席。助手席に他の人が乗ろうとしたけど駄目っぽかった。女の人が威嚇したんじゃなくて、希硫酸が。指示。何人でとか何台でとか。
もしかしなくても、民間人助ける気ないですよね。
荒々しく発進。シートベルトが首に締まる。さらにぎらりと光るそれはナイフなのか包丁なのか。もういいか。どっちでも。死因は刺殺に変わりないんだし。
バックミラ。殺意に満ち満ちた眼。どっちが犯人かわかりゃしない。
「次の交差点で左折してください。二ブロックほど行ったところで脇道が」
「わかってる」希硫酸が言う。
加速度。黄色というかほとんど赤。現役のケーサツ官が道交法をことごとく無視。ききききタイヤが鳴って車体が揺れる。危ないって刺さったら。
て、まさか。撒いた? 後ろのあれぜんぶあなたの仲間じゃ。
「まだ付いてきやがるな」希硫酸が呟く。
もうぜったい制限速度とか知らない。概念無視。キモチ悪い。ぐわんぐわん揺れるのはいいとしてやっぱり刃先が刺さりそうで。シートベルトで絞殺のほうが幾分かマシのような気がしてこないでもないような。
「くっそ、しつこい。あいつら全員クビにしてやる」
聞き間違いであってほしい。この人はいったいなんなんだろう。切なくなってきた。こんなのに国民の平和と安全を託してもいのだろうか。反語。
「行き先を」
「そのくらいわかる」希硫酸が溜息をつく。「ったく、俺なしで片付けようとしやがって。許さん」
吐き気も通り越した頃、首元が楽になった。
あ、ない。シートベルトだけ。
「いいのか」希硫酸が言う。
「きちんとお話をするのが目的でしたから」
えっと、俺。ハブ?
希硫酸が後ろになにか放る。光って。
女の人が受け取る。
「えんでさん、ですね」希硫酸が言う。
「ええ。いつお気づきに?」
「手紙をくれたでしょう。部下を連れて美術館に行ったんです。そのとき」
知り合いなのかな。
「証拠品ですよ」女の人が言う。
「俺のところに届いたのは指。それだけです」
なんだろう。すごく、見たい。
宝石? 貴金属?
プレゼント。てわけではなさそう。
そもそも女の人のもので、それを返しただけ。みたいな。
てゆーか、指?
指が届いたってどんな状況。
「人形なんて、たちの悪い方法を採ってしまって」女の人が言う。「あなたにはもっと早くに謝らなければいけなかった。ごめんなさい。あれはすべてわたしが考えて」
「忘れました。なんのことなのか」
入り込めないなあ。
「忘れっぽいって、本当なんですね」女の人が言う。
「誰から聞きましたかそれ。見当はつきますけど」
「わたしのことも忘れてください。でも、ちー」
急に曲る。また追っ手。
というか希硫酸の部下だと思うけど。
チィ? 麻雀の?
「その話は追々」希硫酸が言う。「二、三伺います。月曜からのあれは」
「わたしです。わたしの作品」
なんのこと?
「作品、とは」希硫酸が言う。
「美術館にいらしたんでしょう。ああ、思い出しました。あなた、いましたね。だいぶ雰囲気が違ったのでわからなかった。ごめんなさい」
「どうして黙っていたんですか。アトリエから、その、発見されるまで」
「されても黙っていたでしょう」女の人が言う。「喋る必要がなかった。だってあなた方が尋ねること、つまらないんです。お前がやったのか。どうしてあんなことしたんだ。何か言え。口を開く気も失せます」
犯人、なのか。
なんの?
