第4話 Finger 指指す喪の
1
気が狂いそうだ。
私はとっくにお前を忘れている。それなのに、まだ私を苦しめる。
運命の日の前夜に、
確かに約束はしていなかった。しかしリハーサルが終わったら連絡をくれるという約束はしていたはず。それを支えに休日出勤までしたというのに。ケーサツの一派らしきでかいだけの男を道端に捨てて急いでここに戻り、一足早いお祝いの準備をして待っていたというのに。作った料理は冷めて固まった。食えない。こんなもの。不味くて。
亜州甫君は社長とつながるためのケータイしかもっていない。あの憎憎しい
住所不定。アパートを借りてはいるほぼ倉庫と化している。倉庫に帰ってくる人間などいない。あの空間は倉庫でしかないのだから。
悔しい。私の何がいけないというのだ。私なら亜州甫君を幸せに出来る。私にしか出来ない。過去を一切抹消された人間をそう易々と迎え入れてくるところなんて。
社長。あいつは論外だ。人類史上稀有な亜州甫君を使って思う存分金儲けをすればいい。ただそれだけのつながり。つながり。私には。
な
いわけがない。あるのだ。茫然自失していた亜州甫君に再び笑顔を取り戻させたのは私。再びピアノを弾かせるまでに回復させたのは私。再び何事なく生存活動を続けることが出来ているのは。ぜんぶ、私。
だというのに。離婚だって。彼女とは別れたくなかった。でも別れさせられた。
ぜんぶ、あいつのせい。
そうだ。亜州甫君が私のところに戻ってきてくれないのはすべてすべて。お前のせいだ永片えんで。私からすべてを奪っていった。
返せ。亜州甫君を。
私の。
電子音。ケータイのほう。
「せんせー、おひさあ」地獄からだった。
電源。
「切っちゃダぁメ。切ったらあの子、しんじゃうよ。いいの?」
「そこにいるんですか」
亜州甫君。人質。あのときから、ずっと。
私を手に入れるために。
「はーい、愚問しなーい。先生、僕いまどこにいるか、わかる? わかるよね、僕の先生なら僕の考えることくらい自動送信されてるもんね」
思考伝播。
「もーきーてよ。僕さぁ、先生の声が聴きたくなっちゃって。でもここにいる連中はぜんぜん気が利かない。僕が先生と話したいってゆったらはいそうですかって電話を持ってくるのが空気ってもんじゃん? 読めてないんだよねえ。だーから無能とか国家権力云々って莫迦にされんだよね。身をもって教えてやったよ。僕って親切でしょ?」
銃声。幻聴ならいいが。
「あーまた尾行。そんなに僕が好きなら言葉でゆいなっての。なんのために口と耳があるんだか。ね、先生? ここ、つまんないんだ。電話もないし。あ、いま手に入ってるけどね。なかなか貸してくれないからもらっちゃった」
「私の番号を、その、よく」
「え、なあに? ごめん先生。いまの聞こえなかった。もーっかい」
銃声。獣性。
「いえ、聞こえなかったのならね、特には」
「そ? ばんごーなら知ってるよ。あの子から聞いた」
聞こえない。ふりか。
「ええっと、その、何をなさっているかいまいちよく、はあ、わかりませんがね、用がないのなら」
僕を、先生の患者にしてください。
「聴こえた?」
「え、なんですか? ごめんなさい。いまの聞こえませんでした。すみませんがもう一度言っていただけますと」
「夜、会えるね」
「はあ、なんのことやら」
「愛してるよ」
切れた。
永遠に切れてくれて一向に構わないが、いまのは。いったいどこから掛けたのだ。少なくとも日本国内ではないだろう。銃刀法があの音を廃絶しているはず。
幻覚妄想か。徹夜の疲れかもしれない。そうゆうことにして。
十時。このまま待っていても好転が望めない。出掛けようか。どこに。
亜州甫君、どこに。
電子音。固定のほう。
「昨日はどーも」
ケーサツ一派のでかいだけの。
「はあ、こちらこそ」
「いまあんたの家の前にいる。入っていいか」
「ちょっと待ってください。そんな急に」
「誰もいねんだろ」
読まれてる。それとも知っている。
いや、私だって知らない亜州甫君の。
そうか。厭な組織だ。
ケーサツ。
「音声だけでは心許ないようなお話ですか。それとも刑法かなにかが味方でしょうか」
「俺の推測の裏をとりたい。えんでがあんたんとこで」
電話を切る。玄関の戸を開ける。
でかい。威圧感。これだからケーサツは。
「邪魔する」
「ええ、相当お邪魔ですが」
あまりに背が高いせいで梁に頭をぶつけそうになっていた。無駄にでかいのも考え物。
「碌なお持て成しもね、できませんが」
「なんだ。マジに誰もいねんだな」
鎌掛けだったのか。
あの電話の後なら無理もない。すっかりセンサが振り切れた。と自分を持ち上げる。
「亜州甫かなまの居場所。あんたなら知ってるよな」
「それがなにか」
「知らねんだな」
また鎌掛けか。
追い返せばよかった。判断能力すら鈍ってる。
いま致命的な発言をぶつけられたら回避できる余裕がない。
仕方ない。適当に話を。
「残念な報せと下らねえ話。どっちにする?」
「どちらなりと」
「残念な報せ。夜のリサイタル。場所変更になった。でもキャパはそのまんま。むしろ多いかもな。客が増える。つーわけだから、あんた限定で残念な報せ」
地図。変更にしては場所が。
「遠すぎるか。これでも一番近い。社長の息かかった便利で親切な会場で、尚且つあのでっけえホールよりキャパあるとこ。急な変更だからキャンセル分も出るだろうし、すでに完売のチケットを心無い奴らに転売されないように当日分も作ったんだよ。いちおー考えてるよな」
「あなたの考えでしょう」
「知り合いの部下。俺はその交渉に行っただけ」
決定事項ならば受け入れるしかない。中止にならなかっただけでも。
亜州甫君。納得したのだろうか。社長が勝手に押し付けたのでは。
「下らねえ話。ホントに下らねえけど、俺はえんでと同じ生まれだ。その点については何でも話す。だから、協力してほしい」
「なにを」
「えんでを助けたい」
「冗談でしょう。私はあんなのがどうなろうと」
「亜州甫かなまが」
「昨日も言いましたが私が」
「じゃあそいつが何パーセントくらい確かか言えよ」
落ち着いたほうがいい。主語は無論私。
昨日病院において初見で感じたあれは、エイヘンだかナガカタだかを眼にしたときと同じ。
同じ生まれ。
成程。整合性は取れる。
「先ほどの」追加説明を求める。
「血はつながってない。環境が同じってことだ」
「何でも話すと伺いましたが」
眼。これも似てる。
腹が立つから見返さない。
「時間がねえんだ。何でも話すとは言ったが、いまここで、とは言ってない。亜州甫かなまの目的についてあんたの考えを聞きたい」
「亜州甫君が主語なら私にはとんと。なにせ一方通行ですからね」