なにしたんだろう。
「アトリエのあれは」希硫酸が言う。
「わたしの子どもです。鑑定とかなさらなかった? 正真正銘わたしの」
「あなたのではなかったようです。だからこっちも困った。誰の子なのか。攫ってきたのか。適当な行方不明者はいないか」
「わたしの子ですよ。もっときちんとお調べになっては」
「そうします」
子ども、死んだのかな。
発見、とかあれ、とか。俺がいるからはっきり言わないんだろうけど。なんとなく。
「面白いです」女の人が微笑む。「あなたに尋問されたかった」
「今してますよ」希硫酸が言う。「生憎私は民間人の口を割らせるのが不得意で、つい部下に」
「謙遜を」
「いいえ、本当です。慣れないことをしているせいでステアリングが汗で滑る。安全運転で行きたいのでどうか、ご協力のほどを」
「ええ、そうですね」
安全運転て、どの口が。
「なぜ指を」希硫酸が言う。
「欲しかったからです」女の人が言う。
「欲しかった、て欲しいですか?」
「あなたにも欲しいものがあるでしょう。それと同じです」
「自分の娘の指が」
「娘に限りません。欲しくなれば手に入れます」
「ではなぜ手放したんですか。欲しかったのなら」
「手に入れる、と手元に置く、は違います」女の人が言う。「わたしは子どもの指を切り落とした瞬間に欲しかった指を手に入れました。ですからそのあと手の届く範囲に置いておく必要はありません。好きな方がいるとします。その方を手に入れる、ということは手元に置くことですか。そうではないでしょう。互いに想いを通わすことではありません? 好きな方を手元に置いておきたいという思考は監禁です」
希硫酸が黙る。
よくわかんないけど、この人は自分の娘の指が欲しかった?
しばらく静か。呼吸がしづらいくらい。
「誰を庇っているんですか」希硫酸が言う。
「庇っているように見えますか。どうでしょう。わたしの忘れ物が」
雪だ。
え、雪? いま春じゃ。
ところでここはどこ。だいぶ長い間揺られてたような気がするけど。怖いから時間は見ない。どうせ門限に間に合わないんだし。
降ってるんじゃなくて舞ってるんでもなくて、吹雪いてる。びゅうびゅうと。降りたくないな。暖房入れてくれたから結露が消える。ぼんやりと浮かび上がる。建物。
どっかで。
首にまた冷たい刃物が。
そっか目的地。着いたんだ。
「降ろしてください」女の人が言う。
「そいつを置いていけ」希硫酸が言う。
「わたしにはもう少しやることがあります。それが済んだら必ず」
「信じられないな。そいつの指も欲しいのか」
ええええええええ。なんとゆう恐ろしい。
「停めてください」女の人が言う。
「そいつの指が欲しいのかと訊いてる」希硫酸が言う。
首。振って。
停車。ドアが開くのと同時に外に。
吹雪の。さむい。寒すぎる。すでに温度センサが故障してうんともすんとも。
チョコレイトアイスの両側にひとつずつウェハースが刺さった構造。
やっぱこれどっかで。いつだろう。
前に、ここ。
「寒かったでしょう。ごめんなさいね」女の人が耳元で言う。
首。振りたいけど。振るとナイフが刺さるってゆうかホントのところはさすがに寒かったってゆうか。春の装いで来ちゃったから。
ホワイエ。天井が高い。雪の結晶みたいなライト。眩しい。
希硫酸が視界のすみっこに。銃構えてついてくる。あなたのほうが百万倍は怖い。
観音開きの重い扉。ひとりで開けられなかった。誰かが手伝ってくれたんだった。
誰だっけ。ピアノ。そこだけやけに明るくて。
ステージは。
かんかんかんかん。希硫酸が一目散に座席の間の階段を下りていく。
え、あれ? ちょっと。いいの? 俺、人質なんですけど。眼離しても。
希硫酸が最前列とステージの間で蹲ってるなにかを引っ張り上げる。
白い。コートの。
「なにやってんだ」希硫酸が言う。
やたらでかい。あの体格は見覚えが。
指。指す。先は。
ステージ。
「あれがなんだ。ただの」希硫酸が言う。
「ともる様が」
その声は、ちーろさん?
よく見えない。暗くて眼が慣れない。
「
「ともる様が、ともるさ、まが」
ステージと袖の間。に、なんだあれ。
黒い塊。
真っ黒の。髪。服。靴。
ステージの床になにか。なんだろう。
細い。白鍵?