嘘つき。それは私を指す修飾語。
「俺の推測なら亜州甫かなまは」
「させません」
「どうやって」
「どんなことをしてでも」
「だからそいつを成功させる見込みが何パーセントか答えろっつってんだよ」
言えない。都合の悪いことは。認めたくないことは。そうやって嘘に嘘を塗り固めてきた。剥がしたところで嘘しかない。そもそも本当はなかった。知っている。私が一番。
「ゼロじゃねえのか」
言わない。
「ゼロだ。亜州甫かなまは百パ自殺する」
言うな。言わないでほしかった。
亜州甫かなまは永片えんでのコピィ。オリジナルが消えればおのずと。シミュラークルなのだと。
何度も何度も言い聞かせたのに。聞く耳なんてない。彼は永片えんで。揺らがない。亜州甫かなまという新しい固有名詞を冠して。
「私のところに来たのは、私がナガカタをフったあとです。お話しましょう。でもすべて話すということは、亜州甫君の生存を約束するということに他なりません。それが達成されなかった場合、私があなたを殺します。もしくは地下に幽閉して永久になじり続けます。その覚悟がおありなら」
リビングの隣の部屋を、でっかいのがのぞく。白いグランドピアノ。
亜州甫君のためにとってある。亜州甫君が私の家に泊まりに来たときのために。ピアノがあればきっと来てくれる。そう思って。永片えんでが残していったものはすべて処分したかったが。
「ピアノ講師としてここに転がり込んだ」でっかいのが知ったような口調で言う。「そんときに離婚。させられた。えんではあんたの患者になりたくて入院したが」
「治りませんよあんな破滅的な思想。しっかしよくご存知で。それに私の家も。なぜここだとおわかりに? 合法的にお調べに」
ピアノだって、どうしてそこにあると。
「来たことある。えんでに連れられて」
不法侵入。永片えんで自体が不法滞在だが。
「それとなんか勘違いしてるみてえだから云っとくが、俺はケーサツじゃない。俺のもう一個の名がケーサツの上のほうにいるだけの」
「それはあなたがケーサツなのと如何ほどの違いが」
「
「いえ、初耳ですね」
「ホントに?」
「本当ですよ。どちらです? あなたのお友だち?」
「えんでの」
まで言ったところで、自称ケーサツじゃないでかいのがケータイを耳に当てる。
ちょっと、の一言くらいあっても罰は当たらないと思うが。
「なにやってんだ莫迦が。だから縛っとけっつったろ。もういいわかった。お前はまんま待機。その場にいねえ奴がなにすんだよ。邪魔だ」
「どうなさったんでしょうかね」
「噂をすればこれだ。早志ひゆめが逃げた」
だからそれは誰なのか。
「えんでの抜け殻だ。ヤばい。亜州甫かなまもいねえってのに」
夜までもたないかもしれない。
リサイタル。ずっと夢だと。
2
せんせい。
なんで怒ってるの?
ぼくがうまくひけないから?
ぼくの指がきれいに動かないから?
ぼくがいっぱい練習してこないから?
きいてもせんせいは答えてくれない。こわい声でぼくの指を叩く。ぴしゃん。いたい。きょうも真っ赤になる。おれとおんなじ色。れっすんが終わったあと空に見えるあの。すごくきれい。ぼくとは大ちがい。いいな。
せんせい。
なんで泣いてるの?
ぼくがいけないから? ぼくがわるい子だから?
ぼくがいるとせんせいはかなしいの?
ぼくがピアニストになりたいなんてゆったから。
ぼくは、ピアノをひいちゃいけないんだ。でもぼくはピアノがひきたい。ピアノを見るとひきたくなっちゃう。
そっか。ピアノがあるからいけないんだ。ぴあのがなければぼくがひかない。ぼくがひかなければせんせいはかなしまない。笑ってくれる。ぼくに笑いかけてくれる。
せんせい。
ぼく、ピアノこわします。
3
ともる様と連絡がつかないままとうとうタイムリミットを迎えてしまった。
先生を捉まえようと病院の駐車場でうろうろしてたけどやっぱり来ない。スタッフの人にきいたら休みだといわれる。それでももしかしたら、て思って張ってたのに。ムリ。
亜州甫さんも俺のコンタクトもってっちゃうし。日常生活を送る上ではまあ支障がないので、寮で新しいのつけた。使い捨てでよかった。むしろ亜州甫さんが困ってるんじゃ。フツー度が合ってなければ気づくけど。
どこ行ったんだろう。たぶん、だけど暗いうちに出てった。俺がシャワー浴びたあとも俺が眠る前もいた。寝たの何時だったっけ。一時かそこら。起きたのが七時そこらだからその間に。書置きくらいしてってくれても。無理矢理泊めといて。
会場にいるだろうか。でもともる様が迎えに行くと言ったらたとえ記憶喪失になろうとも。てそれはちょいムリだけど。相変わらず電源がどーのこーの。
おかしい。ちーろさんと一緒ならいいけど、俺はちーろさんのアドレスも番号も知らない。
厭な感じ。ひとりぼっちにされたみたいな。
事実そっか。
そんなことしてる間に会場行かないと。ぎりぎり。セーフだけどともる様がいない。俺の隣は空席。
おかしい。なんてもんじゃない。ともる様はこのためにわざわざ。
なんかあった。絶対そう。遅れてくるような人じゃない。
でもどうしよ。俺は聴かなくたっていいんだけど、誰に云えば。ホールが暗くなる。亜州甫さん。じゃない。髪の長い。女の人。ステージに。ピアノ。弾く。
あれ? 俺、会場間違えた?
弾き方もCDと違う。不審な音がしない。こっそりホールを出て確認。
亜州甫かなま。あれ?
どっちかが間違ってるんだと思うけど、どっち? 俺?
ともる様がいないと満足にリサイタル会場まで辿り着けない。情けない。帰ろっかな。ひとりで聴いても。
入り口の脇に車。黒尽くめの如何にもな人が立ってるけど、入らないのかな。それともほかの。なんだろ。警備?私服で?
ヤバイ。見てるのバレた。
「なにか」銀縁眼鏡の人が言う。
「あ、いいえ、始まってるのに行かないのかな、て思いまして」
じろじろ見られる。俺だって見たんだからお互い様か。
「お前は」
「あ、えっと」
近づいてくる。
まずい。ああ、やっぱりその展開。初めて見たよ。
ケーサツ手帳。
「なぜ出てきた? いいのか? 言葉を返すようだが」
「え、その、友だちと待ち合わせしてたんですけどなかなか来なくて。心配になって」
「名前は」
「俺の? はあ、右柳ゆーすけです」
「右柳?」
なんだろう。すごくデジャヴュ。
「右柳ってまさか」
これも。どこかで。
「お察しの通りかと」
つられてつい、俺もあのときの返答を。
あのとき?
「少し話を聞きたい。いいか」
どうせ拒否権なんかない。拒否権。ああ、そっか。
ともる様。
似てる。すごく。
「父親が社長だったな。これの主催の。何か聞いていないか」
「なにかって。あの、父さん忙しくてずっと会ってないんです。だから」
もしなんかあったとしても教えてくれない。俺なんて。諦められてる。
「申し遅れたが私は
「ともるです。
なんか可笑しかった。ともる様が自分の名前訊いてるみたいで。
「中榧? ちょっと待て」
眉を寄せて。手帳を開く。見せてもらえなかったけど、きっと事件のこととか。
わあ、刑事ドラマみたい。わくわくしちゃいけないんだけど。でもケーサツの人がいるってことはここでなんか。
「中榧ともる。そうか、そうゆう」ケーサツの人が走る。
え、どうしよう。
「来い。なにしてる」
「あ、はい」
号令までともる様みたい。未来のともる様はこんな感じだろうか。
ホワイエを突っ切ってホール。ああああ。静かに入らなきゃ。演奏中なんだから。いわんこっちゃない。お客さんの迷惑そうな視線が。
て、ちょっと何してんの?
銃口。ステージに。
「演奏をやめろ」
指はそのまま。引き続ける。ケーサツの人が銃をたくさん。
あれ、増えてる? お客さん。が銃を。
てまさか。これ全員、ケーサツの。
「もう一度言う。演奏を」
「やめたら、死にますよ」
亜州甫さんじゃない。誰この声。高い。
金属音。カチャ。て。
「撃つぞ」ケーサツの人が言う。
「どうぞ。どちらにしろ死にますね」
撃つかと思った。けど、一斉に飛び掛って取り押さえる。それでも引き続ける。指がピアノから離れるまで。
そんなに、弾きたいの?