「いい加減にしろ。中榧ともるはここには」
「ともるさま、は」
指。指す。
「あれは中榧ともるじゃない。よく見ろこの節穴が」
人形。
だと思う。わかんないけど。よくできてるけど。
「に、んぎょ」
「人魚じゃない。なんで人形が人魚になるんだ。寒さで頭がいかれたか」
希硫酸が人形を蹴ったくる。
がらん。厭な音がして、倒れる。
顔は。ない。そこだけなにも。
「お前か」希硫酸が座席を振り返って言う。
女の人の口元が上がる。
「あなたのときと同じ手です。これで証明できました」
ちーろさんが、視線。上方。俺の、隣。
わらう。
わらわない。
「
駆け抜けて、外。さむい。吹雪。
あとから、ゆっくり。わかってる。わかってない。
ウェハースからチョコレイトアイス目指して。
白いドレスの。
黒い長い髪の。
2
僕はいまさいこーの気分。
僕だけのためのリサイタル。僕だけのために弾いてくれた。
先生のピアノが聴けて、先生の声も。呼んでる。
雪が。
「亜州甫君」
ほじょーちゃんかなあ。真っ白でよく見えないや。
白衣着てるからだね。先生。お医者さん。
「お願いです。そんなところ、下りて」
降りるよ。降りるために登ったんだから。降りなきゃ。
足場が滑る。安定しないなあ。せめてあそこまで。
っと、危ない。しっかりつかまらないと。
「亜州甫君。ねえ、お願いです。こちらに」
手。伸ばしてくれてるの?
うれしいけど、いまは要らない。あとで。
降りたら。
「亜州甫かなま!」
呼び捨て? 珍しいね。
じゃ、ないみたいだ。
「ともる様はどこだ」
悪魔くん?
さあね。地獄とか魔界とか、そっち捜したらどう?
重いなあ。ケーサツってこんなのポッケに入れてんだ。
まずは。ゆきに。
「無駄弾捨ててねえでてめえを撃てよ。死ぬんだろ?」
うるさいなあ。ちーろ。黙らせたと思ったのに。
なんで。
悪魔くんは死んだんだよ。見てないの? 指。
ぜんぶ切って。落として。
「ともる様にちょこっとでもキズがついててみろ。てめえぶっ殺す」
そんなことゆったって。キズも何も指ぜんぶないんだから。ねえ。
ちーろに殺されるの?
それはそれで面白そう。二発目。ちーろにあげる。
難しいなあ。これ、使えない。
「へったくそ。手、震えてんじゃねえのか」
ちょーはつする気?
乗らないよ。僕は死ぬんだ。死ぬって決めてたんだから。
銃口。そうそう。こめかみ。
「どーでもいいが、こっち見てから死ね」
見るったって、白くて。
しろい。
せんせい。うそ。なんで。
なんで先生がここにいるの?
「亜州甫なんとか。莫迦なことはよせ。さっさと降りて」
「うっせえな」ちーろが言う。
「うるさいとはなんだ」
「お前がいるとややこしく。だから置いてきたってのに。ちょい黙ってろ」
なんで。
せんせい。せんせいが。
ちがうちがう。僕が先生だ。先生は僕なんだから。
「ニセモノでしょ」
あーもう、なんだよそれ。せっかく最高の気分だったのに。
台無し。
「ニセモノはお前だ亜州甫かなま。お前は先生じゃない。わかってんだろ。先生はここにいる」
変だよ。だって僕が殺して。
「亜州甫君。もう、やめてください」
ぼーっとしてたらほじょーちゃんの手がすぐそこに。
取らない。取らないよ。邪魔しないで。
さよーなら。
せんせい。
僕は、あなたがピアニストに。
なりたいと。
ゆったから。
がんばって。
がんばってがんばって。
あったかい。
白いから、雪かな。
雪は冷たいのに。変だな。
先生は先生が好きだった。でも先生は先生が好きじゃなかった。先生は結婚してた。だけど先生は離婚した。先生はピアノが好きだった。先生は指が好きで。先生は先生の家に住んで。先生は先生の子どもができて。先生は先生の子どもを産んで。先生は先生に別れを告げに来て。先生は先生と永遠に会えなくなって。泣いた。
僕は先生のピアノが好きだった。僕は先生に怒られた。僕は先生にピアノを習ってた。僕は先生に嫌われてた。僕は先生みたいにじょーずにピアノが弾きたかった。僕は先生が僕を見てたのを知ってた。僕は先生の家に忘れ物をした。僕は先生の家に取りに行った。僕は先生に宿題を手伝ってもらった。僕は先生に紅茶をごちそうになった。僕は先生に駅まで送ってもらった。僕は急に眠くなって。先生のベッドで眼醒めた。先生は僕を問い詰めた。僕は先生に嘘を吐いた。先生は僕を監禁した。僕は先生に謝った。先生は僕を許してくれなかった。僕は先生のピアノが聴けなくて。泣いた。
先生が先生のこと好きならいいのに。先生はこんなにも先生のこと好きなのに。先生は僕のことばかり考えている。僕は先生のピアノが聴きたい。僕は。
先生になって先生に好きになってもらうことにした。先生。
これで笑ってくれますか。
泣いてる。先生泣いてる。なんで泣いてるの。
哀しいから? 僕が悪いことしたから?