なんで。やめなきゃ死ぬんだよ。それでも弾く?
わからない。わかんない。
「大丈夫か」
放心してたみたい。やっと気づく。
ステージには誰もいなかった。ピアノがあるだけ。ピアノ。
亜州甫さんは。さっきの人は。
「あの」
「悪いが教えられない。帰りなさい。君だけ知らなかったのがおかしいが」
俺だけ? 知らない。
「え、あの、ともる様は」
「安心していい。私の知り合いが助けに行った」
助けに、て。じゃあホントになにかあったんだ。知り合い?
「も、しかしてちーろさんですか?」
「ちーろ? 誰だそれ」ケーサツの人が眉を寄せる。
あれ、違ったのかな。ともる様を助けに行くなんてちーろさんの仕事以外に。
4
確かにリサイタルは開催する予定だった。会場もチケットも。
しかしまだ知名度もさほどない、挙句メディアへの露出を一切拒否した亜州甫かなまを宣伝する機会はないに等しく、当日になっても席はがらがら。そこで急遽会場を変え、当初の会場に鬼立を張らせた。聴衆に扮したケーサツ一味とともに。
早志ひゆめが逃げることくらい最初からわかっていた。縄で縛ろうが牢に閉じ込めようが、見張っているのがニンゲンならば容易く抜け出せる。銃も威嚇も通じない。たかが抜け殻と思って甘く見てはいけない。
亜州甫かなまと唯一連絡を取れるのが、右柳ゆーすけの父親。社長。彼に頼んで。これが一番難儀だったのだが。だいたい捉まらない。どこにいるんだ。とにかく新しい会場の手配と、亜州甫かなまへ会場変更を報せてもらった。
準備は整った。あとは奴が来るのを。
永片えんで。
「寒いですね、ええ」
先生(
三月も終わりに近づいて、四月射程圏内だというのに雪が積もってる。しかもいまもびゅうびゅうと吹雪いて。異常気象なのかと思ったが、結佐によればこれがこの地域における正常気象らしい。住んでいたことがあるとのことだが嘘くさい。どうせこいつの言うことは二百パ嘘なのだ。
聴衆は私と結佐のみ。極寒で可哀相だが外に、
その用が済めば、大人しく。死ぬ。
それをやめさせるために、私は鬼立を置いてきた。
いまごろ確保しているだろう。
囮を。
「来ますかね、その」先生が言う。
来た。ステージの脇から、ドレス。胸元の大きく開いた。長い髪はカツラ。化粧もしている。唇がいやに紅い。マイクロフォン。
「今夜は僕のために集まってくれてありがとう。まさか先生が来てくれるなんて思ってもみなかった。うれしい。ちーろが呼んでくれたの? ありがとね」
「ともる様はどこだ」
「どこだろう。忘れちゃったな。いろいろ曖昧なんだよね。先生、僕は再発してますか」
「どうでしょうね。私は主治医ではありませんし」
「ふーん、冷たいね。一曲弾いていい? そしたら思い出すかも」
「死んでねえだろうな」
自分で言っておいてぞっとする。
寒い。指の感覚が。
遠い。
「僕が悪魔くんを殺すりゆーがないね。なに? げーじゅつ?びょーき?」
焦っては駄目だ。私がすべきはともる様の救出。自殺云々はとりあえずあと。
まだ時間はある。一音も弾いてないんだから。
「んじゃ、僕の新曲。だいいちがくしょー」
曲名が聞き取れなかった。英語だろうか。ともる様の持っていたCDには書いてあったかもしれない。
「話し掛けていーよ。厭だったら無視するし」
「死んだかと思ってましたよ」結佐が言う。
「死んだよ」亜州甫かなまが言う。「でもなーんかいろいろごちゃごちゃしててね。わかんないんだけど、やっぱり先生に逢いたいってゆう心残りでじょーぶつできなかったんだね」
「朝方のお電話はあなたですか」結佐が言う。
「うん、そう。僕じゃなきゃだあれ? ゆーれい?ゾンビ?」
気が急く。一刻も早くともる様を。
寒くて凍えていたら、と考えただけで。
「ちーろ。ずいぶん他人に入れ込むよーになったんだね。あ、そーだった。あの人。僕ときょーぼーしてトラウマ植えつけたあいつ。どう? やれた?」
「今日は来ない」
「僕が生きてるって教えてあげたんじゃない? で、どう? 僕のこと恋しがってた?」
「うるさい」
鬼立のことはいまは。私はひとつのことしか考えられない。えんではよくわかっている。
ピアノ。この音が一番いけない。ハリとともる様を同時に思い出してしまう。
思い出す?