「もう、いいんですよ。なにも言いませんから。あなたが亜州甫かなまでも、永片えんででも。どうだっていい。どうでもいいんです。永片えんでだというのなら私はそう呼びます。永片えんでがいいというのならそう名乗っていいんです。誰も責めません。私も、あなたがいいのなら、それで」
ほじょーちゃんだった。先生の先生。僕にとっては。
わかんない。
僕が先生なら。先生は、先生が好きだから。先生なら。
せんせい。
みてない。
ぼくなんか。
せんせいも。
せんせいを。
みてない。
せんせいは。
せんせいをみずに。
はしる。
「えんで」
ちーろが追っかける。黒い格好の人も。
天使くんが連れてかれちゃった。
あったかい。寒いけど。ちょっとだけ。
今日から新しいこが来る。
すごく楽しみだけど、ぼくは会えない。そーじとーばん。せーしきにはとーばんじゃない。いつもぼくがやってる。来るのはゆーがた。ゆーがたって何時だろう。とけーが気になる。ちくたく。モップをかけて。ちらっと。そーじ機をかけて。ちらっと。ぞーきんがけをして。ちらっと。ハリがお休みじゃなければ手伝ってくれたのに。早く終わらせよう。そうすれば。
つかれちゃった。ちょっときゅーけい。ふう。ゆーがたってまだかな。もう来たかな。帰っちゃったかな。庭をのぞいてみる。まっくら。ゆーがたはどこいっちゃったんだろう。ゆうがた。頭がぼんやりしてきた。そんなときは。ピアノ。ぼくはピアノが好き。ぼく以外にはハリがひく。ハリのほうがじょーずだけど、ぼくだって負けてない。だれもきいてくれないけど。ひいてるだけで楽しいからいいや。
がくふってのにおんぷってのが書いてあるらしいんだけど、ぼくはわかんない。このあいだハリが教えてくれた。左手とか右手とか。高いとか低いとか。のばすとかはねるとか。一番わかんなかったのが、黒丸と白丸。五本の線の上にのってるんだけど、あれ、五本だったかな。わかんない。とにかくわかんない。それを見ながらひくとハリみたいにひけるんだって。じょーずにひける。わかんない。わかんないもん。
だってピアノはおせば鳴るじゃん。いい音がきこえる。なのに、黒丸とか白丸とか見ながらうーんてひくときれいにひけない。ドアのとこにだれか。あけっぱなしでひいてたから。はくしゅ。はしてくれない。だよね。ハリのほうがずっと。
「じょーずだな」
おとなかと思ったけどちがう。背が高いだけ。おっきい。
「つづき」
え。
「つづきだよ、つづき。ないの?」
ないわけじゃないけど。
じょーずって。
「うまいってこと。しらない?」
そうじゃない。そうじゃなくて。そんなことゆってくれたヒト、いままで。ハリだってゆってくれない。ハリは自分のほうがじょーずだって思ってるから。ハリはウソつかない。ホントじゃないことはいわない。
次の日はハリが来たからピアノにさわれなかったけど、へーきだった。いつもなら横取りしてもひきたいのに。あのこ。新しく来たこ。
「ちーろ。おまえは」
ぼくは。
「なんだよ。ないの?」
あるよ。あるけど。あれは。
「あ、気に入ってないんだろ。んじゃ自分でつければ」
じぶんで?
「おれも自分でつけた」
そうなんだ。前のは?
「わすれた」
自分でつける。ハリにそーだんしてみようかな。ピアノの音。ひいてる。でもハリにゆったらハリがつけちゃうかも。それはイヤだ。ぼくがつけなきゃ。どうしよう。けっこうむずかしい。
ねむっちゃったみたい。ピアノの音。ハリがひいてる。きっと一日中ひいてたんだ。ぼくの番。代わってもらお。
ハリ。
ちーろ。はくしゅ。してる。
なんで? 見まちがい? ききまちがい?
「じょーずだな」
じょーず?
「もっとひけよ」
ハリが笑う。うれしそう。ぼくは。
かなしい。
「今日はひかないの?」
ひかないよ。
「なんで?」
ひきたくないから。
「じゃあひきたくなったら呼んで」
ひきたくない。ひくたくなんて。
きっとぼくにゆったんじゃない。ハリにゆったんだ。それをぼくがかんちがいして。ばかみたい。うれしかったのに。
ピアノ。なくなっちゃえばいいのに。
燃やす。ぼおぼお。ハリを。眠ってるうちにピアノのイスにしばった。こげちゃったかな。ちーろが走ってくる。
「ハリは」
指。指す。ピアノの部屋。走る。ダメだよちーろ。こげちゃうよ。でも聞かない。ちーろはハリが心配なんだ。ハリに死なれたら困るんだ。そーゆー顔。ヤケドしても知らないよ。治らないよ。ずっと消えないよ。
戻ってきた。ちーろ。そのままびょーいん。にゅーいんだってさ。おみまい行ったら。左のほほに大きなガーゼ。りょーてに、指先までぐるぐるほーたい。ケガひどいのかな。
「ハリは」
きかれると思った。知ってるくせに。
死んだよ。
「たすけた」
指。指す。となりの部屋。
「会いにいってやれ」
なんで。
「待ってる」
なんで。なんで、ちーろがそんなことゆうの?
いないよ。
「いる」
ぼくがいないってゆってる。
「おれはいると思ってる」
となりがびょーしつじゃなくても?
ちーろはだまってうなずく。なんで。なんでそんなに。ハリのこと。
信じてるの? すきなの?
すきなんだ。そっか。じゃあ、いなきゃ困るよね。
ひっこし。ガッコーみたいだったけど、ぼくはガッコーに行ったことないからわからない。ちひろがそうゆってた。ぼく以外にもニンゲンがいる。
遊んでばっか、ふつち。
笑ってばっか、そあん。
食べてばっか、いくる。
寝てばっか、なぼの。
しゃべってばっか、しは。声聞いたことないけど、あひるがそうゆってた。
たーいんしたちーろもガッコーに来る。そあんがすることないってゆって、ちーろをいじめる。プールにしずめる。ふつちは、遊び相手がいないってゆってちーろにかっ飛ばしたボールを拾わせる。早くもってかないとバッドでなぐる。いくるは、食べるものがないってゆってちーろに血を流させる。きょーきもって追いかける。なぼのは、ねむくてしょーがないってゆってちーろに添い寝する。服ぬがせてだきつく。しはは、ぼくと話す。声聞いたことないけど。
ちーろをいじめないでほしいってゆったら、ぼくもいじめられるようになった。ちーろは優しいからムシするってゆうけど、ぼくはガマンできない。ぼくらはなにも悪いことしてないよ。ハリだってかなしんでる。
図工の時間。ぼくが休んだら、みんなでちーろの指を切り落とした。左手の中指。あとでしはにきいて、ぼくは決めた。四人を殺す。同じことをしてやる。ちーろは一本だったけど、おまえらのはぜんぶ切ってやる。
ちーろがプールから上がってこれない。ぼくが蹴り飛ばすから。
ちーろがボールをさがせない。ぼくが隠したから。
ちーろの切られた指が見つからない。ぼくが食べちゃったから。
ちーろがおんなを愛せない。ぼくが愛してるから。
ちーろがあひるを窓から捨てる。しはが嫌いだから。
ろなしあは、ハリじゃないよ。ハリが大人になった姿に似てるけど、ハリは大人になんてならないよ。歳をとらない。死んでるから。
せんせい