ちがう。ともる様は思い出なんかじゃ。
「へーきですか?」結佐が言う。「よかったらお貸ししますよ」
耳栓。まさか、それ。
「あー先生。ちょっとひっどーい。僕のえんそー聴いてよ」
「厭ですよ。あなたの曲なんか、虫唾が走る」
あまり刺激しないほうがいいと思うが。爆発すると何をするかわかったものでは。
止まる。音。
「先生が聴いてくれないならやーめよっかな。悪魔くん殺しにいこっと」
「やめろ」
結佐め。余計なことを。
しかし殺しに、ということはまだ。
「あ、死んでたかも。わかんないな。全然思い出せないよー」
えんでは口からなにかを。投げる。私の足元に。
ゆび。
「返すよ。永い間食べててごめんね」
ちがう。あり得ない。確かに私の中指は。
く
わ
れ
た
が、それはずっと昔。ハリがいたころ。ちがう。食べたのはお前じゃ。
「悪魔くんのかも」
「ふざけるな」
「あの、落ち着いてくださいね」結佐が言う。
そんな。厭だ。
これがともる様のだなんて。指がなくなったらともる様はどうやってピアノを弾けと。数ヵ月後にコンクールが控えているのに。世界一を競う大事な。
「どこだ。どこやった」
「あ、まだあった」
投げる。落ちる。
ゆび。
「二本てことはきみのじゃないね、ちーろ。きみは」
落下。
ゆび。
「三本だった」
もうやめろ。やめて。
「泣かないでよちーろ。そんなに会いたいんなら」
あ
わ
せ
て
袖の、内側。
ずるずるずるずるずるずる。黒い。服の。
「喪服みたいだね」
ともるさま。
なんという。おすがたに。
ゆびが。
いっぽんも。
残ってないじゃないか。
「ごめーん。シんじゃってた」
しにたいシなせて。
5
先生。
どうして泣いてるの?
「泣いてない」
泣いてる。僕には見える。
「うるさいな。あっちいってて」
何か飛んでくる。
痛い。粘土の塊。先生の作品。
これ、もらっても。
「欲しいならあげる。だからあっちいって」
やった。もらちゃった。
へへへ。いーだろ。きみに見せびらかしても羨ましがってくれないけどね。きみにしか見せる相手がいないから。ほーらほら。僕のだよ。
やっぱり泣いてる。僕が隣の部屋にいった途端、聞こえてきた。その前から聞こえたてたけどもっとはっきり。
先生。哀しいなら僕に云って。なんにもできないけど、なんで哀しいのか聴くくらいはできるから。
それじゃ駄目かなあ。
駄目なんだ。
指。動かなくなってきちゃった。
ピアノ。弾きたいな。
先生。教えてくれないかな。
僕が出来損ないだから愛想尽かせて厭きれられちゃったのはわかってる。
でも、僕は先生のピアノが好き。聴かせてくれるだけでいいのに。ここには、ないけど。
寒いね。きみも寒い?