わたしを助けてください。わたしはおかしいんです。ですから、あなたの患者にしてください。治るんでしょうか。治りますよね。先生は精神科医ですもの。練習もしてこないような不真面目な生徒如きにうつつを抜かしていないで、わたしの治療に専念してください。カラスくんはわたしに憧れているようです。ほんとうに、迷惑な話ですね。わたしの気を惹くために、先生のおうちに宿題のプリントを忘れ、夜中に取りに行くだなんて。中学生ですよ。紅茶に睡眠薬を入れて、あとはしたい放題。なんという破廉恥な。先生には奥さまがいらっしゃった。浮気現場の証拠写真で、わたしが別れさせましたけどね。駄目ですよ、先生。この国は一夫一婦制です。わたしなら、不倫くらいさせてあげますけどね。でも子どもを認知してくれなかったときは、さすがのわたしも再発しました。先生の子じゃなければ、いったい誰の子なんですか。わたしが浮気したとでも仰りたいのかしら。失礼にもほどがあります。あなたが治してくれなかったからですよ。カラスくんを壊しました。カラスくんはいません。代わりに亜州甫かなまを創っておきました。わたしの作品ではありませんが、副産物とでも言っておきましょうか。わたしも消えようと思ったのですが、いろいろな方に止められてしまい、こうして長々と恨み言を述べているのです。聞き流してくれて構いません。亜州甫かなまが自殺すれば、わたしは復活できるような気がします。永遠、まさか。信じているとでも?
停車
廃屋だったわけじゃない。長い間住んでなかった。ガッコーになんか住めない。住むところじゃない。
ちーろが苦しんでるのを知って手を貸したのは、先生が愛人のところに逃げたから。
十年。永いよ。よく耐えたよね。
鬼立くんそっくりな代わりを見つけたんだろうけど、本当に代わりになってる?
ピアノ。音、出るかな。爆破しちゃったから機嫌損ねてなきゃいいけど。
「えんで」
遅いよ、ちーろ。
「えんでさまにお逢いになりたいのですか」
「当たり前だ」ちーろが言う。
そこに鬼立くんがいるのに。観てるのに。聴いてるのに。僕の恋人だったのに。振りでも向こうが本気だったみたいだから。指輪まで。
気に入りませんでしたか。サイズが。ああ、ごめんなさい指輪ってサイズがあるんですよねよくわかんなくて買ったことなかったから。俺のサイズじゃデカイですよね。すみません、すぐに取り変えて。
いいよ。鬼立くんが嵌められるってことは、たぶん。いや、でも二十センチも違えば。ううん。わかんないな。イチかバチか。
「無事なんだろうな」ちーろが言う。
無事、の定義は。
「ふざけんな。ともる様巻き込みやがって」
ピアノ。
かなり音おかしい。鳴るのが奇跡なくらい。弾きながらでよければ返事するよ。
「えんで」
弾くのやめさせないところが、ちーろのいいとこだよね。
じゃあヒント。なんで入り口警備してた二人がいないか。
「教えたのか」
ちーろがケータイを取り出す。
ムダだよ。圏外。
「っくそ。鬼立、無線」
行っちゃうの? 龍華くんを信じてあげなよ。それにいまここ離れたら、僕は鬼立くんに何するかわからない。心配なら鬼立くん連れて。
「お前も連れてく。どーせ仕掛けてんだろ。さっさと解除して」
ストレイトにさ、死ぬな、てゆってよ。
「死ぬ気もねえくせに。俺に止めに来て欲しかったからここ選んだ。俺に連れに来て欲しくてわざわざ待ってた。違うか」
違うね。とは全面的に否定しないけど、僕はすでに死んでるんだ。いまだって僕の思考パターンをコピィした何者かが喋ってるかもしれない。ひゆめとか、ろなしあとか。しはだったりするかもよ。あいつ、アタマいいから。
「えんで」
無言じゃわかんないよ。僕にはわかるけど。なんだそっか。鬼立くんに聴かせたくないわけか。だよね。そっちを取るよね。身代わりでもなくて、永い付き合いの僕でもなくて。僕だって先生を取ったわけだからおあいこか。こんなことなら最初から、君にしとけばよかったのかな。
わかった。すぐ行くからちょっと待ってて。
「ここでならな」
そと、出ててよ。鬼立くん連れて。あ、車借りてごめんね。運転初めてだったから壊しちゃったかもしれないけど。初めて乗ったのが覆面パトだったなんて、ちょっと出来ないけーけん。
いたいな。腕が、指が。
ね、一曲だけ。
「戻ったらいくらでも弾かせてやる」
ここで弾きたいんだ。死んじゃった子のために。
「そんなん言い訳だろ。あいつらがお前になにしやがったか。俺のために弾けよ。ピアノ買ってやっから。お前の好きなの、選びに」
髪切られたくらいで、逆上したってこと?