だっこしてあげる。あったかい?
あったかくないよね。僕もあったかくなりたいな。
先生。まだ泣いてる。
先生はもっと寒いんだ。そうだよね。
先生。
先生を哀しませてるのはなに?だれ?
「うるさいってゆったよね。向こう行け」
投げられる。粘土の。
痛くないよ。全然。
「もう、あっちいけったら」
投げなかった。それは、投げられない。
知ってる。先生の作品。
最高傑作だって云ってた大事な。それをだれかに見せようと思ったの?
「あんたがいるから。あんたさえいなければ」
僕がいけない?
「あんたにピアノなんか教えなければよかった。二度と弾かないで。もう、やだ」
僕がピアノをやめれば。先生は幸せになれる? 笑ってくれる?
「せんせい。せんせい、せんせいせんせいせんせいせんせいせんせい」
先生にも、先生がいるんだ。ピアノの? 学校の?
先生はそれきり何も言わなくなった。死んだのかもしれない。
しんだ。
死ぬと黙るのかな。わからない。まあいいや。先生がいないと僕は哀しいから。そうだ。
僕が先生になろう。そして、先生の先生に会って先生の代わりに。じゃなかった。僕はもう先生なんだ。先生。
きみにだけ、教えてあげるね。でもきみも何も言わない。
きみも死んじゃったの? 先生とおんなじなの?
だよね。だってきみは先生の子どもだもんね。
じゃあ、僕の子ども?
先生の夢。ピアニストになること。僕の夢。
6
眼の前にいるのは永片えんでのわけがない。
亜州甫君だ。わかっている。
でも永片えんでにしか見えない。ここまで侵蝕されていただなんて。
「ちーろが黙ったとこで、先生。お願いがあるんだ」
「黙ったってあなた。まさかそのためだけに」
指。
「だあってちーろうっさいんだもん。だいたい僕は先生に来て欲しかったの。ちーろは呼んだ憶えないしさ」
ともる。とかいっていた。
でっかいのの大切な。
「悪魔くんって可愛いんだよ。僕に憧れててね。フツーさ、リハなんか誘わないよ。でものこのこ来てくれて、おまけに終わったあともっとピアノ聴きたいなってゆったらちーろの迎え無視してついてきてくれてね。んで、僕の淹れた睡眠薬入り紅茶でぐっすり」
どこぞで、聞いたような流れ。
「あとは僕の思うがまま。一本いっぽん大事に。先生もこんな気持ちだったのかなあってどきどきしちゃった。でも先生の目的は僕とおんなじじゃないよね。僕を眠らせて服脱がしたりさ」
「あの、話の腰を折るようで申し訳ありませんが、あなたではありませんよ」
「僕だよ。そのときにヒニンしてくれなかったせいで子どもできちゃってさ。あ、そうそうそれ。僕と先生の子ども死んじゃったんだ。ついこないだ。指切ったら死んじゃった。だからもうひとり欲しいの。ねえ、いいでしょ?」
「できますか?」
「先生に問題がなければね。ろーかで衰えてない?」
ピアノ。つづきを。
聞こえない。聴かない。耳栓と選択的否認で。
「先生だけが聴いてくれてるなんてさいこーだよね。カラダ張って天使くんのパパにおねがいした甲斐あったかなぁ」
防げない。防げるはずがない。
いま、なんといって。
「きのーね、天使くんを誘ったら僕のホテルに来てくれてね。一緒にご飯食べて、一緒にお風呂入って、一緒に朝まで」
虚偽。
「じゃないって。なんなら天使くんに訊いてみる? だってこれ、見て。見える?」
眼から、なにか。コンタクト? 透明な円い。
確かに右柳ゆーすけはコンタクトを。しかしそれがどのような。つながり。亜州甫君はコンタクトを、して。
「ないよ。僕の裸眼、じゅーぶん見えるから。知ってるよね? 先生」
そんな、誰のかもわからないコンタクトくらいで何の証拠に。でも亜州甫君がコンタクトを使用していないのも確か。本当に、右柳ゆーすけの?