ああ、それで。君のトリガはそこ。ハリの髪だと思ったわけか。
ふーん。なんだ。力じゃ勝てない。口なら何とか。
でもいまは向こうのほうが優勢。鬼立くんを傷つけたくないから。僕は傷ついたっていいんだし。
手、出して。
「なんだ、急に」ちーろが言う。
鬼立くん、むこう向いてて。
「厭だといったら」鬼立くんが言う。
小休止。
一番低い音。一番高い音。前者は左手。後者は右手。中指を鍵盤に。
これのどっちかが、起爆スイッチ。
わかる? 従わないとりょーほー弾くよ。
「鬼立、悪いが先」ちーろが言う。
ごめんね。やっぱそーゆーのは僕の口から伝えるもんじゃないと思うんだ。ちーろがゆってないんなら尚更。鬼立くんは賢いからわかってくれる。
「手ぶらで帰らないからな」鬼立くんが言う。
「ああ」ちーろが頷く。
最後に一個だけ。
鬼立くんと眼が合う。ともるくんにそっくりな。鋭い眼。
ヒント教えたのは龍華くんだけなんだ。もう一人は。
走った。だよね。部下の心配してあげなきゃ。
ケータイは圏外。無線壊れてるから雪山そーさくかな。県警におーえん。頼まなきゃね。ここの管轄、そーゆーの得意だから。
「どーゆーことだ」ちーろが怖い顔をする。
さあね、これで伏字使わなくて話せるよ。手じゃなくて、指。
ほら、ほーたい取って。
ちがうちがう。右手なんかどーでもいい。
左手。
そうそう。真ん中二つでいいよ。
見せる。どっちにする?
「お前の好きなほうで」
僕が好きなのなんか決まってるよ。真ん中。
「なにがしたい?」
ゆーき出してってこと。
嵌める。指。ないけど。あるんだ。僕と君には見えてる。
あのときの返事。退院した足でそのまま先生の家に寄った日。僕の指にくれたよね。柘榴石。鉄の味。
ほーたいするかしないかは、君次第だけど。悪魔くんにゆわれたんじゃないの? 見たくないなら隠しとけってさ。当たってる?
頬。触れる。
「お前につけられたのは、治った」
じゃあこれ、いつの?
知ってるよ。鬼立くんに捕まりたくてやったんだよね。骨折り損だったけど。治さないの?
「治ったら忘れる」
もっといいことで塗り替えなよ。君は誰も殺してない。
じらふは僕が殺したんだよ。僕とどーぎょーしゃのフリしてたみたいだったからつい、かっとなってね。
指。指す。
中庭に埋めたから、掘り返してみれば?
「嘘つかなくていい」
指。外す。外しちゃうんだ。
まんなか。
となり。
「ありがと」
渡しそびれちゃってて。
「一曲だけだな」
そうゆってるじゃん。信じてよ。僕は死んでる。
「捕まえねえから」
ちひろって役に立つね。
指。咥えて。加える。合計。何本?