いや、なぜ。
「コンタクトって寝るときに外すんだよ。ね、る、と、き、にね」
ピアノ。聞こえないのに。厭な想像が駆け巡る。不快な音。
亜州甫君の音は違う。亜州甫君のはもっと心地よい。だからこれは亜州甫君では。ない、のに。亜州甫君と永片えんでの違いが明確に証明できない。
ちがい。
「天使くんが疲れてぐっすり眠っちゃったからね、まだ暗いうちに抜け出して天使くんのパパに会いに行ったんだ。約束してたからね。や、く、そ、く。してたんだよ。僕がデヴュウさせてもらえたのも、CD出してもらえたのも、こんな素敵なホールで、場所変更になったんだっけ、単独リサイタル開かせてもらえたのもぜんぶ、天使くんのパパに気に入ってもらったからなんだよ。僕は先生のところに行かずに、天使くんのパパのところにいたんだ。明け方から会場に来る直前まで」
妄想にもほどがある。うっかり立ち上がりそうになったが、それでは。でっかいのの二の舞。聞かなければいい。無視。すれば。
「ほじょーちゃん。聴いてくれてる?」
違う。
「ねえ、やっと夢が叶ったんだよ。僕やっと」
ピアニスト。しかも、かつて天才ピアニストと謳われた右柳ゆーすけの耳に入るほど有名に。
右柳ゆーすけ。ほんとうに眼障りな。
お前のために弾いてるんじゃない。亜州甫君は私のために。私に聴いてほしいがために。
「天使くん、まだかなあ」
いい加減に。亜州甫君の頭から消えろ。
ポケット。なにか。ボイスレコーダ。亜州甫君がいつも使っているメモ代わりの。
再生。したくない。きっとここに耳障りな音声が。
右柳ゆーすけ。社長。どちらだ。どちらが私の亜州甫君に。
「聞いて」
厭です。
「聞いてよ。僕がされたこと」
耳栓を捨てる。転がる。ステージ。
ピアノの音。指が動く。止まらない。
私が憎しみを込めて睨んだくらいでは。
永片えんで。
「そんな熱い視線送られてもサーヴィスできないよ。えんそーちゅー」
「やめなさい」
「やめてもいいけど、やめたらお別れだよ。わかってるよね? あの子が僕の振りして作ってくれたこの曲をホントの作曲者の僕が弾く。あの子は僕の演奏が聴きたかった。だからリサイタルを」
「中止です。私が妨害します」
「心残りができちゃうなあ。じょーぶつしないで先生のとこ取り憑こっかな。そーすれば永久に永遠に先生と」
ステージによじ登って、後ろ。永片えんでの手首を摑む。
冷たい。私の手が冷たいから。
「いくら愛してるからってえんそーちゅーにステージに上がってこないでよ」
鍵盤から離させる。指。
音が已む。
無音。雪が吸い取る。体温も。
「いまなら間に合うよ」
「離しません」
「それ、どきどきするね」
振り返る。首の。
照明が赤くて気がつかなかった。気がつかなければよかった。
何故、そのようなところに。鬱血。
「このドレスだと丸見えだよね」
だれだ。私の亜州甫君に。
右柳ゆーすけ。社長。それとも。
考えたくない。
「先生もしてよ。子ども」
ほ
し
い
「ほじょーちゃん」
その呼び名は、亜州甫君。
永片えんでは、そうは呼ばない。先生。患者になりたいのだ。
私の患者に。
「してよ」
頷くより前に、視界が白塗りになる。
雪の色。氷の。
よかった。
夜までもった。私の。
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