「CD出したんだってな」
じゃあ、それね。
ばいばい。ちーろ。あれはね、一番高い音と低い音を同時に押すところから始まるんだ。まったく、僕の最初で最後のCD。真面目に聴いてないね。悪魔くんに聴かせてもらってれば。て、ムリか。君には聞き分けられない。どんな音もおなじ。どんな曲も。ハリが弾こうが悪魔くんが弾こうが、僕が弾こうが。おんなじ。
爆発音
過激な音がして、そこ。目的地にしてみれば、あーあ。
車、降りたくなくなってきた。
「降ろしてくれませんか」ともる君が言う。
「まだ動かないほうが」一応の僕の忠告。
「いいから」
この強引さ。どこかで見覚えあるんだよな。憎らしい感情と同時に、悔しい。
雪仕様にしてきてよかった。ブレーキ踏んでもスリップしたら助からない。
すいません。くらいは言ってもいいと思うなぁ。手、貸したのに無言で無愛想。
それどころじゃないか。ウィンドウから充分に見える。白の中にやけに赤い。黒い。間に合ったんだろうな。間に合ったからああなってるわけで。
さすがに近づいてかない。けど一応警察官として、再度忠告しておきますか。
「危ないよ」
見やしない。聞こえてないかもなあ。
どっかのあれも、都合の悪いことは聞かないし見ないし、どーでもいいことじゃなくてもすぐ忘れる。
十年。忘れてたんだから。
泣いてるかも。
つーか、なんで居るんだろう。鬼立。タイヤの跡がおかしい。鬼立の車は大破しててざまあだけど、探偵さんの車。引き返してきた? ドアもあけっぱだし。それどころじゃなかったくらい即行で駆けつけたかったとでも?
受け取ったメモに、悪魔の住処、と。サキさんに報せる時間が惜しかったからすぐに捜しに行った。任務放棄で。探偵さんの仕えてる主人はピアニストで、確か日本にいたときに不可思議な呼び名をされてた。
悪魔の誘響。僕に発見させるつもりでこんな簡単な暗号にしたんだろうな。暗号になってない。あの会場は地下がある。中榧ともるくん保護。憔悴してるけど特に目立った外傷はなし。
よかった。僕の手柄だったという点で。僕が見つけたって言えば探偵さんは感謝してくれるだろうから。フランスに帰る前にもう一回くらい朝帰りしてもらえたりして。
だからサキさんが知ってるはずがない。はずなんだけど、もう一つの入り口に張ってたはずの彼女の姿はなかった。車もないってのが引っ掛かる。車があるんなら何者かに攫われた可能性があるんだけど、車がないんじゃ自分の意志で職務放棄したとしか。
ライト。噂をすれば。よかった。僕のいつもの考えすぎだ。
「どうなってんの?」サキさんが言う。
「そんなの僕が聞きたいくらいです」
嘘に決まってる。彼女は何も知らないんだから知らないままでいれば。
「サキさんこそ、命令違反は僕の専売特許ですよ」
「ケガ人がいて。でもこの雪。応急処置だけだけど」
なるほど。真面目なのは相変わらずサキさんだけってわけか。昔ナースやってたってのは伊達じゃない。
「大丈夫ですか」
「だから、大丈夫にしてきた」サキさんが溜息をつく。「まったく、いつかクビになるよ」
「覚悟してます」
鬼立に思い出させるためにケーサツになったんだから、思い出してしまえばもうどうでもいい。
これが終わったら探偵さんと一緒にフランス行っちゃおうかなあ。実家からも遠くなるし。
サキさんがえ、みたいな顔でこちらを見る。はいはい、わかってますよ。僕の注釈が欲しいんでしょ。したくないなあ。認めたことになるじゃないか。
敗北。
「解決、したんだよね?」サキさんが聞く。
「我らがボスと伝説の探偵が組めば無敵です」
そろそろやめさせたいなあ。
いい加減、そこで泣くのやめてくださいよ。鬼立の頼りない肩なんかじゃなくて。
「探偵なのか」
意外。まさか中榧ともるくんが反応してくれるとは。
サキさんもおんなじとこに引っ掛かったらしい。
視線。
「ちーろは」ともる君が言う。
「探偵ですよ。探偵も探偵。伝説の、ですから」
僕の中だけでね。
雇われるときに白状しなかったのかもな。まあ、探偵さん本人が自分を探偵だなんて思ってないんだし。当時ケーサツ上層部、しかもコーアンにいなきゃ知らない情報。ぜんぶ抹消されたデータ。復元くらい僕には容易かったけど。
いい加減限界。白い景色とか赤い黒い染色に掻き消されないようにでかい声で。息吸って。
「探偵さーん。ともるくん、見つかりましたよー!!」
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